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一次情報に立ち返れ(武治自筆の資料)

2019-04-28 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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10 一次情報に立ち返れ(武治自筆の資料)
鈴木 それから、このことに関するもう一つの一次情報が以前〝澤里武治自筆の新資料〟で投稿した、澤里武治が74歳頃に書いたという自筆の三枚の資料だ。ちなみにそれは、平成28年10月17日、「父はこれを書く際に相当悩んでいた」と付言しながら子息の澤里裕氏が私に見せてくれたもので、これらは、これまで公になっていない「澤里武治自筆の新資料」といえるもののはずだ。
荒木 ああそういえば、お前そんなことをいっていたことがあったな。
鈴木 そして、とりわけ注目を引くのが、そのうちの一枚〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟
【(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」(一部抜粋)】
                 〈澤里裕氏所蔵〉
であり、その中に、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
と書いてあるからだ。
荒木 どうしてこれがとりわけ注目を引くんだったっけ。
吉田 先ず言えることは、鈴木はこの「大正十五年十一月末日」という記述の「十一月」に着目すれば、武治はそれまでの自説を修正したとは言い切れないということが導けたからだ。
鈴木 そう、このことについては先に〝武治は自説を修正したとは言い切れない〟において実証した通りだ。
荒木 そうそう思い出した。以前、俺はこの「新資料」の記述「大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり」によって、Hの仮想《賢治は「大正15年11月」に上京した》が裏付けられるのじゃないのかと言ったことがあったやつだ。
 ところがが逆に、この「新資料」に従うと、というか、従ったところで例の「三か月間」は当て嵌まらないから、この記述内容は「大正15年12月2日の現定説」を裏付けられるわけでもないし、武治が自説を修正したということを裏付けられるものでもないということか。
吉田 そういうことだ。当然、Hの仮想《賢治は「大正15年11月」に上京した》は所詮仮想にすぎなかったということにならざるを得ない
 そして、この「新資料」が我々に示唆しているものは、澤里武治は自分の証言をつまみ食いされ、牽強付会によって捏造された「大正15年12月2日の現定説」に対する武治無言の怒り、武治の矜恃だ、と僕には思えてならない。
荒木 そういえば、鈴木は誰かさんにこの件に関して執拗に喰ってかかられたことがあったっけ。
鈴木 そうだよ。そのお方は「晩年に武治は自説を修正した」と自慢げに迫ってきた。でもそんなことは反例としてその「三か月間」があるからどうっていうことはないつもりだったが、なんか小骨が喉に詰まった感があったんだ。ところが、武治が晩年に書いたというこの一次情報〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟を見て、自説を修正したとは言い切れないということを知り、小骨が取り除けて安堵したのだった。
吉田 そこで鈴木は、その返す刀で、
 沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(投稿者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社、平成10)68p〉
をそのまま信ずることは危険だとそのお方に申しあげたいわけだ。二次情報に頼らずに、一次情報を探し求め、それを基にしてご自分の頭と足で考えろ、とな。
荒木 それは、澤里武治のこの証言に関する表現、確か」から「どう考えても」さらには「○……」へという変化を知れば当然のことだろう。
吉田 まして、『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)のあの改竄を知れば、この本の出版年である昭和32年以降の出版物等における、このことに関する「澤里武治証言」はいわば二次資料であり、しかも信憑性はかなり危ういから論考における典拠としては使うわけにはいかんだろう。
荒木 そうか、そういうこともあるからなおさらに、石井洋二郎教授は「一次情報に立ち返れ」と戒めておられるということになるのか。改めて、この警鐘の意味とその重要性を俺は認識したね。
吉田 言い換えれば、少なからぬ賢治研究家が二次資料に甘んじている、ってことかな。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
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 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
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 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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