気の向くままに

山、花、人生を讃える

はじめて『生命の実相』読んだとき

2012年10月17日 | 信仰

はじめて『生命の実相』を読んだとき、読み進むに従って、だんだんと神は実在することを信じざるを得なくなっていき、「神は本当にいたんだ!」と感動し、驚き、それと共に、「神がいる」ということが不思議でならなかった。「神はいたんだ!」と思いつつ、同時に神がいるということが不思議で信じられないような気持だった。

また、仮に神が本当にいるにしても、神がいることを納得できるように説明できるとはとても考えられないことだったが、『生命の実相』という本は、縦横無尽にそのことが説かれていて、ただ、ただ、驚くばかりだった。また、このような本があるということも、同じく驚きだった。そして、文字通り、地獄で仏に出会ったような喜びだった。

「俺は、凄い本と出合ったぞ。こんなことは世間の誰も知らないだろう。俺は世間の誰も知らないとんでもないことを知ってしまったぞ!」と、驚きと喜びで腹の中で奇声を発していた。

恐らく私がこう書くと、『生命の実相』という本を読んだことのない人は、「お前はずいぶん信じやすい人間だな」と言うに違いない。わたしだって、わたしが今している同じ話を他の人から聞かされたら、そう思ったに違いない。それがとうぜんというものだ。だからこそ、『生命の実相』という本を読んだときは、奇跡を見る以上の驚きだった。それは一つや二つの奇跡を見るだけのそのような単純な話ではない。いくらでも奇跡を生み出す、元の元の話なのだ。読めばたちまち、世界が変貌してしまう話なのだ。たとえ現実的には何も変わらなくてもだ。分かりやすくいえば、新年を迎えたときのあの気持ち、それのはるかに度の強いものだと言えばわかるだろうか。そして、実際にやがて現実の人生も変わってくる。

仮に無神論者がいたとして、その無神論者が、神の実在を否定しようとして、この『生命の実相』に、あるいは、その著者「谷口雅春」という人に議論を吹っ掛けても、とてもかないはしないだろう。まじめに考えている無神論者なら、それこそ反対に説得されて「神の実在論者」になってしまうに違いない、そう思った。

あの頃は、『生命の実相』を読むことは一種の秘密めいた快感でもあった。

そして道を歩いていても、人生の秘密を知った嬉しさで、思わず顔がほころんできた。

トイレに隠れて一人でまんじゅうをほおばるというのは、やったことはないが、似た感覚なのかもしれない。

とにかく、読んでは買いに行きを繰り返し、4,5ヶ月で全40巻を読んでしまった。

そして、これが神さまとのご縁ができた、私にとっての始まりとなったのだった。

 

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誓いのシルシです

2012年10月14日 | 信仰

昨日、2回目の聖経千巻読誦が終了しました。

今日から、めでたく3回目の千巻読誦が始まります。

なかなか思うようには精進できないが、心に誓っているから、まがりなりにではあるが進むことができるのをうれしく思う。

今年から毎年、『生命の実相』全集を読むことにし、少し遅れ気味であるが、今28巻を終了したところです。読むだけでもいいのだが、すぐ忘れてしまうので、心に響いたところは抜き書きしています。

今日の夜、出講があり、『生命の実相』を読むことの素晴らしさについても話させていただこうと思い、その点について、『生命の実相』中から抜き書きしたものを、さらにA4の2枚に圧縮し、まとめて見ました。

読み返しながら、教えに触れたありがたさをしみじみ思い、このありがたいご縁を無駄にしてはならないと、あらためて心に誓ったことでした。

以下はその抜き書きで、「必ず継続して読み続けるぞ」という、誓いのシルシです。

 

『生命の実相』 第4巻 ≪生命篇 下≫

○聖典を読むということは、覚えてしまったらもう読まなくともよいというふうなものではないのです。これは仏教のお経でも、神道の祝詞でも、キリスト教の讃美歌でも、この『生命の実相』でも同じことです。お経でも、讃美歌でも、言葉に出して唱えるところに、そこに言葉の力で自分の心のなかと、この大宇宙のなかに善き精神的リズムを生み出す――それが肝心なのであります。「言葉」に出すと申しましても、必ずしも「音読」しなければならぬというわけではなく、黙読もまた言葉です。ともかく、読んでいるその時に起こる心のリズム「精神波動」が大切でありまして、真理を読めば真理の精神リズムが発生し、それにしたがって迷える霊魂に悟りを開かせ、神および高き霊魂を招き寄せ、病的念霊を退散せしめて、病気が治ることになるのです。だから、もう原理を知ったなら、記憶したなら、読まなくともよいというわけのものではありません。  P101

 

『生命の実相』 第12巻 ≪万教帰一篇 下≫

○誰でもたいてい何をしたらよいか悪いかは知っている。悪いと知ってその悪いことを止めることができるくらいなら、法然上人も親鸞上人も「煩悩具足の凡夫」だとか、「罪悪深重の凡夫」だとかいってお嘆きにならなかったのであります。悪いと知ってもその悪いことを自力の努力では止めることができないというところにこそ、宗教的救いがあるのです。悪いと知って一歩一歩改善してゆくのは道徳的救いでありますが、宗教的救いというのは飛躍の救いであります。

