気の向くままに

山、花、人生を讃える

睡蓮を見に

2020年06月20日 | 

今日は朝から日が射し、梅雨の季節とは思えない爽やかな風が吹いていました。

 

昨日は兄と久しぶりに喫茶店に行き、「天王川に睡蓮がきれいに咲いている」と聞いたので、今日はさっそく家内を誘って車で20分の天王川公園へ行きました。ここは桜祭り、藤祭りでも有名なところですが、ここへ睡蓮を見に出かけたのは初めてでした。

 

私は多くの男性と同じように若いときは、まだ花というものに興味をもたなかったのですが、それでも睡蓮には何か魅力を感じていたし、見たいと思う花でもありました。それは、きっと他の男性も同じだろうと思う。つまり、花に関心がないという人でも、この睡蓮だけはみな好きなんだろうと思う。それだけ、他の花とは違う、独特の魅力があるのでしょう。

 

もし、男たちに「いちばん好きな花は何?」とアンケート調査をしたとしたら、睡蓮がナンバー1になるのではないだろうか。
と、勝手に想像しています。

 

(天王川公園、と言っても川ではなく池ですが、その池に咲く睡蓮)

 

(池の中の島に架かる橋。 池には鯉が沢山泳いでいます)

(睡蓮)

 

 

睡蓮を見たあとは、公園を一回り(2キロ)ウオーキングしました。
広いところだから密になることはありませんが、思ったより多くの人が朝の散歩、ウォーキングを楽しんでいました。

 

(周囲に設けられた、眺めの良い遊歩道)

 

(藤棚の下は日陰で、眩しさもなく、いっそう気持ちよく歩けました)

                                            ――お・わ・り――

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平成万葉集(NHK放送番組より)

2020年06月18日 | 平成万葉集

昨年、NHKで「平成万葉集」という番組が3回にわたって放送され、その番組で紹介された短歌とそれに関連する物語などをこのブログで書かせてもらいました。昨日、ときたまその記事を読んだのですが、「歌はいいものだな」とあらためて思いました。(自分で作ることはないが)

 

それでまだ記事にせず、パソコンの中に眠っていたもの(短歌)も読み、それも良かったので紹介させてもらいたくなりました。きっと共感していただける歌がいくつかあるだろうと思います。

 

そういうわけで、以下は、3回の内の「ふるさと」をテーマにした時に放送された短歌ですが、見ていただければ幸いです。

 

     古里に父母はなし家もなし 思ひ出のみが宝となりぬ

    「そちらにはもう慣れましたか」 あなたまでメールが届きそうな空です

    「後期高齢者」言わしておけば言うものぞ 憤然として春の雪掻く

    背伸びして生きてきました 古里に踵おろせば土のぬくもり 

    父祖の血と汗の滴るふるさとの 我も一つの土塊(つちくれ)となる 

    受話器からふるさと訛り聞こえ来て 景色懐かし我を励ます

    ニュータウンという町の大方は 老人たちの多く棲む町

    魚屋も八百屋も消えて老夫婦 遠きコートにカート押しおり

    今頃は地鳴り海鳴り雪おこし とうに捨てたるふるさとなのに

    ふるさとを恋いて泣く時呆けたる 父の涙の太かりしかな

    ふるさとを離れて思う淋しさに 拉致された“めぐみさん”思う

 

≪魚屋をしていた石ノ森(76歳)さんの歌とお便り≫

    若芽煮る浜に湯けむりあがるころ 村は津波にかいめつしたる  

    妻の名を心に叫びさがしいる 巨大津波の瓦礫の中を

○平成23年3月11日、午後2時46分、地底から聞こえる不気味な地鳴り、岩石が軋むような音を聞いたとき、大変なことが起こるという直観がした。真っ先に浮かんだのは自宅にいる妻の安否でした。情報を得るために日赤病院へ行くと、救助のヘリコプターやパトカーのサイレン、ひっきりなしの救急車の音、絶望的な思いが頭をかすめ、無事であってくれと祈り続けました。

    日赤にひっきりなしの救急車 津波の街からはこばれてくる

○震災から4日目、日赤へ行くと、後ろから声を掛けられました。振り向くと私の地元の小渕浜の友人。
「奥さん元気でいるよ」、その言葉を聞いた途端、人目もはばからず涙があふれ、身体の緊張がほぐれていくのを感じました。
翌日、何とか小渕浜までたどり着き、避難所を尋ねると、妻が泣きそうな顔で駆け寄って来る。肩を抱くと心なしか骨ばっている。

