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気の向くままに

山、花、人生を讃える

涸沢カールへ

2015年07月27日 | 

横尾山荘(標高1600m)に宿泊した翌日、そこから涸沢カール(標高2300m)までを往復しました。涸沢カールは穂高連峰の懐にあり、カールは山肌が氷河によって削り取られた窪地のことで、山の風景の中でも日本一と言ってよいくらいの人気スポット。夏もよいが秋の紅葉シーズンはテレビで見るだけでも圧巻である。それだけに登山者が多く小屋の混雑を思うと、一度は行きたいと思いながらなかなかいけない。それで、横尾から涸沢カールまでを日帰り往復することにしました。穂高の頂までは行けないが、私たちにはそれで十分である。

天気は下り坂で夕方には雨が降り出すとの予報。もしガスがかかってその絶景が見えなかったでは、あまりに残念なので、バテない様にゆっくり歩きながらも、休憩はあまりとらないことにしました。おかげで、結構花の写真を撮ったりしながらも、3時間30分でカールに到着し、半分ほどはガスに包まれていましたが、半分はその絶景を眺めることが出来ました。

 

≪横尾谷にかかる新谷橋を渡る≫ (7時22分) 横尾山荘から1時間、ここを渡ればいよいよ登山道となるが、天気もよく快調である。

 

 

(8時51分) 小屋を出発して2時間半、写真は望遠だが視界が開けたところで、穂高が見えてきた。すでにガスがかかりはじめている。急がねば。

 

 

≪雪渓を行く≫ (9時38分)もうカールは目の前。おーい、待ってくれよ~。

 

 

いつの間にか家内が撮ってくれたが、レンズを向けられているとも知らず、結構へたばってますね。(笑)

 

 

≪カールと北穂≫ (10時04分) ついに涸沢ヒュッテ到着。まだ、最盛期前でテントの数は少ない。晴れていれば写真の北穂を右端に、涸沢岳、奥穂、前穂と3000m峰が連なる180度の大展望となるはずだが、残念ながらガスに隠れて見えない。しかし、「ついに来たぞ!ここが憧れの涸沢カールだ。うれしい!」、そんな気持ちだった。

 

 

同じく北穂。

 

 

「涸沢ヒュッテ」のテラスと「屏風の頭(2565m)」

 

 

ひとしきり展望を楽しんだ後、昼食にラーメンをオーダー。人気メニューだそうだが、成る程と納得のおいしさでした。

 

夕方から雨だというが、山の天気は分らないからあまりのんびりもしておられない。それに、登りより下りが危険。2時間ほど滞在して、別れを告げました。

≪雪渓≫ これだけ雪渓があると、いかにも夏山らしい。しかし、早くもここを下る途中に雨が降り出し、あわてて雨具を着用した。どうもわたしは雨に好かれているらしい。

 

 

≪ハイ、ポーズ≫ 下り半分過ぎたところで休憩。「じぇ、じぇ、それはいったいなんのポーズじゃ!」「おら、山さ行けて嬉しんだべ!」

 

 

と、いうわけで降りしきる雨に打たれながら、16時近くに横尾山荘に無事到着。疲れたが、素晴らしい1日でした。しかし予報は明日も雨。しとしとぴっちゃん、しとぴっちやん、のんびり歩こう上高地。

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上高地は晴れ!

