気の向くままに

山、花、人生を讃える

再び見つけた道

2011年01月18日 | 信仰
明けましておめでとうございます。
ずいぶん遅い新年あいさつですが、今年もどうぞよろしくお願いします。

こちらは16日の朝から17日午前まで雪が降り続いて、真っ白な銀世界になっていました。
今は日も射しており、庭の地面も半分ほど顔を出してきています。

これからの平日は、毎日シルバーの剪定作業の予定が入っていますが、今までは休みで、毎日読書三昧で過ごしておりました。
そして、「ああ、生長の家に帰ってきたなあ」の思いを深くしております。

こう言うと変に聞こえると思いますが、細々と生長の家を続けて来てはいましたが、気持ちは半分離れたままで、以前のような生長の家大好きという気持ちになれずにいました。

3年ほど前、いろどりひかるさんのブログ記事に刺激されて「生命の実相」を全巻読み返した時も、今ほどには感動できずにいました。
しかし今、とうとう帰ることができたという感じがしています。

「神との対話」に夢中になって以来、このまま、生長の家を離れてしまうのではないかと時にはそんな心配をしながら、いつかは生長の家に帰らなければと思っていました。

「神との対話」も私には素晴らしい本だったし、これからも読むだろうと思います。
だが、もう以前のようには生長の家を離れる心配は一つもなくなりました。

「現象はない」「実相の完全さのみが在る」の教えも、私には勇気や力の源にはならず、変わって「神との対話」に現われた神の言葉に――私のような迷えるものに対する理解ある、教え諭すような言葉の数々にささえられてきた。

しかし、今はそんなわたしの時代も過ぎ去ったように感じられる。
今、生長の家の教えの素晴らしさがようやく分かりかけてきた気がしています。

これからは本の中の言葉に支えられるばかりでなく、自分で起ってゆかなければならない。
自分自身が光にならなければならない。それに向けて努力しなければならない。
神が、そう言っておられるように感じる。

曰く、
如何に不完全な相をあらわしていても、それは仮の姿にすぎない。本来無いものだ。本当に在るのは、完全なる神の子ばかりだ。

「光」とは、現象の不完全さに惑わされず、その人の神の子なる実相を観る人の事。

ようやく自分の進むべき道をはっきりと見出した気がします。
もう、道に迷うことはあるまいと思う。

生長の家が再び自分の中へ恋人の如く帰ってきました。
嬉しい限りです。(感涙)
コメント
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