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「熱と智と行の人」 小野武夫

2020-09-12 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 では今回は、小野武夫がこの『追悼集』に寄せた「熱と智と行の人」を転載させてもらう。
   「熱と智と行の人」 小野武夫
松田君が始めて私の宅に来訪したのは昭和七年の冬であつた。當時大日本青年團の長期講習會が在小金井町の浴恩館に開催されてゐる間のことであつた。私は其の頃同講習會の講師として農村問題について講義をしてゐたので、自然講習員とも顔見知りが出来、其の中の一人に松田君があつたのである。拙宅が浴恩館から約二十町位の近距離にあるので、松田君も小閑を得て講習期間に拙宅を訪れられたのである。初対面の松田君は、一見、土から掘り出したやうな風格で然も何處となく精悍さが漲ってゐて、頗るたのもしげに思はれた。
同年八月、大日本青年團の幹部講習會が青森縣の十和田湖で開かれ、私は其の講師として田澤義輔、熊谷辰次郎と帯同して行き、其の帰途熊谷氏と共に居村山形縣下の鳥越に赴き、熊谷氏と共に松田君の宅に一泊して同君の村落生活の實狀を親しく視察したのであつた。「土の人」松田甚次郎の活躍は此の頃から発足したのであるが、爾来幾夛の波瀾を経、其の間「土に叫ぶ」外一・二の著書を公けにし、又、新聞雑誌に筆を執り、且つ又自宅附近に農園や塾を開いて遠近より松田君の徳を慕ふて集り来る青年のために実践的指導をなし、其の上に各地方からの依頼に應じて講演にも出かけ、最近の数年間の同君の生活は文字通り多忙力闘の連続であつたのである。
今から云ふても及ばないことではあるのだが、松田君のやうな土の人に対して日本の社會は餘りに理解がなさ過ぎた。男子一人が一家の支柱として働くことでさへ骨が折れるのに、世間は冷酷にも同君を農村文筆人として壇上の講師として擧用し、否な酷用したのである。同君が單に自家農業経営の餘暇を割いて塾教育に當る位ならまだよかつたが、晝は農園に働き、夜は筆を執つて、新聞、雑誌、著書に精根を傾け、又東西南北に旅行して講演に廻るが如きは、普通の精力家には頭□堪へ得ることではない。かうして重荷が同君の健康に重壓を加へて遂に夭逝を餘儀なくさせたのである。
人間は單に長命をしたからとて國家社会に充分な奉公をしたものとは云へないが、同君に藉すに尚二十年の歳月を以てしたならば、同君の事業は各方面に一層大きな影響を及ぼしたであらう。此の点に於て熱の人、智の人、行の人として松田君が春秋僅か三十五歳を一期として此の世を去つたことを私は心から悼むのであるが、松田君を幽界送つた日本社会が之を機□して大に反省して将来出づるであらう第二、第三の松田甚次郎に対しては、一段の思ひ遣りと、もつと地に着いた援助をして欲しいのである。今は地下に眠る松田君も恐らくかうした日本農村の未来思慕に燃えてゐことであらう。
(昭和十九年二月二十八日)
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)より〉

 この小野武夫という人物については、先に〝東京 熊谷辰治郎〟において私が、
 後ほど述べるつもりだが、小野武夫が、
 松田君が始めて私の宅に来訪したのは昭和七年の冬であつた。當時大日本青年團の長期講習會が在小金井町の浴恩館に開催されてゐる間のことであつた。と追想していることをたまたま知っていたからである。どうやら、甚次郎は「大日本青年団の指導者養成所」入所の際に住井すゑや小野武雄等と強い繋がりができたということになりそうだ。
と前触れをしておいた人物である。
 一方、松田甚次郎は『土に叫ぶ』において、
 ……彼は赤化思想を持つて色んな策動をしてゐるのではないか、という評になつたものだ。さうするとこんどは警察の方でも注意して、時々巡査や特高係が訪問者の一人となつてやつて來た。
             〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)81p〉
と述べている。こんなこともあったからであろう、甚次郎は次のような行動に出たということを同書で続けて次のように述べている。
 小野先生を訪ねて そして昭和八年元旦の晨、恩師小野武夫先生を武蔵野の小金井の里に訪れたのであつた。先生は「俺の家で默つて考へて居れ、畑をしたり堆肥を切り返したり、本を讀んだりして、一週間も考えるが宜しい」と言つて下さるし、どうにも他に仕樣がないからそのまゝ居候の樣にして七日間を過ごした。ところが家の者がやつて來て過去の事、將來の事、世間の事等を先生にお話しして、結局三十歳迄はこの奉仕の生活を續けることになり、再び曙光を得て歸る事が出來た。
             〈同82p〉
 したがって、そのような対応をしてくれる小野武夫がこの「熱と智と行の人」で述べている甚次郎評は妥当なものであろうから、甚次郎が、
 爾来幾夛の波瀾を経、其の間「土に叫ぶ」外一・二の著書を公けにし、又、新聞雑誌に筆を執り、且つ又自宅附近に農園や塾を開いて遠近より松田君の徳を慕ふて集り来る青年のために実践的指導をなし、其の上に各地方からの依頼に應じて講演にも出かけ、最近の数年間の同君の生活は文字通り多忙力闘の連続であつたのである。
という小野の言はまさにそのとおりであった、と私は推断できた。そしてまた、ここまだ読んできた多くの「追悼」はこの推断が間違っていないことを裏付けているはずだ。

 そこで私は、
 自宅附近に農園や塾を開いて遠近より松田君の徳を慕ふて集り来る青年のために実践的指導をなし、其の上に各地方からの依頼に應じて講演にも出かけ
た松田甚次郎に改めて敬意を表した。当時、このようなことを実践し、しかもそこへ「徳を慕ふて集り来る青年」がいたり、「各地方からの依頼に應じて講演にも出かけ」たりしていた人物を、私は松田甚次郎以外に知らないからである。
 そしてまた、このような人物松田甚次郎のことを、「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」と誹ることが、結局はブーメランになっているのではなかろうか、という危惧を私は抱いてしまった。また、「これは賢治には全く見られぬものであった」とそこで付言しているが、そのような視点から論ずべきものでもなかろうということにも、気づかされた。それはアンフェアなことになりかねないからだ。賢治だって戦意昂揚に利用されたという事実は否定できないのだからなおさらにである。

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