気の向くままに

山、花、人生を讃える

人生の一コマ

2017年08月31日 | 人生

       夏もはや残月の夢の別れかな

という芭蕉の句があった気がします。わたしの今の気持ちを俳句にすると、こんな感じかなあという気もちで思い出したのだが、記憶が確かでないので調べてみた。しかし探しても見当たらないので、記憶違いかもしれない。

今月中旬に「辞任願い」を提出したが、それが認められことを2日前に知った。そして9月いっぱいをもって、わたしは副会長を退くことになった。1年前、その大役を務めることになったということを書いたので、今回辞任することになったことも書かなければと思う。要はわたしには荷が重かったということだ。そして今、映画「フーテンの寅さん」シリーズの中にあった、一コマが思い出されてくる。

それは、こんなシーンだった。マドンナ役が寅さんの店で働くことになったが、その彼女が働き始めてしばらくしたある日、役所に離婚届を提出する。そしてその足で、寅さんの店の団子屋さんに来て、エプロンをかけ、さあ、働こうとしたとき、思わず悲しみがこみあげてきて、手で顔を覆い、「すみません、今日は帰らせて下さい」というシーンがあった。自分から望んで離婚届を出したものの、きっと予期しなかった悲しさ、寂しさに襲われたのだろう。

離婚と辞任とは比較にならないが、今そのシーンを思い出しながら、その時の彼女の気持ちが少しは分かる気がするのである。

わたしの友達に、自分が浮気して50歳ごろに離婚させられた者がいるが、久しぶりに会った彼はなんとなく刺々しいような、とっつきにくさがあった。噂で離婚したとは聞いていたが、その当時、わたしは単純に「離婚したからと言って、傷つく必要なんかないのに」と思っていた。

だが、今私は自分で出した辞任願いが認められて、良かったと思う一方、寂しさ、悲しさを感じている。ほっとして喜べると思っていたのに。傷ついたというわけではない。ただ、「辞任願い」を出すような結果になったことが、なんとなく淋しく、悲しいのだ。

その友達とは、今年の春、彼の畑の「桃」の木と、「キウイ」が伸び放題になっていて、困っていたところ、わたしを思い出してくれて剪定を頼まれ、それから、この夏には近くのカラオケ喫茶に誘われて2回行き、昨日はわたしの方から彼を誘ってカラオケをしてきた。私は古い歌しか知らず、あまり行きたくはないが、こんな時にはやはり歌でも歌って気を紛らわしたくなるのだ。ちなみに私が好きな曲は小林 旭の「熱き心に」である。ただし、ところどころ伴奏に合わない。

        蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ  (芭蕉)

        淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守  (芭蕉)

        寂しさに「熱き心に」を歌う秋  

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久遠の世界で・・・

2017年08月22日 | 信仰

昨年の団参の「結語」で、総務がとても感動的な話を紹介してくださいました。

その話というのは、平成16年の教修会で純子先生がお話されたことで、それが、『平和の先人に学ぶ』という本の中に収められていて、その内容をかいつまんで紹介して下さいました。それがとても素晴らしく、昨年の団参以後、わたしは何度も感動しながら読ませてもらいました。その純子先生のお話というのは、ざっとこんなお話です。

 

純子先生は教修会で何かお話しするよう本部から頼まれました。それで当然の如く引き受けられたわけですが、聴講者は本部講師・本部講師補ですから、釈迦に説法のような気がして、夫である総裁先生に「どんな話をすればいいのかわからない」と相談された。すると、総裁先生は「あなたは、どういう話がしたいかわからないのに、講話を受けたの?」と、厳しい反応が返ってきた。それで、自問自答すると、「話したいことはあるにはあるが、何が何でもこの話をしたい」というのでもなかった。それで、「自分にはどうして、是非、この話がしたいというものがないのだろう?」と、さらに何度も何度も自問自答しながら考えられました。

そして、ついに答えを見つけられるわけですが、その答えは、直接読んでいただく方がよいと思うので、ここでは「謎」のままにしておきます。

そして、その答えに行きつかれたとき、夫である総裁先生の日常の生き方が思い浮かんだとのこと。

純子先生は講習会が終った直後はほっとされるが、総裁先生は講習会が終わった帰りの車中でも、あれこれと調べ物をされている。こんな調子で、ひとときもぼやっと無駄に過ごされている時はない。そのことを、夫の責任感の強さと、何事にものめり込む性格からきていると思っておられた。ところがその時、そういう単純なものではなさそうだと気がつかれて、次のように質問された。

「あなたは、夢を追いかけてるの?」

すると総裁先生は「多分、そうだろうね」と答えられた。それでさらに質問されました。

「夢を追いかけるというのは、例えば、自分が努力すれば手の届くところにあるから、人は努力することもできる。しかし、人類光明化とか、世界平和というのはあまりに遠くて手が届かない。そういう夢を追いかけるというのは難しくない?わたしたちが生きている間に、世界平和が実現すると思う?」

すると総裁先生は、こう答えられた。

「何をそんなに急いでいるの。そんなに焦る必要はないんだよ。僕たちは久遠に生きるんだよ。死なない生命なんだよ。死なない生命の私たちが、久遠の世界で実現していくんだよ。」

「久遠の世界で実現していく」というのは、現象的には、何度も生まれ変わりつつ、御教えと共に「世界平和」を実現していく、そういうことではないかと思うのですが、それはともかく、総裁先生は、さらに言葉を続けて、こういわれています。

「僕たちが今できることは、例えば、前の人がいっぱい石を積んだとしたら、その積まれた石の上に、もう一つ石を積むぐらいかもしれない。でも、それでいいんだよ。その過程を楽しめばいいんだよ。」

そして、さらに続けて、こうも言われています。

「あなたがいつも言っているように、生長の家の運動というのは、『こうでなくてはいけない』とか『これが生長の家の運動だ』という、型にはまったものではないよ。サラリーマンでも主婦でも、いろいろな人がその人の生き方の中に生長の家の信仰を現わしていけば、生長の家の生き方が多くの人に広がる。そういう生き方をすればいいんだよ。」

 

なんと素晴らしい、お話でしょう!

「この運動に参加している」そう思うだけで、ありがたいやら、嬉しいやら・・・。

ただの、絵空事で終わらせたくないですね。

「世界平和」の祈りを込めて、毎年、団参に参加させていただきたいと思います。

 

○私たちはこの総本山に来て「七つの燈台」を巡り、その名前に現れた実相世界の姿を、神意現成の姿をしっかりと見つめ直し、心を乱さずにその神意の実現に邁進していきたいと思うのであります。 唐松模様 2012年11月22日「天孫降臨とは神意の現成なり」より

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