気の向くままに

山、花、人生を讃える

「肝試し」の思い出

2020年07月31日 | その他

生きているうちに人の死体を燃やす火葬場の中に入った人はめったにいないと思うが、私は高校に入学した最初の夏休みの前に、その火葬場の中に夜の闇に紛れて入ったことがある。今日はその思い出話を聞いていただきたいと思う。

 

私の入学した高校は三重県鳥羽市(郊外)にある男子ばかりの全寮制の高校でした。そこは山と海が接していてシーズンになればホタルが飛び交うほどの風光明媚なところで、今も、本当に好い所だったなあと懐かしく思い出される。

 

国道を挟んで山側に校舎があり、海側に寮が2棟あり、国道のすくそばまで入り江が入り込んでいて、そこには学校の訓練用のカッターや、時代劇に出て来る櫓を8の字型に漕ぐ伝馬船やヨットなどがつながれていた。

 

そこから少し離れたところには農家の畑があり、その畑を突っ切って海側に歩いて行くと、ちょっとした林があり、林を抜けたところに農家の作業小屋らしきものがあり、そこから少し先にこの村の火葬場があった。

 

そしてまず、準備段階として夜消灯後、先輩たちが新入生(4人部屋)の部屋にやって来て、わが校にまつわる怪談七不思議を話して聞かせるのである。いっぺんに7つ話すのではなく、1話か2話づつ聴かされるのだが、怖かったわけではなく、誰が考えたのか話の面白さや巧みさに感心しながら聞いていました。

 

そういう怖い話を準備的に聞かせておいて、夏休みの前になると、「肝試し」というわけで、夜暗くなってからその火葬場へ行かされるのだった。

私たちにはその火葬場へ向かう道に用はないから、そのとき以外に、その道を歩いた者はいない。そして、あらかじめ先輩が、次のように話す。

 

○あそこに林が見えるが、この道を歩いて行って、あの林を抜けたところに、おんぼろの小屋がある。その小屋には火葬場の番人をしている「せむし」の男が住んでいる。その「せむし」男が話しかけてくるかもしれないが、その男にナタで襲われたという話もあるから、いくら話しかけられても絶対立ち止まったり、振り向いたりしてはいけない。無視して通り過ぎ、焼き場の中に入って、その中に残っている灰を取って来い。(本当はせむし男などはいないのだろうが、疑いながらも半分は信じてしまう)

 

というのが、吾ら新入生に課せられる任務だった。
で、私は指示された通り、緊張しながら暗い林を抜け、不気味な小屋の前を通り、そして火葬場の前に到着した。そして背中を押されるように鉄の扉を開き、上半身をかがめて中へ入った。中は勿論真っ暗闇で何も見えない。手探りで灰を探すと、下はコンクリートになっていて、きれいに掃除してあり、灰は少しも残っていない。何か証拠になるものをと思ってさがしていると、金属の扉の錆があったので、その錆を少しもって帰った。

 

そして国道近くで待っていた先輩に、「灰がなかったので扉の錆を持ってきました」と言って、それを差し出すと、先輩は何も言わず、ただニヤリと笑った。もうその先輩の顔は忘れたが、あのニヤリの感じは今も覚えている。

 

今思い出すと、怖いというより夢中だったのだが、無意識のうちに、肝っ玉が小さいと笑われないようにという意識が働いていたのと、当時はお化けよりも先輩の方が怖かったのだろうと思う。

 

それに比べると、香港の学生たちの、愛と自由の為、巨大な権力に立ち向かうあの勇気に、ただ感心させられるのである。


一人悦に入る

2020年07月28日 | その他

下の写真は我が家から車で40分ほどの所にある「アクアワールド・水郷パークセンター」(岐阜県海津市)というところ。
もともとはモデルハウスの展示場で、モデルハウスが7,8棟あり、その各家の庭先はすぐ水辺になっていて、庭先にボートが繋げてある家もあり、まさに夢のような生活空間になっている。

 

