気の向くままに

山、花、人生を讃える

日本の地形と文化

2020年05月31日 | 読書

韓国出身の呉善花(オ・ソンファ)さんは、日本の文化に魅せられ、深く研究している人だが、この人の書いた本を読むと、日本人の私が反対に教えられることが多く、とても勉強になります。

 

今朝、何気なく以前読んだ『日本オリジナルの旅』という本を手に取って、付箋がしてあるページを開くと、そこに興味あるこんなことが書かれていました。

 

○外国人が日本に来ると、たいていの人が日本人は礼儀正しい」「思いやりがある」「秩序を保つ」などの印象を持つ。体系的な宗教教義とはほとんど無縁な人が多い日本で、なぜそうなのか不思議だと外国人は言う。韓国や中国ほどに、儒教の影響が強いわけでもない。これだという道徳や倫理の基準がはっきりしていることもない。善悪感も極めて相対的である。

 

と、このように外国人が不思議がるそうだ。
それについて呉善花(オ・ソンファ)さんは次のように述べています。

 

○私の考えでは、日本では礼儀正しいことは、倫理・道徳にかなった振る舞いというよりは、美しい振る舞いとしてあるのだ。≪中略≫ 正しい生き方というよりも、美しい生き方というのが日本人である・・・と。

 

日本人の根底にあるのは「美しい生き方」である、とこういうのですが、成る程と思うと同時に、素晴らしい洞察だと感心させられました。

 

それから、日本のことを、「島国根性」などと自虐的に表現することがありますが、しかし、呉善花さんは日本の沿岸部の、山が海の近くまで迫り、山や海、平地、川などが一目で見られる、その独特の地形の美しさについて記した後、こんなふうに書いています。

 

○内陸へ入れば、今度は海がなくて四方を山に囲まれ、川や尾根道や谷筋の道を介して外部へとつながる、狭小な盆地での生活が展開されることになる。私はこのように様々な地形がギュッと圧縮を受けたかのように接近し合った「自然の箱庭」のような日本の独特な風景に、ずっと魅せられ続けてきた。そして、日本各地への旅を重ねて行くなかで、日本文化はこうした特異な地形から実に大きな影響を受けつつ、形づくられて来たのではないかと、そう考えるようになった。

 

と、このように述べています。そして、大陸では平野や高地が互いに独立しているように遠く離れ、そのことが民族的な距離の大きさを生みだしていることを記し、その大陸的文化と比較して次のように述べています。

 

○日本列島のような地形では、大陸のように、高地と平地が民族的、文化的な対立をつくり出すだけの条件がない。そのため日本列島では、対立よりは親和とか融合の観点を大きくとってみることが重要なのだ。このことは、日本列島では文化的な複合がきわめて起こりやすいことを意味している。 
 各地のさまざまの文化の複合体としての日本、徹底した対立にまで行くことがなく、いつしか融合と調和へと結果して行く日本、農業、林業、漁業から各種の職業技術を共に発展させてきた日本・・・以下略

 

と、このように日本文化が融合と調和に特徴があることを述べています。

 

確かに日本文化は、この頃は使われなくなった風呂敷を例にとれば、西洋のバッグと違って、折りたためば手の中に納まるぐらい小さくなるのに、かなり大きなものまで美しく包むことが出来ます。下駄や草履は、靴のように履ける人が限定されないで、かなり許容範囲があるし、着物にしても洋服ほどには、それを着れる人が限定されない。そういう点からも、呉善花の説が肯定できると思いました。

 

それにしても日本の地形は、大陸に住む外国人から見ると、箱庭を見る様に、とても美しいのだそうです。
その美しさを私も船員だったので知っているつもりでしたが、幕末や明治の頃に、船で大陸から日本へ始めてやって来た外国人たちは、海から日本を見て、その美しさに目を見張り、感嘆したことを、多くの外国人が旅行記に書いているそうで、そんな話を聞くと、「ああ、日本はそんなに美しい国だったのか!」と、あらためてその美しさに気付かされる心地がしたのでした。

 

