みちのくの山野草

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好く道より破る?

2019-04-25 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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7 好く道より破る?
荒木 どれどれ、じゃあその投稿を見せてくれよ。
吉田 どれどれ、それはな……ほらこれこれ、これだ。

 当初は「宮澤賢治賞」まで受賞なされた方に対して極めて失礼に当たると思って以下のようなことは黙ってまいりましたが、折角コメント「(35)」をしていただきましたので、もはや包み隠さず申し上げます。
「仮説検証型研究」私見
 そもそも、誤解を恐れずに言えば、H様は「仮説検証型研究」のなんたるかをもしかするとご存じない、ご理解できていないのではなかろうか、という不安を論争開始当初から私は拭い去ることが出来ずにいた。それは、聞き慣れぬ「一本足」なる理論を全面に持ち出してきたからである。
 もともとこのタイプの研究においては、仮説を立てる際には「足(H様は仮説を立てる際の根拠のことをこのように呼んでいるようだ)」が何本でも構わない。1本あれば御の字、場合によっては半本さえないこともあろう。あるいは山カンの場合だってあり得る。要は、その仮説を立てる人のセンスの良さが一番のポイントである。それは過去の歴史が証明している。足の数にこだわる必要は何もない。その「足」の数そのものが反例とはなることはあり得ない。何ら反例とは関係ないことだからである。
 問題は「足」の数ではなくて、肝心なことはその仮説に対する反例があるかないかである。要は、その定立した仮説が如何に検証に耐え得るかなのであり、その結果反例が見つからない、存在しない以上は、その仮説は『仮説の域を脱して一定の限界内で妥当な真理となる(『広辞苑』第5版)』のである。言い換えれば、次第にそれは定説となってゆける。
 だから、H様がもし私の仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………♣
を崩したければそれは簡単なことでして、反例たった一つで十分、それを突きつければ直ぐ出来ることです(逆に、反例を突きつけることでしかそれを崩すことは出来ない)。
 例えば、
 『伊藤忠一昭和二年日誌』<*>の中の12月中の日記に、明らかに賢治が花巻にいたということがわかる記載がこれこの通りあるじゃないか』
というように私に突きつけてもらえれば、私は直ぐにこの仮説は潔く棄却します。 まあ世の中には、
 それは伊藤忠一が嘘を書いているのだ。書き間違いだ。
というようないちゃもんをつける人もあるようですが、そのようなみっともない態度を私は取りませんからどうぞご安心下さい。あっさりと兜を脱ぎます。
 そして実際、この「仮説♣」に対する反例は今後出てくる可能性が十分にあると私は思っておりますし、その覚悟もしております。私が安堵して居られるのはそうならないうちだけのことです。昨日の仮説が今日の定説となったり、それまでの定説がもろくも崩れ去ったりするということは世の常です。
H様に果たしていただきたいこと
 一方、H様は公的媒体上で私の「賢治昭和二年上京説」に対して、
 この沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。
という批判をし続けて来られました。
 端的に申しますと、現時点では反例が見つからないとH様自身が認めた私の「仮説♣」を、H様は「一本足」という聞き慣れない理論で否定し、ついにはH様はあくまでも《賢治は「大正15年11月」に上京した》と主張し、現定説を覆す画期的な「仮説」
 宮澤賢治は大正15年11月、澤里武治一人に見送られながらチェロを持って上京した。……♠
を実質的に唱えたことになりました。しかし、H様はこの「仮説♠」あるいはこれに相当するそれの検証を未だ一切行っておりません。
 つきましては、H様にはその検証作業を果たしていただきたい。なぜなら、検証の結果反例が見つからないとH様自身が認めた私の「仮説♣」に対して、その反例を示すこととではなくて、『あくまでも仮想の《賢治は「大正15年11月」に上京した》』をその根拠として批判し続けて来られましたが、『仮想』は何ら力になりません、そんなことではなんでもありとなるからです。そうではなくて、その『仮想』に基づいて定立した例えば「仮説♠」を検証し、それが検証に耐えてこそ初めて、コメント「(35)」における質問が意味を持つのです。残念ながら、これらの質問は現段階ではあくまでもH様が単に仮想しただけにすぎない《賢治は「大正15年11月」に上京した》を前提条件とした上での質問だからナンセンスなわけです。
 換言すれば、現段階でのこれらの質問は、質問として成り立つための必要条件を欠いております。したがって、議論の場合においてはそもそも最初から意味のない質問なわけです。また一方、この「仮説♠」が検証に耐え得ればもちろんその時は素晴らしい質問となりますので、H様におかれましてはまずは「仮説♠」の検証作業をお急ぎ下さい(これが以前に申し述べました「喫緊の課題」のことです)。