    津波より生還したる妻眠る 寝息ききつつ布団をかける

○震災から8年経った現在も時折り津波の匂いを感じることがあります。どんな匂いかと言われても言葉での説明は難しい。私には2万の犠牲者の魂の匂いと思えてならないのです。「津波忘れるな」という様に。

      復興の未だ届かぬ裏町の 日陰にのこる津波の匂ひ

                                         (石ノ森さんの歌 おわり)

 

    生き残りごめんなさいという祖父に 強く頭(かぶり)ふるテレビを見つつ

    海なれば母と思いて来ししものを 憎悪のごときが心を過ぎる

    生きねばと仮設の隣り荒地借り 季節後れの野菜植まく

    なゐをのがれ戸外に過ごす人々に  雨降るさまを見るは悲しき   天皇陛下(当時の) 

                                                           (「なゐ」は地震のこと)

    大いなるまがのいたみに耐えて生くる 人の言葉に心打たるる   天皇陛下(当時の)

                                                           (「まが」は災いのこと)

    今ひとたび立ちあがりゆく村むらよ 失せたるものの面影の上に  皇后陛下(当時の)

    「地元出る」決意伝えたその時の 涙溢れた母の表情

    大人にはなりきれていない 父母の棲む街まで続く空を眺める

    でも私東京が好き 介護しに帰って来いとふるさとの空

    真昼間無人駅に吾を待つ 母の姿をふるさとと呼ぶ

    村人の視線を受けて畝切りし Uターン農業二年(ふたとせ)を経ぬ

    白菜がなにゆえ結球しないのか にはか農夫はパソコンひらく

    今もなほ田をつがざりし負ひ目あり 梅雨来たるたびに田を植うる夢

 

 ≪ナレーション≫ 平成の間に農家の数は半分に減った。200万の人々が田畑を手放した。

 

    畑消えて発電パネル増えてゆき 野菜を売らずに電気売る農

    TPPの説明会に村人は 田畑の匂ひ持ちて集い来

    春はまた足の裏からやって来て 手の指先で輝いている

    四十年家族と生きた庭木伐る 原発憎しチェンソ―哭く

    福島のしだいに遠くなりゆくか 多摩ナンバーを愛車につける

    思ひっきり春の匂ひを吸いこみて 「我は我なり」と富士山に言ふ

    前向きに生きると人に言いつつも 前がわからぬと避難者の言ふ

    指ほどの山しょう魚を捕まえ来て 友と遊ぶ分校の子よ

    へその出るジーンズの孫が「只今」と 玄関に立つ春の休みは

    ここち良き朝の目覚めに百歳を 目指してまだまだ負けてたまるか

    雨上がりみたいに終わりはくるのだろう 明日の予定を手帳に記す

    百歳への夢追いながら草を引く 去り行く平成懐かしみつつ

 

以下は平成万葉集に関する過去記事ですが、興味のある方はどうぞ。

       NHK総合の「平成万葉集」より     平成万葉集「女と男」より     ある夫婦の物語  

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある女性のごみ拾い

2020年06月16日 | 人生

2日前、曇り空だったので、家から車で10分のアジサイ寺に行きました。

ほとんど毎年のことだからあまり新鮮味はないのですが、それでもこの時期になると行きたくなります。

そして、同じようにカメラのシャッターを切ります。

「去年も、その前の写真もあるじゃないか」と思うのですが、心のどこかが納得しないようで、結局、毎年同じようにして写真を撮ります。

今年もたくさんの人が訪れていました。

 

 

 

     紫陽花の青あざやかに空家かな  (平成22年)

 

話は変わって、
次の話は新聞記事に書かれていたものだそうで、「新しいページ」(谷口純子著)という本に紹介されていたのですが、とても良い話なのでここにも書かせてもらいます。(2002年頃に書かれたもの)

 

○東京都板橋区の89歳の女性は、「亡夫の好きだった街をきれいにしたい」という願いから、毎朝駅前でゴミ拾いをしてきたという。ところがある日、持ち帰ったタバコの吸殻が原因で、自宅が全焼してしまった。ところがこの女性は、火事の後に知人宅に身を寄せた後も、落胆して掃除をやめることもなく、「1日でも休めば、ゴミが散乱する」と駅前での掃除を続けているそうだ。

 そんな彼女の所には、全国から数十件の励ましの手紙や電話が寄せられた。中には「母子家庭で生活に余裕はありませんが・・・」とお金を送ってきた人もいる。また、それまでタバコのポイ捨てをしてきた男性が「これからは責任をもってタバコの始末をします」と書いてきたりした。こうして一人の善い行いは、多くの人の善意や善行を引き出していく。

 

と、紹介されていた。

 

毎日暗いニュースばかりがあふれているようですが、気を付けてみれば、中にはこんな素晴らしい話もあるのだと感動させられたのでした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安~い暑さ対策

