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気の向くままに

山、花、人生を讃える

憧憬

2011年12月26日 | 人生

今朝は積雪約10センチ。
出勤する人は大変だろうが、部屋の窓から見ている限り、雪化粧をした風景が見られるのは有難い。

さて、男と云うものは強いものに憧れるものだが、純真な心をもった子供のころからそういう傾向は誰にも強くあるらしい。だから、いつの時代にも子供たちにとってのヒーローがいる。
私の子供時代は月光仮面がその第一にあげられるだろう。そういうヒーロー物語を漫画やテレビ、あるいは本を読んで、自分もそのヒーローのように、「強きをくじき、弱きを助ける」ものになりたいと思うのである。

やがては学校の勉強、あるいは社会に出て働くようになるにつれて、そういう憧れは、現実生活の中で影をひそめていく。現実と物語とは違うのだと云うことをだんだん知っていくからである。
しかし影をひそめても、自分もヒーローのように弱きを助けたいと云う思いは、余裕が出てくると、また復活して来るものらしい。

私が還暦を迎えて退職願を出し、社長に最後の挨拶に訪れた時、
社長が、「まだ退職するには早いと思うが、退職して何をするんですか?」と聞かれたので、
私はなんとなくこれからは人の役に立ちたいという希望があったので「どうなるかわかりませんが、ボランティアでもやりたいと思っています」と答えると、
そばにいた重役が、「重役連中も退職するときは、みんなそう言うなあ」と言ったのでした。
その時、わたしはとっさに「そうか、みんなそうなのか」と思いながら、意外でもあり、「やっぱりそうなのか」とよくわかるような気もしたものだった。
みんな競争社会の中で頑張りながら、心のどこかで「こんな筈ではない。何かが違う」と感じていたんだろうなあ。だから、今度はボラティアのような人助けになるようなことをしたくなるんだろうと、頭の中がくるくると回転したことでした。

今年の2月に脚立から落ちて腰椎圧迫骨折となって療養中の3ヶ月ほど、16時から再放送されていた「水戸黄門」を毎日楽しみにしていた。見始めるとなかなか面白いのである。私の兄の同級生グループもみんな水戸黄門のファンと云うし、シルバーの剪定仲間にも水戸黄門ファンはいる。
つまり、「水戸黄門」は現役を退いたシルバー世代のヒーローなのである。現実生活ではかなわなかった心の思いの幾分かを水戸黄門を見ながら満足させているのではと思う。

さて、谷口雅春先生の「無門関解釈」の中には、こんな話が書かれていた。

まだ公娼制度があった頃、生長の家のある先生が西ノ宮の或る遊郭で遊女たちに講演をしたと云うのである。簡単に言えば「あなたたちは、いくら家が貧しいからといってこんなところへ売り飛ばされて親を恨んでいるかもしれないが、しかし、自分の娘を売って喜んでいるような親がどこにあるだろうか。大切な娘を売りに出さなければならなかったお父さんも、あなたたち以上につらかったに違いない。」
こんな話をしながら、お父さんを赦し、感謝するよう指導し、神想観を教えたそうだ。
そして、娘たちは教えられたとおり、父を赦し、感謝する祈りを続けた。

するとしばらくのうちに、遊女の父親たちが、お金を持って娘を引き取りに来たと云うのである。
それが1人や2人ではなく、その妓楼で抱えていた遊女が20数名から12名に減ってしまったとのことだから、偶然と云うような話ではない。
娘たちが、そんな薄情な父は本来の姿ではなく、それは仮の姿であって本当は仏のような慈父であると観じて、赦し感謝したとき、このように本来の慈父が現実となって現われてきたというのである。

これに感動したのがその一部始終を見てきた妓楼の主人であった。その主人は感動して、娘たちがまだ働いて返金していかなければならなかった残金分を全部棒引きにしてしまったとのことであった。

しかも借金を棒引きにし、抱えていた娘たちが親に引き取られ働き手の数が減ったなのだからその分、収入は減りそうなものだが、さにあらず、金払いのよい上質の客ばかりが来るようになって以前よりも収入が増えたとのことであった。

実に水戸黄門もビックリのドラマが現実にあったというのだから、素晴らしい話である。

思い出したが、「神との対話」の中にはこんな話があった。

○妬みは歪んだ感情だが、憧憬というのはお姉ちゃんがドアのノブに手が届くのを見て、わたしも早く大きくなりたいと思う感情だ。憧憬は推進力になるものであって、悪いものではない。

「憧憬だけでは何にもならいない」と、つい自分を否定してしまいがちだが、こういう言葉を聞くとまた私は嬉しくなってしまうのである。

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松から誌友会開催へと化けた話、そして我が家の奇跡

2011年12月03日 | 信仰
剪定では何といっても松だが、シルバーの仕事で時間の余裕がある時には、松の剪定をさせてもらっている。
が、これは数をこなさないことにはなかなか早く出来ないし、うまくも出来ない。うまく出来ないと、うまくなりたいと願うのは人情である。

練習用に自分の家に松を植えるのもひとつの方法だが、話はそう簡単ではない。
なんでもお宮さんの神様が松を嫌うとの昔からの言い伝えがあり、我がにはお寺さん以外は松を植えていない。

「誰か練習で松を剪定させてくれる人はいないかなあ」
と思っていたら、願ってもない話が飛び込んできた。

近くに住む白鳩のAさんから家内に、「○○さん(わたしの事)に剪定してもらいたい」との話があったらしく、家内は「主人は、松はまだ練習中だから・・・」と云うと、「それでいいからお願いしたい」とのこと。