しかし、モデルハウスの役目を終えたのか、今はその家々は、絵や、紙や木工工作などの教室や展示場として使われていて、自由に中に入って展示物を見ることができるようになっている。

 

家の玄関先や道ばたには四季折々の花が植えられ、家の周りの木々や家はどこかメルヘンチックで気持ちの良い所だが、不思議なことに、いつ行っても人は少なく静かで、こんないい処なのにと私は不思議に思っている。

              

さて、そんなお気に入りの場所なので、当然写真も撮りたくなり、今まで写真を撮ってはそれを眺めて楽しんでいたが、今回は写真ではなく絵に挑戦してみることにしました。

 

というわけで、下は写真を見て描いたものですが、こんな下手な絵をブログにアップする人は恐らく他にはいないと思うが、これでも自分では素晴らしく上出来じゃないかと思っていて、今まで模写した絵と共に、寝る前に眺めて悦に入り、朝起きては「おお、素晴らしいじゃないか!」とまた悦に入っている次第です。

            

 

○あなたが前回、魂を感じたのは、いつのことだったろう?喜びに泣いたのはいつだった?
詩を書いたのは?音楽をつくったのは?雨の中で踊ったのは?パイを焼いたのは?絵を描いたのは?
何かを修理したのは?赤ん坊にキスをしたのは?猫を抱きあげてほおずりしたのは?山登りをしたのは?
裸で泳いだのは?夜明けに散歩したのは?ハーモニカを吹いたのは?夜明けまで話しこんだのは?
何時間も海辺で、森のなかで、愛し合ったのは?自然と触れ合ったのは?神を求めたのは?
黙って座り、自分という存在の最も深い部分にまで旅をしたのは、いつだった?
魂に、「やあ」とあいさつしたのは、いつだった? 
                                                                       
『神との対話』(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)より 

 

 


映画『ステップ』を見て

2020年07月24日 | 映画

20日の朝、家内が
「私、今日映画を見に行くけど、一緒に行く?」と聞くので、どんな映画かと聞けば、『ステップ』という題名のこんな映画だという。それで、まあまあ面白そうだし、蒸し暑い1日になりそうなので、映画館で暑さ凌ぎと考えて付き合うことにした。

 

緊急事態が解除されてから、2回映画を見ているが、一度は観客は私以外は1人しかなく、もう1回も5人ほどだった。今回はもう少し入っていたと思うが、それでも10人は超えていなかった。

 

昼食を食べ、家内が勘定をしている間に先にチケット売り場に行くと、その手前でお札が落ちているのが目に入り、近くによると4つ折りにされた1万円札でした。昔、まだ高校生だった頃、いつも小遣いが足りなくてピーピーしていて、「俺にも1度ぐらい目の前に1万円札が落ちてないかなあ」と思ったりしたが、遂にその願いが実現したと一瞬顔がほころんだ。しかし、それは遠い昔のことで、今は孫もいるおじいちゃんだ。いくらポケットにしまい込みたくてもそういうわけにはいかないだろうと熟慮に熟慮を重ね、映画のチケット売り場のお姉さんに訳を話して差し出し、はかなくも一瞬の泡と消え去ることになった。

 

さて、余談はさておいて、「ステップ」という映画だが、奥さんに早く先立たれた男が、まだ幼い娘を育てていく物語だった。この映画の主題は、もし、何年後かに再婚したいと思うような相手があらわれた時、他界したとはいえ、まだ心の中に生きている奥さんを、娘にとってはお母さんを裏切ることにならないか、そしてまた、小学生を卒業する年代の娘にとってはどうかという問題が映画の主題になっていたようだ。

 

女手一つで子供を育てるという話なら比較的物語にもなりやすく、また絵にもなりそうだが、この映画は珍しくシングルファザーと娘の物語で、貴重と言えるかもしれない。男がこの映画を見れば、もし自分がこのように早く女房に先立たれていたらどうなっていただろうかと、そんなことが頭によぎるに違いない。その意味で、見て損はない映画だと思う。

 

