みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『追悼 義農松田甚次郎先生』のまとめ【前編】

2020-12-17 20:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 しばらく休んでいた「松田甚次郎の再評価」シリーズを再開したい。

 長らく、松田甚次郎について『追悼 義農松田甚次郎先生』等を用いて調べてきた。とりわけ、「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」と誹られねばならなかったのかということに注目してである。

 そこでここからは、今迄の『追悼 義農松田甚次郎先生』に関する投稿の中身を各回ごとに一度ざっと振り返ってみたい。
**********************************************************【前篇】**********************************************************

・「手紙」
 この「手紙」からは、松田甚次郎が多くの人々から敬慕されていたかということや、吉田六太郎の謙虚で誠実な人柄が、とりわけ、吉田が甚次郎を如何に崇敬していたかということなどが読み取れる。
・『追悼 義農松田甚次郎先生』の目次
 改めて甚次郎は多くの人々から敬慕されていたのだということを、私は納得させられた。それは、目次には著名な人の寄稿や弔詞以外に、106名もの「追悼」が載っていたことから自ずから明らかだったからである。
・花巻でも松田甚次郎の追悼式が
 わざわざ花巻でも行われていたのだから、甚次郎が花巻の人たちから当時如何に感謝され、慕われていたかが、そしてすこぶる高く評価されていたということがが容易に窺える。
 言い方を換えれば、当時これだけ敬慕されていた甚次郎が、昨今花巻ではすっかり忘れ去られてしまった存在になってしまったのは何故なのだろうか、ということである。
・「追悼」への寄稿は全国から
 寄稿者の多さのみならず、全国的に、中には「朝鮮」や「満州」などの外地からの寄稿もあることから、これだけでも、松田甚次郎が当時如何に広く敬慕されていて、そしてその死が惜しまれていたことが容易にわかる。
・「最後の手紙」
 甚次郎が宮澤清六に宛てた最後の手紙からは、病に倒れてしまった甚次郎の重篤さが目に見えるようだが、一方ではそのような中にあっても、雨乞いの甲斐あって慈雨が降ったことを、雷鳴と稲妻の中で喜んでいる甚次郎の素直な人間性と自然に対する畏敬の念が窺えるからである。そしてまた、吉田六太郎の気遣いと優しさ、それに対する甚次郎の感謝の念も、である。
・「最後の手紙とその返事」
 やはり当時はそうだったんだと思ったことがある。それは、「日本はいま「敵國降伏」といふこと、「亜細亜は一つ」といふことで一杯です」という(宮澤清六の)記述を目の当たりにしたことによってだ。これを敷衍すれば、当時は皆がこのような表現を用いる時代だったのだろう。
「最上共働村塾の歌」
 高村光太郎に師事した山形の真壁仁、同じく山形の斎藤茂吉に師事したやはり山形の結城哀草果の2人は、同県人の甚次郎を共にかなりくさしていたということになりそうだ。しかし、私は甚次郎独り人だけを責めるのは酷な気がする。なぜなら、結城は甚次郎が「農民道場」つまり「最上共働村塾」を開いたことを、真壁は甚次郎が「時流に乗り、国策におもね」とそれぞれ非難しているが、前者はその根拠が乏しいしと私は見ているし、後者はそんなことは甚次郎のみならず当時は文化人等も含めて殆どの人がそうだったのだから、それを甚次郎に対してのみ「虚名を流した」と誹るのは個人レベルの感情的な発言だ、としか私には見えないからである。
 もし、真壁が甚次郎に対してそう非難するのであれば、同じ論理で真壁の師光太郎に対しても批判せねばならないはずだし、結城は茂吉に対して同様であらねばならなかったはずだ。甚次郎独りだけが戦意高揚に与したわけではないようで、甚次郎だけが批判されるというのはアンフェアなのではなかろうか。
・弔詞 照井又左衛門(『追悼』所収)
 松田甚次郎の稲作指導等に対して、当時の花巻の評価はすこぶる高かった、と言えるだろう。
・賢治は「科学的聖農」
 松田甚次郎が賢治のことを「農聖」とか「聖農」と称えることは、さもありなんと思っていたのだが、ここではそうでなかったからである。実は、そうではなくて、
    科學的聖農
だった。単なる「聖農」ではなくて、「科學的」と形容されていたのである。このことに、今回気付いて私はハッとしたのだった。
・弔詞 照井又左衛門(『追悼』所収)
 遅くとも「昭和十八年八月六日」にはここ花巻においても、賢治のことを「農聖」と称える人があったということが確認できた。
・「農聖松田甚次郎先生」(青森 高屋正樹)
 甚次郎はあの秋田県の老農・石川理紀之助の実践には及ばずとしても、稲作指導等に関しては賢治に勝るとも劣らないと、私は認識を新たにした。
・「捧 松田君の霊に」(秋田 丸山助吉)
 もちろん追悼だから、「世には老農、精農、篤農、聖農等々と賞めらるる先賢並現存の諸名士の幾多ある中に、松田氏のかうした行き方は、全く他の追従を許さぬ」という賞賛を額面通りに受け取ることはできないかもしれないが、甚次郎は少なくともこのように言われるほどの人物だった。
・秋田 沼倉 精一
 やはり当時「土に叫ぶ」が大ベストセラーであったことを改めて了解した。北支で従軍していた沼倉が「「土に叫ぶ」は陣中の余暇幾度読んだかわかりません」と言っているくらいだからだ。一方で、甚次郎の気さくで誠実な人柄を窺うことができた。「先生を私の家までお越しいただくの機を恵まれましてその夜は深更まで諄々と御教へをいただのであります」ということがあったというからだ。
・東京 佐藤直衛
 『追悼 義農松田甚次郎先生』へ寄稿している人は農業関係の人が多いが、そうでもなさそうな人佐藤直衛も寄稿していた。