長くなったのでここまでにします。
呉善花(オ・ソンファ)の本については、以前に、無類の花好き、日本人 と題して書いた記事がありますので、よろしければ見てやって下さい。

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国を思う二つの考え

2020年05月30日 | ドラマ

下に紹介するのは、ドラマ『JIN (仁)』の中の、日本をよくするにはどうしたらよいのかということで、現代から幕末へとタイムスリップした医師の南方 仁(みなかたじん)と坂本龍馬が、真剣にやりあったときの会話です。

 

どんな場面でこの会話があったか言うと、
長州藩が、帝(みかど)を奪い政権を奪取しようとして企てた「蛤御門の変」で、京を護る幕府諸藩との戦いに敗れ、京を追われて長州に逃げ帰ります。そしてやがて幕府の長州征伐が始まるという長州藩にとって大ピンチの時、坂本龍馬の奔走によって薩長同盟が成立。そして龍馬が設立した貿易会社を通し、薩摩藩の名目でたくさんの西洋式銃を購入する。その銃が薩摩から長州へと渡る。そして、幕府と長州の戦いが始まり、人数では圧倒する幕府軍が長州藩の新式銃の前に蹴散らされてしまう。

 

そして、今二人の目の前で、傷つき落ちのびて来た幕府軍の兵士が、長州の兵に襲われます。

それを見ながら、そのままその場を立ち去ろうとする坂本龍馬に向かって、南方 仁が言います。

 

南方 仁:龍馬さん、やっぱり変わりましたね。前の龍馬さんなら敵味方なく助けたと思います。でも今は薩摩と長州のことしか考えていない。

 

坂本龍馬:先生、それは違うぜよ。

 

南方 仁:(竜馬の言葉を遮る様に)やってることだって武器商人じゃないですか。人殺しで金稼ぎしているだけじゃないですか。

 

坂本龍馬:先生、ほいじやきー・・・

 

南方 仁:あの人たちだって龍馬さんが売った銃で打たれたのかもしれないんですよ。

      

坂本龍馬:わしゃあ、この国を思うからこそやっとるがじゃあ。何べんも言うけんど、これはどうしても必要なことなんじゃ。

 

南方 仁:戦だけが国をまとめる手段なんですか?そんな方法でまとめるしか能がないなら、政権を執ったってうまく行くはずがない。うまくいかなくなったら、また戦を繰り返すだけなんです。暴力は暴力を生むだけなんです。

      

坂本龍馬:先に殺されたら、それで終(しま)いだがじゃ。わしゃ~、寺田屋で殺されかけ、思うたがじゃ。どんな考え方を持っとったっち、バッサリやられてしもうたら、それでおしまいだがじゃ~。まず相手を力で従わせんと、考えを述べることも出来ん。世を動かすことも出来んがじゃ~。

     

 

南方 仁:戦争をする人はみんなそう云うことを言うんです。

 

坂本龍馬:先生は特別なお人じゃきん、きれいごとばっかし言えるがじゃ~。

 

南方 仁:竜馬さんから見たら、私は特別なのかもしれません。だけども、私だって国をよくしようと思って戦っているつもりです。・・・・私なりに、ですけど。

 

二人の真剣なやり取り、記憶に残る名場面でした。

そしてまた、現代に生きる我々も、個人的な小さなことから、世界的なことまで、常に考えさせられるテーマでもあると思いました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました

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ドラマ 『JIN (仁)』に夢中

2020年05月29日 | ドラマ

昨日に続いて今日もからりとした、まぶしい朝を迎えました。
田んぼは10日ほど前に水が張られ、カエルがにぎやか。
先日剪定をしていた時には、空高く雲雀がぴー、ぴーと囀っていましたが、その5月も間もなく終わりになろうとしています。

 

さて、私はこの5月、あるテレビドラマを楽しみにしていました。
それはTBSの「JIN(仁)」という番組の再放送で、連休後の土曜、日曜に3回分づつ放送され、そして明日からの土曜、日曜に最終回を迎えます。

 