そう言えば、昨年の今頃は『今日も嫌がらせ弁当』という映画を見た。こちらはシングルマザーの子育ての奮闘記だったが、これも、普通は男が見るような映画ではないが、見れば勉強になる映画だったのを思い出しました。どんな勉強になるかはどうぞこちらを。映画『今日も嫌がらせ弁当』を見て 

 

前にもどこかで書いた気もするが、多くの人と同じように、以前は洋画のアクション映画が好きで、時代劇以外の日本映画はつまらないと思っていた。しかし、「ジェネラル・ルージュの凱旋」を見てからは、日本映画にもこんな面白いものがあると知り、それからはもっぱら日本映画ばかり見るようになった。それもだんだんにおとなしいドラマ的なものを好むようになり、これも年のせいかなという気がしている。ストーリーの派手さよりも、役者の演技を楽しむようになった、そんな感じである。


ただいま絵に夢中

2020年07月21日 | その他

7月1日 名古屋へ所用があって出かけた際、近くの文具専門店に寄って 水彩絵の具を買いました。

  

 

今まで、絵を見るのは割と好きなところもあり、スケッチブックと絵具を買って書き始めたこともありましたが、自分の下手さ加減にガッカリし、それ以来、まったく絵を描こうとは思わなくなりました。

 

私の信仰している団体では10年ほど前から、現代人は左脳的傾向となり、排他的になっているきらいがあるというわけで、もっと右脳を使いましょうということで、絵や俳句とか、何でも買うのではなく、廃品を利用した工作などをやってみましょうと薦めている。それは、モノの良さよく観察し、よく味わいましょうという趣旨だが、あいにく私は絵も下手、工作も苦手と来ている。

 

ところが最近フォロワーにならせてもらったあるブログを訪問しているうちに「こんなふうにスケッチできたらいいなあ」思ったり、絵を描く楽しさのようなものが伝わってきたりして、私もだんだん真似して描きたくなってきたのです。

 

それでまず、友達を驚かしてやろうといういたずら心で絵手紙を描いてみました。
絵はそのブログの中にあったイラスト的な雨に濡れるアジサイを描き、そして「雨に濡れる紫陽花を見ながら、あなたのことを思い出しています」という分を添えて投函しました。

 

そして、ニヤニヤ想像しながら相手の反応を待っていると、電話が来て、最初「俺にはこんな彼女はいないがなあ」と不審に思ったそうだ。そして差出人を見たとのこと。

 

2回目は名古屋栄のクラブに勤める50歳の友達に出しました。
今度はネットにあった夏の山と入道雲のイラストを描き、そして「あなたには、この雲がビールの泡立ちに見えるかも知れないが、飲み過ぎに注意しましょう」と書きました。ネット上のイラストを見て書いただけですが、自分には上出来に思え、嬉しくなってきました。(笑)

 

気をよくして、今度は孫に書いてやろうと思い、孫が喜びそうなイラストを探し、金魚鉢に泳ぐ金魚とそれを見ているカエル2匹を描いた。すると娘から、「凄くいいね。子供たちもすごく喜んでいたよ。また出してください」というメールが来た。「すごく」がついているからお世辞ではないだろうと思い、ますます嬉しくなり、今度は長男の孫にも描いて出すと、また「子供たちが喜んでいた」とメールが来ました。

 

先日は娘の子供たちに2回目の絵はがきを書いて出しました。絵手紙は投函すると、どんな絵を描いたか忘れてしまうので、今度は投函する前に写真に撮って置きました。それが下の写真です。ネット上のイラストを見て書いただけですが、それでもこれを自分が書いたと思うとなんだか嬉しいんですね。

     

 

それでさらに気をよくして、そのブログに掲載されていた本格的な風景画にも挑戦し、スケッチブックに描いてみました。そしてできあがったのを見ると、これがまたいいんですね。(笑)
本当に自分が書いたとは思えなくて、「えっ、これ、本当に自分が書いたの!」という感じ。(笑)

 

それでますます気をよくし、今度は同じくそのブログにアップされている、田園風景の中を電車がこちらに向かって走って来る絵を描きました。すると、これもまた、お手本を見て描いているとはいえ、自分が描いことに間違いはなく、そして自分が描いたとは思えなくて、見ては感心し、見ては感心しております。(笑)

 

家内は、「お父さん、才能があるね」と言いながら、「きっと絵の具がきれいなんだわ」と言います。

私もそんな気がしていますが、とにかく何かいいんですよね。(笑)

 

いつか個展を開こうかな。(笑)


人間は原子の集まり?

