気の向くままに

山、花、人生を讃える

船頭平公園へ

2012年04月27日 | その他

 時期外れになってしまったが、15日の日曜日、天気が良かったので、たまには出かけてみようと午後から船頭平公園にいった。

ソメイヨシノは半分散っていたがまだ楽しめた。そして枝垂れ桜は満開の見ごろだった。

 ここから川を一つ隔てた「チューリップ祭り」の会場は駐車場入り口で大混雑だったが、ここ船頭平公園は相変わらず静かで長閑で、周囲を川に挟まれ、花の季節とあって、まるで蓬莱島を見るようだった。ここはまさに癒しの空間である。

 

 

 

 

 

 

 これは花桃

 

4時近くになって、もう「チューリップ祭り」会場も空いているだろうとそちらへ向かった。 

 

先日は、久し振りに映画を見に行った。「モモへの手紙」というアニメーション。(笑)

たまにはこういうかわいいアニメを見るのも良い。夢があるし、絵も楽しませてくれる。

楽しみながら見ているうちに、気持ちがすっかり若返った。

身体のストレッチがあるなら、心のストレッチがあっても不思議ではない。

≪評価≫ 星五つにもう一つおまけで星六つ。

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出講の原稿です

2012年04月13日 | 信仰

今年はなかなか春が来ないと思っていたら、あっという間に桜の見ごろも過ぎてしまいました。

本来ならもう2回ほどは山へ行っている筈の予定でしたが、3月末に村の役員の選挙があって、たまにはと顔を出したところが副区長に選ばれ、この4月は顔を出さなければならないことが多くて、山へも行けず、何かと気忙しい日々です。

先程、明日2回目の出講があるので、2月にはじめて出講に行った時と同じ話をさせてもらうつもりで、その時の原稿を読み返しました。そしたら、2ヶ月ぶりに見る自分の書いた原稿に、我ながらうまくできていると感動させられました。(笑)
自分の書いた原稿に感動したというのは変な話ですが、それは楠本先生の話や谷口雅春先生の話が素晴らしいからなのですが、それと供に積り積った40年の思いと、生長せんとする私自身の新たな気持ちが鏡を見るように感じられたからでもあろうと思います。

それで、ご無沙汰していた代わりにこの原稿を更新記事としてアップさせてもらおうと思い付いたというわけですが、読んでいただければ幸いです。(ただ、内容的には過去の記事で書いてきたことばかりです。)

以下、原稿そのままです。

挨拶
昨年の2月に講師になる試験を受けて、地方講師になったばかりのほやほやの1年生でありまして、今日が記念すべきはじめての出講です。どうぞよろしくお願いします。

練成を受けたこと
わたしは今62歳ですが、生長の家を一から勉強し直したい、新たな気持ちで再スタートしたいという思いで去年の7月に宇治の短期練成を受けました。団参は別にして短期ではありますが一般練成を受けたのは入信当初以来の事で、素晴らしい先生の素晴らしい講話ばかりで本当に感激して帰ってきました。その中でも自分にとって特に良かったなあと思うことを一つ紹介させてもらおうと思います。

神の子を自覚する秘訣
練成の最終日ですが、「結語」と題する楠本先生のお話がありました。
その講話の、最初に何を言われたかというと
「皆さんは、神の子を自覚するのは難しいと思っているでしょう?でもね、これは簡単なんですよ」と、こういわれたんですね。

その時、わたしは一番前の先生の真正面に座っていたんですが、「神の子を自覚する特別の秘訣があるのか」と思って、思わず聞き耳を立てたんですよ。そしたらね、次に何を言われたかというと、

「生長の家は人類光明化運動といわれているでしょ。神の子を自覚するのが難しいことだったら、人類光明化運動になりませんねえ。誰にとっても簡単なことだから人類光明化運動と言えるんでしょう?」と言われたんですね。

