気の向くままに

山、花、人生を讃える

皆様、よい連休を!

2020年04月30日 | その他

昨日今日と、風も穏やかでいい天気が続いています。

我が家はあまりゴールデンウイークに出かけることはなかったし、2年ほど前から東京に行った長男家族が帰って来るようになって、孫のお守りでますます出かけることができなくなりました。

そして今年は、緊急事態宣言で長男家族も帰省できず、私たちにとっては夫婦水入らずの久しぶりのお出かけチャンスなのですが、「stay home」が叫ばれている時に、I love Japan の私が出かけるわけにもいきません。

 

そこで、この際自宅にとどまって、後世、歴史に記されるに違いない、今の1瞬1瞬を、社会の動き、人々の動きを通してしっかりと味わってみようという寸法でいる次第です。大げさですが。

 

ひょっとしたら、カニが古い甲羅から脱皮する、或は人の狩猟生活から農耕生活への転換というような、そんな大いなる転換の一歩手前に、いるのかもしれませんね。大げさですが。(笑)

 

アメリカ人のニール・ドナルド・ウォルシュという人が書いた『神との対話』という本の中で、著者が

「私たちはいつか天使を見ることがあるのでしょうか」と聞いたとき、

神が、

「あなたが鏡を見る時、そこに映っているのが天使だ」と答え、又別の所では、

「私があなたのもとに贈るのは天使のみ」と答えていたのを思いだします。

 

「えっ、神様、この私が天使ですか! 冗談ぱっかり!」

 

と返したくなるところですが、それはともかく、人々の動きが半ば止まっているいるせいなのか、今までなかったような、のんびりくつろいだ気持ちになっています。わかり易く言えば、時間の動きがゆっくりになっている、そんな感じでしょうか。

 

そのようなことで、のんびりした気持ちで、庭や畑の草を抜き、近くの散歩コースを歩き、1時間ほど歩いて家に帰れば、好きな本を読みながらコーヒータイム。

 

ああ、これこそ、あの夢にまで見た、そして憧れていた定年後の生活ではないか。

と、そんなことを思いつつ、何かうれしい日々を送っている次第です。

 

さて、話は変わって、下の写真は  センリョウ科 ヒトリシズカ(一人静)という花。
最初、「静御前」などと書いていましたが、ヒトリシズカの間違いなので訂正します。

   

静御前の舞姿に似ている所からの命名とか。
名前にひかれて一目会いたいと思っていたので、はじめて見たときは嬉しかったが、案外地味な花という印象がある。
名前で得をしている花かな思うが、見ようによっては「清楚」と言えるかもしれない。

 

思い出しましたが、「いい夫婦」をテーマにする川柳があって、その中にこんなのがあって思わず笑ってしまいました。

   大好きだインスタ映えのしない妻

 

では、笑っていただいた所で、皆様、よい連休を。

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「コロナは太陽に弱い?」の補足記事

2020年04月27日 | 社会

前回の記事で新型コロナウイルスが太陽の光に弱いというニュースを紹介させてもらいましたが、その後の4月25日のAFP時事ニュースは、「太陽光は新型コロナウイルスを急速に不活性化させるのか? 論文の公開求める声も」と題した記事を発表しているので、補足の意味で紹介させてもらいます。以下はその記事の要点です。

 

≪紫外線の種類≫について

○太陽光には波長が違うさまざまな紫外線が含まれていて、大まかには次の3種類に分けられる。

一つは、紫外線A波(UVA)  日焼けや肌の老化の原因となる、
一つは、紫外線B波(UVB)  紫外線A波よりエネルギーが強く、肌がやけどのように赤くなったり、がんを引き起こしたりすることもある。
一つは、紫外線C波(UVC)  最も危険で、動物細胞やウイルスの遺伝物質を傷つける程度が特に強い。
このうち、地球の大気を透過して地上に到達する紫外線は主にUVAであり、UVCは大気に吸収されて地上には届かない。

 

≪紫外線とウイルスの関係≫について

○紫外線A波(UVA)は、その照射時間によらずSARSに影響を与えなかった(2004年の研究による)。
また、紫外線C波(UVC)は、SARSのウイルスを15分以内に完全に不活性化させた。

 

≪ウィリアム・ブライアン氏研究報告の問題点≫について

○新型コロナウイルスが普通の太陽光にも弱い可能性はあるが、他の研究者たちは、ブライアン氏の報告について、どのように実験が行われたかの研究論文が公表されてないことに疑問を呈している。そして実験内容を共有できるよう公表されることを求めている。

以上は新聞記事の要旨ですが、原文を読みたい方はこちら 

https://news.yahoo.co.jp/articles/7cc053f87f05e74b27f2d3109c32d1ebd734ae5a?page=2

 

山で初めて見る花に出会ったときは嬉しいものだ。
そして、なんという名前の花かと図鑑を調べるのも楽しみの一つである。
下の写真は伊吹山北尾根で初めて見た時の、シソ科、ラショウモンカズラ(羅生門葛)です。名前のいかにも日本的なところがよい。

 

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コロナは太陽に弱い?

2020年04月25日 | 社会

既にご存知の方も多いと思いますが、念のため、そして自分のメモとして書かせてもらいます。

 

AFPニュース(4月24日)によれば、
ウィリアム・ブライアン氏 (米国土安全保障省長官の科学技術顧問) が「太陽光には、物質の表面と空気中の両方に存在するウイルスを不活性化する作用があるとみられる。また温度と湿度にも同様の作用が見られる」と話し、次のような実験結果を示したとのこと。

 

①ウイルス量の半減期は、気温21~24度、湿度20%の無孔質の表面で18時間だった。
                                       
(無孔質の表面には、ドアノブやステンレス製品の表面などが含まれる)

②湿度が80%に上昇すると、半減期は6時間に減少し、これに太陽光が加わると、わずか2分にまで減少した。

③新型ウイルスが空気中に漂うエアロゾル(飛沫)状態になった場合の半減期は、温度21~24度、湿度20%で1時間だった。
これに太陽光が加わると、1分半にまで減少した。


その上でブライアン氏は、

○夏のような状況は感染を減らすことができる環境を生み出すだろう。しかし、感染が減少しても新型ウイルスが根絶されたわけではなく、対人距離の確保を求めるガイドラインを全面的に廃止することはできない。

 

と話したとのこと。これが事実とすれば、朗報のひとつにはなりますね。

 

≪新型コロナウイルス、太陽光で急速に不活性化≫は、ここです。

https://www.afpbb.com/articles/-/3280112?pid=22325155

 

 

尊敬する『生きがいの創造』シリーズの著者、飯田史彦さんはブログ(飯田史彦研究室)の中で、
世界的なコロナ騒動をきっかけにして、大きなブレイクスルー(生き方や価値観の転換)が起きると予測されています。

 

そして、思い出したのが、3ヶ月ほど前、時たま行き着いたどなたかのブログに書かれていた、『空にみずうみ』(佐伯一麦著)という小説を読んでの感想でした。とても印象深かったので、メモさせてもらっていたのですが、それがこれです。

 