それで実際に見に行くと、玄関脇に立派な松が・・・。
こんな立派な松を自分が剪定して台無しにしてしまってはと怖気づいたが、再度、「自分はまだ練習中だけどやらせてもらっていいですか?」と念を押すと、「是非お願いします」とのことだったので、思い切ってやらせてもらうことにした。

このAさんは、御主人が退職後、患って身体が不自由らしいのだが、それでも明るく、元気溌剌オロナミンCで大活躍しておられる素晴らしい人なので、わたしも大船に乗った気持ちでやらせてもらうことにした。

その松にはまだ手をつけず、他の木からとりかかっているのだが、いくら時間がかかってもいいし、好きな時に来てやってもらえばいいとのことなので、時間や早い遅いなど気にせず、小さな枯枝を一つ一つ落としながら気のすむようにやらせてもらっている。そうすると、夜(6時)、合掌し眼を閉じたまま聖経を読誦しているときには、小さな一枝一枝がひとりでに瞼に浮かんでくる。このぐらい夢中になれると充実感があって気持ちがよい。

さて、こうして剪定をし始めると、またまた思いもよらない話が持ち上がって来た。
なんと、「剪定をお願いしたのも御縁だと思うし、主人のためにも良いと思うので、我が家で相愛会の誌友会を開いてもらいたい」との申し出である。

思いがけない話に最初は躊躇したのですが、これこそ神さまからの贈り物に違いないと気づき、2月から誌友会を開催させてもらうことになりました。
まだ嬉しいというより、喜んでいただけるような誌友会になるだろうかと心配が先に立っているのですが、これはわたしの迷いに過ぎず、きっと祝福された誌友会になるに違いないと思う。
神様、どうぞよろしくお願いします。


話は変わって、翌日の事、
職場から帰ってきた息子に、3月の講習会のチラシを黙ってわたすと、息子は「何?」と云いながらチラシを見始めた。そこで言いました。
「一度ぐらい行ってもいいんじゃないか?」
すると息子は、
「いつも世話になっているから、一度ぐらい行ってみるかな」と云う返事。

いやあ、誘いはしたものの、こんな良い返事が返って来るとは思ってもいなかったから驚きました。
まさに、我が家に奇跡が起きた感じ。
例えれば、一瞬にして部屋中にバラの花が咲いたようだった。
生長の家へのお誘いで、今迄一度だって良い返事が返ってきたことがないのだから。
シルバーの親父が年を忘れて叫びました。
「やったあ!!」

その後、
息子「行けばいいの?」
親父「行くだけじゃない。行って話を聞くんだよ」
息子「話を聞くだけでいいの?」
親父「話を聞くだけでいい」

ひょっとして息子は、「宗教くさいことをやらされるんじゃないか」と、その事を心配していたんだろうか。

成るほど、それもわかる。
だが、時には臭い中に飛び込んでみるのも面白いじゃないか。
はたして、臭いか臭くないか、それとも何となしに漂う香気か、自分の肌で感じてみればいい。
なにはともあれ、息子が行く気になってくれてこんな嬉しいことはない。
これも、思わず「神様ありがとうございます」と言いたくなったことでした。
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紹介します

2011年12月02日 | その他
久し振りのブログ更新である。

まずはじめに紹介したいのは、11月のはじめから共に過ごすことになったわが分身「浮雲号」である。



どうです、この精悍な面構え。
そして、色はほんのり黒みがかったシルバーでなかなかの重厚感です。
(写真では微妙な色合いが出ないが、実際はもっと渋くて良い色です)
さすがに待ち焦がれ、まだ見ぬ先から恋していただけに、一目で一目ぼれしてしまった。

すわり心地も乗り心地も悪いが、その悪いところがなんとも良い!
こういう車に乗っていると、西丸震哉じゃないが多少なりとも原始人間にかえったようでワクワクしてくる。
マニュアル五段ミッション。
エアコンなどと云う余分なものはついていない。
エンジンの音もなかなかうるさい。
まさに「働く」車である。
こんな車に乗っていると、「ようし、働くぞ!」と、ますます働くのが楽しくなってくる。
というわけで、わが愛車「浮雲号」は来た翌日から、生き物の如く嬉々として大活躍の日々です。
浮雲号君、末永くよろしく!

次に紹介するのは、わたしのはじめての絵封筒です。
まあ、見てやってください。



どうです?下手くそでしょう。
もう少しうまく描けると思いましたが、できあがりを見て我ながらがっくり。
実は、うまく描けたら漫画チックな絵の好きな友達がいるから、実際に手紙を出して見よう。そうしたら相手も喜んで絵封筒を書いて返信して来るかもしれないと楽しい想像をしていましたが、さすがにこれでは出す気になれなかった。

実は本チャンの前に家で下練習をしたのですが、その時は、これよりは少しましだったような気がする。が、その上手下手よりも、写生するのがなかなか楽しかったということを書きたかったので、この下手くそな絵を紹介した次第です。

日頃仕事で使いながら、しげしげと眺めることはないのですが、描き写しながら細かいところまで見て、
「ああ、ここはこうなっているのか」とはじめて知ったように描いていましたが、それがなかなか楽しい時間でした。描いたあとはがっくりでも、おつりが来るだけの楽しさがありました。
こうして見ていると、道具と言えども心があるかのようで愛着が湧いてきますなあ。
挟みは仕事道具で「美」とは関係ないと思っていましたが、それは誤解であることが少しわかった気がします。
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