2015年07月26日 | 

沢渡から上高地バスターミナルへは相乗りタクシーを利用。前席に私たち夫婦、後部は子供二人の家族連れ。「えっ、そんなに乗れるの?」と心配したが、意外と窮屈でもなかった。バスターミナルまでの乗車時間は20分ぐらいだろうか。その間、運転手が「また乗ってもらいたいから」とガイドよろしくいろいろ話を聞かせてくれました。そして、釜トンネルで幽霊を見た人は運転手仲間には大勢いると言うので、「運転手さんは見た?」と聞けば、「見ましたよ。トンネルの中で人の姿や顔が映って見えるんです」ということでした。もしそれが本当なら、是非一度見てみたいものだと好奇心が湧くのですが、見ると夜中にトイレへ行けなくなるかもしれないので、見ない方がいいでしょう。ちなみに、運賃はひとり1050円でバスと変わらない料金。運転手のガイドが面白かった分、得した気分でした。

 

さて、幽霊の話はともかく、この日の上高地は梅雨明けのような素晴らしい上天気でした。そして、この日の宿泊地である横尾山荘までの約11キロの道のりを花や風景の写真を撮りながら歩き、目の覚めるような素晴らしい眺めに、ザックを背負っているのも忘れるほどでした。以下はその時の写真です。(撮影時間順)

 

≪河童橋付近からの穂高連峰≫ こんなにスッキリ見えるのも珍しいのでは。もう少し白い雪が残っていれば最高だが、欲は言うまい。(言ってるじゃないか!)  (10時43分)

 

 

≪河童橋付近から見た明神岳≫ (10時43分)

 

 

≪明神池≫ (12時35分)  明神池は入場料300円が必要。わたしははじめてでしたが、とても素晴らしいところで感激しました。帰りにも寄ったので、雨に煙る明神池を後ほどアップする予定。

 

 

≪ギンリョウソウ イチヤクソウ科≫ 山に登りはじめ、はじめて見たときは「なんだ、これは?」と、異様な姿に、気持ち悪さと、変わったものが見られたという嬉しさがあった。その後、家内に見せてやろうとこの花のある山へ連れて行き、見せてやると「なに、これ花?」と、やはり驚いていた。そして、久し振りにこの花を見つけ、「わあ!懐かしい」とすっかり感激していた。ちなみに、色違いの「キンリョウソウ」というのがあるようだが、まだお目にかかったことはない。 (13時36分)

 

 

 ≪モミジカラマツ キンポウゲ科≫ カラマツソウと花はほとんど同じだが、葉がモミジのような葉をしているところが違うらしい。 (14時01分)

 

 

≪キツリフネ ツリフネソウ科≫ (14時06分)

 

  

≪明神岳 2931m≫ 大部奥へ進んで明神岳全体が姿を現した。(14時10分)

 

  

≪梓川畔で≫ (14時10分) 開けた空間、梓川の清流、青い峰、ホントに気持ちの良いところでした。

 

 

≪森を抜って流れる清流≫ 尾瀬湿原の拠水林のよう。やがて梓川に合流。(14時23分)

 

 

 バスターミナルを10時30分に出発して横尾山荘に到着したのは16時ごろ。標高差は100mしかないが、重さ8㎏のザックを背負ってこれだけ歩くとさすがにちょっと疲れました。年でござるよ(ひとり言)。

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猿軍団に遭遇

2015年07月24日 | 

21日から2泊3日で上高地から穂高岳の懐、涸沢カールまでトレッキングを楽しんで来ました。すると河童橋から1時間ほど歩いた明神橋付近で思いがけない猿軍団に出会いました。以下はその時の写真です。

 

思いがけないサルに出会って外人さんも嬉しそう。子供が面白がってちょっかいを出したら、ギャッ―と猿さんが威嚇、子供がビックリしていました。

 

 

われ関せずで足元を通りすぎていく。こんな近くで野生の猿にお目にかかるのははじめて。大スターを追っかけるようなまなざしでカメラのシャッターを切りました。

 

 

明神橋に近づくとしきりに河原の方からギャーギャーと何かが騒ぐ声がする。すると、前から突如と猿軍団。「おい、ここは猿の惑星かよ!」

 

 

 

 

つり橋のワイヤーを伝って見事な軽業を見せてくれるが、すばしっこくてなかなかシャッターを押せない。そう簡単には写真に撮らせないというのか。うーむ、敵もサルもの、おぬしできるな!