 以上、私や『賢治昭和二年上京説』を批判するのはご自由ですが、今まで公的媒体上で私を批判・非難し続けてくださいました以上は、まずはこの「喫緊の課題」を果たされることがH様の責任と義務であり、研究者としての仁義であると私は思います。
おわりに
 なお、例の「ツイート」については、人間誰しも魔が差すことがあるからもう私はこれ以上は責めません。それは一過性の行為だとも思うからです。しかし今回のH様の、あくまでも《賢治は「大正15年11月」に上京した》と公的媒体上で主張し続けた行為は、私の仮説を否定せんがための行為でしたからそれは一過性のものではありません。しかも、H様自身は「仮説♠」等の検証作業をいまだなさることもせず、検証作業が終わって今のところ反例が見つからない他人の仮説を反例も出さずに非難し続けてきたという行為は、私ならばそれはあまりにもアンフェアなことだと思いますし、多くの方もそう思うのではないでしょうか。それ故に、こちらの一連の行為は絶対許しません。おっと失礼、正直申せばそのような気持ちも少しだけだがないわけではない、でした。

 それにつけても返す返すも残念なことは、H様は私のコメント「(33)」をお読みになられた際に事の重大さにどうして気付かれなかったのだろうかということです。
 とはいいつつも、私はH様の勇気にはいたく感心しております。私などは、とてもじゃないが『賢治は「大正15年11月」に上京した』等とは口が裂けても言えません。そんなことを言ったならば、周りから直ぐさま『お前何馬鹿なことを言ってんだ、賢治のことを多少でも知っているならばそんなことあり得ないことぐらい直ぐわかるだろうに。数多の反例があること知らないのか』と嗤われることは必至だと思っているからです。

 その点、現定説を否定してあくまでも《賢治は「大正15年11月」に上京した》という仮想を掲げて主張し続けるH様は勇気に満ち満ちた素晴らしい人だと思っております。つきましては、一刻も早くこの《賢治は「大正15年11月」に上京した》を検証なされまして、
 あなた様の主張する《賢治は「大正15年11月」に上京した》が検証に耐え得たことを、あなた様のブログ上等で発表して下さい。
その暁には、私はあなた様の勇気に敬意を表しながら真っ先に件の3つの質問にお答えします。ではその日が早く来ることを、首を長くしてお待ちしております。

 最後に、今回の論争を通じてつくづく思ったこと、それは
    好く道より破る
ということでした。今後の私の人生の戒めとしたいです。
〈終わり〉
荒木 はっはっは、鈴木にしては珍しことに、この時はかなり怒り心頭に発していたということがまずわかったよ。皮肉たっぷり、かなり辛辣なことを言ってるからな。
鈴木 うん、今振り返ってみると、恥ずかしい限りだ。
吉田 まあとはいえ、鈴木の要請「一刻も早くこの《賢治は「大正15年11月」に上京した》を検証なされまして」は当然なことだし、例の「澤里武治自筆の新資料」によって、もはやこれでH氏はグーの音も出んだろう。
荒木 でもこれって、まさにその「新資料」によって、《賢治は「大正15年11月」に上京した》が裏付けられるのじゃないのか。だってその資料には、
   大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
と書いてあったんだべ。
吉田 だからだろ、鈴木が「好く道より破る」と高飛車な一言を最後に述べたのは。
鈴木 そんなつもりはなかったんだが、H氏には自分で気付いてほしいと思ったんだよ。そんな仮想《賢治は「大正15年11月」に上京した》を持ち出せば、澤里武治の証言によれば  
 十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました
というわけだから、その「三か月」間を現「賢治年譜」に当て嵌められるわけがないということを。
荒木 そりゃ前に出て来た表、

から明らかなように、どうあがいても《表1》の場合にはその「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」の「三か月間」が当て嵌まらないことは確認済みだ。
吉田 そんなことは、おそらく「宮沢賢治奨励賞」を貰っている優秀な研究家だから百も承知なはずだ。だからこそ逆に、それを見込んで鈴木は、「H様にはその検証作業を果たしていただきたい」と嫌味なお願いをしれっとして突きつけたのさ。にっちもさっちもいかなくなることを見込んでだ。案外鈴木も隅に置けん。
鈴木 いや、そんな嫌味や意地悪のつもりはなかったのだが……。
荒木 でも正直、『Hさん、以前鈴木がお願いしていた件はその後如何相成りましたでしょうか』、と俺も問うてみたいね。
吉田 荒木もそこまで言うのかよ。
荒木 でもさ、H氏が百も承知で《賢治は「大正15年11月」に上京した》と強弁したというのであれば、それは鈴木の『賢治昭和二年上京説』を否定するためだけに持ち出した仮想ということになるだろう。逆に、そうでなくて持ち出したとすれば「「三か月間」が当て嵌まらない」ということをH氏は知らなかったということになるだろう。どちらにしても、問題ありありだべ。
 まあ、自分で蒔いた種だと言えるがね。そっかたしかにな、「好く道より破る」ということかもしれん。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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