○庭の草花、虫たち、公園の木々、動物、猫や犬、そういったささいなものたちが人々とともに暮らしていることがわかります。その「普通」さがとても平凡ゆえに、震災の経験を経ると、それらがとても貴重なものに思われてきます。・・・というものでした。

 

凡人故、すぐ忘れてしまうのですが、自分があの大震災の経験者の気持ちになることの大切さを改めて感じました。

 

        写真はフウロソウ科 ヒメフウロ(姫風露) 。 以前、伊吹山で撮った(5月12日)もの 

       

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花好きな元気ばあちゃん

2020年04月22日 | 人生

昨日剪定に行った家は、松の木が1本伸び放題になっていたばかりでなく、所狭しと色々な木が植わっており、更にその合間をぬってこれまた所狭しと花の鉢植えが並べられていた。

 

おばあちゃんが言うには、おじいちゃんが「やる、やる」と言いながらちょっともやってくれないので、業を煮やして、シルバーに剪定を頼んだ、とのこと。

 

松の木の選定を終えて、柿の木を剪定していると、おじいちゃんが出て来て、
「俺が切るつもりでいるのに、切ってしまうのか」と言うので、
「おばあちゃんが切って(剪定)くれと言うので切り始めたんだけど・・・」と言うと、
おじいちゃんは、よろよろとした足取りでこちらに近づいてきた。

 

その様子は、いくら「俺がやる」と言っても、とてもできそうにない。脚立に上がることもできないだろうことは一目でわかる。
それなのに、「俺がやる」などと大真面目。

 

大方の年配者は、自分の元気がなくなったことをこぼす人が多いのだが、このおじいちゃんは、まだ大真面目で自分がやるつもりでいるらしい。そのカラ元気が私には可笑しく微笑ましかった。

 

果たして自分は、元気がなくなったとこぼす人になるか、それともカラ元気を続ける人になるか、どっち? と、ふとそんなことを思った。自分としては、こぼすより、カラ元気でも威勢の良い方がいい気がするが・・・・。

 

そして一方のおばあちゃん、話す声も大きく元気のよい人だった。
木はおじいちゃんが「お守り」していたが、鉢植えは盆栽も含めてすべておばあちゃんの趣味らしい。

 

剪定を終わって、切った枝の片づけに入ると、おばあちゃんが手伝おうとする。狭くて足場の悪いところなので怪我をしてはつまらないので「いいよ」と言っても、動かずにはおれないらしく、せっせと片づけを手伝ってくれた。

 

そして、片付けをしながら、大きな声でおじいちゃんのことを「やる、やると言いながら、ちょっともやってくれん。頭にくる」などと乱暴なことを言う。しかし、それがまたどことなく可愛らしく可笑しかった。

 

とにかく元気で気の好いおばあちゃんで、これでは威勢のいいおじいちゃんも形無しで勝ち目がない。
結局、「やるやると言っても出来ないんだから、、いいから切っといて」のおばあちゃんの言うとおりに剪定させてもらった。
そして庭全体が随分さっぱりして明るくなった。

 

おばあちゃんは、とにかく花好きで、株を増やしては知り合いに分けてやるのが楽しみだと言う。
そして、これは何、あれは何と花の説明をしてくれ、良かったら持っていく?と、何度も言ってくれる。
それで、折角だからと遠慮なく頂戴して来たのが、下の写真の花。「オダマキ」の少し変わったものらしい。
もう一つ、写真には無いが(ピンボケだったので)八重のオダマキも頂いた。

        

 

ということで、所狭しのやりにくいところだったのに、また「行きたい」と思う、ひときわ印象的なお宅でした。
どうぞいつまでもお元気で。

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「高齢者が人生で後悔すること」を読んで

2020年04月19日 | 人生

今朝、「みんなのブログ」欄の「高齢者が人生で後悔すること」というタイトルが目に入り、興味が湧いてクリックしました。すると、その記事には、高齢者が、どんなことを後悔しているかのアンケートに答えた、いくつかの回答が紹介されていました。たとえば仕事や結婚、家庭生活、自分の生き方などについて・・・。

 

そこに紹介されているものは必ずしも自分の後悔ではないのに、何か他人(ひと)ごとではない、自分の後悔でもあるような気がしました。それは後悔の種類は違っていても、深いところからの心の声、とでも言えるような、そんな共通点があるからだろうと思われた。

 

私も子供のこと、親不孝だったこと、親孝行できなかったことなどの後悔があるし、そして、今こうして生きている間も、つい自分第一になり、いつも機嫌よくしていたいと思いながら、時々ちょっとしたことで家内にブスッとなり、そして後悔する・・・ということを繰り返しています。

 

その時が来れば、もっと大事にすればよかったと後悔するのが、目に見えるほどにわかっていながら繰り返してしまうのだから、まさに煩悩具足の凡夫というよりほかはない。人間は悲しい生物なのだと思う。

 

しかし、みんなこんな悲しみを越え、後悔しながら、生長して行くのだろうと、私は今日も希望をもって生きるのである。おっほん。

 

とにかく、良い勉強になりました。
先輩の方々の言葉、決して無にいたしません、と固く誓うのでした。

 

「高齢者が人生で後悔すること」はここ 団塊シニアのひとりごと

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野の草をも、かく装ひ給へば

2020年04月18日 | 

全国に緊急事態宣言が出されて、たくさんの業種に休業要請が出される事態になっていますが、私の庭木の剪定仕事には休業要請はないようです。冬の寒い時期なら休業要請を出して欲しいところですが、気候の好いときなので「まあいいか」と思っているところです。

 

昨日剪定に行った家では、紅白のハナミズキが咲いていて、「ああ、もうハナミズキの季節がやって来たのか」と思ったのでした。コロナ、コロナと騒いでいるうちに、季節は既に晩春になっていたんですねえ。

という訳で、今日は花の写真を記事にしたくなりました。、以下は、最近撮った花の写真です。

 

「マツバウンラン」 繁殖力旺盛で迷惑に思っているのですが、可愛い花です。
適当な数だけ生えてくれれば大事にしたいと思うが、現実はせっせと抜いています。(笑)

     

 

「スミレ」 品種が多くて・・・ まあ、スミレでいいでしょう。
これもまた可愛いくて、咲けばうれしい花ですが、しかし種子を飛ばしまくってますねえ。
私に言わせれば、「じゃじゃ馬」というところか。

     

 

「ジャーマンアイリス?」かな。正確には知らないが 好きな花の一つです。

     

 

「椿」 品種は知らないが、八重でなかなかきれいなので気に入っています。

          

 

上の花のアップ。3月31日に撮ったものですが、2週間は綺麗に咲いていて、最近ようやく色が変色しはじめました。そして、まだ蕾もあるので、長く楽しませてくれます。

     

     

ライラック  日本名は「ムラサキ・ハシドイ」、今年は綺麗に咲いてくれました。

     

 

次は、花ではなく聖書の1節。私はクリスチャンではないが、イエスの言葉で好きなのはたくさんあって、その中でも最も好きなところです。格調高く、そして花のような美しい響きがあり、まるでイエスが今にも語りかけて来るようです。

