気の向くままに

山、花、人生を讃える

わたしも素晴らしいから

2010年09月30日 | 信仰
久し振りの更新です。

一昨日、団参(団体参拝練成会)から帰ってきました。
実は初心に帰って一から勉強し直したく、団参よりも宇治の短期練成に参加したく思っていましたが、何となく時期を逃してしまって、結局、団参に行かせてもらいました。

今回の団参で良かったことの一つ目は、笑いの練習でした。
笑いの練習は好きなので、いつも積極的に笑わせてもらっていますが、今回は思いっきり、より積極的に笑わせてもらいました。この「思いっきり」が良かったようで、いつもより、さらにスカッとした良い気持ちならせてもらいました。

ただ、終わってみるともっと笑えたような気がして、「笑い」も、これで限界というのはないのかも・・・と思い、次にはさらに、もっともっと思いっきり笑わせてもらおうと思いました。

二つ目は、同じく「笑いの練習」のときのことですが、
3日目に、自分の周囲の人と手をつなぎ合ってのとき、先導の講師が、次のような言葉を唱えて先導されました。

右隣の人を見て~・・・「素晴らしいなあ!」
次は左隣の人を見て~・・・「素晴らしいなあ!」
「ああ、これは、わたしも素晴らしいからだ~!」
「うれしいなあ~、楽しいなあ~・・・」

およそ、このように先導されました。
この中の、

「ああ、これは、わたしも素晴らしいからだ!」

という言葉を聞いた時、
「いやあ、粋な言葉だなあ」と “ふっ”と、何かがほどけたように嬉しくなました。

ふつうは、「いや、わたしじゃない。そちらが素晴らしいからですよ」と言いますね。
しかし、ここでは、周囲を讃嘆した後、次には、
「わたしも素晴らしいからだ!」と自分を讃嘆するよう先導されたわけです。
それがちっともおかしくない。それどころか、うれしい気持ちになりました。

その時、
「そうだ、自分も素晴らしいからだ」と素直にそう思え、そう思ったとき、自分が喜んでいるのを感じました。
そして、例え練習にしても、人前で大きな声で「わたしも素晴らしいからだ~」と声に出して言ったとき、最初の一つのドミノが倒れたようで、誤解されるといけないから人前では言えないにしても、これからは、誰かを素晴らしいと思った時には、その誰かと同時に、「自分も素晴らしいからだ」と思えばいいと思いました。そう思えばいいのではなく、実際、誰かが素晴らしい時には、自分も素晴らしいからだと思いました。

そして次の日の最終日には、団参の体験発表ということで7人の方が発表されたのですが、2日目の体験発表と同じく、本当に素晴らしい発表ばかりでした。
そして、今回違ったところは、教えや発表された人が素晴らしいだけでなく、このような素晴らしい発表を目の前で聴かせてもらう自分も、やっぱりスバラシイに違いないと思えて、自分自身に対しても嬉しくなりました。


ということで、有り難い経験をさせてもらいました。


これを偶然に読んで下さった方、あなたも素晴らしい人でしょうね。
そうでなかったら、多分、偶然にこれを読むということもなかったと思います。
そんな方に読んでいただけて光栄です。ありがとうございます。
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うれしいこと。

2010年09月08日 | その他
今日は台風の影響で、連日の猛暑から解放されました。
そして、久し振りのまとまった雨です。

6日は剪定作業がありましたが、予定より進み具合が遅れたため、午後からは休憩もなしで4時まで連続作業となりました。
最高気温35度を超える炎天下で、休憩もなし、ですよ。
割の合わない仕事ですよねえ。そう思いながら、そのくせ、何故か自慢したがっています。(笑)

今年は作業予定を組んでいるので仕方がないのですが、来年からは、今年のような猛暑が続くなら、作業開始を中旬からにするなど、様子を見て決めるとのことです。


さて、話は変わりますが、先日嬉しいことがありました。
2日の夕方(6時)の聖経読誦のとき、ふと気がつくと右側の耳が正常になっていることに気がつきました。

どう云うことかというと、2年ほど前に、耳の中に水がたまり、いつまでも抜けないので耳鼻咽喉科に診てもらったことがありました。すると、右耳の通路が狭くなっているとのこと。
(狭くなっているので通気が悪く、体の水分が耳の中に溜まってしまうらしい)
その時は鼓膜に傷をつけて水を吸いだしてくれて、すぐ元通りに良くなったのですが、また溜まるようなら来て下さいと言われていましたが、8月の中頃からその兆候が出て、水が溜まり出していました。

それで今回は、自然に良くなってくれるのを期待して、医者に行かずにいましたが、ふと気がつくと、聖経を読む自分の声が、右耳からもよく聞こえていて、水が溜まっている違和感もなくスッキリしているので、「おや、良くなったぞ」と嬉しくなりました。

密かに団参(今月末)に期待していましたが、思いがけずその前に良くなってくれて、ひょっとして、炎天下の作業で耳の中の水まで絞り出してしまったのかもしれませんね。


今は昼過ぎですが、もう雨も止んで、風は涼しく、木々の緑も爽やかで、すっかり涼しげになりました。
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『ガイア・シンフォニー』第一番を見て

2010年09月05日 | 映画
野澤重雄さんという人を御存知でしょうか?
バイオテクノロジーも特殊肥料も一切使わずに、普通のトマトの種から一万数千個もの実をつけさせた人です。
その様子は、1985年の筑波国際科学博覧会の日本政府館のメイン展示に採用され、多くの方がそれを見られたのだそうです。