2020年06月14日 | その他

孫が我が家に来ると、炎天下の庭でも土をいじって遊びたがります。
わたしはピーチパラソルなどで出来るだけ日陰を作るが、子供は日陰、日向にかかわりなく動き回る。
それで、母親は熱中症を心配して、時々子供たちに向かってシュッ、シュッとミストを吹きかける。
試しに自分にもかけてもらうと、ヒンヤリして気持ちがよかった。

 

それで剪定作業の休憩時に使えば気持ちがよいだろうと思って、先日、道の駅に行った帰りにホームセンターへ寄った。
そして、「アイロンがけのときに使う霧吹きが欲しいがどこにありますか?」と聞いた。
すると店員さんはしばらくしてから、「こんなものならありますが」と言って見せてくれたのが下の写真の「霧吹きくん」でした。
ペットボトルにはめて使うらしい。ストロー部分の長さは21㎝あるので、ペットボトルの長さに合わせて切ればよい。というわけで、値段も199円と安かったので2本買った。

                      

そして、さっそく風呂上りにシュッとやると、一瞬にして身体が冷っとなったので、思わずにんまり。

 

私は余りエアコンを使わず、よほど湿度が高いときとか、気温の高いとき以外は使わない。
その代わり、家にいる時は通常は上半身裸で過ごす。そして暑ければ扇風機を使うが、それほどでもないければ団扇で済ませるのだが、この霧吹きくんはそんな私には大変重宝だ。何しろ、電気もいらず、ほんの少しの水があればよいのだから。

 

下は娘がプレゼントしてくれた充電式の携帯扇風機で、風の強さは3段階に調節できて一番強くすれば結構な風力である。しかし、羽が小さいだけに風の来る範囲が狭く部分的なので少し物足りなさがある。それに比べて団扇は、たとえ手で扇ぐ労力がいるにしても、全体に風が来る分、それだけ涼感があるので、娘にはすまないが、団扇と霧吹きくんで暑さもけっこうしのげそうに思っている。

   

 

ということで、199円ながら、暑さ対策の天下無敵のツールを手にしたような気分なのである。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霧雨の中、ミニハイキング

2020年06月13日 | 

昨日、自宅から車で40分ぐらいの「道の駅」へ、注文していた日本茶(100g×10)を受け取りに行った。
お茶を買うのに、わざわざ40分もかけて行くのは、一つはお茶が地場産で値段の割においしいからであり、一つは気分転換のドライブであり、同時に道の駅近辺の風景を楽しむことを兼ねてのことである。(娘も気に入ってくれているので半分ほどは娘に)

 

この日の天気予報は「曇り」だったので、道の駅に寄る前に「月見の森」というハイキングコースを歩いた。
歩き始めた時はおあつらえ向きの霧雨で、霧雨に濡れた緑の中を歩くのは、癒やし効果満点で気持がよかった。

(緑のシダがきれいだった)

 

わたしはこの時期の雨の中を歩くのは、風情があって心地も良いので好きである。
日射しの中を日傘さして歩くのと比較すれば、雨降りのときの肌に感じる空気のやさしさは格別で、全身雨に濡れたくなる位だ。

 

(月見台。ここは愛知県の西のはずれに接する三重県だが、視界がよい時には真西に聳える名古屋駅セントラルタワーが近くに見える)

(月見台からの眺め。今日は遠くは何も見えない。白く光って流れているのは揖斐川)

(コース途上に咲いていたササユリやアジサイも目を楽しませてくれた)

こうして、湿った山道を2時間ほど歩いた後、道の駅に寄り、そして途中にあるホームセンターにも寄って買い物をした後、家に帰って驚いた。

 

玄関に入って靴を脱いだら白い軍足(作業用靴下)が血に染まっていた。
「なんだ、これは?」と思った瞬間、ヤマビルだと気がついた。それだけではなく、後ろを見ると、ズボンも両足の膝から下の何か所かが赤く血に染まっていた。ズボンを脱ぎ、足を洗おうと風呂に駆け込めば、鏡に映った自分の首すじにも赤い血の跡が広がっている。

 

道の駅でお茶を受け取り、ホームセンターでも買い物をしたが、こんな姿で何も知らずに買い物をしていたことに気付いてまた驚いた。

 

ズボンの後には気づかないにしても、首筋にひろがった血の跡は丸見えだ。欲しいものがどこにあるかと二人の店員さんに聞き、またレジもしているが、誰も教えてくれなかったし、私を見て怪しむような気配も感じなかったが、気持ちが悪くて、見て見ぬふりをしていたのだろうか。

 

