![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/75/8f4337610b243524a7b95afbd23bfa6d.jpg)
東北自動車道「花巻南IC」の出口近くにこの詩碑はある。
《1 》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/4c/c425f0a9d16ad1942c81541107e142b7.jpg)
《2 》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/36/050407223bf8b0306d51138208c2f836.jpg)
《3 「渇水と座禅」の詩碑》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/1b/0e87d370dd11eb7b238079aac9465b22.jpg)
《4 『渇水と座禅』案内板》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/e5/81b943cce61d3631827a0a0b2a34abc1.jpg)
大正14年といえば賢治は花巻農学校に奉職しており、実習田の担当者であった。この年はそれまでにだれもが経験したことがないほどの大干魃が懸念されたという(ただし私が調べてみた限りでは、そう言えるのは翌年の大正15年である。実際、大正14年は旱魃によって凶作だったのかというと、逆に豊作であった)。そこへもってきて花巻農学校の実習田はザル田のために保水力が弱く、賢治は暇さえあれば生徒と連れだって低い堰の水を樋で実習田に掻き入れる作業をしたという。さらには、連日連夜寄宿生を連れて、実習田から田日土井までの1㎞の夜道を「水引き」・「樋番」に通ったともいう。生徒は交替したが、賢治は責任上いつも出かけ、ときに農民同士の水喧嘩にぶつかることもあったはず。一方は、『賢治は花巻農学校時代、田日土井の水引きに行った際、そこに来ている農民たちと殆ど会話をしなかった』とも聞く。
なお、大正14年は豊作の年だったのだから、賢治が「水引」に通った最大の理由は旱魃というよりは、「実習田」がもともとザル田であったが為とも考えられる。実際賢治はこの詩のタイトルを「旱魃と座禅」とはしていない、あくまでも「渇水と座禅」である。つまり、田日土井あたりはもともと「ザル田」だったから、用水の確保が難しかったし、当時は現在のように豊沢ダムがあった訳ではない。だから、
というのが真相であったようだ。
そこで、このことを憂えた平賀千代吉なる人物が現れて、
ということで、平賀千代吉の献身的な尽力によって豊沢ダムが竣工し、用水の確保ができるようになった、ということのようだ。
《5 田日土井と花巻農学校概念図》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/ba/bf33d6f1380ded63652a7aa6caa00d48.jpg)
なお、この詩碑の東隣には
《6 石塔群あり》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/c6/56f321d83ab4ac91002a821206fc2ff7.jpg)
その中には庚申塔が三基ある。
《7 普通の庚申塔》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/d5/0b560a96a69ff1e51efd62c7441cf00d.jpg)
《8 七庚申塔》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/2a/c10b04dad00dd4fc706d59da6ba3f21d.jpg)
《9 花巻では極めて珍しい五庚申塔》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/af/5c7e23671201d3fc5e76afa6a5f931a4.jpg)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/c8/22d7287548711cb2a83b757841c5c0c6.jpg)
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
《1 》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/4c/c425f0a9d16ad1942c81541107e142b7.jpg)
《2 》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/36/050407223bf8b0306d51138208c2f836.jpg)
《3 「渇水と座禅」の詩碑》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/1b/0e87d370dd11eb7b238079aac9465b22.jpg)
渇水と座禅、
にごって泡だつ苗代の水に
一ぴきのぶりき色した鷺の影が
ぼんやりとして移行しながら
夜どほしの蛙の声のまゝ
ねむくわびしい朝間になった
さうして今日も雨はふらず
みんなはあっちにもこっちにも
植えたばかりの田のくろを
じっとうごかず座ってゐて
めいめい同じ公案を
これで二昼夜商量する……
栗の木の下の青いくらがり
ころころ鳴らす樋の上に
出羽三山の碑をしょって
水下ひと目に見渡しながら
遅れた稲の活着の日数
分蘖の日数出穂の時期を
二たび三たび計算すれば
石はつめたく
わづかな雲の縞が冴えて
西の岩鐘一列くもる
宮澤賢治
なお、この詩は「一九二五、六、一二」に詠まれたもの、つまり、大正14年の作である。にごって泡だつ苗代の水に
一ぴきのぶりき色した鷺の影が
