気の向くままに

山、花、人生を讃える

「誰でもすでに救われている」

2014年01月26日 | 信仰

1月の中頃のこと、ある会議の席上で、わたしは向きになって反論した。

わたしはちょっとしたことで感情が激しやすい。そして感情が激したあと、「ああ、こんなことでまた向きになってしまった。情けない」といつも惨めな気持ちになるのです。

こんな性格はいったいどうしたら治せるんでしょうか。

飯田史彦の『生きがいの創造』という本の中には、或る人が、退行催眠中、怒りっぽい性格の遺伝子を持った胎児を選んで生まれて来た、と告白している人の話が紹介されていました。

ひょっとして、自分もこの人と同じように怒りっぽい性格の遺伝子を選んで生まれてきて、そのよろしくない性格をこの人生で克服しようとしているのだろうか? それとも、これは自分自身の業なのか?

欠点は、たいがい「欠点であり、長所でもある」といわれるぐらいで、良い面があるものだが、この性格だけは御免こうむりたい。一つもいいところがないのだから。

思い出したが、『10代のための「神との対話」』という本の中で、神はこんなことを言っていた。                                         思いだしたので、本を出してその部分を探して見ると、こう書かれている。

これは、カナダのニコールという少女が「自分に嫌なところがいっぱいあるのに、どうやって自分を愛することができる?」との質問に対して神が答えているその一部分だ。

○あなたが人から「自由奔放だね」と言われる部分のボリュームが上がり過ぎると、人は、その同じ部分を指して、「無責任だ」と言う。「勇敢だね」と言われる部分のボリュームが大きすぎると、「無鉄砲だ」と。「大胆さ」のボリュームが上がると、「自己中心的」だと。・・・中略・・・あなたのユーモアのセンスは喜ばれているが、あまり派手にやりすぎると、人はそれを見て「軽薄」だとか「不まじめ」だと言うだろう。・・・中略・・・あなたは愛されるために、何も変える必要がないということだ。あなたの一部を、否定することも、責めることも、捨て去ることもしなくいい。自分のどこかを「欠点」だとして、直そうとしなくていいんだ。あなたに必要なのは、人生をもう少しだけ注意深く見つめるようにして、それぞれの場面で、自分のどの部分を表現するのがいいか、ボリュームをどのくらい調整すればいいかを判断するだけだ。わかったかな?・・・以下略・・・

つい引用が長くなったが、残念ながら「怒りっぽい」ということについて出ていないので、それは問題外ということかもしれない。

 

話を元に戻します。

わたしは或る人に向きになって反論した――ついでだから告白しますが、その前には大勢の女性も聞いている会議の席上で思わず喰ってかかったこともありました。この後の情けない気持ち、わかってもらえないだろうな――それはともかく、とにかく、今回も情けない気持ちになって神様に慰めてもらおうと『神真理を告げ給う』を読み始めました。この本を読むと、神さまが直接自分に話しかけて慰めてくれるからです。

その時、神は私にこの本を通してこう語りました。(まるで『神との対話』のニールドナルド・ウオッシュになった気分)

○神は完全であり、善であるから、神の分身である“あなた”は完全であるほかはないのである。あなたは今現に完全であり、健康であるのである。そのほかなる状態は絶対ないのである。

○あなたは、“わたし”から永久に分離することのできない存在である。“わたし”は普遍的存在であるから何処(いずこ)にもあり、あなたの内にも住む。あなたの内に、“わたし”は常に居り、あなたもまた“わたし”の内に常にある。

 

そして、最後の方に来て、神はさらにこう語りかけました。といっても、自分がそう思っているだけだが。(笑)

○人間はどの宗教宗派でなければ救われないなどということはないのである。実相に於いてはすべての人間は神の子であるから、本来罪を犯したこともなく、清浄無垢であって、すでに救われているのである。『法華経』が最も尊い経典であるというのは、その事を釈迦が、「われもと誓願を建て一切の衆生をしてわが如く等しくして異なることなからしめんと欲せり、わが昔願う所の如きその願今既に満足せり、汝らはすでに仏であり如来であるぞ」という風に説いているのである。「今、既に」ということが大切であるのである。

 

この最後の『「今、既に」ということが大切であるのである。』と、ここまで読んだ時、「そうだ、自分はすでに悟りを開いた仏である」と、素直にそう思えて、何か落ち着く処へ落ちついた感じがしました。そうなると、それまで気づかなかったが、今まで、綱渡りをしているような気分でいたんだなと思いました。自分の性格上の欠点におびえていたといってもいいかもしれません。だが、もう怯える必要はない。自分はすでに悟りを開いた仏なのだ。

とはいっても、悟ったというようなそんな大それたものではないのはもちろんです。ただ、神様の言葉を信じて、自分はすでに悟った仏だと思うことにしただけです。(今まではそうは思えなかったのだが) しかし、それだけでも悪性格から解放されて、すわるべき処へ坐ったなという感じがします。

 

さあ、これが果たして本物かどうか。

ただ一時的な昂揚か、それはまだわたしにもわかりません。

ただ、部屋の中には見えない花がいっぱい飾られているような・・・。

祝福の花、

これがただの願望でなければうれしい。

 

谷口雅春先生(『生長の家』の創始者)曰く、

○誰でもすでに救われている。救われている自分を救われていないように思わせるのは、ただ救われていないという妄念だけである。 (『生命の実相』12巻 P102)

 

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すでに悟りを開いている仏である

2014年01月17日 | 信仰

少し前、わたしは今幸せだと書いた。必要なものは満たされていて、そして、死ぬまでにはきっと「嬉しくて仕方がない、有難くて仕方がない」という心境にまでなってやるぞと、そんな夢を持ち、希望を持ち、生きがいを感じていたからですが、しかし、昨年の12月に入った頃から、こんなことを考えはじめました。

 

自分は曲がりなりにも生長の家の教えを学んできた。これは間違いなく人を幸せにする素晴らしい教えだ。なのに、自分はこの程度か?もっともっと自分は素晴らしくなっていていいはずじゃないか?と。

 

そして年が改まり、あらたな気持ちで、『生命の実相』を読み始めていました。

そして、ある大切なことに気づかせてもらいました。

 

それは、とてもうれしい気付きでした。

 

私は今まで、「すでに神の子である実相」に少しでも近づこう、近づこうと、神想観をし、聖典を読みしてきた。

 

だがこれがそもそもの間違いだったということに気がついた。

 

そうではない。

「今、すでに神の子」だったのだ。精進して、これから神の子になるんじゃない。もう、今すでに神の子であり、既に悟りを開いている仏であるというのが生長の家の教えだったのだ。

 

自分はこれから素晴らしくなるんじゃない。今すでに素晴らしいのだ!

これが出発点だったのだ。

自分はまだ素晴らしくない、だから素晴らしくなるよう精進しようでは、いつまでも目的地につけなかったのだ。

 

そんなことに気がついて、もう自分は神の子だ、既に悟りを開いている仏だ。これから素晴らしくなるんじゃない。今すでに素晴らしいのだ、とこう思うことにしました。そして仏が神想観をし、仏が聖典を読むのだと思うことにしました。

今までは、いたらない自分を見ては、そこから抜け出そう、抜け出そうと思ってきましたが、これからはそんな現象の性格的欠点には一切構わず、ただひたすら、「自分はすでに素晴らしいのだ!」の一点ばりで行くことにしました。

 

自分はすでに悟りを開いている仏である。こう思うだけでも、嬉しくなってきます。

なんで今までこんなことに気が付かなかったんだろうねえ。あっははは。

 

      うれしい!

      自分が一個の生命であることが

      うれしい!

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