「なるほど、違いない」と思いましたよ。

そして、次に
「みんな、簡単すぎて忘れてしまっているんだねえ・・・。」と言ってみんなの顔を見まわしながら、間を置かれるんですね。

すると、わたしたちは、固唾をのみながら次の先生の言葉を待っているんですね。
やっぱりその秘訣というのをみなさん聞きたくて仕方がないんですね。
誰でも神の子を悟りたいですからねえ。

そしたらね、
『生命の実相』の第一巻に書いてあるねえ。「その秘訣は・・・」と。
こう言って、『生命の実相』の第一巻を取り出して、その部分を読み始められたんですね。

○「自己が神の子であって自己の生命は神の霊である」という事実に目覚めるにはどうしたらよいかという一つの秘訣はと申しますと・・・」、  

この後、どう続くか皆さん分かりますか。ぱっと答えられる人は素晴らしいですよ。わたしなんか見当もつきませんでした。どなたか、どうですか?

続きを読みますと、
○常に、「わたしは神の子である」という思想の種子を自分の心に植えつけるようにするのであります。道を歩くときにも「神の子が今歩いている」と低声(こごえ)でいって、その言葉の通りに思って神聖な罪にけがれない「本物の自分」を印象するようにします。

こう言うように書かれています。(141ページの中ほど)

もう、聞きあきているぐらいですよね。一瞬、わたしも「な~んだ」というような気持になったんですが、すぐに、「ああ、自分に欠けていたものはこれだ」と気がついて、眼が覚めたような気がしました。

40年経っても悟れない
わたしが入信した頃、本部講師が講演に来られたとき「生長の家を20年も信仰していて、まだよう悟らない人がいる。愛知県ではなく余所の県の話ですけどね」と冗談交じりによく言われるのを聞きました。わたしもその冗談交じりの話に笑っていたんですが、その頃は「生命の実相」に本当に感激していましたから、10年もすればかなりのところまでいけそうな気がしていたんですね。ところが20年どころじゃない、40年経って一向に心境が良くなったという感じがしないんですね。

これまでいろいろおかげはいただいているんですが、のど元過ぎれば有難さもどこへやらで、心境は前へ進んでくれなかったんですね。だから練成を受けて勉強しなおそうと思ったんですが、それで、自分に欠けていたのはこういう、言葉の力を使う地道な努力がなかったということに気づかせてもらいまして、本当に片目が開いたような嬉しさを感じまして、また希望が出てきたというわけです。

世界的に有名な岡潔という数学者がいて、谷口雅春先生がその人の本を推薦されていたので、昔読んだんですが、その中に、「人は目に見えるものには関心を持つまいと思っていてもすぐ持ってしまうが、目に見えないものに関心を持ち続けるのは難しい」ということを書いておられました。実際、人間は生まれた時から現象世界はあるという観点で育ってきていますので、その習性からか、「いくら現象世界はない」と頭で分かっていてもやっぱり現象の諸々の出来事に心が引っ掛かり易いですね。反対に目に見えない実相に常に心を振り向けるように教えられていても、それがなかなか難しい。それを自分が主人公になってコントロールするにはどうしたらいいかというと、それがやっぱり言葉の力を使うということなんだ思います。

自分でコントロールする
『神との対話』という本がありますが、これは、ニール・ドナルド・ウオッシュという人が神と対話して、それを記録したという本ですが、その中に、
神が、やはり谷口雅春先生が言われたことと同じようなことを言うんですね。
それに対して著者のニールという人が、「それはマインドコントロールじゃないか」と軽率したように反論するんですね。それに対して神が言った言葉が実にふるっているんですね。
何と言ったかというと、
「あなたが考えたり思ったりすることのほとんどは、幼いころから外から刷り込まれてコントロールされてきたものだということに気がつかないのか?外からコントロールされるよりも、自分でコントロールした方がよくはないのか?」