ぼんやりとして移行しながら
夜どほしの蛙の声のまゝ
ねむくわびしい朝間になった
さうして今日も雨はふらず
みんなはあっちにもこっちにも
植えたばかりの田のくろを
じっとうごかず座ってゐて
めいめい同じ公案を
これで二昼夜商量する……
栗の木の下の青いくらがり
ころころ鳴らす樋の上に
出羽三山の碑をしょって
水下ひと目に見渡しながら
遅れた稲の活着の日数
分蘖の日数出穂の時期を
二たび三たび計算すれば
石はつめたく
わづかな雲の縞が冴えて
西の岩鐘一列くもる
宮澤賢治
《4 『渇水と座禅』案内板》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/e5/81b943cce61d3631827a0a0b2a34abc1.jpg)
……大正十三年(一九二四)この地方は、記録的な「ヒデリ」となり、翌十四年も水不足で田植が遅れ、二年連続の旱魃が懸念されたため、実収田の担当だった賢治は、寄宿生を連れ、ときには一人で、実習田から田日土井まで一キロの道を「夜水引き」に通いました。その心象スケッチが「渇水と座禅」です。……
大正14年といえば賢治は花巻農学校に奉職しており、実習田の担当者であった。この年はそれまでにだれもが経験したことがないほどの大干魃が懸念されたという(ただし私が調べてみた限りでは、そう言えるのは翌年の大正15年である。実際、大正14年は旱魃によって凶作だったのかというと、逆に豊作であった)。そこへもってきて花巻農学校の実習田はザル田のために保水力が弱く、賢治は暇さえあれば生徒と連れだって低い堰の水を樋で実習田に掻き入れる作業をしたという。さらには、連日連夜寄宿生を連れて、実習田から田日土井までの1㎞の夜道を「水引き」・「樋番」に通ったともいう。生徒は交替したが、賢治は責任上いつも出かけ、ときに農民同士の水喧嘩にぶつかることもあったはず。一方は、『賢治は花巻農学校時代、田日土井の水引きに行った際、そこに来ている農民たちと殆ど会話をしなかった』とも聞く。
なお、大正14年は豊作の年だったのだから、賢治が「水引」に通った最大の理由は旱魃というよりは、「実習田」がもともとザル田であったが為とも考えられる。実際賢治はこの詩のタイトルを「旱魃と座禅」とはしていない、あくまでも「渇水と座禅」である。つまり、田日土井あたりはもともと「ザル田」だったから、用水の確保が難しかったし、当時は現在のように豊沢ダムがあった訳ではない。だから、
大正時代まで、豊沢川下流は水が少なく、稲が枯れてしまうほどでした。自分たちの水田に水を引こうと、はげしい水取のけんかが、たびたびおこりました。人々は、「水があったら、米を作れるのに。」と長い間、願い続けました。
〈「平賀千代吉と豊沢ダム」案内板より〉というのが真相であったようだ。
そこで、このことを憂えた平賀千代吉なる人物が現れて、
耕地整理組合長の平賀千代吉は、けんかの仲裁に出かけているうちに、ダムをつくることを決意しました。それから千代吉は、豊沢川上流の山や谷を調べ回り、「豊沢地区の山あいのせきを止めて、水をためれば、下流の田に水を送ることができる。」と考えました。
町や村の人々に相談すると、昔から豊沢地区に住んでいた人たちは反対しましたが、しだいに賛成してくれるようになりました。
ダムづくりには、たくさんの費用がかかるので、県から応援してもらおうと、千代吉は何度も県庁にお願いに行きました。
昭和十六年、県の力で建設工事が始まりましたが、戦争のため長い間、中止することになりました。
戦争が終わると、千代吉は国の力も借りようと思い、何度もお願いをくり返し、やっと国で工事をしてくれることになりました。
〈同上〉町や村の人々に相談すると、昔から豊沢地区に住んでいた人たちは反対しましたが、しだいに賛成してくれるようになりました。
ダムづくりには、たくさんの費用がかかるので、県から応援してもらおうと、千代吉は何度も県庁にお願いに行きました。
昭和十六年、県の力で建設工事が始まりましたが、戦争のため長い間、中止することになりました。
戦争が終わると、千代吉は国の力も借りようと思い、何度もお願いをくり返し、やっと国で工事をしてくれることになりました。
ということで、平賀千代吉の献身的な尽力によって豊沢ダムが竣工し、用水の確保ができるようになった、ということのようだ。
《5 田日土井と花巻農学校概念図》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/ba/bf33d6f1380ded63652a7aa6caa00d48.jpg)
なお、この詩碑の東隣には
《6 石塔群あり》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/c6/56f321d83ab4ac91002a821206fc2ff7.jpg)
その中には庚申塔が三基ある。
《7 普通の庚申塔》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/d5/0b560a96a69ff1e51efd62c7441cf00d.jpg)
《8 七庚申塔》(平成30年12月15日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/2a/c10b04dad00dd4fc706d59da6ba3f21d.jpg)
《9 花巻では極めて珍しい五庚申塔》(平成30年12月15日撮影)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
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〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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