気の向くままに

山、花、人生を讃える

初挑戦!

2019年02月28日 | その他

可愛らしい千成瓢箪の置物を作ったAさんから、その後、ハッサクをたくさんいただいたが、先日の勉強会では、ハッサクの皮の砂糖漬けを、参加者にふるまってくれました。

 

奥さんがつくってくれたのかと尋ねると、レシピを見て自分でつくったというのでびっくりし、しかもおいしくできていたので、大いに感心させられました。

 

それで刺激を受けて、私もすっかり挑戦してみる気になり、はじめは同じようにハッサクの皮の砂糖漬けをと思いましたが、金柑がたくさんあるのを思い出し――金柑の木は家内が友だちから頂いて植えていたが、わが家ではほとんど食することなく、隣家の人が喜んでくれるのでいつもそのお宅にあげていた――その金柑の砂糖漬けを作ってみることにしました。(隣家には既にあげていました)

 

簡単とは言いながら、こんなことをするのは初めてなので、ちゃんとできるか心配だったが、「長く生きていると何が始まるかわからない」と思いつつ、わくわく感があって楽しくもありました。

 

作っている最中、ずいぶん砂糖を使うんだなと心配になり(健康上良くない気がして)、2/3の170gに減らしたが、おいしくできていたので、「やったぜ、ベイビー」と喜んだことでした。(レシピでは、金柑500gに対してグラニュー糖250gとあった)

 

それにしても、このわたしが、こんなことに挑戦するとは夢にも思わないことでした。

 さっそくAさんに報告しよう。

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「助け合いのバトン」

2019年02月25日 | 人生

ある本を読んでいたら、その中にとても良い話がありました。

それは「少年の主張全国大会」で審査員特別賞を受賞した中学3年生の女子生徒の話とのことで、以下のように紹介されていました。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

彼女の父親は、地震と津波、さらには福島第一原子力発電所の事故を受けて、寝たきりの祖父と生後2ヶ月の弟を含む家族8人を連れて、何とか安全なところへと車で逃げたそうだ。とこか当てがあったわけではないが、新潟を目指したという。そして、新潟に着くと消防署に行き事情を話すと、消防署の人は、

 

「大変でしたね、でも、もう大丈夫ですよ。私たちも新潟中越地震の時には、福島の人に助けられましたからね」

 

と言って、避難所を紹介してくれたという。それだけでなく、寝たきりの祖父のための病院も手配してくれた。その病院に着くと、今度はその看護士が、

 

「大丈夫ですよ、私たちも新潟中越地震の時には、福島の人に助けられました。今度は私たちがお役に立つ番です。安心してください」

 

と、ねぎらいと励ましの言葉をかけてくれたそうだ。
それを聞いた中学生の彼女は「助け合いは次につながる」ことを実感し、「絶望の中でも光を見ることができた」と言った。

 

と、このように短く紹介されていました。(生長の家、谷口純子先生著『平和のレシピ』より)

これは「助け合いのバトン」と題した主張の中で語られた話とのこと。

とても良い話なので、紹介させてもらいました。

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涙なしには・・・

2019年02月12日 | 映画

先日、市の文化会館で上映された映画「めぐみ――引き裂かれた家族の30年」を見ました。

 

北朝鮮から脱国した、元北朝鮮のスパイだった人物の証言によると、「めぐみ」さんを拉致したのは彼のスパイ仲間の先輩であり、その先輩から聞いた話としておよそ次のように語っていました。

 

めぐみさんは拉致された後、寒い船倉の中に閉じ込められ、40時間かかって北朝鮮に着いたときには、船酔いで吐き出したものと、「お父さ~ん、お母さ~ん」と助けを呼びながら手で壁をひっかき、その爪が剥がれそうになり血だらけになっていた、とのことでした。

 

北朝鮮スパイは、めぐみさんをまだ中学生とは知らずに拉致したらしいが、冷酷な北朝鮮スパイも、その様子を見てさすがに後悔していたとのこと。

 

めぐみさんのその時の気持ちや、ご家族の気持ちを思うと、ほんとうに涙なしには見られませんでした。

 