これは大沢たかおが演ずる「南方 仁」という医者が、あるきっかけで幕末の江戸にタイムスリップという設定です。そして、その幕末、気づくとサムライ数人が真剣を抜いて斬り合いをしている。ロケかと思ったら、血が飛び散るのを見て、自分がタイムスリップしたことに気付く。そして目の前で刀傷を負った者を放っては置けず、手術してその傷をいやすことになる。そこから物語は次々と展開して行きます。

 

そしてこの幕末の時代に、目の前に現れるコロリ(疫病)に立ち向かい、脚気やガンをも手術し治療して行く羽目になる。そのように医術を通してその時代の庶民、あるいは時代を動かす幕府要人や諸藩の志士ともかかわりを持つようになっていく。

 

そして「なんのために自分はこの時代へと来てしまったのか」、そしてまた「自分の医術によって歴史が塗り替わってしまってよいのだろうか」、さらには「また元の世界へ戻れる日がくるだろうか」「また恋人に逢えるだろうか」と、苦悩しながら生きる医師と、幕末に生きる人々のさまざまな人生が描かれます。

 

まあ、下手な紹介ですが、ざっとこんなあらすじのドラマです。

 

そのほかの出演者は、
南方 仁を献身的に補佐する旗本の娘「咲」を演ずる綾瀬はるか、南方 仁の現代の恋人と、その祖先である吉原の花魁役を演ずる中谷美紀、そして坂本龍馬の内野聖陽など、いずれも好演技で大いに見ごたえあり、といったところです。

 

このドラマの再放送があることは知ったのは、偶然に訪れたブログで紹介されていたからでした。
どなたのブログか覚えていませんが、ありがとうございました。

 

タイムスリップということは、私にはそれ自身が得体の知れない魅力を感じるし、その上、若い頃に夢中になって読んだ歴史小説の勝海舟、坂本龍馬、新選組などが出てくるとなれば、年甲斐もなく夢中になっても仕方のないこと、見ているうちに、自分が現代に生きているのか、幕末に生きているのかさえも分からなくなってしまうほどです。

 

実はこのドラマは、数年前の再放送のときに、偶然、途中から見始めたのですが、どんな結末だったのか、意味がわからなかったせいか、よく覚えていないのです。まあ、そんなこともあり、明日からの土、日の放送を今から楽しみにしているというわけです。

 

話は変わって・・・
写真はアマリリス。花の大きさを測ったら、横幅の一番大きい処で170mmもった。この写真の幅が153mmだから、それよりも横幅が大きいのだから、かなり大きな花です。(縦に測ればもっと大きい)

  

 

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自分でできるうちが花

2020年05月27日 | 人生

世間で言われているアベノマスクなるものは未だに届かない。
私がマスクをするのは、ごくたまに買い物する時の短い時間と、今は月に1回の会議のときぐらいなので届くのを待ち詫びているわけではないが、それにしても遅い。もう賞味期限が切れて世間から忘れ去られているのではないかと思う。

 

今となっては、あの騒ぎもただの泡だったという気がするが、しかし、マスクは届かなくても、その泡のお蔭でマスクの品薄状態が少しは解消されてきているようだから、その点では効果があったと言えるかもしれません。

 

私はというと、家内が手縫いで立体マスクを2つ作ってくれたし、先日は妹が来て少し上等らしい1箱10枚入りのものを置いて行ってくれたから、もう十分間に合っているから有難いと思う。

 

剪定の仕事をしていると、目にはあまり感じないが、大ばさみでバサバサと伸びた枝葉を切っていると、埃を吸うらしく咽喉がいがらっぽくなることがある。そんな時にはマスクをすればいいと思うが、それも面倒で邪魔っけなので仕事中に使うこともない。事務所は、感染防止のためマスクをしてくださいと、親切に言ってくれるが、夫々が離れたところで仕事をしているのだから、感染の心配もないのです。

 

昨日剪定に行ったところは、おじいちゃんの一人住まいでした。おじいちゃんと言っても、私より数年上ぐらいだと思うが、足が丈夫じゃないらしい。それで、切りくずをゴミ袋に入れたら12袋になったが、身体が不自由でゴミの回収場所まで運べないので、回収日に来てゴミを出してもらいたいとのことだった。なるほど、そういうこともあるのかと初めて知ったのですが、それで二人で半分づつ車に積んで自宅に持ち帰り、ごみの回収日に出させてもらうことにしました。