○野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。されど我なんじらに告ぐ。榮華を極めたるソロモンだに、その服装(よそほひ)この花の一つにも及(し)かざりき。今日ありて明日爐(ろ)に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。さらば何を食(くら)ひ、何を飲み、何を著(き)んとて思ひ煩ふな。是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は、凡てこれらの物の汝らの必要なるを知り給ふなり。まづ神の國と神の義とを求めよ。さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。

 

 

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「最後の講義」脳死を考える

2020年04月16日 | 人生

前の記事からの続きです。

 

≪福岡先生の話≫
脳死問題というのは、死ぬ時点というのは一体いつか、という考え方なんです。「死」というのは実はある瞬間に死ぬわけじゃないんです。我々の身体は37兆の細胞が集まってできているので、心臓が止まっても身体の細胞はまだ大半は生きています。だから死というのは、本当はどこかの一点で起きるわけじゃなく、徐々に消えて行くわけですよね。でも法律が決められなかったり、色々な不都合があるので、「死はここにします」という風に、勝手に分節点を作ったわけなんです。で、古典的な死の瞬間というのは、①心臓が止まること、②呼吸が止まること、③瞳孔の反射が消えること、をもって「死」としていました。でも最近では、この死の基準をもっと遡って、脳が死ねばそれが「死」だというふうになったわけですね。

 

何故こういう考え方が出来たかって言うと、新しい産業が生まれるからです。新しい医療が生まれ、お金を儲けられる人が増えるからです。脳死をこの時点(脳が死んだとき)にすると、まだ身体は生きているのに死んでいるとみなせる。つまり、脳死というのは、臓器移植のために死の地点を前倒しした、そういう分節的、機械論的生命観に基づく、まあ生命を分断する考え方なわけです。で、これと同じことがですね、「生きる」方にも言えて、脳が始まるところが人間の始まりと考えてもいいかな、ということになります。

 

≪阿川佐和子談≫
臓器を移植することによって救われる生命があれば、それは幸せなことかもしれないけれども、でも人間は経済システムっていうのができ、いろんな取引をするようになった。で、行き着くところが、生きている人間の臓器を交換することが、脳死という限定によってそれが出来る様になると、いつから生まれたかって言うことも限定するようになるでしょう。すると、その前にできている内臓は、まだ生まれている範疇に入らないということになって、それを利用できるという考え方をする人が出て来る。仰天ですよね。

 

≪福岡先生の話≫
「生命がいつ始まるか」というのは非常に難しい問題で、受精卵という新しい状態が出来たところが(写真で示している所)、一応暫定的な新しい生命の始まりと考えると、もうここから生命は出発しているわけです。しかし、この「脳が始まる」という概念を持ち出すと、「胎児の脳が機能しはじめた時が人間の始まり」だという考えも成り立つわけです。その人間の脳が始まるときというのは、妊娠期間の3/4ぐらいが終わったこの辺が(図の脳始とある位置)、ようやく脳の活動が始まって、いろんな反応が出来て意識が立ち上がって来る所であります。

 

だから、脳死が人の死ならば、脳が始まるところが人間の始まり、と考えると、(受精から脳始までの)この期間を使えるわけです。使えるというのは、医療上、生物学上のツール(道具)として・・・。だから実際に胎児の細胞を使って新たな再生細胞を作るとか、いろんなことに使えることになるわけです。

 (図の「脳始」の右にある短い縦線は誕生を示す。22週は妊娠期間中の真ん中を示す。)

そしてこれがまた機械論的な生命観による生命の操作ということにつながっていくわけです。
だからこの脳死、脳が始まる方の脳始も、人工的な切れ目なので、この考え方は医療の進歩でもなんでもなくて、両側から我々の生命の時間を短縮してくれているわけなんです。

 

以上で福岡先生の講義は終わりです。講義中、カメラはときどき講義を聴講する学生たちの様子を映しましたが、その学生たちの真剣に聞き入るその表情、その眼差し、こういう真剣なまなざしというのは、見ていて気持ちがいいですね、こちらまで気持ちが若返る気分でした。
講義が終わった後には、質問の時間があり、数人の質問がありました。以下は、最初の質問と先生の回答です。

 

獣医学部の学生からの質問: 医学とか獣医学は機械論的な生命観の下で発達してきた学問ですよね。具体的にはどういう考えをもって日々の臨床に当たったらいいのでしょうか。

 

福岡先生の回答:医学が学問であるためには必ずエビデンス(科学的根拠)がいるし、でも、一人一人の人を救うためにはですね、その一人一人は固有の動的平衡をもっている。エビデンスの様な平均化したり、標準的な治療で臨むと、一人一人の個別性は消えてしまうわけですよね。で、医学、獣医学が有効なのは、結局、痛みを解放してあげるとか、問題を解決してあげることが臨床の大切なポイントですよね。その時に部品として見てしまうと、エビデンスや標準治療にたよってしまう秀才型の医者になってしまうわけです。

例えば、膝が痛いって時に、膝という部品が悪いから、膝が痛いんじゃなくて、生命は動的平衡のバランスの上に成り立っていて、そのバランスが崩れて病気となって顕れている。そういう考え方をいつも中心に置いて、そこからモノを考える様にしたらいいんじゃないかと思います。どうぞ、良い獣医さんになってください。

 

最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございます。

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生命は機械ではない「動的平衡」

2020年04月15日 | 人生

以下は前の記事からの続きです。

 

≪ナレーション≫

2011年、博士は理系の研究所を閉じました。ミクロの世界での生命の研究を止め、文系の教授になったのです。少年時代に心を躍らせた生命、機械とは異なる生命の本質を探究し、理系も文系も分け隔てなく伝えようとしています。博士のキーワードは動的平衡です。

 

≪福岡先生の話≫

シェーンハイマーのコンセプトは、日本語では動的平衡というふうに呼んだらいいと思うんですが、動的というのは常に動いているということであり、平衡というのはバランスという意味です。絶え間ない流れの中でいつも合成と分解がバランスをとっているというのが我々の身体の一番大切な特性です。そして常に動的平衡が成り立っているから、私たちの身体は何かがなくても、他のものがピンチヒッターになってやってきたり、平衡を作り替えることが出来る。それはGP2がなくてもですね、ナイなりにそれを補えるような仕組みで生物は新しいバランスを作り直していくわけなんです。

 

註:2016年にノーベル賞を受賞した大隅良典さんの「オートファジー(Autophagy)」を思い出してください。例えば外からのたんぱく質の補給が足らなくなったとき、細胞が自らの細胞質成分を食べて分解し、アミノ酸を得るとのこと。「自ら(Auto)」を「食べる(Phagy)」という意味とのこと。

 

≪ナレーション≫
生物学者や大隅義典教授を始め、21世紀に入ると生命が分解される仕組みがわかってきました。
分解、即ち自己自身を壊す仕組みです。でもどうして生命は自分を壊す必要があるのか?
(これについての話は、話が長くなるので省略させてもらいました)

 