 甚次郞は昭和13年5月に『土に叫ぶ』を出版するとたちまちベストセラーとなり、時をおかずして、昭和13年8月には新国劇一座により「土に叫ぶ」が上演されたわけだが、この佐藤のように、今度は昭和14年1月に青年団主催の催し物の際に、〝土に叫ぶ〟を上演したということもあった、ということを私は初めて知った。如何に、松田甚次郎が、そして「土に叫ぶ」が世間から注目を浴びていたかということを教えてくれる。
・山形 黒田清
 同県人でもある黒田の甚次郎評であり、私はこの人物評に素直に頷く。まさに、甚次郎はそのような人であったであろうと。追悼だから「盛りすぎている」などということは、私はもう疑うことはしない。逆に、甚次郎はそのような人であったからこそ、全国からこのように親愛と敬慕の念を込めた沢山の追悼が寄せられていたのだと、多くの人々から夭逝が惜しまれていたのだ、と私には理解できた。延いては、「土に叫ぶ」は当時、多くの農民の心の支えになっていたのだということも改めて示唆された。
 それにしても、黒田の
   真摯な生活の叙事詩であり、敢闘詩でもあつた「土に叫ぶ」
という新鮮な表現に私は最初虚を突かれたと思ったのだが、次に、なるほどなと納得させられた。そして、少なくとも当時の「農村青年の良き伴侶として、或はバイブルとして幾多の魂に希望と慰安を與え」たであろうことを覚った。
・北海道 上家喜代子
 松田甚次郎は農民生活の向上を目指して、いわば命を賭して実践したわけだが、その柱の一つとして当時既に「農村婦人愛護運動」を立ていたという甚次郎の進取の精神と自覚の高さに私は感心させられる。おそらくこのようなことも、甚次郎が多くの人々を惹きつけた大きな理由の一つだったのであろ。 
・北海道 安達利比呂
 農村文化の向上や農産物増強のために、松田甚次郎はまさに、東奔西走していたと言えるだろう。そして、斃れたのだと。
・長野 柳澤素介
 松田甚次郎が如何に全国的規模で知られ、且つ高く評価されていたかということが示唆される。
 そしてもう一つ、「土に叫ぶ」が当時の農民に如何に読まれ、支持されていたかということ、そして同書を通じて甚次郎と農民の心が堅く繋がっていたかということも、改めて知ることができる。
・静岡 池谷武夫
 当時の甚次郎は心底、農村文化の向上や農産物の増産を願って、全国を講演等のために駆けずり回っていたのだ。きっと。
・青森 齊藤浩
 やはり甚次郎は、少なくとも人間的にとても魅力的な人物であったのであろう。例えば、偉ぶらないとか、人を立てるとか。
・新潟 小川恭夫
 まず冒頭の「松田先生は我が百姓の味方としてよく農村を理解し、絶大の同情をもち、その指導者として実践者として崇敬の㐧一人者であつた」から、当時松田甚次郎がどれだけ「百姓」から崇敬されていたのかということを認識を新たにした。同時に、その後に続く「……更生の方途」の「更生」とは、「農山漁村経済更生計画」の「更生」に当たるのだ、と直感した。
・千葉 増田政美
 やはり甚次郎は「弟子」たちから如何に敬慕されていたかということを容易に知ることができる。のみならず、甚次郎は「弟子」たちを如何に愛し、信頼していたかということもだ。さすれば、その「弟子」たちは、甚次郎の遺志を継ごうとしていたであろうことも当然だ。ここが、他の人との違いなのかもしれない。
・埼玉 中澤省三
 中澤は、「私が先生を師と仰ぐやうになりましたのは昭和十三年㐧一回「土に叫ぶ」の著書を拝見して以来、先生こそ農民の師であることを信じ著書を通じ農魂を養ひ常に畏敬して居りました。其の後「野に起て」「續土に叫ぶ」等により愈々先生の崇高なる人格に接し新たなる農民道の御教示を得て、皇国農民としての自覺を持つたのであります」と言っていた。さりとて、読者の中澤がそう受け止めたのであり、甚次郞が最上共働村塾等でそう指導したということを裏付けているとまでは言えなかろう。
・東京 倉本彦五郎
 当時の新聞は、「農村文化に盡くした功績は大きい」と報じていたということだから、これが当時の松田甚次郎に対する一般的な評価であったということは間違いなかろう。
・兵庫 阿部正彦
 当時、賢治と甚次郎のことを「日本農民の師父」と見ていた人もいたのだということを私は知った。
・新潟 中川義一
 賢治や甚次郎を「農聖」とか「聖農」と称えていた人がいたが、甚次郎自身はそうではなくて自分は「義農」でありたいと心に決めていたと言えるであろうということをだ。
 現在貧しき乍らも国策に協力し食糧増産に全力を盡くし皇国農民の強い誇りと責任を感じて暮らす事の出来るのも先生の御教訓によるのであると思ひます、と中川が受け取っていたから、このことについては、今後注意深く見てゆく必要がありそうだ。
・大分 酒井藤麿
 当時の松田甚次郎の評価は全国的なものであり、しかも頗る高かったと言える。そしてまた、敬慕されていたということもこれでほぼ間違い。では、何故そうだったのかというと、「同情はしてくれる有識者」などとは違って、甚次郎は「眞に農業を体得した人」ていることを彼等は肌で覚ったからであろう。とりわけ「土に叫ぶ」を通じてである。逆に言えば、だからこそ同書は、驚異的な大ベストセラーになったのだ、きっと。
・長野 長針 功
 甚次郎が如何にストイックな生き方をし、全国を東奔西走しながらも寸暇を惜しんで勉学にも勤しんでいたということを納得できた。
・仙台 山田二郎
 甚次郎はとても優しい人物であろうことは分かっていたつもりだが、これで改めてそのことを私は確信した。
・岩手 照井謹二郎
 松田甚次郎のことを「全農民の絶大なる指導者である」と讃えている
・山形 田宮真龍
 松田甚次郎の農業の基本理念を紹介しており、とりわけ「最も感心することは先生の一生を通じて土つくりの農業をすすめたことである」という田宮の見方に私は素直に頷ける。
**************************************************これらのことより*****************************************************