 

年をとるということは、わかりきったことながら不便なことなのだと思う。
先日、家内に「この頃どうも腹が出てきた」とこぼしたら、「自分で管理してね」とほざき給うた。
ああ、この冷たい処がたまらなく好きなのよね。(笑)
でも、
正直を言えば、「お前に何かしてくれなどと思っておらんわい」と言いたかったが、「はい、わかりました」と言って、自分の部屋へと去って行きました。

 

それはともかく、

何をするにも、自分でできるうちが花、ですね。

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花と蝶、この不思議な一致

2020年05月23日 | 

昨日は家のツツジの生垣を剪定した。
毎年、見事に咲きそろってくれるが、今年は秋の台風で蕾が落とされてしまったのか、パラパラ程度にしか咲かなかった。

 

下の白いツツジだけはどういうわけか、いつも通りたくさんの花をつけてくれたが、その真っ白な花に混ざって色のついた花が3つほどあった。他のピンクのツツジと交配されたからだろうが、せっかくなので写真に撮ったのが下の写真です。

 

話は少し変わりますが、先日、昔買った『植物は不思議がいっぱい』(春田俊郎著)という本を、久しぶりに取り出して読み始めましたが、その中にこんな面白いことが書かれています。

 

以下引用

○花が虫を惹きつける基本は、花の姿と蜜との2つであるが実際はそれほど簡単なものではない。(中略)
 例えば、オオムラサキツツジなどの大型のツツジの花の花粉の媒介者は、クロアゲハ、カラスアゲハなど比較的大型のアゲハチョウである。アゲハチョウの仲間がツツジにとまって吸引するとき、その管状の口が花の底にある蜜線まで届かねばならないし、吸蜜しているときに、その足や羽の裏にたくさんの花粉を付着させなければ意味がない。
 
そこで何10例にわたって測定してみた結果は、アゲハチョウ類がとまった姿勢のとき、ツツジの花の深さと、アゲハの口の長さは常に一致しているし、ちょうど蝶の胴体の位置にたくさんのオシベが伸びていて、蝶の好みに関係なく、蜜を吸えば必ず、胴にオシベの先端がふれる様になっている。

 

○日本にいる何種類かのアゲハチョウは、1年に2世代を繰り返す。つまり3月末から5月頃に発生するアゲハチョウは春型で、ツツジの蜜を主食としている。この春型のチョウが産卵し、幼虫、蛹を経て7月から8月にかけて夏型のチョウが飛び出す。ほとんど例外なく、同じ種類では、夏型の蝶の方が春型の蝶より大きいし、管状の口も長い。これは春型のツツジに対し夏型の蝶の主食は、オニユリ、ヤマユリの蜜であって、ツツジより花の構造が大きく、かつ、蜜線の位置がツツジより深いから、それに対応していると考えられている。

 

○マダガスカルに筒の長さが25㎝という非常に深い筒型の花があった。この花の蜜を吸い、花粉を運ぶには、どうしても口の長さが25㎝以上の昆虫がいなければならない。観察の結果、口の長さが25㎝のスズメガがいたのである。そしてその後、更に筒の長さが30㎝近いという非常に深い筒型の花が見つかった。しかし、それに対応できる長い口の蛾は発見できなかった。けれども自然の摂理から考えて科学者は、30㎝の口をもつスズメガが存在すると予告した。そして数十年後になってやっと、口の長さが30㎝というスズメガが発見された。そのスズメガはプレディクタ、つまり予言されたという意味の名称がつけられた。(引用終わり)

 

引用が長くなりましたが、花と蝶、一方は植物であり、一方は動物(昆虫)で、植物界と動物界というように界を異にする花と蝶が、まるで話し合いでもしたかのようにうまくできていることに、あらためて感心し、紹介させてもらった次第です。

 

