みちのくの山野草

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詩の非可逆性(「和風は河谷いっぱいに吹く」)

2016-11-19 12:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》

 福島章氏の著書『宮沢賢治』(金剛出版新社)には、次のようなことも論じられていた。
 「和風は河谷いっぱいに吹く」にはたしかに勝利の賛歌がうたわれている。この奇蹟的な稲の蘇生が、これほどまでに賢治を感動させたということ自体、実は、彼がどれほど悲劇的な戦いを戦った来たかということを示していないだろうか。彼に報いるのに、そのよろこびは不幸にしてきわめてまれなものであった。
             <『宮沢賢治』(福島章著、金剛出版新社)172p>
 そこで、まずは「和風は河谷いっぱいに吹く」の内容を一度確認してみよう。
一〇二一  和風は河谷いっぱいに吹く  一九二七、八、二〇、

   たうたう稲は起きた
   まったくのいきもの
   まったくの精巧な機械
   稲がそろって起きてゐる
   雨のあひだまってゐた穎は
   いま小さな白い花をひらめかし
   しづかな飴いろの日だまりの上を
   赤いとんぼもすうすう飛ぶ
   あゝ
   南からまた西南から
   和風は河谷いっぱいに吹いて
   汗にまみれたシャツも乾けば
   熱した額やまぶたも冷える
   あらゆる辛苦の結果から
   七月稲はよく分蘖し
   豊かな秋を示してゐたが
   この八月のなかばのうちに
   十二の赤い朝焼けと
   湿度九〇の六日を数へ
   茎稈弱く徒長して
   穂も出し花もつけながら、
   ついに昨日のはげしい雨に
   次から次と倒れてしまひ
   うへには雨のしぶきのなかに
   とむらふやうなつめたい霧が
   倒れた稲を被ってゐた
   あゝ自然はあんまり意外で
   そしてあんまり正直だ
   百に一つなからうと思った
   あんな恐ろしい開花期の雨は
   もうまっかうからやって来て
   力を入れたほどのものを
   みんなばたばた倒してしまった
   その代りには
   十に一つも起きれまいと思ってゐたものが
   わづかの苗のつくり方のちがひや
   燐酸のやり方のために
   今日はそろってみな起きてゐる
   森で埋めた地平線から
   青くかゞやく死火山列から
   風はいちめん稲田をわたり
   また栗の葉をかゞやかし
   いまさわやかな蒸散と
   透明な汁液の移転
   あゝわれわれは曠野のなかに
   芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに
   素朴なむかしの神々のやうに
   べんぶしてもべんぶしても足りない
               <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)110p~より>
 だから、福島氏の「たしかに勝利の賛歌がうたわれている」という見方は肯うところだ。ただし問題は、「この奇蹟的な稲の蘇生が、これほどまでに賢治を感動させた」についてである。もちろん、この詩に書かれていることが全て事実であったならば、たしかに福島氏の述べているとおりだろう。ところが、もし「この奇蹟的な稲の蘇生」が虚構であったならば話は違ってくる(ただし、もちろんそれが虚構であったとしても賢治が批判されることでもなく、詩である以上はそれは当然ありうる行為である)。もしこの「蘇生」が事実でなかったならば、「この奇蹟的な稲の蘇生が、これほどまでに賢治を感動させた」という論理は破綻するからだ。したがって、ここはこの詩を還元できるか否かを検証せねばならない。
 そしてその検証をしてみると、以前〝「和風は河谷いっぱいに吹く」と虚構〟で論じたように、「和風は河谷いっぱいに吹く」には虚構があり、
 賢治の肥料設計した田は激しい雷雨のために稲が皆倒れてしまった稲田となって賢治の目の前に拡がっていたというのが、どちらかというと8月20日の真実だったようだ。
という蓋然性が高いことを識った。
 つまり、天沢退二郎氏が「単純な実生活還元をゆるさない」と指摘するとおりで、8月20日に「この奇蹟的な稲の蘇生」は起こっておらず、賢治の目の前に拡がっていた田圃の稲は倒伏したままであったという蓋然性が高い。当然、この詩の場合は単純には還元できないことがこれで明らかになった。詩の持っている非可逆性が、賢治の詩の場合でも明らかになった具体的な例だ。言い換えれば、「この奇蹟的な稲の蘇生が、これほどまでに賢治を感動させた」という論理はこの場合には成り立たないことになる。おのずから、「彼がどれほど悲劇的な戦いを戦った来たかということを示していないだろうか」という推測も意味がなくなってしまう。そして、福島氏が「彼に報いるのに、そのよろこびは不幸にしてきわめてまれなものであった」と思っている以上に、「そのよろこび」は限りなく「まれなものであった」に近づいてゆくことになりそうだ。

 なおこの例のみならず、少なくとも賢治の詩に関してはどういうわけか検証もせず、それどころか裏付けもとらずに「単純な実生活還元」をしている傾向があるのではなかろうか。

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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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