 松田甚次郎は多くの農民(青年)たちの支えになっていて、敬慕、感謝されていた。
 それは、著書『土に叫ぶ』が大ベストセラーとなり、とりわけ農村青年に読まれたからでもある。
 甚次郞は塾生から絶大な支持を得、崇敬されていたし、甚次郞は塾生たちを信じていた。
 甚次郞は山形県内にとどまらず、外地も含めて広く知られ、高く評価されていた。
 甚次郞は戦意昂揚に与したと言われているが、それは甚次郞独りだけではなく当時は多くの人がそうだった。
 甚次郞は極めてストイックであった。
 賢治が「聖農」と呼ばれるようになったのは甚次郞がそう言ったからだといわれているようだが、「科学的聖農」と言っていたということは確認できた。
 「現在貧しき乍らも国策に協力し食糧増産に全力を盡くし皇国農民の強い誇りと責任を感じて暮らす事の出来るのも先生の御教訓によるのであると思ひます」、というように認識していた人物がいた。

というようなことなどが言えるのではなかろうか。

 続きへ
前へ 
 “「松田甚次郎の再評価」の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

《新刊案内》
 『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))

は、岩手県内の書店で店頭販売されておりますし、アマゾンでも取り扱われております
 あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通りです。

 そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『県民文芸作品集第51集』発... | トップ | リッフェルアルプへ5(6/30)... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

甚次郎と賢治」カテゴリの最新記事