2020年07月20日 | 人生

昨日の日曜日、『最後の講義』と題した物理学者 村山 斉(ひとし)教授の講義の再・再放送があった。そのせいと思うが、ブログのアクセス解析によれば、私が以前にその講演の内容を紹介した記事(『最後の講義』 村山 斉 教授)へのアクセスが、夜中に20回近くあった

 

それで改めてその記事を読み、なかなか良い話だと思ったのですが、その中に一つ気になることもあった。

 

それは村山教授の話の中に紹介されている、物理学者ファインマンが、
「もし、今あなたが死ぬとして、100年あとの後世の人に一言だけ何か残すとしたら、何を伝えますか?」と聞かれたときに、「万物は原子で出来ている」と答えたというところです。

 

ここにある「万物は原子でできている」という言葉は、有名な物理学者の言葉だけに、「人間も原子が集まって出来ている」という、特に若い人にはそんな錯覚を起こさせやすい、あるいはそんな人間観を持たせやすいように思えたので、その点を補足したくなったのでした。

 

人体なら、「原子で出来ている」と言ってもよいのでしょうが、「人間も、原子で出来ている」と解すれば、それはとんでもない間違になると思う。人間は、人体を造ったものであって、人体そのものが人間ではない、ということです。

 

原子というのは、以前は物質の最小単位と思われていたものですが、そういう物質は誰かが手を加えない限り勝手に動くものでないことは誰でも知っています。そんな物質である原子を誰が動かすのかと言えば、それは智慧ある生命が動かすのであって、手が造られ脚が造られ、目、鼻、耳が造られ、内臓各器官が造られ・・・という具合になるのであって、原子が勝手に動き集まって人体になるわけではない。補給された栄養分から、それぞれ別の各器官や臓器へと構築されていくには、生命が天下り、生命の智慧(理念)に従って配列されなければ、このような精密な人体が出来る筈がない。その人体の奥にある「智慧ある生命」こそが、人間なのだと思う。簡単な計算機さえも人間の智慧による設計がなければできないことを考えれば、よりわかり易いと思う。

 

イエス・キリストは「人新たに生まれずば、神の国を見ること能わず」と説かれた。するとユダヤの長老だったニコデモと言う人が、「我、早老いたれば、如何にして再び母の胎内に入りて生まれ変わることを得んや」と反論した。するとキリストは、「何回生まれ変わっても、塵(物質)より生まれた者は塵であると言われた。

つまりキリストは、人間を肉体と観るのではなく、肉体の奥にある生命であるというように、自覚の生まれ変わりが必要だということを説かれたのであって、自覚が変らなければ何回生まれ変わっても塵より生まれたと思う者は塵なのである。

お釈迦様も同じことを説いておられて、『般若心経』で顛倒夢想 (てんどうむそう:アルものをナイと思い、ナイものをアルと思う逆さまの思い) を遠離(おんり)すれば恐怖なし」と説かれいる。そして最近の物理学では、般若心経と同じく、物質が本来空であることを教えている。さらに法華経では、その空の奥に、如来のいのちが尽十法に満ちていることを説いておられる。

 

このように釈迦もキリストも同じことを説いておられて、つい難しそうな話になったが、とかく人間は目に見えるものに惑わされやすく、反対に目に見えないものについては忘れがちになります。だから、人間をどのように観るかということは、単に思想の問題というだけでなく、その人が歩む人生にも影響を及ぼすので、補足させてもらいました。

読んでいただきありがとうございます。