さて、下の写真は、ガクアジサイで「写真を撮れ」とうるさくせがむので、「まだ早い」と思いつつ、仕方なく撮ったもの。
この場合は、花が人間に話しかけたというわけである。(笑)

     

 

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「ある国の横暴」と「ある青年の勇気」

2020年05月21日 | 社会

書きたいと思うことがなくなって更新しなくなると、つい面倒になり、前回の更新から2週間もご無沙汰してしまいました。それにもかかわらず毎日150人を超える方からの訪問があり、いくらかは退屈しのぎになっている所があるのだろうと有難く思っています。

 

さて、取り立てて書きたいことがあるわけではありませんが、最近、ニュースで知った中華人民共和国(以下、中共と言わせてもらいます)というお国の仕業に、「えっ?こんな時に、こんなことを!」と、その横暴さに少し腹立たしい気持ちになっています。

 

というのは、日本の領海内である尖閣諸島付近で、中共の海警局の船4隻が、日本の武器を持たない無腰の漁船を追尾した、つまり追い掛け回したとのことである。

 

南シナ海では、これより先に、同じく中共の海警局の船がベトナムの漁船に追突して転覆させているとのニュースもありましたから、当然、日本漁船もこれと同じ目に遭いかねないので逃げるわけですが、それをまた追いかけたとのこと。

 

なんとこの21世紀に、そして国連の常任理事国である国が平気でこんなチンピラにも劣る乱暴なことをしているわけです。幸い日本の巡視艇が駆けつけて、日本の領海から直ちに出るよう警告を発して、事なきを得たとのことですが、おちおち、漁もしておれないらしいのです。

 

空からの領空侵犯も増していて、日本はそのたびにスクランブル発進させられているわけで、それだけでも、余分な燃料を使い、それだけ余分な二酸化炭素も排出する羽目になっている。「いったい何のつもりなんだ」と言いたいところである。

 

一体この国は、自分の国から発生したコロナウイルスが原因で、多数の死者が出ることになり、世界中が大変なことになっているのに、それを申し訳ないと思うどころか、その混乱の隙をつくように、こんな乱暴狼藉を働いているのであるから、実に許しがたい仕業だと思う。

 

書き出したついでに、もっと書きたい気がしているが、止まらなくなるから、ここでストップすることにします。

 

それで思い出しましたが、昨日、ある方のブログで、ある若い日本青年が、平和を求めているのは皆同じ筈との思いで韓国へ渡り、「平和のために、ハグしましょう」というようなプラカードをもって街角に立つた時の様子を映した動画を見せてもらいました。すると、始めは「?」だった韓国の若い人たちが、次から次へと彼とハグしはじめる様子を見て、彼の勇気と、それに応える韓国の青年たちの魂に、思わず目頭が熱くなりました。

この青年の勇気ある行為に免じで、中共の許しがたき狼藉、今回は許すことにいたす。
ただし、国賓としての招待はなかったものと思ってもらいたい。よろしいな!

 

ということで、話は変わりますが、

 下の写真は妹の北海道土産のエゾカンゾウです。このレモン色が好きですが、今年は少し色が薄いようです。

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高度に進化した宇宙人と社会

2020年05月06日 | 社会

前回の記事でUFOを話題にしましたが、もっと書きたくなったので書かせてもらいます。

 

『神との対話』(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)という本は、その第1巻は、誰もがぶつかる人生上の個人的な悩みや問題点、第2巻は、どうしたら平和な国際社会が築けるか、そして第3巻は、宇宙のどこかにある(たくさんあるらしいが)高度に進化した文明のことが書かれています。

 

事実かどうかは別にして、事実なら彼らがどのような生活をしているか興味があるし、また、嘘だとしても、それに見習うことができなくても、参考になりそうに思うので、紹介させてもらいます。

 

以下は、その本から抜き書きしていたものを、更にそこから短く抜き書きしたものです。見出しは私が勝手につけたものだし、順序や文章はすべてがその通りではありませんが、ともかく要点のごく一部を抜き書きしたものです。
註 HEBは高度に進化した生命体を意味しています。)

 

