気の向くままに

山、花、人生を讃える

自分の花を咲かせる!

2017年06月20日 | 信仰

18日は相愛会教区大会でした。

午前の部の本部派遣講師の話は40分と短い時間でしたが、凝縮された中身の濃い素晴らしい話で感動しました。聖典販売の役をいただいていたのですが、この第一講話の40分だけは話を聞きたいと思い、耳を立てて聞き入りました。その講話の要点はおよそ次のようでした。

≪講話の要旨≫

幸せになるためには、まず「何が幸せか?」ということを知らなければならない。

金や物が有り余るほど豊かでも、幸せでない人もいる。

幸せとは、「自分が自分である」ということである。

言い換えれば、「自分の花を咲かせているとき」が幸せである。

外から何かを獲得したら幸せになると思っている人がたくさんいるが、これは間違い。

 

それから、この世には「心で認めたものが現われる」という法則がある。

人間だれしも幸福を願っている。そして「幸福になりたい」と思いながら、幸福でない人が多い。

幸福になりたいという心の奥には、「自分は幸福でない」という心が潜んでいて、心が認めたとおりになっている。わかり易く言えば「ある」ものではなく、「無い」ものにひっかかって不足を思い、不平に思っているのである。

本当は人間はすべて「神の子・仏の子」だから、誰もが幸福であり、健康なのである。だから、幸福でない時、健康でない時、人間は本来の自分でないことを感じ、本来の自分に還ろうとする。そこから、幸福になりたい、健康になりたいという心が起こってくる。だから本来の自分に還ればよい。

その為には、本来の自分を認め、その花を咲かせればよい。

「自分の花」とは?

「赦しの花」 「感謝の花」 「礼拝の花」である。

(この文字がパソコンからスクリーンに映し出されたとき、この3つの文字が、まるで花が咲いているかのように見えました)

 

○誰かを批難する気持ちがあるときは、これを赦すこと。

○不足を見ず、思わず、今すでに与えられている恵みに感謝の心を起こすこと。今置かれている環境、境遇に感謝し、家があること、日々の食事が与えられていること。これらが与えられ、生かされていることに、深く感謝の心を起こすこと。感謝する心には、感謝することがあらわれて来る。

○すべての存在の奥に、神の生命を観、その生命を尊敬し礼拝すること。礼拝するとき、人は心が落ち着くのである。

生長の家は個人の救いはもちろん、最終的には世界平和の実現が目的ですが、個人が平和にならずして、世界に平和は実現できません。だから、まず私たちがこの3つの花を咲かせることが世界平和へとつながるのです。

 

以上が講話要旨ですが、心に残る素晴らしいお話でした。そして、この日は二男も来ていて、後で「とても面白かった」というメールが来ました。「面白かった」というのは、「とても良かった」ということで、深く心に残る話だったに違いありません。その息子には14日に初の赤ちゃん(娘)が誕生し、教区大会の前日(17日)に初顔合わせをしてきました。

 

それにしても、自分がこんなに美しいものとは、今まで知らなんだ、でござる。

「赦しの花」「感謝の花」「礼拝の花」、ああ、うれしかなあ!

 

≪追加≫

出講に行く準備で、テキストの「幸福を招く生活365章」を読んでいたら、P126に「外を整えるよりまず自分を整えよ」という見出しでこんなことが書かれていました。

○神の国は、生きた花の生命が、中(うち)から伸び拡がって花となってあらわれるように、自分の中から生れ出てくるのであって、造花のように外から花弁をくっつけてみても本当の生きた花とはならないと同じように、外の工夫をいくらやってみても中(うち)の生命の出口を鎖(とざ)してしまっては駄目であるのである。だから、自分の「中(うち)の生命」を整えて、宇宙大生命と波長が合うようにし、宇宙大生命が自分の内部から展開し、肉体には健康を、環境には天国を実現するようにしなければならないのである。

 


今日から芸術家

2017年06月07日 | 信仰

先日、豊田市美術館へ東山魁夷さんの「唐招提寺障壁画展」を見に行きました。特に海の絵が圧巻ですが、この絵を最初に見たのはずいぶん昔の週刊誌のグラビアでした。その時、眼前に海の波が押し寄せてくるような迫力を感じて驚いたのを鮮明に覚えています。そして、今回はその本物の絵ををまじかに見ることができました。本物はさすがに雄大でスケールが大きく、まるで海の中に立っているようでした。いくら自分の心に焼き付けようとしても、自分の小さな心には入りきらない感じがしましたが、ともかくしっかり眺めてきました。

そして、この数日「生命の実相」から抜き書きしたものを順次読んでいたところ、ロダンの「鼻欠け像」について書かれているところが出てきました。

それには「芸術家は現象に現われている鼻欠けを見ないで、その奥にある鼻の欠けてない実相のいのちを見るのである。その意味で芸術家は宗教家であるともいえる」ということが書かれていました。

それで、「ああ、そうだった!ダメな自分もいないし、駄目な他人(ひと)もいないのだ」と、改めて教えられました。そして、これからは、もっともっと、現象に捉われず、実相の完全さ、美しさのみを見るようもっともっと真剣に努力しようと思いました。そして、「実相は今すでに完全である」という教えの有難さを、あらためてしみじみ感じました。

 

そういうわけで、

「神様、わたしは今日から現象の鼻欠けを見ず、その奥にあるあなたの完璧ないのちを観る芸術家にならせてもらいます。どうぞよろしくお願いします。ありがとうございます」と、誓いました。

 

ああ、今日は生まれたかわったようにとても良い日だ。

感謝、合掌

 

『生命の実相』第14巻    第5章 ロダンの鼻欠け像の倫理

現象界は実相生命の芸術

○優れたる芸術家は、時間空間のスクリーンに投影されたる形象だけを捉えるものではない。時間空間のスクリーンに投影されたる影をそのまま実在するものとして、精確にその寸法を測定し重量を秤量し、その間の法則をとらえるのは科学者の仕事である。

 芸術家は影をそのまま実在として観ないで、影の奥にある生命を、実相生命を把むのであります。だから、芸術家は凹凸さまざまの不細工な顔の奥にもその実相生命の美を捉えて表現する。ロダンの作った「鼻欠け像」は形そのものとしては美はないけれども、実相生命が捉えてあるから、そこにわれわれは生命の美を感得するのであります。言い換えると、ロダンは、形の上では鼻欠けを塑作していても、鼻の欠けていない実相を塑作していたということができるのであります。さらに言い換えると、「欠けている鼻はない」ということを現象の上では「欠けている鼻」を塑造しながら表わそうとするのが優れたる芸術家なのであります。ここでは芸術家は実際は宗教家であるといえるでしょう。

 医者なら「鼻欠け」を「鼻欠け」として見る。芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」として見るのであります。そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として見よ、そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう――というのが「生長の家」倫理学の中心となる誡命(いましめ)であります。それは生活における芸術的態度といわれるでありましょう。 P78~79