私は、映画「ガイア・シンフォニー」の第一番を見て始めて知りました。
映画では、その野澤さんの話を交えながら、タネから苗、苗から巨木のように育っていく様子を見せてくれましたが、まるで巨樹・巨木のように枝を張り、その枝に数えきれないほどのトマトがたわわに実る様は壮観でした。

秘密は地面ではなく大きな水槽の中で育てられたことです。
つまり生命は無限で、そして生長の妨げとなるものがなければ、いくらでも生長するものだ、ということを知ってもらうために、「根」が生長するのに抵抗となる地面ではなく、自由に根が伸びることができるよう水槽の中で育てられたわけです。

その野澤さんが言います。
○一番大事なのは、まだ小さい苗のとき、物心もないようなときに、どんどん成長しても充分必要なものは入って来るんだという安心感のあることですね。

○疑わないってことです。ですから、信じるとことがどんなに大切かということをつくづく感じますね。これは、神に対する疑いを持たないって、言い換えたらそういうことですよね。私が「神」って言うのは、自然の、この高度なメカニズムの実態ですから。
(「ガイア・シンフォニー」第一番のパンフレットより)

と、野澤さんはこのように言っています。

今、社会情勢だけを見ていると不安を抱かざるをえません。そして、その社会情勢を見ているだけでは、それは片手落ちというもので、その片手落ちは私たちの人生にも決していい影響は及ぼしません。不安が日に日に募るばかりです。

今、私たちに最も大事で必要なメッセージは、「どんどん成長しても充分必要なものは入って来るんだ」という野澤さんの言葉ではないでしょうか。
「信じる、信じない」の前に、先ずは立ち止まり、このような言葉に耳を傾けることも大事なのではないでしょうか。自分自身が不安の方へと傾向いてしまわないようにバランスを取るためにも。

こういうことを言っているのは、野澤さん一人ではなく、最も有名なのはイエスの言葉ですね。

○空の鳥を見よ。播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養い給う。汝らは之よりも遥かに優る者ならずや。(マタイ伝 福音書より)

私が尊敬する「生長の家」創始者の谷口雅春先生は、「人間は、神がこの世に遣わし給うたのであるから、必ず神が養い給うのである」と教えて下さっています。
そして、実際に「不安」から「安心」へと気持ちが変わり、貧困にあえいでいた人が、豊かな供給を受けるようになった方はたくさんおられます。

また、これも谷口雅春先生を通して知ったことですが、釈迦の教えである法華経の中にも、人間は本来無限の宝を持っているのに、自分で「これだけしか持ってない」と自己限定をしてしまっている、という意味の喩え話があるそうです。≪「長者窮子(ちょうじゃぐうし)の喩え」≫

私たちは世の中の動きを知るためにニュースを見ることも必要かもしれません。
が、その一方で、このような野澤さんや、イエス・キリストの言葉に耳を傾けることも大切かと思います。

私たち一人一人が抱えている「不安」を小さくしていけば、そして、一人一人の心の中の「安心」のスペースを広げていけば、それだけでも、社会は明るい方へと向かって行くのではないでしょうか。

特に、子供たちには、不安ではなく、希望や安心を与えていきたいものですね。

その為には、先ずは自分から。
心に神の子であるというヘッドライトを灯して行きましょう。(「あなたも私も光の子」より)
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剪定作業の開始

2010年09月03日 | その他
いよいよ9月になりましたが、猛暑はまだ続きそうですね。
シルバーの剪定作業が始まりましたが、1日、2日ともその猛暑の中で剪定作業をしましたが、いやあ、無事に終わってやれやれです。

このような炎天下での作業は、かつて経験がないので、さすがに心配しておりました。
一番若いものが真っ先にへばっていては恥ずかしいので、1週間前から、少しでも身体を慣らしておこうと夕食後の散歩をジョギングにしましたが、少しはその甲斐があったようでやれやれです。

もう40年も走ったことがないので、走り始めた最初の日は300メートルぐらいで、すぐヘバリましたが、だんだん慣れてきて、今はゆっくりですが2キロぐらい走れるようになり、自分でも感心しています。無理はしないで、この調子で続けられたらいいと思う。

近くでの作業なので、昼食はいつも家ですが、この暑さでの作業では食欲もなくなると思い冷麦を頼んでおきました。
一日目はそれで正解でしたが、2日目はその冷麦もすんなりと胃袋まで入って行かず、「うっ」と戻しそうになるので残しました。が、幸いこの日は15時で作業が終了してシャリバテ(腹が減ってバテる)にならずにすみました。

作業を終えて家に帰ってからも、冷茶を飲み過ぎて身体がだるいのですが、これは熱中症を気にし過ぎたせいで、必要以上に水分を取り、その為に、かえって喉の渇きを覚えるという悪循環にはまったようです。確かに冷たい飲料は気持ちがいいのですが、取り過ぎると体がだるくなるので、これは要注意です。

水分を取り過ぎさえしなければ、そして、久し振りに思い道具などを持ったりするので腕はだるくなったりしますが、炎天下の作業そのものは、それほど心配したことはないことがわかり、先ずは一安心しました。

ここでも、「当事者にとっては傍から見ているほど大変ではない」というひとつの好見本だなと思いました。

室内から、太陽がぎらぎら照りつける外の様子を見ていると、それだけでも気持ちが萎えてきそうですが、いざ外へ出て仕事を始めたら、もう暑いの寒いのという意識は脇へ追いやられてしまいます。
さらに、この炎天下でも仕事ができたという気分は、一つの自信につながり、自己拡大の喜びさえ感じさせてくれる。そういうことを経験的に知っているから、シルバーの人はみんな元気がいいのでしょう。
こんな猛暑でも、当たり前のように仕事をこなそうとする姿勢に感心しました。
そして、わたしもまだ2日こなしただけですが、いい経験になりました。
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