≪コミュニケーション≫

○HEBは誰も感情を隠さない。そんなことは自滅的だと知っているから。感情を隠しておいて、誰もわかってくれないと文句を言うなんてことが理解できない。HEBの社会では、コミュニケーションの目的はお互いの真実を知ることだ。だから、HEBには「嘘」という概念がどうしても理解できない。真実でないことを伝えて思いを通すというのは、HEBにしてみれば勝利というにはあまりにむなしく、勝利どころか恐るべき敗北だ。

 

○記憶にないほど遥かな昔に、音声でコミュニケーションをしていたころ、真実でないものは役に立たないことを学んだ。地球では、社会の大半は秘密を基盤にして出来上がっている。多くの人が、人生とはお互いに話すことではなく、隠すことで何とか成り立っていると信じている。あなたがたの全部がそうではない。例えば古代文明や先住民たちは、そんな規範に従ってはいない。

 

≪所有≫

○HEBの言葉には所有格は存在しない。「わたしの車」ではなく、「わたしが今使っている車」になる。「わたしの子供たち」ではなく、「わたしが一緒にいる子供たち」になる。「今、ともにいる」「今、ともに存在する」という言葉が、「所有」に一番近い。そして「今、共に存在する」ことは贈り物だ。それが生命の「真のプレゼント」だ。

 

≪健康と長生き≫

HEBはどうやってそんなに長い間、身体にとどまっていられるんですか?

○まず第1に、彼らは大気も水も土地も汚さない。植物や動物を育てる土地に化学物質を注ぎ込んだりはしない。土地や動物の餌になる植物を化学物質漬けにして、次に動物自身を化学物質漬けにし、それから自分の体内に化学物質を取り込むために、その動物を食べたりはしない。HEBはそれが自殺行為であることをわきまえている。じつは、HEBは決して動物を食べない。あなたがたの身体は素晴らしい被造物で、あなたがたさえその気になれば無限に「長持ちする」ようにできている。

○HEBの心理的行動もあなたがたと異なっていて、それが同じように長寿につながる。つまり、HEBは決して心配しない。人間の「心配」とか「ストレス」という概念がどんなものか理解できないだろう。HEBは「憎悪」しないし、「激怒」や、「嫉妬」も感じないし、パニックも起こさない。したがってHEBの体内では、有害で自滅的な生化学的反応も起こらない。HEBはそういうことを「自ら喰らう」という。HEBは別の存在の肉体を食べないように、自分の肉体も食べないのだよ。

 

≪仕事・労働≫

人が嫌がる肉体労働はどうなりますか?

○そもそも「人が嫌がる肉体労働」という概念がHEBにはないんだよ。HEBにとって「労働」は、高度な自己表現だ。だから、あなたがたの言う「単調で骨が折れる」とか、「時間外労働」とか、「プレッシャー」という経験は、HEBには存在しない。彼らは、「人を出し抜く」「トップに上り詰める」「成功する」と言ったことを考えない。あなたがたの「成功」という概念そのものが、HEBには異質だ。だからその反対の「失敗」も、存在しない。

 

それじゃ、HEBはどうやって達成感とか、完成の喜びを味わうんですか?

○「競争」「勝利」「敗北」といった価値システムを中心に作り上げられた仕組みとは関係ない。人間の社会では、学校までもそうだが。HEBは社会にとって本当に価値あることを十分に理解し心から評価し、感謝することを通じて達成感を味わう。達成とは「価値を実現」することであり、価値は、「名声」や「富」を得る」ことではない。 

 

≪気候≫

○星の気候は太陽からの距離とか、大気で決まるが、その条件の中でできることはたくさんある。環境をコントロールすることによって。大気のある状態を創造したり、しなかったりすることによって。あなたがたは大気中に非常に危険な物質を置き、非常に大切なものを取り去っている。 

 

わたしたちは樹木を1本切るごとに2本の苗を植えていますよ。

○そうだね。その苗が切り倒された古木と同じ酸素をつくるほどの大きさ、強さに生長するには、ほんの300年もあればいいだろうな。地球の大気のバランスを維持しているアマゾンの熱帯雨林に変わる植物の酸素工場をつくるには、2,3千年かかる。

 

≪戦争・紛争≫

戦争も紛争もないんですか?