 

 

おい、猿君よ、いい格好だねえ。すまないが写真にとらせてもらうよ。こんな近くでめったに見られるもんじゃないからねえ。ハイ、カシャ!

 

「さる君、レディが来た。行儀よくしてろよ。」「なんだよー、モンキーに向かってモンキー言うのか」

  雄大な景色の中の、思いがけないショーに大満足の1日でした。

  そして、サルも涙を流すだろうか?と、またこんな疑問が湧いてきたことでした。

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馬の目に涙 ②

2015年07月15日 | 読書

昨日の続きですが、以下の話は「日本教文社」から出版されている『ユーモア先生行状記』(著者 佐野一郎)という本に書かれている話です。

 時は佐野一郎先生が大学生の時、つまり今からおよそ60年ぐらい前、そして場所は先生がその頃住んでいた別府でのこと。先生の義理の父親は獣医をしていた関係で、佐野先生は近所の人から通称「若先生」と呼ばれていました。

或る日、大学の授業が休講になった若先生は自宅でのんびりくつろいでいました。すると、激しく玄関のドア―を叩く音がする。「すわー、何事か!」と出てみると、ねじり鉢巻きをした大男がただならぬ気配で立っていた。「先生はいるか」と問うので、「今往診中で留守だ」と答えれば、さらに「どこへ?」と聞いてくる。事情を聴くと、荷車に鉄材を山と積んでこの先の国道と県道が交差する三叉路まで来たら、何が気に入らないのか馬が突然動かなくなってしまって、困り果てている。ここの獣医先生なら何とかしてくれるというので、頼みに来た」というのだった。しかし、あいにくその獣医先生はいない。その馬子は「あんた獣医先生の息子ならなんとかしてくれ」というが、若先生は医学的知識もなんにもないから「わたしが行ってもどうにもならない」と再三断るのですが、相手の必死の頼みに断り切れず、若先生はのこのこ出かけました。

 現場に到着すると、黒山の人だかり。十重二十重に人垣ができ100人、いや200人もいるかと思われるほど。それを見た若先生、「こりゃだめだ」と引き返そうとしたところ、誰かが、「獣医先生とこの若先生が来た。もう大丈夫だ」と叫んだらしい。その言葉を合図のように、別の誰かが若先生の手を引っ張って人垣を押し分け、現場最前列へと押し出されてしまいました。

 するとそこに見たのは悲惨な光景。馬が動かなくなり、交通の邪魔をしているので、ドライバーたちからさんざんにクラクションを鳴らされ、「何をもたもたしているんだあ!」と怒声を浴びせられ、残っていたもう一人の馬子はなんとか必死で馬を動かそうと、引っ張ったり、鞭で叩いたり、それでも動かない馬に頭にきたのか、白眼をむき、口から泡を出している馬に向かって、大声でわめきながら太い角ばった薪で馬をなぐっていた。辺りには鮮血が飛び散っている。それを見た先生、思わず、「何をする!殴ったって動くか~!」と叫びながら、その馬子からその薪を取り上げた。それを見ていたヤジ馬はやんやの大喝采。そこまでは良かった。が、その後シーンと静まり返りました。「次に若先生はどうするのか?」と群衆の興味はその一点です。若先生も瞬時に自分が今おかれている立場に気づいたとのこと。こんな馬をどうして動かすことが出来るのか、獣医でもないのに分る筈がありません。かといって、この場から逃げたくても逃げるわけにもいきません。若先生はどうしようもない窮地に立たされました。

 その絶対絶命の時、「神さまあ~、吾が為すべきを知らしめ給え!」と、生涯でもこれほど必死な気持ちで神の名を呼んだことがないというほど、呼んだとのこと。するとその時、天来の声というか、言葉ではいいようのない閃きがあり、「『甘露の法雨』を読もう!」という気持ちがむら雲の如く湧いてきたとのこと。そして、その『甘露の法雨』を胸から取り出して、馬に近寄り、その経本で馬の鼻をなでながらこう言ったといいます。

「これアオよ、何が気に入らず立腹しているか知らないけれど、ここは国道、みんなの迷惑、今から生長の家の有難いお経を読んであげるから、心落ち着け、平常心に戻っておくれよ」と。

そうして、『甘露の法雨』の冒頭にある「七つの燈台の点燈者の神示」を読み始めました。それは

○汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。

という書き出しで始まっています。それを三分の一辺りまで読み進むと、あちらの隅、こちらの隅から「ブワッ」とか「クスリ」とかの笑い声が聞こえはじめ、さらに誰かの「アララー、この馬はもうダメばい。先生がお経読み始めたもんね」という素っ頓狂な声をきっかけにして、どっと笑いが起き、群衆が笑い転げ出したとのこと。これには若先生も参ってしまい、もともと信念があって『甘露の法雨』読み始めたわけでもないので、区切りのよいところでやめようと心に決めます。ところが、その区切りのよい所へ来ても自分の「もうやめよう」という意思とは関係なく、声が先行して勝手に先へ先へと読み進んで行ってしまう。何度区切りのよいところへ来ても同じで、「こんなバカな!」と心があせりながら、結局最後まで読んでしまったとのことです。

読み終わって気がつくと、あれほど笑いころげ、騒がしかった群衆がシーンと静まり返り、一点を凝視しているので、若先生もそこへ目を向けました。すると目をむき、口から泡を出し、足を突っ張り反抗していた馬が、まるで別人、いや別馬のように温和になっており、さらには、その両目からナスビぐらいの大きさの大粒の涙を流していたとのことです。

 さすがに動物の心に鈍感な私も(ひとの心にも鈍感ですが)、この時、大粒の涙を流したという馬の気持ちが痛いほど分る気がしました。そして、牛や馬が涙を流すという話は、「間違いない」とすっかり疑いが晴れることになりました。おめでとう!馬のおかけです。いや、若先生のお陰かな。

さて、馬のナスビのような大粒の涙を見てビックリ仰天していると、また、あの天来の声が聞こえ、「今なら動く、早く動かせ」と言った。そこで馬の手綱をしっかり握り、願いを込めて「オーラ」と引っ張ると、馬が動き、さらに「オーラ、オーラ」と声をかけながら引っ張りつづけると、荷車もガラッガラッと音を立てながら動き出したとのことでした。

本ではまだ少し話が続いていますが、ここでは、ここまでにさせてもらいます。合掌

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馬の目に涙

2015年07月14日 | 読書

芭蕉に「往く春や鳥啼き魚の目は泪」という俳句があります。

いくらなんでも魚が目に涙するなんてことはあるまいと思うので、これは芭蕉の春を惜しむ気持ちを鳥や魚に託して詠んだのだと思われます。 しかし、魚に涙はないにしても、牛や馬ならどうでしょうか。

生長の家では現在、脱肉食の「ノー・ミート」運動を展開しているのですが、なぜこのような運動をするかと言えば、食肉の需要が増大するにつれ環境破壊、地球温暖化、さらには飢餓や国際紛争などに大きな影響を及ぼしているからです。

簡単に言えば、次のような図式になっています。①豊かになる ②食肉の需要が殖える。 ③食肉のための動物を飼育するための土地がさらに必要になり森林が切り倒される。④それらを飼育するため大量の穀物が必要になる。(牛は人間の7倍、豚は人間の4倍の穀物が必要とされる) ⑤人間の食物となる穀物が不足気味になり、値段が上がり、貧しい人には買えなくなる。 ⑥人々の不満が増大し、紛争を引き起こす。ということになるからです。