ヤマビルは吸う時に麻酔剤が出るらしく、蚊に刺された時とは違って、吸われてもまったく気づかない。その点はありがたいのだが、気づかないぶんたっぷり吸われるせいか、血がなかなか止まってくれないのが困る。結局、首筋2か所、左足5ヶ所、右足3ヶ所、合計10ヶ所もバンドエイドを貼ることになった。

 

久しぶりだから、梅雨時の山道はヤマビルがいることをすっかり忘れ、家に帰ってはじめて気づく鈍感さだったが、忘れていたことが返ってよかったと云うべきかもしれない。おかげで、楽しいハイキングができ、帰宅してびっくりという、ハプニングのおまけつきとなったのだから。

 

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感動した話

2020年06月05日 | 人生

2日、3日、4日と暑い中でのフルタイムの仕事が続いて、さすがにきつかったが、無事に終わってほっとしています。

仕事先は同じ町内だから帰宅するのにさして時間はかからず、昼食はいつも家で食べています。そして今頃の暑い時期になると、熱中症防止のため先ず水船に浸かるのですが、そのために冷たくなった風呂の残り水にお湯を足し、それほど冷たくない水温にして湯船ならぬ水船に浸かります。そしてさっぱりしたところで昼飯を食べ、また出陣。そして帰宅後また同じことを繰り返します。こうして水に浸かって身体を冷やすのですが、それがとても気持ちよく、身体がよみがえるようです。この時、水があることの有難さをつくづく思います。まさに、お水、さまさまです。

 

さて、話は変わりますが、あるエッセイ本の中に、新聞に出ていたという感動的な記事が紹介されていて、それがとても良い話なので書かせてもらいます。

 

新潟市の中心部に、信濃川にかかる万代橋というのがあるそうです。その橋を、毎朝7時過ぎに、魚の入った箱が山と積まれたリヤカーを引いていく女性がいたらしいのですが、その彼女の姿が、ある50歳になる男性の目に留まったというのです。

 

その彼の話によると、こういうことであるらしい。
彼は3、40代の頃も毎朝その橋を渡り、そのリヤカーを引く女性を見ていたが、当時は特に気にも留めなかった。
ところがその後、首都圏で単身赴任を経験し、その何年か後に、年老いた親の世話をする必要に迫られ、故郷の新潟に戻ることを希望した。すると会社からは、子会社への出向という片道切符を提示された。彼はそれを受け入れ、7年ぶりに新潟に戻った。そしてその春、以前と同じ時刻に同じ姿勢で、橋を渡る彼女の姿を見た。するとその瞬間、感動が突き上げてきたというのである。

 

彼が言うには、
「必要以上に金をもうけることや、他人と競争することとは無縁に働く姿を、美しいと思った。働くことの本当の意味を語っているような気がした」・・・・・のだそうです。

 

一方の78歳のその女性は、大酒飲みの夫との、平たんではない人生を歩んできたらしく、40年に及ぶ魚の行商に明け暮れたすえ、今ようやく何の心配もない、心静かな時を過ごしているとのこと。だが、以前は、煮えくり返るような夫への激しい感情があったそうで、夫が死に、それがもう過去のものとなり、その頃には、そのわだかまりも消え、平穏な気持ちになっていたらしい。

 

そのようにして、以前には何も感じなかった行商の姿に、ある年月と人生経験の後、再びその姿を見たとき、感動に突き上げられたという話ですが、それは何故かと言えば、双方にこのような切実な人生経験があったことがわかり、深く感動させられたのでした。

 

○わたしはこう見ている。あなたが不利だという立場に生まれついた人――グループ――はある。それは客観的な事実だ。さらに、きわめて高い形而上のレベルでは、誰も「不利」ではないことも事実だ。それぞれの魂は自分が達成したいと思うことを達成するのに必要な、自分にふさわしい人や出来事、環境を創り出すからだ。
 あなたはすべてを選んでいる。両親、生まれた祖国、あなたが再入場した環境のすべてを選んでいる。
同じく、あなたは人生の日と時を通じて選択を続け、ほんとうの自分を知るのにぴったりした、過不足ない完璧なチャンスを得られるよう、人や出来事や環境を創造しつづけている。言い換えれば、魂が達成したいことがらから考えてみれば、誰も「不利」な立場にはいない。
 
たとえば、魂は障害のある身体で、あるいは抑圧的な社会や厳しい政治的、経済的環境のなかで仕事をしたいと願うかもしれない。自分が設定した目標を達成するのに必要な環境を創り出すためだ。だから、物理的な意味では「不利な」立場に置かれているように見えても、形而上学的には的確で完璧な環境なのだ。  『神との対話』(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)より

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする