気の向くままに

山、花、人生を讃える

歓迎、野田新総理

2011年08月31日 | その他
野田さんが新総理になった。
わたしは民主党が好きではないが(国体意識がないから。中には日本の国体を破壊しようとしているグループさえある)、野田さんが新総理になられたことは嬉しい。
日本にとって久し振りの朗報である。

今朝の新聞を見ると、新総理が各党首にあいさつ回りをした時、頭のてっぺんが見えるほど深々と頭を下げて挨拶したとあった。野田さんのことだから、「自分に協力・・・」ではなく、「日本のためにどうぞよろしく」という思いで深々と頭を下げられたのだろう。

幹事長に輿石参議院議長が指名された。
輿石さんは小沢さんに近い人で、小沢さんも前総理の鳩山さんも、民主党政権の日本では癌のように思える人たちだから、それに近い輿石さんを執行部の要である幹事長に据えて大丈夫だろうかと危惧もするが、あるいは野田さんなら、時間はかかるにしても、敵対する人をも抱擁して味方にしてしまう可能性もありうる気がする。

今の政治家の中では、濁りのない政治姿勢を感じさせる人はそうはいない。
清廉潔白で、何よりも、日本をよくしたいという真の情熱持った政治家はほとんど見当たらない。
が、野田さんは、そんな数少ない待ち焦がれた政治家のように感じられる。
もし、この野田さんにしてうまくいかないようなら、野党にも責任の一端はあるだろうが、民主党政権では永遠に期待が持てないだろう。柳の下にドジョウは二匹いないからね。

ともかく、野田さんが総理に選ばれたことは、日本にとって朗報でうれしい。
だって、ドングリが「お池にはまってさあ大変」というとき、「こんにちは」と出てきたのはドジョウだったではないか。

新総理、どうぞ頑張ってください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

例え一瞬でも・・・

2011年08月24日 | 信仰
ユウスゲ (8月14日 伊吹山にて)



例え一瞬でも、
山の頂に咲く花になったとしたら、
きっと気持ちがいいに違いない。
山に湧いた霧が、
わたしの身体、花や葉を心地よく濡らしていくだろう。

例え一瞬でも、
空に舞う鳶になったとしたら、
きっと嬉しさにはじけてしまうだろう。
入道雲もいっしょになって踊りだすかもしれない。

例え一瞬でも、
珊瑚の中を泳ぎまわる魚になったら、
きっと「夢よ、覚めないでくれ」と願うだろう。
そして、いつのまにかイルカになって、
大海原を嬉しさいっぱいで泳ぎまわるだろう。

例え一瞬でも、
家族や兄弟姉妹を思いつつ、
「みんな神の子、円満完全」と心の中に描いたら、
きっと、その時、そのままで、天国にいることだろう。

人間は宇宙に咲き出でた美花である。

≪注≫
「人間は宇宙に咲き出でた美化である」というのは、「生長の家」創始者である谷口雅春先生の言葉を拝借したものです)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カムバック猛暑

2011年08月20日 | その他
昨日は盂蘭盆供養大祭に参列した。
曇り空でしのぎやすい日となって、気持ち良くそれぞれの大祭に参列でき、帰路のバスの中では祓い清められたようなすがすがしさにつつまれていた。

今朝は雨の音で目が覚めた。
8月になってどうも神想観に気持ちが入らなくなったので、心機一転しようと家から8キロ離れた神社で神想観するようになったが、雨では仕方がないと久し振りの家での神想観となった。上半身裸でしていたら、寒いぐらいだった。

つい先日まで、日に何回も水風呂の中に入っていたのに、今朝のように涼しくなると、もうあの爽快な水風呂には入れない。そう言えば、今朝はいつものような蝉しぐれも聞かれなかった。
そして、これからしばらくは雨模様の天気が続くとのこと。
そうなると、何故かあの焼けるような猛暑が恋しくなり、「猛暑よ、再び…」と願う気持ちになるから不思議である。

昨日はようやく「奇跡の手帳」を買うことができて、ワクワクしながら帰ってきた。
そして、今朝はその第一ページに、神に4つの願い事を書いた。
以前にも同じことをしたが、その時は「ためしに」という程度だったが、今は違う。
これからは、この「奇跡の手帳」はわが生涯の友達である。
この手帳を通して、神と親しくつながるのだと思うとワクワクしてくる。

なんと、
ここまで書いたら携帯電話が鳴ったので名前を見ると、講師会長からだった。
とっさに「ひょっとして」と思ったら・・・その予感が当たった。
講師試験「合格」の知らせでした。

神様、ちょっとタイミングが良すぎはしませんか!