ほとんどの人は牛や豚が、いつ何処でされ、解体されるか知らないのですが、それはできるだけ人目につかないよう隠されているからだそうです。そして本によると、牛や豚が場へ引かれていくとき、自分が殺されることを敏感に察知して、とても嫌がるそうですが、なかには悲しそうに涙を流す牛もあるそうなんです。嫌がるのはよく解るのですが、しかし、牛が涙を流すなんてこれは本当だろうかと、にわかには信じられない気持でした。そして、本当かどうかと、小生は牛の悲しみよりも、そちらの方にとても科学的興味を感じていたのです。

そうしたところ、先日、生長の家の佐野一郎先生の著書『ユーモア先生行状記』という本を読んでいましたら、面白くも悲しい、悲しくも面白い、先生が実際に体験され、またその場に居合わせた多くの観衆、実は野次馬ですが、馬がナスビ程もある大粒の涙を流すのを見たという話が載っておりました。

長くなりそうなので、残念ですが、ここから先は「続く」ということにさせてもらいます。

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ある死刑囚のこと

2015年07月04日 | 読書

 今朝、谷口清超先生の著書『幸運の扉を開く』を読み始めたら、その中に書かれていた話に心を打たれました。それは死刑囚となり、33歳で刑死したペンネーム「島 秋人」という人についての話で、彼について次のように紹介されていました。

○島 秋人さんは昭和9年に朝鮮で生まれ、父親は警察官で、満州でくらし、終戦近くに柏崎に移り住んだ。戦後は公職追放となり、一家はどん底の生活となり、母は、結核で死亡した。以来彼は非行を重ね、強盗、殺人未遂などを犯して、特別少年院に行き、その後に建物放火の罪で松山刑務所に収容された。刑を終わった後でも、面会に来た父と会えなかったというので放火したり、金品を盗んだりして昭和34年小千谷(おじや)の農家に忍び込み、主人に重傷を負わせ、主婦を殺害したのである。公判中も態度が粗暴で、死刑判決を受け、上告して東京拘置所に移され、吉田先生に出した手紙から、次第に人々の愛に目覚め、歌を習い、キリスト教徒ともなり、上告した最高裁からも棄却されて、この世を去ったのである。と

  彼の中学時代の成績は最下位で、行儀も悪かったらしい。それで叩かれたり蹴飛ばされたりしていたとのこと。死刑囚となった或る日、彼は獄中から手紙を書きました。宛先は中学時代の吉田先生。その手紙には、このようなことが書かれていたとのこと。

「今自分は死刑囚となっている。過去を振り返ると良いことは一つもなかった。たった一つ忘れられない思い出は、先生に絵をほめられたこと」と書いてあり、そして「できたら、先生の絵がもう一度見たくなった」と書かれてあったそうです。

 その手紙を読んだ吉田先生は、しばらく考え込み、その様子を見て奥さんが心配して聞くので、その手紙を奥さんにも見せました。そうして、

○このように、昔たった一度ほめられたことが、彼の最後の願いを引き出して、それから吉田先生家族で描いた何枚かの絵を贈られ、歌を習うことにもなり、奥にかくれていた彼の愛と能力が引き出され、信仰にも導かれ、歌の交流を通して盲目の少女とも愛を語り合い、刑死して行ったのである。と

 最初の手紙には、

           さびつきし釘を拾いし獄残暑

という俳句が書かれていたそうです。死刑囚となった彼には、錆びついた釘さえも愛おしく感じられたのでしょうか。彼には『遺愛集』という歌集があるそうで、その中には639首の歌が詠まれているとのこと。そして、吉田先生の奥さんから贈られたセーターを詠んだ歌が紹介されていました。

         ぬくもりの残れるセーターたたむ夜  

                       ひと日の命もろ手に愛しむ

  

 わずか3ページで紹介されている短い話ですが、彼の人生と獄中での心境、その句と歌に心を揺さぶられました。「良いことは一つもなかった」という手紙の一節には、思わず涙がこぼれましたが、それだけに、彼の句や歌にいっそう心打たれたことでした。

 

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