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日本人の宗教観について思ったこと ②

2019年02月04日 | 信仰

昨日の続きです。

20世紀に入ってアインシュタインが、特殊相対性理論を発表しましたが、その理論によって、仮に光速(秒速30万km)に近い速度で1年ほど宇宙旅行して地球に帰ってきたら、地球の家族は何十年も年をとっているということがl理論的に証明され、それを「浦島効果」と名付けています。つまり、浦島太郎の物語はただのお伽噺ではないことが証明されました。

 

一方、相対性理論の発表と期を同じくして量子力学というミクロの物質の研究が進み、ミクロの物質の世界では、従来の人間の常識では考えられない不思議なことが起きていることが次々と発見され、そのたびに研究者たちを驚かせてきました。そして今や物理学は3次元4次元を超え、10次元、11次元の世界を予想し、それを実験で確かめようとしているところまで来ているとのことです。さらに、宇宙は私たちの宇宙だけではなく、他にもたくさんの宇宙があることが予想されていて、まさにSFの世界の様相を呈しています。つまり、SFが科学によって現実であることが証明されつつあるということです。

 

多くの人は目に見えるものを、見たその通りにあると思っていますが、しかし、人間の目は学校で教わるように、ごく狭い範囲の波長の光しか見えないし、聴覚も臭覚も限定された範囲しか感じることができません。現実の縦横厚みの3次元世界を写真に撮れば、1次元が省略されて2次元の平面としか映らないと同じように、人間が五感を通してみるということは、本当は10次元、11次元という高次元の世界を3次元に省略して見ているだけかもしれません。ともかくわれわれの五感は本当にあるがままの姿を見ていないことは確かでしょう。見る心と、見る道具(視神経など)によって変わってくるはずです。

 

古い物理は、自然は人間の精神に関係なく客観的事実として存在するというのが立て前でした。つまり物と心とは別であるという二元論的考え方でした。しかし20世紀に入って量子力学の研究が進むと、宗教や哲学が言ってきたように、自然と心(観察者)は一つである、つまり自然は客観的事実として存在するのではなく、観察者によって変化する、という一元論を唱えるようになりました。(物心一如)

 

お釈迦さまは「三界は唯心の所現」と説き、イエス・キリストは「汝の信仰、汝を癒せり」といい、また「汝の口に入るもの(食物)汝を汚さず、汝の口より出ずるもの(言葉や思い)汝を汚すなり」と言っています。日本では「笑う門に福来る」とか「泣きっ面に蜂」「人を呪わば穴二つ」などという諺がありますが、その真実性を最先端の物理学が証明したと言えます。 

 

それから、
シスター・渡辺和子さんは「いのちの大切さが叫ばれながら、今日ほど命が粗末にされているときはない」という話をされていました。神や仏、そしていのちとか、愛は物質的次元を超えたものですから、科学的な証明を待っているのでは、いのちはわからないのではと思います。

 

「科学的であるか?」ということも大事とは思いますが、それに偏ると肝心ないのちを見失ってしまいそうな気もします。『神との対話』では、「自分は何者か?」と自分自身に問いかけることの大切さが力説されていました。
道元禅師も正法眼蔵で「仏法を習うというは自己を習うなり」と説かれました。

 

我が子を虐待する父親が、もし、「自分は何者か?」と常に問いかけることができていたなら、虐待する自分を選ばなかったかもしれないし、教育委員会も、決断するときに、「自分は何者か?」とみずからに問いかけていたら、少女の助けを呼ぶ声を無視して、あの父親に渡すという自分を選択するようなことはなかったろうという気がします。

 

まとまらないことを書きましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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日本人の宗教観について思ったこと

2019年02月03日 | 信仰

2年ほど前、新聞に日本人の宗教観についてのアンケート調査の結果が掲載されました。

それによると回答者数は2000人で、次のような結果になっていました。

 

○神や仏の存在を信じますか? という質問に対して、信じると答えた人は58%、信じないと答えた人は42%。

○信仰している宗教はあるか? の問いに対して「はい」と答えている人はわずか16%。

 

にもかかわらず、

○神頼みしたことはありますか? という質問に対しては、75%の人が「イエス」と答えています。

 