特に書きたいことがあったわけでもないし、ちょっと落ち着かない気分になってきたので、中途半端だが、ここで終わることにする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「肉体を離れて生きる」

2011年08月13日 | 信仰

もう10年以上も前の話だが、思い出したので、こんなこともあったということで、ここに書いておくことにする。

まだ今より若かった頃のわたしは「死後の生」を頭では信じていたのだが、いざ先祖供養という段になると、はたしてご先祖は聞いてくれているだろうかと頼りない気がしていた。それで、その頃は聖経読誦も全く気ままで、したりしなかったり、大方はしない方が多かった。そしてたまにしたりするときには、「聞いてくれているとハッキリわかれば、先祖供養も一生懸命するのに」と思ったりしていたものである。

ところが、何かの加減でめずらしく熱心に先祖供養を続けていたある日のこと、気がつくとロウソクのてっぺんに溶けたロウで輪っぱができていた。そして、「線香の煙が輪を描いたら先祖が喜んでいる」という話を聞いたことがあったので、「きっと先祖が喜んでくれているシルシに違いない」と喜んで、熱心に先祖供養を続けた。すると、頻繁に輪ができはじめ、炎が揺らめくと、すぐ目がロウソクに行くようになり、ついにその輪ができる瞬間を目にした。

それはロウが幅2ミリほどの平べったい形で、火炎にあおられるようにして上に向かってニョキニョキと伸びあがり、1センチほど伸びたところで今度は自重でそり返るようにして下へ垂れさがり、再びロウソク本体にくっついて、コーヒーカップの取っ手のような輪ができるというものであった。

出来た後の形だけを見ている時には、そのような輪ができるのが不思議だったが、出来つつある過程を見てしまうと、一部のロウが炎にあおられて出来る物理現象のようにも思えてくる。しかし、めったに見られないものが、この一時期だけは頻繁に出来たので、単純に物理現象とも言えない気がしていた。それで、先祖が喜んでいるのだという気持ちと、それとも物理現象にすぎないのか、本当はどっちだろうと半信半疑の気持ちでいた。

ところが、何日かしたある日のこと、やはり炎が揺らめいたので、いつものようにロウソクに目をやると、今度はたくさんのロウが一気に流れ落ちる瞬間だった。
それで、すぐさまロウソク立てを手に持って目に近付けて見ると、観世音菩薩ができていたので、これには非常に驚いた。「観世音菩薩に見える」というようなあいまいなものではなく、一目で観世音菩薩と分かるぐらい姿形のハッキリしたもので、家内が高校の修学旅行の時に京都で買ったという木彫りの観世音菩薩を仏壇に置いていたのだが、それとそっくり同じ形をしていたので、もう疑いようもなく、わたしは完全に「ご先祖様が喜んでくれているのだ」と信じるようになった。同時に、こんなわたしが読んでも、このような功徳が現われてくれる『甘露の法雨』がしみじみ有難くなったのであった。

ちなみにその観世音菩薩は背丈が4センチほどの大きさで、ロウソクは1時間以内には燃え尽きる大きさのものだったので、そのような小さいロウソクからそれだけの背丈の観世音菩薩ができるほど、一気にロウが流れるのは不思議だった。

○されど汝ら、
 ついに生命は肉体の繭(まゆ)を必要とせざる時至らん。
 かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。
 これをもって人間の死となすなかれ。
 人間の本体は生命なるが故に常に死することあらざるなり。  (生長の家 聖経『甘露の法雨』より)


○21世紀の死の定義は変わってきますよ。
 「死とは、肉体を離れて生きるということである。」     (飯田史彦 『生きがいの創造』より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする