《『宮澤賢治』(國分一太郎著、福村書店)》
さて、私は国分一太郎の、
けれども、わたくしは、わたくしがこの本でやってみるような宮澤賢治の考えかたが、そろそろ、みなさんのところにとどけられてもよいのではないかという気がします。もし、そうしなければ、宮澤賢治が、わたしたちにのこしてくれたものと、のこしてくれなかったものが、はっきりしないからです。
という一言に惹かれて、このシリーズを始めたとも言えるのだが、ここまで読み進めてきてもあまりそれらしいことはなかったし、これからも暫く続きそうなので、途中を少しトバシたい。そう思い直して読み進めていたら、國文は、
賢治がわかいときから死ぬまでに信じていた仏教のおしえ、とくにそのなかの「法華経」のおしえをあきらかにしなければならないからです。
と書いてたので、ここから再び私は投稿をしてゆきたい。そもそも、一般人向けの賢治関連の著書でさえもでも「法華経」のことに言及しているものはあまり多くないし、ましてや中学生向けのものは皆無だと、私は思っていた。ところが國分はそれを避けていなかった。まずは國分は、おおよそ、
賢治は大正10年1月に上京し、同2月に国柱会の高知尾の勧めもあって、文学によって大乗教典のほんとの意味を広めようと決心した。
「大乗教典」とは、大乗仏教のお経ということ、そのなかの大乗仏教というのは、だれでも乗れる大きな車の仏教ということで、ごくかんたんにいえば、「どんな人でも仏になれる、めいめいがじぶんじぶんのしごとにせいをだすなかで、心さえととのえれば、仏になることができる、別に特別な苦行などをしなくても、ほとけにすくってもらう道はひらけている」という考えかたの仏教です。…(投稿者略)…「法華経」も、大乗仏教の考えでかいてあるお経のひとつです。だから、賢治はこの法華経の考えかたを、なかみにこめた童話や詩をかこうとしたのでしょう。
〈『宮澤賢治』(國分一太郎著、福村書店)55p~〉「大乗教典」とは、大乗仏教のお経ということ、そのなかの大乗仏教というのは、だれでも乗れる大きな車の仏教ということで、ごくかんたんにいえば、「どんな人でも仏になれる、めいめいがじぶんじぶんのしごとにせいをだすなかで、心さえととのえれば、仏になることができる、別に特別な苦行などをしなくても、ほとけにすくってもらう道はひらけている」という考えかたの仏教です。…(投稿者略)…「法華経」も、大乗仏教の考えでかいてあるお経のひとつです。だから、賢治はこの法華経の考えかたを、なかみにこめた童話や詩をかこうとしたのでしょう。
と述べていた。確かにわかりやすい書き方であり、私が今まで四苦八苦してきた法華経関連について、ちょっぴりだが理解が深まった。それは私の頭脳レベルが中学生程度であるということの証左にもなろうが。また、國分はこの場合も、「なかみにこめた童話や詩をかこうとしたのでしょう」という表現をしており、賢治関連の本ではあまりにも多すぎると私が感じている断定調でないのが逆に、國分の述べていることに信頼を寄せることができる。
そしてまた、このようなことであれば、たしかに「わたくしがこの本でやってみるような宮澤賢治の考えかたが、そろそろ、みなさんのところにとどけられてもよいのではないかという気がします」と國分が語っていることとも符合しそうだ。
そして國分は、
ごくわかりやすくいえば、もともと、仏教のおしえは、自分をすてよ、欲をすてよということにもなりますから、小さいときから、欲がな、じぶんのことは忘れて、人をたすけることがすきだったという賢治には、ピンとくるものがあったかもしれません。
法華経にもそのことがかいてあります。薬王菩薩がじぶんのからだを焼いて、仏の道を求めたおかげで、りっぱな国をつくることができたというお話ですが、そこには、「文字や言葉の上のりくつだけしか知らない人たちや、りくつがどうにかわかった人たちよりも、自分をすてて人のために働いている人の方がおよびもつかないことくらいにりっぱだ」と、くりかえしくりかえしかいてあります。
〈同56p~〉法華経にもそのことがかいてあります。薬王菩薩がじぶんのからだを焼いて、仏の道を求めたおかげで、りっぱな国をつくることができたというお話ですが、そこには、「文字や言葉の上のりくつだけしか知らない人たちや、りくつがどうにかわかった人たちよりも、自分をすてて人のために働いている人の方がおよびもつかないことくらいにりっぱだ」と、くりかえしくりかえしかいてあります。
と続けている。そこで私はすかさず頷く。たしかに、「文字や言葉の上のりくつだけしか知らない人たちや、りくつがどうにかわかった人たちよりも、自分をすてて人のために働いている人の方がおよびもつかないことくらいにりっぱだ」と。全くそのとおりだと。
だが、國分はこれを受けて、
賢治自身は、羅須地人協会をつくってからあと、たくさんの人びとのために、自分のからだのぐあいをかえりみないで、親切をつくし、ついに死をはやめた
〈同57p〉と論を進めていたところで、私は我に返る。それはあくまでも創られた賢治像についてであり、羅須地人協会時代の賢治が実際にそうであったとも、その後の賢治が実際にそうであったとも、ましてそのために「ついに死をはやめた」とも言い切れないということを、この約11年間実証的な検証を通じて私は確信しているので、少なくとも國分は巷間いわれているような賢治像には拠らないだろうと期待していだけにとても残念だ。
例えば、先程の理屈を借りて誤解を恐れずに言えば、「農民藝術概論綱要」という芸術論を完成することや、その綱要をどうにかわかった人たちよりも、「自分をすてて人のために働い」た松田甚次郎のような「人の方ががおよびもつかないことくらいにりっぱだ」ということももしかすると成り立つのではなかろうか、と私はちょっぴり過激なことを言って疑問を呈してみたいのである。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
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