さらに、人間が生命を機械と捉えると怖いことが起きる、と博士は警告します。生命が連鎖する地球環境から人間がリベンジされた例があるそうです。狂牛病です。狂牛病とは牛の脳がスポンジ状になり、牛が異常行動を起こす病気です。1986年にイギリスで発生しました。原因は牛の餌でした。

 

≪福岡先生の話≫
牛の餌っていったい何ですか。牛は草食動物で牧場の草を長閑に食べているとみんな思うんですが、狂牛病に罹った牛のほとんどはミルクを出す乳牛でした。乳牛はミルクを搾り取られるから沢山の栄養を食べさせないといけない。しかしミルクより高い餌を与えていたんではミルクは安く作れませんから、出来るだけ安くて栄養価のあるものを食べさせていました。それは草ではなく、肉骨粉と呼ばれる飼料だったんです。肉骨粉というのは、実は他の家畜の死体、つまり草食動物である牛を肉食動物に人工的に変えていた。その方が経済効率がいいからです。

 

で、狂牛病というのは、羊のスクレイピー病という病気がその餌の中に入り込んで、それを食べた牛がたくさん病気(狂牛病)になったということがわかったんです。で、そうこうしていると、今度はですね、その牛を食べた人が狂牛病になってしまう・・・、ヤコブ病っていう名前がついていますけれども、いずれも人間が勝手な都合で生物の動的平衡を切断し、組み替えているせいでこういうことが起きてしまったわけです。

 

≪ナレーション≫
「生命は機械ではない」博士がいくら訴えても、なかなかどうして機械論的生命観は私たちにしっかり浸み込んでいるようです。こちらの絵は小さな子供が書いた人間です。

 

≪福岡先生の話≫
驚くべきことはたった4歳の子供でも、もう機械論的な生命観に染まってしまっているということなんです。つまり人間はパーツ(部品)から出来ているという風に、目、耳、鼻、口、手足から人間は出来ているというような・・・。でもこの考え方が間違っているのは次のような思考実験をしてみれば明らかです。

 

 天才外科医がやって来て、AさんからBさんに鼻を移植しようと考えたとしましょう。Aさんからどういうように鼻を切り取れば、鼻という機能を取り外してBさんに移植できるか・・・。鼻というのは、実は鼻の穴の奥の天井には嗅覚上皮細胞というのがあって、そこで匂い物質を感知して、その信号をズ~と脳の奥に運んでいって・・・、だから、嗅覚っていう機能を鼻と考えると、結局身体全体を持ってこないと鼻という機能は取り出せないわけです。

 

≪ナレーション≫
食べ物が身体を造るのに、牛を肉食に替えたせいで牛の動的平衡がくずれました。バランスを失った牛を今度は人間が食べ、人間もバランスを崩しました。

 

≪福岡先生の話≫
つまり、動的平衡は一つの生命の中だけで起こっているのではなく、地球全体の生態系の中でも動的平衡は成り立っているのです。

 

≪ナレーション≫
さらにです。機械的生命観はいよいよ人間の生命そのものを揺るがしています。脳死の問題です。
博士の人生は今この生命哲学の問題との格闘です。 

                                   今回は以上です。

 

福岡教授の話は最後に「脳死問題」を取り上げられました。次回はその話ですが、お楽しみに。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

後記:「地球全体が動的バランスの上で成り立っている」という話は、お釈迦様の「山川草木国土悉皆成仏、有情非常同時成道」の言葉を思い出させるし、また詩人の「地球は生きている」という言葉を思い出させますが、いわゆる科学者からのこのような言葉を聞くと、いっそう訴えて来るものがある気がしました。
狂牛病の話も以前から宗教の世界で教えられていましたが、生物学教授からも聴けて心強く思ったことでした。

 

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生命は機械ではない

2020年04月13日 | 人生

前回の記事の続きです。

 

福岡先生が生物学者になることを目指して大学に入学しましたが、その頃の虫の研究は、駆除を目的とした研究しかされていなかったそうです。それで虫好きの先生としては本意ではないということで、進む道を分子生物学へと舵を切り、かつて昆虫少年は、新しい遺伝子を発見する遺伝子ハンターになりました。

 

そして、やがてGP2と名付けられた新しい遺伝子を発見し、その遺伝子がどんな役目を担っているのか、それを突き止める研究に没頭されました。マウスからGP2という遺伝子を抜き取り、マウスにどんな変化が起きるか、それを調べるわけですが、マウスからその遺伝子を抜き取るだけでも3年の月日を要したそうです。そして、注意深くマウスの変化を見るのですが、何の変化も見られなかったのでした。この間のことを、「昼夜の別なく、ボロ雑巾のようになって」と話しておられます。

 

一つの遺伝子を抜き取ったのだから何か変化があるはずと思っても、何の変化もないということで、大きな壁にぶち当たっているとき、福岡先生はふと以前に読んだ論文の一節を思い出したそうです。それが「生命は機械ではない」という言葉でした。その事をナレーションは次のように語っています。以下は、福岡先生の「最後の講義」の番組の一部を文字に起こしたものです。

 

≪ナレーション≫

「生命は機械ではない」博士はこの言葉にガツンと殴られました。
生命を機械のように扱った浅はかな自分、それは、生命の美しさに感動し、この道に進んだ少年時代の自分への裏切りでした。研究は行き詰ってしまいました。
(機械から或る一つの部品を取り去れば何か変化(異常)が起る、それと同じように、マウスから一つの遺伝子を抜き取り、その変化を調べようとした、そのことを「生命を機械のように扱った」と言っている)

 

≪阿川佐和子談≫ 阿川さんは福岡先生と親しくされているようです。

自分の子供時代というものに気持ちを戻すことのできる人と、できない人がいるような気がするんですね。福岡先生は即戻りたい人ですね、きっと。

 

≪ナレーション≫

そもそも生物学は、生命を機械のように見る機械論で発展してきました。ヒトノゲム計画はその最たるもの。人間を解体し、更に分解して細かな部品のようにして、遂にすべての遺伝子を明らかにしました。しかし、それは映画のエンド・ロールを見ているだけ。登場人物はわかったけれど、肝心の内容は何もわからない、と博士は言うのです。「生命は機械ではない」と言ったシェンーハイマーはそれを明らかにしようとした一人でした。

 

≪福岡先生の話≫

シェンーハイマーの問いかけも「生命とは何か?」という非常に大きな本質的な問いかけだったんです。
でも、彼の問いはもう少しシンプルなものに変えられていました。

生命は毎日毎日、食物を食べ続けなければいけない、どうして我々は毎日ご飯を食べ続けなければいけないんでしょうか?
そんなの当たり前のことじゃないか・・・。

それはシェーンハイマーが生きた20世紀前半でも答えられない人はいなかったんです。食べ物と生物の関係というのは、自動車とガソリンの関係に置き換えられて説明されていました。食べ物と生物もまったく同じで、食べ物は身体の中で燃やされています。その事によってエネルギーが生み出され、それは動物の体温になります。でもそれが全部燃やされてしまうと、消費されてしまうんで、新しいエネルギーが必要になり、また食べなければならない。でも、シェンーハイマーは、そのことをもっとちゃんと確かめようと考えたわけです。で、結果を見ますと、とても意外なことが起きていました。

 

≪ナレーション≫

ガソリンのはずの食べ物は身体の中に入るとどうなるのか。
食べ物を原子の単位でマーキングし、身体の中での行方を探りました。

 

≪福岡先生の話≫

食べた食物の半分以上は燃やされることなく、ネズミの体のしっぽの先から頭の中、体の中、いろんなところに溶け込んで、ネズミの一部になってしまったんです。これってガソリンと車の喩えで言うと、(ガソリンが)タイヤの一部になったり、座席の一部になったり、ハンドルの一部になったりするということなんです。どんどん造り替えられて交換されていく・・・。爪とか髪の毛とか皮膚なら交換されていくというのは何となく実感されると思いますが、実はあらゆる部分がまったく例外なく入れ替わって行ってるんです。骨とか歯みたいに固いものでも、中身は入れ替わっています。脳細胞でも細胞の中身は変わって行ってるんです。

≪餌とマウスを原子単位でマーキング≫

 

≪外に排出された細胞の後を埋める様に、食べられた餌はマウスの細胞になっている≫

ですからウンチの成分というのはですね、実は食べかすが出て来るんじゃないんです。自分自身の細胞がどんどん捨てられているのがウンチの実体で、その棄てられた分は食べ物から新しい細胞が造られているんです。ですから、1年前の私と今の私では、物質レベルではほぼ別人になっている。ほとんどが入れ替わっているといっても過言ではない位入れ替わってしまっています。ですから皆さん、自分の身体は個体だと思っているけれども、長い時間軸で見ると流体なわけです、絶え間なく流れている。 以上

 

≪後記≫

有吉佐和子さんの「少年時代の自分に戻れるか、どうか」ということ、「生命は機械ではない」という言葉が私には印象的でしたが、最後の「ウンチは、食べたもののカスではなく、自分の細胞の棄てられたもの」というのは、初めて聞く話で、驚きでした。

 

このあと、更に先生の話は核心へと迫っていきますが、ひとまずここまでにさせてもらいます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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『最後の講義』 福岡伸一 教授

2020年04月12日 | 人生

前回の記事に続き、今日は、生物学者、福岡伸一さんの「最後の講義」に於ける冒頭部分の「なぜ生物学者を目指すようになったか」についてのお話を紹介させていただきます。

 

福岡先生は挨拶の後、次のように話しだされました。

≪福岡先生の話≫
 今日は私は生命のこと、生物のことをお話しします。結論はビバ生物、ビバ生命ということなんですけども、私は少年の頃は虫が好きな昆虫少年でした。どっかその辺の葉っぱに付いている蝶の卵を採取して来て、それを家でせっせと育てていました。だから私はあんまり人間の友達がいないで、虫だけが友達というふうでした。

 

昆虫を見て私が感じたことは、如何に自然が精妙に出来てるか、そしてこの色ですよね。
  (と、スライドでアゲハチョウの写真を見せる)
この「生命というのは何か?」という疑問は、少年の素朴な疑問であると同時に、生物学最大の問いかけでもあります。

 

≪ナレーション≫ 博士を生物学の入り口に誘ったのは、両親がプレゼントしてくれた顕微鏡でした。

 

≪福岡先生の話≫
   顕微鏡と云ってもそんな上等なものじゃないんですが、これで蝶の羽を見ると、鱗粉(りんぷん)という小さなモザイクタイルの様な、色のついた桜の葉っぱみたいな鱗が1枚1枚貼りつめられているわけですね。それを見たときに、顕微鏡の中で宇宙がパ~と広がっているような感じがして、私はそこに吸い込まれてしまって、ますます人間の友達なんかいらなくなって・・・、当時はオタクって言葉はなかったですけども、まさに虫オタクで、オタクの気持ちって言うのはですね、何か一つのことを見つけると、ず~とその源流をたどりたくなってしまう・・・。それで、この素晴らしい装置(顕微鏡)は、いったいいつの時代の何処の誰が作りだしたのかと思い、当時はネットもなく、手掛かりになるのは本だったわけですね。で、近くの図書館に通い詰めて研究しようとしたわけなんです。

        蝶の羽の鱗粉

 で、顕微鏡を一番最初に作り出したのは、オランダのアントニー・レーウェンフックという人でした。この人は高等教育は受けていないし、大学の先生でもなく、町の一市民でした。でも只管(ひたすら)アマチュアとして顕微鏡を工夫して、ミクロの世界を人類史上初めて精密に観察した人だったんです。

    この人の作った顕微鏡というのは、現在の顕微鏡とは似ても似つかない、不思議な形をした原始的なものなんですが、レンズの磨き方が非常に素晴らしくて300倍の倍率を実現していたんです。  
そして我々の身体が細胞という小さなユニットから出来ているということを見つけました。
それから血液の流れを見ると、血管の中を粒々の粒子が流れていて、それが赤血球、白血球です。

   で、彼の最大の業績は、動物の精子を発見したということで、それが生命の種になっているということを突き止めたわけですね。アマチュアが生物学上の非常に大きな発見をしたということで深~く感動しました。そして、レーウェンフックみたいに生命を探求する人に成れたらいいなと思いました。

 

ということですが、福岡教授の話は今日はここまでにします。

今まで、わたしはこれを3回見てますが、再生しながら文字にしていると、話の細部まで一層心に染み入って来て、飽きるどころか、一層感動させられました。そして、「大きな可能性を秘めている」とはよく言われることですが、こういう話を聞いていると、感動と共に、素直に本当にそうだなあと思いました。同時に、これは少年に限らず、人間は年齢を超えて、いくつになっても可能性は無限に広がっている、可能性を無限に秘めていることを感じさせられました。

最後まで読んでいただきましたこと、ありがとうございます。

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『最後の講義』 村山 斉 教授

2020年04月11日 | 人生

NHKのBSで「最後の講義」という番組がありました。これは各界のエキスパートに、「若し、後世の人に最後に何かを伝えるとしたら、あなたは何を伝えたいか?」ということで企画された番組だそうです。

 

私は再放送で物理学者の村山 斉(ひとし)さんと、生物学者の福岡伸一さんのものしか見られなかったのですが、実際には3時間の講義を、テレビでは50分に短縮して放送され、どちらも貴重で有意義なお話でした。

 

今、新型コロナウイルスの影響で学校が休校となり、子供の教育のことで心配されている親もおられると思いますが、そんな親御さんは勿論、子供や私の様なシルバーにとっても、啓発される話だと思うので、今日は物理学者村山さんの話を紹介させてもらいます。

以下は東大で学生や一般から応募した高校生らを対象に話されたその講義の導入部分です。

 

冒頭、村山さんは、動物と人間とはどこが違うかについて、次のように話された。

○人間は動物と何が違うかと考えると、やっぱり科学する所が違うんだと思います。例えば、普通の動物は火を見ると怖くて近寄らないが、人間は何故か恐怖心よりも好奇心が勝って、火をどうやって熾(おこ)すのか、そして自分で使える様になりたい、と考える。そこが違うんだと思っていて、だから人間はやっぱり「科学する猿」だと思うわけですね。

 

そして、科学者である村山さんは最も科学する猿であるわけですが、どうして自分が「科学する猿」になったか、そのきっかけについて2つの例をあげて話された。

 

≪例 その1≫

○私は子供の頃、喘息がひどくて病弱でしたので、学校を1/3ぐらい休んでいました。
小学校の低学年の時、学校を休んで、家にいてもすることがないのでテレビのスイッチを入れました。すると、理科の番組をやっていて、ウナギ屋さんがパタパタ団扇を扇ぎながらウナギを焼いている。そこへ頬かむりをした変なオッサンがやって来て、鼻をクンクン鳴らして匂いを嗅ぎ、「ああ、いい匂いだ」と満足して帰っていく。そして、その男が毎日やって来てタダで匂いだけを嗅いでいくので、ウナギ屋の主人が腹を立てて、「毎日匂いを嗅いでいくんだから、お金を払え」と請求するわけですね。

 

そこで、匂いがするということはどういうことなんだ?と疑問が出てくるわけですね。

 

で、理科の番組ですから、屋台と頬かむりをしたオッサンとの間に硝子の壁をつくってしまうと匂いがしなくなる・・・。結局、匂いというものは目に見えないものなんだけども、何かが飛んできて鼻に入って来る、それが匂いの正体なんだということがだんだん分かってくる。そういう番組だったわけですね。

 

「へえ~」と思って、ああ、匂いってそういうものなんだな、と感心しました。それから少し元気になって登校するとき、道端に犬の糞が落ちていてその匂いを嗅いだ瞬間、「あ、糞が鼻の中に入って来てるんだ」とちょっとびっくりしたけれども、ともかく、匂いというものはそう云うものなんだ、とよく分かった気がしました。

 

≪例 その2≫

○それからまた或る時、学校を休んでテレビを見ると、数学の番組をやっていました。それが落語仕立てて面白いんですね。江戸時代の長屋の八つぁんが、豆腐屋へ豆腐を買いに行きます。豆腐を1丁買って、それからこの店のオヤジを上手におだててやれば、「おまけ」をしてくれるかもしれないと考えて、色々とおだてるわけですね。するとオヤジさんはすっかり喜んで、豆腐1丁の半分を「おまけ」してくれる。それで八つぁんはシメシメと思い、もっとおだてれば、もっと「おまけ」してくれるに違いないと考えて、さらに褒めちぎる。すると、さっきの半分の残りの半分をまた「おまけ」してくれる。そしてさらに、その半分のまた半分、更に半分のまた半分・・・と「おまけ」してくれる。八つぁんは、これで一生豆腐に困らないぞと喜ぶ。ところが家に帰ってよく見ると、おまけでくれた豆腐をすべて足し合わせても、1丁にはならないことに気がつくわけですね。(半分を永久に繰り返しても、要は半分だから完全に1丁にはならない)

 

それを見ていた私は「ああ、こんなことがあるんだ!数学は面白いな」と、思いました。それで父にその話をすると、父は企業で研究をしていましたから、「じゃあ、数学の本を買って来てやるよ」と言って、高校の数学の参考書を買って来てくれて、それを小学校2年生の時に読んでしまった。まあ、それ位ハマったんですよね。

 

で、いろいろ勉強していくと、宇宙はビッグバンという大爆発で始まったわけですけども、身の廻りのものは皆原子でできている。私たちも原子でできているんですが、初めからそう教えられているから当たり前に思ってしまうんですが、考えて見たらすごいことだと思いません?この部屋にあるだけでも、凄くいろんなものがあるわけですよね。水があったり、コンピューターがあったり、マイク、スピーカー、モニターがあったり、衣類の生地があったり・・・いろんなものがあるんだけれども、それがぜ~んぶ(大きな声で)、たかだか100個ぐらいの元素で説明できる。で、ファインマンという物理学者がいて、「もし、今あなたが死ぬとして、100年あとの後世の人に一言だけ何か残すとしたら、何を伝えますか?」と聞かれたときに、「万物は原子で出来ている」と答えたそうなんですね。

 

(註) ここで、「それが小学生の村山さんの心に深く刻まれました」とナレーションが入る。

 

≪再び村山さんの話≫

そう言うことから、子供時代にすごく思ったのは、いろんなことに好奇心をもって見ていると、いろんな疑問が湧いてくるわけですけども、「あ、疑問には答えがあるんだ!」と思って育ってきた気がします。

 

と、このように話をされ、、それから今取り組んでいる天文物理学の方へと話題が展開していきました。(以下省略)

私は学校の授業で何かに興味を感じたという記憶はないのですが、ただ中学3年のとき、「中学生の勉強室」という30分のラジオ番組があって、それで勉強するのを楽しみにしていました。

今も時々録画しては高校生の理科や物理の教育番組を見ますが、学校の試験の点を取るための授業と違って、興味をそそるように、短い時間でわかり易く話をしてくれるのでとても良いと思っています。そして、休校中の今、子供さんがそういう番組に親しむにはとても良い機会なのではないでしょうか。 長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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続「ウイルスVS人類~未知なる敵と闘うために~」から

2020年04月09日 | 新型コロナについて

以下は前回記事からの続きです。

 

≪ナレーション≫

○未知のウイルスと戦う人類、そのリスクを高めているのが人類が排出する二酸化炭素による地球温暖化である。2015年、シベリアの永久凍土でフランス国立科学研究所などのチームが3万年前の地層からモリウイルスという新種のウイルスを発見した。温暖化によって永久凍土が解けた場所で見つけたモリウイルスは極めて増殖能力が高い全く未知のものだ。

 

番組参加者以外の研究者談

○無数のウイルスがあらゆる大地や海に存在します。永久凍土が掘り起こされ、人間がウイルスに感染する機会が増えます。リスクは必ずあります。

 

≪ナレーション)≫

○リスクは森林にも拡がっている。1998年、マレーシアでニパウイルスと呼ばれる、それまで全く知られていなかった病原体が人に感染し、100人以上の死者が出た。ニパウイルスはオオコウモリから発見された。マレーシアでは養豚業が盛んになるにつれ、森林が伐採され、大規模な養豚場がつくられるようになった。その結果、今までジャングルに潜んでいたウイルスが豚を介して人へと感染したとみられる。
 温暖化はウイルスの拡散を加速させる。その一つがジカウイルスの感染症、ジカ熱です。妊婦に感染すると胎児の発育に影響し、脳が未発達のまま生まれることがある。従来、ジカウイルスの感染は赤道付近の熱帯地域に限られていたが、温暖化の影響で媒介する蚊の生息域が拡大し、今や日本での感染も危惧されています。

 

