みちのくの山野草

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東京 熊谷辰治郎

2020-09-01 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 では今回は、東京の熊谷辰治郎から寄せられた次のような「追悼」からである。
   東京 熊谷 辰治郎  
松田甚次郎君は大日本青年団の指導者養成所の第一回の修了生です。當時わたしはこの指導主任してゐましたので二ヶ月余り、松田君と寝食を共にしました。これが松田君とわたしのつながりの縁で爾来十数年間いろいろな形で結ばれてきました。松田君が郷里最上に共働を精神とする塾を建設しましたが此の運動も坦々たる道ではなかつた。誤解もあり非難もあつて時に大いに迷はれたこともありましたが、とうとうそれらを乗り越えて新しい希望の光を仰いで理想の実現に邁進してゐましたがその時塾を焼失して新しい試験の嵐をうけました。顧みて、松田君の一生はわれわれに大きな教訓を与へくれます。松田君の生活を掘り下げることによつて大きな示唆を与へられます。青年はこゝに学ぶところがあります。
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)40p〉

 まず、この「は大日本青年団の指導者養成所の第一回の修了生」についてだが、『「賢治精神」の実践』所収の「松田甚次郎年譜」によれば、昭和六年(23歳)について、
二月から三月にかけて、大日本連合青年団指導者養成所第一回生として入所、二カ月の講習会を受く。
             〈『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)229p~〉
とあるから、「大日本青年団の指導者養成所」とはこの「大日本連合青年団指導者養成所」ことであると判断できる。よって、この入所は昭和6年の出来事であったであろう。そして、この熊谷辰治郎はその時の指導者だったということになるし、しかも、その約二ヶ月間は寝食を共にしたということだから、熊谷はこの時に甚次郎の力量を見抜いたに違いない。それは、「これが松田君とわたしのつながりの縁で爾来十数年間いろいろな形で結ばれてきました」という記述からも示唆される。
 延いては、「松田君の一生はわれわれに大きな教訓を与へくれます。松田君の生活を掘り下げることによつて大きな示唆を与へられます。青年はこゝに学ぶところがあります」は正直な所感だったとなるだろうから、甚次郎についての熊谷による評価は頗る高かったと言えるだろう。

 その後、『土に叫ぶ』を読み直していたならばその103pに、
 昭和六年武蔵小金井の浴恩館の靑年講習所に入所の折、農民文學の住井女史を訪問して……
とあるから、この「靑年講習所」とは「大日本青年団の指導者養成所」のことかなと思いついた。それは、後ほど述べるつもりだが、小野武夫が、
 松田君が始めて私の宅に来訪したのは昭和七年の冬であつた。當時大日本青年團の長期講習會が在小金井町の浴恩館に開催されてゐる間のことであつた。
と追想していることをたまたま知っていたからである。どうやら、甚次郎は「大日本青年団の指導者養成所」入所の際に住井すゑや小野武雄等と強い繋がりができたということになりそうだ。
 
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