気の向くままに

山、花、人生を讃える

「死にたい」願望が吹っ飛んだ話

2018年05月24日 | 人生

 何年か前、「自殺者の数が毎年3万人を超えるようになり、それが10年続いている」ということでニュースになったことがありました。それで、その後相変わらず3万人を超えているのか、それとも減少しているのか、気になったので厚生省の自殺者数の推移を調べてみました。

 それによると平成10年から23年までは毎年3万人を超えているが、平成24年度は3万人を切り、以後年々減少し、平成29年度には2万1千まで減少していることを知りました。年齢別では特にどの年齢層が多いということはないようですが、性別では女性より男性の方が圧倒的に多いのがわかります。

 若い時代は「死にたい」願望が大なり小なりあると思うのですが、わたしにもそれがありました。思い出話になりますが、高校時代の私は勉強もせず、悪いことばかりを覚え、3度も停学を喰らい、立ち直らなければと思いつつ立ち直ることもできず、希望のない日々を送っていました。しかし、否が応でもやがては社会へ巣立っていかなければならず、4年生になった19才の時、もがくように人生について考える本を読むようになりました。最初に読み始めたのは野末陳平氏の『荘子入門』と『中国の思想家たち』という本でした。その中に老子か荘子に「死ねばみな白骨」という言葉があり、私はこの言葉が大好きになりました。「ああ、そうだ!社会に貢献する優秀な人も、くずのような落ちこぼれの自分も、死ねばみな同じ白骨じゃないか」と、そう思うだけで嬉しい気持ちになり、勇気も湧いてくるようでした。

 また、「無用の用」という言葉も私を喜ばせました。本には、「役に立つ木はすぐ切られるが、役に立たない木はいつまでも切られない。切られないからやがて大木にまで成長し、旅人はその緑の木陰で休むことができる」と書かれていて、落ちこぼれの自分には慰められる話でした。

 そう言えば、シスター・鈴木秀子さんの著書「愛と癒しのコミュニゅオン」という本の中には、こんな話が紹介されていました。簡単に言うと、病院で何年も寝たきりの青年のもとに、ある日同級生が珍しく訪ねてきました。そしていろいろ話して帰るのですが、帰り際に「来てよかった。実は会社の仕事のことで悩みがあったのだが、君と話しているうちに元気が出て来た。ありがとう」と言って帰っていった。それで青年は「自分にも役に立つことがあった」と、はじめて気づいたという話でした。

 さて、決定的にわたしの「死にたい」願望を追っ払ってくれたのは、作家の柴田錬三郎でした。その頃、プレイボーイという週刊誌に「柴錬の一刀両断」という人生相談のコーナーがありました。ある時、一人の大学生から「もうこんな日本に生きているのがつくづく嫌になったので死のうと思っている。柴錬先生はどう思いますか?」という意味の相談がありました。それに対する柴錬の回答が実に素晴らしいものだったのです。凡そこんな回答でした。

○吉田松陰は24才で国禁を破って国外への密航を企てた。25歳で松下村塾を開き、29才で死んだ。高杉晋作は25才で奇兵隊を結成して、29才で死んだ。坂本龍馬は○才で海援隊を組織し、33才で死んだ。(などと5名ほどあげた後)・・・君は今まで親の脛をかじり続け、やっと大学生で21歳になった。それでいよいよこれからという時になって、死にたいというなら、さっさと死んでしまうがいい。(年齢は違っているかもしれません)

と、ありました。当時19歳の私もこの大学生と同じように「死にたい」願望があったので、柴錬のこの回答を読んだとき、まさに青天の霹靂で、飛び上がらんばかりにびっくりし、「死にたい」願望は一瞬にして吹っ飛んでしまったのでした。今思っても実に名回答だと感心するのですが、皆さんはどう思いますか?


死神なんか怖くない!

2018年05月13日 | 映画

先日、「虹のじゅもん」さんのブログの中にあるいくつかの「詩」を見ていて、「詩」はいいものだなあとあらためて感じさせられました。(形としては)何もないところから、こういう美しい作品が生まれてくることが何か不思議な気がします。そして、詩はやっぱり芸術だなあということを改めて感じさせられました。それで、詩は書けなくとも、何かちょっとしたエッセイでも書きたい気分になって、その昔、掲示板に投稿した記事を読んでいたら、「憑神」という映画を見た感想を書いた記事がありました。

 

それはエッセイとは関係ないのですが、この映画にこめられたメッセージが素晴らしく、詩はその作者だけでなく、人間の良さ、心情の美しさを感じさせてくれるのですが、この映画は、人生のすばらしさを教えてくれている気がします。以下は、その投稿した記事ですが、読みながら、懐かしさと共にまたこの映画を見たくなったことでした。投稿したのは2007年7月になっているので、約11年前に上映された映画ということになります。読んでいただければ幸いです。

 

≪映画「憑神」を見て

先日、「憑神」という映画を見てきましたが、面白そうな娯楽作品と思っていたら、なんと、素晴らしいメッセージが隠されていました。

幕末、俊才ではあるが運に恵まれない一人の若い武士がいました。運に恵まれない彼は人からすすめられ、気まぐれに小さな祠に神頼みをします。そして、神は神でも貧乏神に取り憑かれてしまうところから物語は始まります。貧乏神からは何とか逃れることができましたが、その貧乏神が忠告したとおり、貧乏神の次には疫病神、疫病神の次には死神に取り憑かれることになります。

死神に取り憑かれた彼は、じたばたするのをやめ、死神から逃げようともせず、潔く覚悟を決めて、死神に「早く殺せ」と言います。ところが死神は「私は死の段取りをするだけで、自ら手を下すことはない」と言います。それで、主人公はどうやって死のうかと考え始めます。そして、死と向かい合って考えているうちに、彼は「神にはできないが、人間であればこそできることがひとつだけある」ということに気がつきます。

それが、とっても感動的で素晴らしいものでした。それで、今までは運に恵まれず職にもありつけず、ぶらぶらしていただけの主人公でしたが、その、「神にもできない、人間だからこそできること」をするために立ち上がりました。

妻夫木さん、さわやかでとても格好よかったですよ。何と読むのか、名前も知らなかったのですが、いっぺんにファンになりました。もう1回見に行こうかな。なるほど、そうなんですね。「神にもできない、人間だからこそできること」が、あったんですね。人生って、そんなに素晴らしいものだったんですね。人生を再発見したようで、なんだかとてもうれしくなりました。

 

≪映画「憑神」を見て 2≫

憑神』の主人公、別所彦四朗は最後には死神に取り憑かれてしまうのですが、しかし、それも元はと言えば自分がまいた種、こうなったからには逃げも隠れもせぬ、というわけで死と向き合っていました。そして、願うことはただひとつ、「どうせ死ぬなら満足できる死に方をしたい」ということでした。自分にとって満足できる死に方とは何か?彦四朗は死と向き合いつつ考える中で、「神にはできなくて、人間だからこそできることがひとつだけある」ことに、気がつきました。それは何かと言うと、およそ次のようなことでした。


「死というものがない神には、命を懸けることはできない。しかし、人間は死ぬ。死がある人間であればこそ、命を懸けるということができるのだ。」


このように気づいた彦四郎は「わたしは、自分の志を遂げるために命を懸けることにした」と、死神にその胸中を語るのでした。

そして、死神、その死神というのは実はとてもかわいい女の子が演じているのですが、素晴らしい名演技を見せてくれます。そして、そのかわいい女の子の姿かたちをした死神も、そんな彦四郎が大好きになり、彦四郎のハートの中に入って、彦四郎と一体になります。そして彦四郎は神(死神)と一体になって、颯爽と志を果たしにいくのでした。

私は死神とのやり取りの中で語られた彦四郎の台詞、「死がある人間であればこそ、命を懸けるということができるのだ」というのを聞いたとき、頭の中の視界がぱっーと明るくなり、人生は何て素晴らしいのだ、と大発見したようにとてもうれしい気持ちになりました。

男子と生まれたからには、誰でも「命を懸ける」ということに、大きな憧れをいだく時期があると思います。いや、誰でも本当は心のどこかで、いくつになってもそんな憧れを抱き続けているのかもしれません。でも、本当にそれを果たせる人は少なくて、多くの人にとっては、果たせぬ夢・・・・それどころか、反対に「ああ、自分はダメだ」なんて思うことの方が多いかもしれません。実は私も未だにそこから抜け出すことができず、もがいているという感じです。

しかし、彦四郎の「死がある人間であればこそ、命を懸けるということができるのだ」という台詞を聞いたとき、命を懸けるかけないよりも、まず、いま、自分はそれが可能な人生を生きている、そのことが格好良く、とても素晴らしいことに思えてきました。そして、「死神なんて一つも怖くない」そんなふうに思えたことでした。

≪追記≫

ちなみにブログ「虹のじゅもん」さんの記事の中には、「海の誓い」という詩があり、わたしは特にこの詩が好きですが、その中に、

             海は待っているに違いない
      叶った夢の報告を
      叶わなかった夢の報告を
      新しく見つけた希望を

という素敵な一節がありますが、ほんとに「そうだなあ」と思い、もっと夢をもって生きていかなきゃあと思ったことでした。


休日のひととき

2018年05月07日 | その他

連休最終日の6日、東京から来ていた息子たちが帰り、孫たちから解放された奥方がどこかへ出かけようかと言うので、近場のお気に入り場所、ワイルドネイチャープラザとアクアワールド水郷パークセンターへ出かけました。往復時間も含めてわずか4時間ぐらいですが、とても良い休息の時間でした。以下はその時の写真です。

 

ワイルドネイチャーの入り口近く。写真ではあまり良い色が出ていませんが、こんもり茂ったエノキの緑豊かな感じに、いつも見惚れてしまいます。

 

これもエノキですが、1本ではなく、数本固まっているので人工的に植えたのではなく、自然にあったものを伐採しないで残したものと思われます。

 

西側を流れる木曽川で、ここはウインドサーフィンのメッカ。広々した眺めのなか、滑るように走るセールを見ていると気持ちがよい。

 

向こうに見えるのは養老山地。手前の小さな茂みが意味あり気です。

 

以下は「アクアワールド水郷パークセンター」での写真です。

老夫婦がベンチに座って山並みを見ていました。 いい眺めです。

 

ここは「美しき青きドナウ」の畔、と言いたいけど、すぐそばを揖斐川が流れていて、その支流です。

 

誰もいないベンチ。ここはあなたが座る場所です。ご自由にここに座った気持ちになって下さい。

 

「黄菖蒲」          

 

 

シャボン玉     

 

 

チューリップの花飾り

 


肉食を減らすことは平和につながる

2018年05月02日 | 地球温暖化について

近年、とりわけアジア諸国の経済発展が著しく、人々の生活が豊かになってきましたが、豊かになれば統計的に野菜食から肉食へと変わる傾向があり、また世界の人口増加と相まって世界の肉の消費量が年々増加し続けているとのことです。

しかし、肉食は牛や豚が殺される際の恐怖心や怒りの感情から血液中に毒素を生じ、それを人間が食するときには、多少なりともその毒素も共に摂取することになり、肉食の多い人は短気となりがちです。

増え続ける肉食の需要に応えるため、これらの飼育のために、アマゾン流域やインドネシアなど世界全体では、毎年日本の四国の面積に匹敵するほどの森林が失われているとのことです。さらには、世界の穀物生産量の1/3が家畜(牛、豚)や家禽(ニワトリ、カモ、アヒルなど)、養殖魚の飼育に消費されているとのこと。つまり、豊かな国の人たちの肉食のために、人間の口に入るべき穀物が家畜の餌となり、その分、穀物の値段が上昇し、貧しい人たちには買えなくなり、飢えて苦しまなければならない原因になっています。

ちなみに牛や豚の体重を1kg増やすために必要な穀物の量は、牛なら7kg、豚なら4kg、鶏なら2kg、魚は1.8kg必要と言われていいます。これでわかるように地球上の穀物を無駄にしないためには、できるだけ効率の悪い肉食を控えることが理にかなっていることになります。

また、肉食の弊害はこれだけではなく、効率を追求して、虐待と言ってよいほどの劣悪な環境で飼育し、身動きできない状態の動物を病気にさせないため、また早く大きくするため抗生物質やホルモン剤が大量に投与されているとのことです。肉を食べるということは、当然これらの不自然な薬物も摂取することになります。

また、これら動物を飼育するには多量の水も消費され、逆にこれらの動物から吐き出される糞尿による水質汚染も問題になってきており、さらには牛のゲップには二酸化炭素の何倍もの温室効果があるメタンガスが含まれ、これも今や地球温暖化の大きな原因にもなっています。

このように肉食することはいろいろの弊害があるのですが、これを逆に言えば、わたし達一人一人が肉食を減らせばそれだけ、飢えて死んでいく子供たちを減らすことができるし、また、温暖化に歯止めをかけることにもつながり、さらには、明日を生きることさえも不安でいっぱいの人々に安心感を与え、格差による不満を減らし、それだけ政情も安定し、しいては世界の平和にもつながることにもなります。

 

以上は「生長の家」で教えられていることですが、アメリカのニール・ドナルド・ウォルシュ著の『神との対話』には、およそ次のようなことが書かれていました。

○毎年何百万の子供たちが、涙にくれる母親の腕の中で、痩せほそって死んでいくのを見ながら、あなたがたはそれを止めようともせず、見て見ぬふりをしている。あなたがたは自分にはそんな力はないというが、力がないわけではない。ただ、止めようという意思がないだけだ。

 皆さんはどう思われますか?