五箇公一(国立環境研究所)談

○気候変動を引き起こしたのは、経済格差を埋めようとする工業の発展が、途上国で、かつての先進国以上に速い速度で起きている。そうすると、生物多様性のホットスポット(保全の重要地域)というエリアの真ん中でそういうこと(工業発展)が起ってしまう。開発と森林伐採という破壊、それが急速に進む中では、そこに閉じ込められていたウイルスたちが、まさに人間という新しい住処を得て、それが今、北と南がつながることで北の人口密集地に入り込むという図式が、1980年以降からずーと続いているわけですよね。
  気候変動を起している開発とグローバル化に、実は今このウイルスが便乗しているという状況がある。
南の人たちが森林を伐採しなくてもいいようにするにはどうしたらいいかというのが、大きな課題なんだが、未だそのゴールには到底たどり着かない。そのしっぺ返しとして、感染症の問題も起こっているのだと思う。

 

押谷 仁(東北大・専門家会議メンバー)談

○新型コロナウイルスで、この数週間以内で見えてくるのは南北問題です。まずアジアですが、アジアの大都市はこのウイルスを恐らく制御できない。そうすると次はアフリカで、アフリカも非常に経済発展して都市に人が集まっている。中國の武漢のような状態が、アジア、アフリカの大都市に起きて来るということを考えた時に、我々が一体何が出来るのか?アジア、アフリカの人たちをどう救うのかということもありますけども、日本でこのウイルスをどう制御するかということで、大きく変わってくる。

 

五箇公一(国立環境研究所)談

○感染症というパンドラの箱が開いてしまったという状況ですから、医療や技術をサポートとして南の爆発を抑えなきゃいけない。逆に言うと、このパンドラの箱を閉じる為にも、今までと同じことをやっていては駄目で、パラダイム・シフトが出来るかどうかが、人類として生き残れるかどうかの鍵になる。    (パラダイム・シフト:価値観やライフ・スタイルの転換)

 

押谷 仁(東北大・専門家会議メンバー)談

○世界は自分の国さえよければという方向に動いてきたが、このようなウイルスに対しては全く通用しない,ということが突き付けられているんだと思います。もし日本で大きな流行が起きそうになった時、そして医療の限界を超えそうになった時には徹底的に社会活動を制限して、ウイルスの拡散を抑えるわけだが、ウイルスは完全になくなるわけではなく、また他の場所で小さなクラスターが起る。それをまた潰していく。長期戦覚悟でやって行かないと、このウイルスへの対応はできない。

 

五箇公一(国立環境研究所)談

○外来種対策も同じで、地方の現場でよく尋ねられるが、「これはいつまでやればいいんですか?」と聞かれる。僕はいつも「終わらないです」と言うしかない。何故なら、入り続けるから。日本がインポートとインバウンドに頼り続けるかぎりは、これは終わらないんです。
    特に感染症の場合は感染者=重症者という形で出ればすぐ芽が摘めるんですが、このウイルスのように潜伏という形で来る以上、終わらないですよね。しかも、日本だけじゃなく世界中で起きているとなれば、日本で潰しても、また世界から入って来る、の繰り返しになる。

 

≪押谷  仁(東北大・専門家会議メンバー)談

○これは非常に制御しにくいウイルスだが、相当な積極的対応をすれは確実に制御できます。で、クラスターを起さないように、人が集まる機会を極力減らす対応をすれば確実に減ります。ただ、それをすると大きな社会的、経済的影響がある。日本でどこかの地域で厳しい状況になることが十分予想されますが、そうなった時に、人工呼吸器が足りない、ICU(集中治療室)が足りない、そうなれば人が救えなくなる。そうなった場合に日本の国民性やメンタリティーから言うと、それを受け入れることが出来ないと思います。であれば、それが予想される場合、その前にかなり積極的な対応をせざるを得ない、その準備をみんなで積極的に考えなければいけない。そういうところに来ているんだと思います。

 

五箇公一(国立環境研究所)談

○ウイルスに対しては当然新薬の開発などの科学技術に頼らなければならないが、根本的には長期的に見て、こういったクライシス(危機)を繰り返さないためには、自然と共生するというライフ・スタイルの転換を、これからは本当に考えて行かなければならない。我々は本当に手を出してはいけないところまで自然に対して侵食してしまったがためにこういう問題が起きている。そこからウイルスなど、人間社会へのリスクとして降りかかって来ている。その悪循環を断つためには、自然の摂理に準じた共生ということを今始めないと、人間社会は崩壊しか道筋がなくなってしまう。それぐらいに深刻に受け止めないといけない。それを今回のコロナウイルスが教えてくれている気がしています。

 

以上ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

≪追記≫

豚コレラが流行したとき、何万匹もの豚が殺処分されました。感染していなくても、感染が拡がるのを防ぐためには止むを得ないとして・・・。そして、新型コロナウイルスの流行が始まったころ、知り合いが冗談で「豚でなくてよかった」などと言ってましたが、私も今、つくづく「豚でなくてよかった」と思います。もし自分が豚だったら・・・と想像し、恐ろしいことだと思い、ああ、人間でよかったと思うわけです。

『神との対話』という本には、
「あなたがたは自然は残酷だというが、自然ほどやさしいものはない。あなたがたは自然に対して如何に残酷なことをしているか、少しは考えた方がいいのではないか」ということが、書かれていたのを思い出しました。

 

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「ウイルスVS人類~未知なる敵と闘うために~」から

2020年04月08日 | 新型コロナについて

4月1日の記事で、「友からのお薦め番組」というタイトルで、BS1スペシャル「ウイルスVS人類~未知なる敵と闘うために~」という番組を紹介させてもらいました。

それで、モノは「ついで」ということで、すべてではありませんが、番組の中で出演者たちが話したことのうち、比較的耳にしているところは省略し、通常のニュースなどには出て来ない話を文字にしてみました。

話し手が話した通りではなく、わかり易いように簡略化したり、多少言葉を変えたりしていますが、意味としては変わっていないつもりです。
ブログ記事としては少し長いので、前篇と後篇に分けてアップさせてもらいますが、読んでいただければ幸いです。

 

BS1スペシャル「ウイルスVS人類~未知なる敵と闘うために~」

【出演】押谷仁(東北大・専門家会議メンバー)、五箇公一(国立環境研究所)、瀬名秀明(作家)

 

≪ナレーション≫

○中国経済が発展し、物資や人の往来が増えてきたという状況の中でヒアリも入って来た。ウイルスも、ウイルスそのものの力というよりも、人の往来の速度が速まり、世界の距離が縮まってきた、そう云うことが大きな要因としてある。航空機で移動する人は現在35億人と言われ、この15年余りで倍増した。

 

○2013年に発表された中国の一帯一路構想はかつてのシルク・ロードのように、アジアとヨーロッパを陸路と海路でつなぐ壮大な計画だが、この10年で、中国とヨーロッパを往来する列車も大幅に増加し、グローバル化が急速に進む中で発生したのが、新型コロナウイルスだったのだ。

 

○コロナウイルスは、表面の突起が太陽のコロナ冠に似ていることから名付けられた。コロナウイルスは6種発見されていて、

 ①その内の4種類については症状が軽い。

 ②2002~2003年に発生したSARS(重症急性呼吸器症候群)は、感染者数が約8000人、致死率約10% 野生のコウモリ由来のウイルスである。

 ③2012年に中東で発生したMERS(中東呼吸器症候群)は感染者数2500人、致死率34%と極めて高い。ラクダから人に感染した。

 ④今回の新型コロナウイルスは未知のもので、SERSやMERSほどの強毒性はないが、致死率はインフルエンザよりはるかに高いと見られている。

 

≪解説≫

○人体に入って感染症を引き起こすものとしては、ウイルスと細菌がある。ウイルスは特殊な顕微鏡で見なければ見えないぐらい小さく、自分自身では増殖できないため、人の体の細胞の力を借りて増殖する。この様に自己増殖できないことから、一般的に生物ではないと言われている。 
   ウイルスが増殖しようとすると、これを排除しようとして身体の温度を上げ、さらに免疫機能が働いてウイルスを攻撃するが、出会ったことのないウイルスに対しては免疫機能が充分に働かない。このため新しいウイルスに対しては感染が拡がり重症化するので警戒が必要だと言われている。

 

五箇公一(国立環境研究所)談

○中国南部に生息しているいろんな種類のコウモリを調べると、種類ごとに特異なウイルスが寄生している。で、ウイルスは自然宿主(しぜんしゅくしゅ――ウイルスと共生している生物のこと) というものの中で共生していて、その中でウイルスは常に変異している。その変異がたまたま新しい宿主に出会ったときにマッチングして、一気に拡がることを繰り返している。今回も野生生物の中で閉じ込められていたウイルスが、人間が自然の中に入り込み、活動域を拡大していく中で、家畜または人間に感染するタイプに変化している。

 

≪ナレーション≫

○16世紀、スペインの南米大陸に上陸し、インカ、アステカの国を征服したが、わずかな兵力で勝利したのは、銃や鉄製の武器に加え、スペイン人が感染症を持ち込んだからだ。この時代、免疫がなかった南北アメリカ先住民は5600万人が死亡した。

○1918年、全世界で8億人が感染したスペイン風邪は、第1次世界大戦の末期、戦死者1000万人をはるかに超える4000万人以上の死者を出した。、

○1957年のアジア風邪と言われるインフルエンザでは200万人が亡くなった。 

○1997年、鳥インフルエンザ(H5N1)は香港で初めて人に感染し、6人の死者を出した。

○2009~2010年 新型インフルエンザは豚由来のインフルエンザで、死者1万9000人、日本では203人が亡くなった。

 

押谷 仁(東北大・専門家会議メンバー)談

○21世紀に入ってSARSやいろんな高病原性(強毒性)とか、鳥インフルエンザとかの流行があって、それが本当は自然からの警告で、人類はもっと真摯にこの警告を受け止めなければいけなかったんですけども、2009年のパンデミックが重症例が少なかったということもあって、警告を受け止めることが出来なかった。その為、今回のようなことが起きた時の準備が出来てなかった。

 

五箇公一(国立環境研究所)談

○僕は外来生物を研究しているが、例えばヒアリ一つとっても、アメリカではこういうパターンで巣をつくって広がるとか、中国ではこういうパターンで広がるとか、その共通項をもって日本でもこうなるだろうと想定してマニュアルを作っていた。ところが今回品川のオオミ埠頭で出て来たヒアリは全く違った形で巣をつくっていた。砂も土もないコンクリートの中でちゃんと巣をつくっていた。要は生き物、ウイルスは生物ではないが、野生で生存しているものは常に進化し、順応的で、人知を超えたところで新しい住処を見つけて行くわけですね。だからウイルスの場合も同じで、前はこうだったからという想定でやっていたんでは追いつかないんところがあるんです。

 つづく       

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カタクリの群生とギフチョウ

2020年04月05日 | 

3日に続き4日の昨日も花見日和だったので、久しぶりに少し遠出をして、岐阜県関市にあるカタクリ群生地に行った。
距離は少しあるが高速を利用すれば1時間で行ける距離である。

 

このところ山にはすっかりご無沙汰しているし、カタクリもここ数年はお目にかかっていない。
そこへブログでカタクリ群生地の記事を見かけたので、出かけたくなったわけである。

 

現地には予定通り1時間少しで到着。
カタクリの群生の様子は写真では見ていたものの、一面に群生している様子を生で見て、その見事さに驚いた。
行く前は正直に言えば、群生している姿より、山の中にひっそりと2,3輪咲いているのを見た方が、出会いの喜びはあるし、春の妖精らしい風情があって好いと思っていた。ところが、群生している姿を目の当たりにすると、自然のすばらしさに驚くばかり。何と贅沢なことと感動した。
時期は既にピークを過ぎていたが、それでも一面に咲き誇るさまに、ひたすら感動していました。

以下はその時の写真

 

 

 

 

 

そして天然記念物に指定されているギフチョウにも、はじめてお目にかかることが出来た。
立派なカメラを持ったおじさんが、あそこにギフチョウがいると教えてくれたのである。

 

人は、自分が見て嬉しければ、他の人にも喜んでもらいたいと教えたくなるらしい。
今まで、こんな感じで教えられて得したことが何回もある。

 

そのギフチョウは3メ-トル先の枯葉の上に乗っかってじっとしているので、かすかにしか見えない。
カメラを望遠にしてメクラ押しでシャッターを押していると、その内にだんだん人が寄って来て、その内の地元らしい人が長い木の枝を持って、その枝に止まるようにと近づけた。するとまだ羽化したばかりで飛び立てないと思っていた蝶が飛び立ってしまった。
しかし、やがてまた近くに留まってくれたので、1メートルの近くから写真に収めることが出来た。それが下の写真です。

 

というわけで、今日は初めてカタクリの群生地を堪能させてもらうことが出来、そしてギフチョウにもお目にかかることができ、とても良い日でした。

 

Today is the happiest day in my life

 

○目覚めた時に、次の言葉を20回ぐらい繰り返して祈るのがよい。

「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」  

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花見

2020年04月04日 | 

3日は穏やかな好天に恵まれたので、午前中にシルバーの仕事で松を1本剪定して、午後からは近くの満開の桜を見に行きました。

 

そこは水の氾濫を防ぐため、一つの河川を木曽川と長良川とに分断した背割堤にある桜並木ですが、北に向かって右に木曽川、左に長良川が流れ、その2つの1級河を分断する背割堤に沿って1500メートルほどの桜並木が続きます。そしてその1本1本が結構な大木ですから、その眺めは壮観です。

 

足元は1面のスギナで、まるで緑の絨毯だし、その緑の中に黄色いタンポポと菜の花が咲き、見上げれば桜花爛漫という訳で、まさに、この世の天国でした。

 

私が初めてここに来たときは、満開のときにも訪れる人もないような所でしたが、堤防の道が舗装されて、少しづつ知られるようになってきたようです。しかしまだまだ、のんびり静かに桜を楽しめるところです。

以下はその時の写真です。

 

 

 

北に向かって左手を流れる長良川。かすかに、中央から左に寄った位置に伊吹山もうっすら見えています。

 

この広々とした眺め!

 

こちらは右手を流れる木曽川の舟溜まり。  
静かな眺めに芸術家の血が騒ぎます。もちろん冗談ですが。

 

 

それにしてもやっぱり桜はいいですね。

 

 

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