この結果からは、ふだん神や仏を信じていない人でも、神頼みしたことのある人はかなりいることがうかがえます。

また、特定の信仰は持っていなくても、神仏の存在を信じている人もかなりおられることがわかります。

 

それから、

○神または仏の存在を「信じる」と答えた人で、神(仏)を意識するときはどんな時か? に対しては、次のような結果が出ています。

(1) 幸せに感謝する時

(2) 自然の美しさや神秘を感じた時

(3) 支えが欲しい時

(4) 危機に陥ったり、脱した時

 

○「信じない」と答えた人に対して、その理由はという質問には、

(1) 科学的でない

(2) 存在が証明できない

(3) 神頼みしてもかなわない

(4) 無神論者 (神がいるならこんな理不尽な世の中はあり得ないはず)

と、答えられています。

 

信じない理由として最初に「科学的でない」とありますが、今の時代にこれはちょっと私は首をかしげます。
日本人は科学が発達する以前の昔から、「浦島太郎」の物語について語ってきました。また海幸彦、山幸彦の物語もあります。浦島太郎は竜宮城へ行っている間は年を取らなかったが、故郷に帰り、玉手箱を開けたらお爺さんになったという話。

 

また、山幸彦は兄君の海幸彦から釣り針を借りて海で釣りをしていたとき、反対に釣り針を魚に取られてしまった。兄君のの大事な釣り針を失くし途方に暮れていたら、そこに竜宮城の神様があらわれて竜宮城へ行く道を教えられ、竜宮城に行き、竜宮城で失くした釣り針が見つかったという物語です。

つまりどちらも、時間、空間発生以前の時空を超えた世界、生み(海)の底へ行ったということをあらわしています。

 

長くなったので続きは明日にします。読んでいただきありがとうございました。

日本人の宗教観について思ったこと ②

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なぜ祈らないのか?

2019年02月02日 | その他

父親の虐待による小学4年生の女児の死亡事件は痛ましいというよりほかはない。この事件を知った人は誰もがそんな気持ちにさせられるに違いない。特に、アンケートの自由記入欄に「お父さんに暴力を受けている。なんとかなりませんか」と助けを求めているのに、助けになるどころか、そのことが父親に知られるところとなり、逆に死にいたらしめることになってしまった。

 

こんな事件が起きた時、誰もが、「もし神がいるなら、どうして助けないのか」と思うに違いない。私も「何とかならないのか」という気持ちになり、あらためて『10代のための「神との対話」』という本を開いた。

 

すると、ずばり、こんな質問がありました。

○神様、あなたはなぜ、子供たちへの暴力や性的虐待を放っておくのですか?

 

さらに、こんな質問もありました。

○大人って、自分は尊敬されたがるけど、子供のことは軽く見てるよね?

 

アンケート用紙に「秘密を守りますので正直に答えて下さい」と書いておきながら、父親に少し脅かされたぐらいで、その子供との約束を捨ててしまう。そんなことでは虐待する父親とまったく同列と見られ、「先生も教育委員会も子供を軽く見てるよね」といわれても言い訳もできないだろうと思う。

 

自分が途方に暮れたなら、「神はなぜ放っておくのか」ではなく、なぜ神に祈ることをしないのか。もし自分が誰かに暴力を受けて殺されそうにでもなったら、たとえ、神を信じていなかったとしても「神様、助けて下さい」と叫ぶだろう。

 

小さな子供が、いま自分を頼って「助けて下さい」と助けを求めている。そんな立場に立たされて、もし途方にくれたなら、「神様、私は今かくかくしかじかで、子供に助けを求められています。だけど、父親に虐待されて苦しんでいるこの子をどうしたら助けられるのか私にはわかりません。神様ならご存じのはずですから、どうぞこの子を助けられますよう、この子の力になれますよう、私をお導き下さい」と、自分の事のように真剣に祈れば、必ず良い知恵がわいてくるか、あるいはそれに対処する勇気が湧いてくるはずだ。間違っても、子供が助けを求めて書いたものを、よりによって虐待する父親に渡したりはしなかったはずである。

 

ほんとうに「痛ましい」というよりほかありません。

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