・・・中略・・・

どうしたらその宗教的救いが得られるかと申しますと、・・・中略・・・

「生長の家」では『生命の実相』をただ読むだけで「南無阿弥陀仏」の心を解らせる、いいかえれば、阿弥陀仏に帰命し、阿弥陀仏と同体になっているところの自分の生命の正体をわからせるのです。すると突然、虚仮の自分――罪深い自分――本来無い自分というものが消えてしまって、「本来救われている自分」というものが現われてくるのであります。だから生長の家ではすこぶる簡単に救いがあらわれる、それは聖典『生命の実相』をただ読め、ひたすら読めということであります。  P83~84

 

『生命の実相』 第15巻 ≪人生問答篇 上

○「生長の家」の聖典『生命の実相』を読んで病気が治るという事実は古今を通じ各宗を通じた真理が新しい迫力をもって現代人の心を打つような形をもって出現したからだと思います。したがって各宗の諸神諸霊が聖典『生命の実相』を護持していられるというような事実もあります。 P87

 

『生命の実相』 第16巻 ≪人生問答篇 下≫ 

○わたしが割合に社会のことでも学問のことでもいろいろのことをよく知っているのは、わたしは今まで非常に苦労艱難のほとんど時間の余裕のない生活を送って来たにかかわらず、人が新聞などに時間を空費している間に纏まった本を読んだからであります。「朝の時間は黄金、昼の時間は銀、夜の時間は銅」という諺がありますが、この黄金の時間である朝の時間に新聞を読まないでわたしは纏まった本を読んだのであります。そして三十年間読み漁った幾十万の本の中からそのエッセンスをわたしは『生命の実相』に凝縮したのです。わたしの「生命の実相」全巻をお読みになることは、三十年間かからないと読めない本の精髄をわずか一年くらいで知ってしまうことであって、非常に時間の経済であります。  P198

 

『生命の実相』 第18巻 ≪宗教問答篇

○まだ一回しかお読みにならないようでは、本当に潜在意識の中に埋蔵されている病的観念が『生命の実相』を読む時の光明念波によって中和されたというわけにいっていません。もっと十分繰り返し繰り返しお読みになるようお勧めします。繰り返し読んでいられると、一度読んだときに気がつかないで素通りせられたところに、意外に深い真理が宿っていて啓発されることがあるものです。 P69

 

『生命の実相』 第24巻 ≪参考篇・質疑

○「無」の字、「ない」という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません。釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは「無」の字、「ない」という言葉を、文章全体の中に織り込んであるその織り込み方にあるのであります。この織り込み方はわたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって書いてゆくので、誰にも真似はできないのであります。思想は真似できても、言葉の調合は真似ができないのであります。だから、今までお経を読んでも聖書を読んでも治らなかった病気でも、その同じ真理が説いてある生長の家では、聖典を読んだり話を聞いただけで病気が治るのであります。 P96

 

『生命の実相』 第26巻 ≪教育実践篇 下≫

○下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の実相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。宗派に偏した儀式も儀礼もいらないで、簡単に宗教的情操が養われる。 P153

○読み物はやはり芸術品なんですから、言葉の韻き(ひびき)というものが――本当に書いた人の韻きが入っていますからね。 P153

 

『生命の実相』 第27巻 ≪久遠仏性篇 上≫

○「肉体なし」の思想は別に生長の家の新発明でも何でもないのであります。ただ新発明のところはその表現の仕方が違うのであります。その表現方法に力があるので、心が端的に、生命の本当の相にぶっつかるので『生命の実相』を読んだら病気が治ったりすることが頻頻と起こるのです。その説くところは天地と共に存する古き真理でありますが、表現ということに重きを置きますと、哲学とか宗教というよりも芸術と言わねばなりません。わたしは宗教家と言われるよりもこの点で芸術家とか文芸家とか言われたいと思うのです。そんなに新興宗教が起こったなどといって周章狼狽することは要らないのです。表現が巧みであるから、いままで禅宗などで「不立文字、言詮不及」と言い、「曰く言い難し」とか「言亡慮絶(ごんもうりょぜつ)」とかいって、言葉では現わすことはできないと言われておったところの真理を言葉で端的に人間の魂にブッつけることができ、悟りのための修行を非常に簡略化することになったのであります。今まで何年も座禅し、修行して、棒をくらわされたり、喝をくらわされたりして、やっと悟っていたところの真理が、本を読んだだけで悟れる――全部の人がそうでもないが、白隠禅師が自己の肺病を治したくらいの程度に悟れる人ならザラにある。これが一つの芸術であります。わたしは新興宗教などと言われるよりも、新興芸術と言われたいと思うのです。繰り返し言いますが、生長の家には新しい真理は一つも発明していない。ただ古今の教えを言葉の芸術で読ませるので人の魂を生かす力が這入っている。ここに『生命の実相』の力があるのであります。 P136

○『生命の実相』の本当の著者は谷口という、いつにか生まれていつかは死滅してしまうような儚い人間が書いたのではない。その著者は「久遠を流るるいのち」である。わたしはただ「久遠を流るるいのち」の流出口となったにすぎないのである。 P158

○この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、文章に――その言葉の響きの現われたのが、最初この『生長の家』という雑誌であったわけであります。 P180

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