気の向くままに

山、花、人生を讃える

人生とは?

2011年02月13日 | 人生
昨日は、人間が救われるのは、はじめから救われている実相があるからだということを書いた。
そうすると、「始めから救われている、神の子・人間が、なぜ、迷ったり、病気になったりするのか」という疑問が起きる。また、「初めから救われている実相があるなら、この人生に何の意味があるのか」という疑問も起きる。

以前から、このような疑問に自分自身が納得できるような回答を出してみたいと思っていたので、この機会に、学んだことを整理してみたい気持ちになった。

まずはじめに、「完全円満なる神の子が何故迷うか?」ということだが、神の子なる実相人間は未だかつて迷ったことがなく、迷ったりするのは現象人間である。その「現象人間は何故迷うか」というと次のような理由になる。

神の子なる実相人間が地上へ現象人間として顕現する時、二つの変化が起きる。

一つは、無限次元の実相が、縦、横、厚みの三次元に限定された形で顕現するということ。
これは、テレビ放送の形なき電波がテレビ受像機を通って、ブラウン管上に二次元的に表現されるようなものである。あるいは、三次元なる役者が縦横二次元のスクリーンに限定された姿で映し出されるようなものであると教えられている。

もう一つは、実相世界が現象世界へと顕現するのに、時間的序列をもって顕現されるということ。
つまり、時間が必要であるということ。
これは朝顔の花の種の中には最初から朝顔の花の理念があるが、地上で花を開くまでには、双葉となり、茎が太く生長し、蕾ができ、ついには花が開くというようなもの。
あるいは、巻き収められたフィルムの一巻にはその一巻の中にすべてがあるが、それがスクリーンに映し出されるときには、時間的序列をもって展開されるのに似ている。

このように実相人間が地上へ顕現したところの現象人間は、上の二つによって縮小限定された姿をもって顕現する。このとき、顕現した現象人間は、自己を限定された形において見、それをそのまま自己だと思う。これが最初の錯覚である。霊的存在なる自己を肉体的存在と思い、霊的実質を物質として見る。そして自己が弱くて卑小、また自と他と離れた別々の存在だと思う。そのような錯覚のうえに、現象人間には病気や利己主義的な争いが現れてきたりする。

こうして現象人間はいろいろ不完全な姿をあらわすが、誰が現象人間として顕現しているかといえば、実相人間が顕現しているのであるから、現象人間の奥には実相人間がいる。
現象人間は、自己の不完全な姿を見て、「これが人間である」と思うが、その一方でその奥から、「これは本当の自分じゃない」という実相人間から囁きかける声を聞く。そして、人間は二つの声のはざまで揺れ動きながら、生長していく。

「人間・神の子」とは、「完全円満」の意味でもあるが、もう一つは「無限力」の意味でもある。無限力でなかったら、知恵か、愛か、何かが足らないということで、完全円満とは言えない。また、神の子とは、自由な選択権をもった「主人公」ということでもある。

もし、すべてが成功ばかりで、何をしても躓くこともなく、汽車がレールの上を走るように、すらすらと運ぶばかりにお膳立てされていたら、無限力を発揮する機会も、主人公として自由な選択権を行使する機会も与えられないことになる。躓くことがなければ、起き上がる力がある自分を知ることはできないし、その喜びを知ることもできない。また、「悲しみ」を知ることもできない。喜びと悲しみの両方を知る程度に、困っている人を助けたいという衝動も強くなるのかもしれない。


このように現象人間という立場に立って言えば、わたしたちは、迷いつつ試行錯誤を繰り返しながら、時間の経過とともに、この地上に実相の花を咲かす過程にあると言える。それは画家の心の中にはすでに無限の美があって、その美を二次元のキャンパスの上に表現したい衝動を感じるように、わたしたち人間も、本来持っている実相の神の子の素晴らしさを、この地上というキャンバスの上で、人生という機会を通して表現したいと試行錯誤を繰り返しているのに似ている。

そして、できるだけ苦しみや苦悩少なく、すみやかに神の子なる素晴らしさを表現するためには、現象人間という仮の姿にごまかされず、その奥にある本当の人間、実相人間こそが本当の人間であると知ることが大切なのである。

思ったより長くなったが、これで、自分なりにほぼ納得できる回答を出せた気がする。

これらのことを生長の家を通して教えてくださった神様に、そして生長の家に、心より感謝。ありがとうございます。
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瓦か、ダイヤモンドか?

2011年02月12日 | 人生
昨日の話の続きだが、彼はなぜ立ち直ることができたかといえば、ひとつは父の指導が良かった。
いじめられっ子のままではかわいそうだ。息子に自信を持たせてやりたいという父の愛と、信じて待つという信とがあった。目の前の情けない姿を見ていると、はがゆくてつい怒ってしまいがちだが、「ここで怒ったらおしまいだ」とぐっとこらえて待ったところが実に偉いと思う。できそうでなかなかできないことだ。

この話でもう一つ強く印象付けられたのは、分かり切ったことのはずだが、ひきこもりの息子がこのように立ち直れたのは、はじめからその立派な本性があったということだ。

おそらく父親は、当初、ここまで立派に生長してくれるとは思わなかっただろう。ただ、普通の生徒になってくれればいいという思いで、それ以上には望んでいなかったと思う。だが、ふたを開けたら予想以上のものが出てきた。劣等生と見えた中に、予想以上のものが秘められていたということである。

この話を聞いて思い出したのは、若い頃によく読んでいた谷口雅春先生の「無門関解釈」という本に書かれていた話だった。

ある和尚が毎日瓦を磨いていた。不思議に思った弟子が和尚さんに聞いた。
「毎日瓦を磨いておられますが、いったい瓦を磨いてどうされるんですか?」
和尚は答えて言う。
「瓦を磨いてダイヤモンドにするんだ」と。
それを聞いた弟子が笑って言う。
「和尚さん、瓦をいくら磨いたって瓦は瓦ですよ。ダイヤモンドにはなりません」
そう言って、弟子は「はっ」と気付いた。
「今まで凡夫が修行して仏になろうとばかり思っていたが、そうじゃなかった。初めから私は仏だったのだ」と。

人間が救われるのは、はじめから救われている実相があるからである。
そして、万人にこの実相が宿っている。
そんなことを思いつつ、この教えをいただいている有難さをしみじみ思った一日だった。
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ある父と子の物語

2011年02月11日 | 人生
先日、シルバー剪定の先輩がわたしの家を訪れたとき、こんな話を聞かせてくれた。

彼の長男は小さい頃、学業の出来がとても悪かった。身体も小さいせいもあっていじめられっこであった。そして今でいうひきこもりになっていた。

このままではいかんというので、父親の彼は、そんな息子を町のスポーツクラブのひとつ、卓球の練習に誘った。始めの頃は、さもやる気のない、いやいやな態度でやっていた。父親の彼はそんな息子に何度も怒りそうになったが、「ここで怒ったらおしまいだ」と思って我慢し、彼がやる気になるのを辛抱強く待った。彼は言わなかったが、良い時があれば、きっと声援の掛け声をかけることもあったと思う。

するとその息子が中学三年の時には郡のチャンピオンになった。
勉学の方でも国立大学に進学した。

書けばこれだけの短い話だが、心に刻みつけられる話しだった。
ちなみに、父親の彼自身も小さい頃はいじめられっ子だったとのこと。
そのせいか、昨年の大河ドラマの坂本竜馬にはいたく感動していた。
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