みちのくの山野草

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「最上共働村塾の歌」

2020-07-28 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 『追悼 義農松田甚次郎先生』の中には「最上共働村塾の歌」も載っていた。ちなみにそれは、
「最上共働村塾の歌」

一、最上の共働村塾は
  共働人の集ひなり
  土に育れて土に生き
  皇國の礎固めんと

二、緑の大地踏みしめて
  たくましき腕打ち振ひ
  夢見る人を呼び起こし
  御田柄の道いそしまん

三、不義の上に榮えたる
  地位や名譽は何かせん
  純美純愛純眞に 
  人生の道極めんや

四、嵐よ風よ吹かば吹け
  苦難を越えていや強く
  我等の自治の村塾は
  今農村の先駆者ぞ
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)11p~〉
というものであった。
 私はこの歌の中身を今回初めて知った。そして首を傾げた。というのは、「甚次郎は戦意高揚に与した」という人がいるが、この歌の中にそれを示唆する文言はあるのかというと、せいぜい「皇国の礎固めんと」くらいなものではなかろうか。となれば、前回の投稿〝「最後の手紙とその返事」〟の中の、「日本はいま「敵國降伏」といふこと、「亜細亜は一つ」といふことで一杯です」や「肇國の大理想」と比べてみれば、似たり寄ったりであり、戦意高揚に与したとまでは言えなかろう。言い換えれば、このような文言を当時の人々は普通に使っていたと推定できる。

 ちなみに、小林節夫は、
 それどころか「満州事変」から敗戦までの十五年戦争の間、特に一九三七年の支那事変となり、大政翼賛会がつくられると急速に戦争協力の文学・芸術家たちが増えました。
とか
 一九四六(ママ、正しくは一九四一)年十二月八日対米英開戦、二十四日に「文学愛国大会」(参加者四百人余)を開き、国家総動員体制のため「日本文学報国会」を結成することを決議しました。
あるいは
 翌年五月、社団法人「日本文学報国会」が内閣情報局主導のもとに設立されました。戦争遂行のためであることはいうまでもありません。
             〈『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)〉
と述べており、これに従えば、文化人であってさえもこうだったのだから、松田甚次郎一人だけが誹られることは如何なものだろか。
 もう少し具体的に言えば、以前から気になっていたことだが、真壁は次のような松田甚次郎評等を語っていた。
 昭和十三年か十四年に、盛岡の菊池暁輝と鳥越(現新庄市)最上共働村塾の松田甚次郎がやって来て、山形市に賢治研究会をつくる相談をした。相談にのってくれたのは当時山形師範学校教授で日蓮の研究者である相葉伸(現群馬大学教育学部長)と、小学校教師の新関三良(現福島県史編纂委員)らであった。松田君は毎月出て来て研究会に協力してくれたが、賢治の作品はあまり勉強していると思えなかった。村塾の経営とその自給自足主義や農民劇は賢治の教えの実践とみられるが、しかし時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した。これは賢治には全く見られぬものであった。
              <『修羅の渚』(真壁仁著、法政大学出版局)7p~>
とりわけ、「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」とである。
 一方、斎藤 たきちの覚書『甚次郎とその時代』によれば、結城哀草果は松田甚次郎に対して、
 「農村の或者がおもいあがって、たまたま農民道場めいたことをはじめると、世人がそれをはやしたててすぐ有名になってしまう。地元の村人は一向関心をもたず、迷惑にさえおもっているうちに、若年の道場主がどんどん名高くなって、恰も救世主のような面をして講演をして歩くようになる。ところが、かかる級の人物は世間に掃くほどおっても、農村におる者が特に目につく、鳥なき里の蝙蝠であるのと、本当に偉い農村人物を見出す目を世人が持っておらぬからである。国の宝となる農民は黙々として働き、村と国を治めてめったに声を大きくしない。三十そこそこの若年者が、生意気に農民道場主とはいったい何事ぞやと、罵りたいことが往々にしてある。かかる事業は、国か県の事業に合流して成績をあげるべき時代になった。」(昭和十四年・アララギ)
              <『地下水19号』より>
と批判していたということを知れる。
 つまり、高村光太郎に師事した山形の真壁仁、同じく山形の斎藤茂吉に師事したやはり山形の結城哀草果の2人は、同県人の甚次郎を共にかなりくさしていたということになりそうだ。しかし私は甚次郎一人だけを責めるのは酷な気がする。なぜなら、結城は甚次郎が「農民道場」つまり「最上共働村塾」を開いたことを、真壁は甚次郎が「時流に乗り、国策におもね」とそれぞれ非難しているが、前者はその根拠が乏しいしと私は見ているし、後者はそんなことは甚次郎のみならず当時は文化人等も含めて殆どの人がそうだったのだから、それを甚次郎に対してのみ「虚名を流した」と誹るのは個人レベルの感情的な発言だ、としか私には見えないからである。そしてそれは、もし真壁が甚次郎に対してそう非難するのであれば、同じ論理で真壁の師光太郎に対しても批判せねばならないはずだし、結城は茂吉に対して同様であらねばならなかったはずだ。

 やはり、松田甚次郎一人だけが戦意高揚に与したわけではないようだから、甚次郎だけが批判されるというのはアンフェアなのではなかろうか。

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 私は非専門家。
 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』は、「仮説検証型研究」という手法によって、「羅須地人協会時代」を中心にして、この約10年間をかけて研究し続けてきたことをまとめたものである。
 そして本書出版の主な狙いは次の二つである。
 1 創られた賢治ではなくて本統(本当)の賢治を、もうそろそろ私たちの手に取り戻すこと。
 例えば、賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」し「寒サノ夏ニオロオロ歩ケナカッタ」ことを実証できた。だからこそ、賢治はそのようなことを悔い、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と手帳に書いたのだと言える。
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 賢治がいろいろと助けてもらった女性・高瀬露が、客観的な根拠もなしに〈悪女〉の濡れ衣を着せられているということを実証できた。そこで、その理不尽な実態を読者に知ってもらうこと(賢治もまたそれをひたすら願っているはずだ)によって露の濡れ衣を晴らし、尊厳を回復したい。
〈目次〉

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                      電話 0198-24-9813
             
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