いやあ、素晴らしい答えだなあと感心したのを覚えています。

安く見ていた
「1日10000回ありがとうございますと唱えるといいですよ」と聞くと、女の人は比較的素直に実行される人が多いようですが、男はこういうのは駄目ですね。地味というか単純なことには何か魅力を感じないで、ふふーんという感じじゃないかと思うんですが、わたしはそういうところがありました。特に若い時はそうじゃないかと思うんですが、「外からコントロールされるよりも、自分でコントロールした方がよくはないのか」と言われると、これは説得力があるような気がして紹介させてもらいました。

楠本先生は毎日30年も
それで楠本先生は、その後、こんなことも言われました。
楠本先生は、奇跡の手帳に毎日必ず2つの事を書いておられるそうです。
その2つのことは何かというと、
1つは「人間は神の子である」ということ、
もう1つは「神様、どうぞわたしをお使い下さい」ということだそうです。
その2つの事を毎日「奇跡の手帳」に書くようになって、なんと昨年で30年にもなるそうです。
楠本先生というような素晴らしい先生が、こういう小さな地道なことを何十年も続けておられるということに本当にビックリしました。

言葉には物理的な力がある

体験談

感謝行
生命の実相の第8巻、観行篇の最後の章には「神想観の助行としての感謝行」という章があります。そこを少し拾い読みさせてもらいます。もっている方はまず178ページを開いてください。
179ページ、
182ページ、

こういうように、自己が神の子であって、自性円満であることを知るためには神想観の助行として感謝行が大切であること、そして、宗教的有難さというのは、おかげを頂いて有難いという条件付きの有難さではまだ足りない。自分自身の中からひとりでに湧いてくる無条件の有難さにならなければ本当ではない、生長の家の人はそこまでいってほしい、と書かれているわけです。

そうですよね。やはり、生長の家という信仰の道に入らせてもらった以上は、おかげもさることながら、それ以上に自己の神性を礼拝し、他の人の神性を礼拝し、そして有難くて仕方がない、嬉しくて仕方がないとそんなふうになりたいと誰もが思っておられるんじゃないかと思いますが、その為には、神想観や聖典・聖経の読誦しているからいいというのではなく、それ以外の時間も暇あるごとに、言葉の力を使うという地道な努力が必要だなあと特に近頃はそう言うことを感じさせられている次第です。

或る本部講師の話
或る本部講師が、はじめて教化部長になって地方へ赴任することになったとき、「教化部長として一番大事なことは何か」、赴任する前に是非それを聞いておきたいと思って先生のお家へお伺いして、そのことを聞いたそうです。そうしたら、谷口雅春先生は、
「ああ、それは簡単なことですよ。僕の代わりにね、信徒の皆さんを拝んでくだされればいいんですよ」とお答えになったそうです。

これで話を終わらせていただきます。ありがとうございます。


原稿は以上ですが、ついでなので、その時のことを少し書かせてもらいます。

この初めての出講の時、会場主に最寄りの駅へ迎えに来てもらうことになっておりました。そして私はその駅周辺の喫茶店でコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせて、「いざ出陣」という段取りでおりました。そのため、1時間近く早くその駅に着いたのですが、付近を歩いても喫茶店がない。一軒だけありましたが、もう閉店になったところでした。
2月の寒い中で、「ああ、こいつは最初から大失敗」と思いつつ、再び駅に戻ると、なんとそこで思いがけずに会場主とばったり会うことができました。(これぞ天の巡り合わせ)

その会場主は講習会のチラシ配りをして来たところだそうで、すぐに奥さんが車で迎えに来るとのことでした。そしてその車に私も乗せてもらって喫茶店に案内してもらって、そこでやっとコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせることができ、再び店まで迎えに来てもらって、無事、話させてもらうことができました。

しかし、さすがに話し始めは緊張していたらしく、ぶるぶると震えが来ましたが、構わずに話しているうちにおさまってゆきました。
終わった後、いやあ、ほんとホッとしたことでした。
自分で言うのもなんですが、いやあ、初々しいということはいいですね。(笑)

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