○ない。高度に進化した存在はすべてを分かち合い、相手が力で奪い取りたいと思っているものは与えるからだ。いずれにしても、すべては万人のもので、「与えた」ものが本当に欲しければ、いつでも創造できることを認識しているから、そうするのだ。「所有」とか「損失」という考え方は、HEBの社会にはない。彼らは自分が物質的存在ではなく、いま物質的に存在しているだけだということを知っている。 

 

誰かがHEBの存在を脅かしたとしても、紛争にならないんですか?

○争いはない。彼はただ、身体から抜け出す。文字通り、身体を相手に置いていく。それから、そうしたいと思えば別の身体を創造するだろう。完全に形ある存在となって物質的な世界に帰ってくるか、愛し合う者同士が新しく生み出す子供として戻ってくるだろう。物質的な世界に帰ってくる方法としては、その方がずっと素晴らしい。高度に進化した社会では、新しく創造された子供は最も尊重される。生まれた子供の生長は比類がないから。

 

≪技術≫

○あなたがたの現在の技術は、懸命に活用する能力を超えそうになっている。技術が社会の産物ではなく、社会が技術の産物になりかけている。社会が技術の産物になると自滅するよ。 

 

○宇宙の仕組みがわかってくると、破壊する危険も大きくなる。その意味では、無知こそ幸せという場合もある。宇宙そのものが最大の技術だ。完璧に自動的に働いている。ところが、あなたがたが手を出して、宇宙の原則や法則をひっかきまわすと、その法則を破壊する危険がある。 

 

○あなたがたは自分が住む星の生態系を切り崩しているのに、そんなことはしていないと言い続けている。しかも、それだけではまだ足りないように、生命そのものの生化学をいじっている。クローンや遺伝子工学に手をそめ、そのさいに人類という種にとって恩恵になるように慎重に配慮するどころか、史上最大の破滅になりかねない危険を冒している。注意しないと、これに比べれば核や環境破壊など子供の遊びでしかないという危険が生じるよ。発達する医学で身体の機能を代替しようとして、人類全体を滅ぼしかねないほどの耐性をもったウイルスをつくり出してしまったではないか。 

 

≪その他≫

○「不足」、「足りない」という人間の意識、それが、すべての不安、プレッシャー、競争、嫉妬、怒り、葛藤、そして殺し合いの根本原因だ。これと、すべては一つではなくて「ばらばらだ」という信念、それがあなたがたの人生をみじめにし、人類の歴史を悲しいものにし、万人のためにという貴重な努力を空費させている原因の90%を占めている。この2つの意識を変えれば、すべてが変化するだろう。

 

○HEBは「何が役に立つか」を見抜いて「ありのまま」を言う。

個人でも、社会でも、あなたがたにとって大切な判断の目安は、「善か、悪か」ではなく、その考えがあなたがたを、あなたがたの暮らしを、向上させるのに、「役に立つか、どうか」ということだ。

 

 

以上ですが、著作権を侵害しながらの大出血サービスになってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。(まだ読んだことのない方で、もし、図書館で借りて読んでみようという気になって頂けたら、幸いです。)

 

 

【追記】ここに書かれている会話は、1995年当時のものだそうです。念のため。

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UFO? そりゃ、来てるでしょう!

2020年05月03日 | その他

米国防総省が4月27日、パイロットが撮影したUFO(未確認飛行物体)の映像を公開したことが話題になっているようです。

 

最近、BS時代劇で「大岡越前」役を演じていた東山紀之が、自ら司会を務めているらしい今朝の番組で、この話題に触れ、「UFOはね、もう絶対いるでしょ、やっぱりね」とコメントした、ということがネットのニューズに出ていました。

 

私は他の天体にも「宇宙人」と言われるような生命体がいるのは当然と思っているのですが、これだけ無数の星があるのに、生命体がいるのは地球だけなどと考えるのは、それこそナンセンスだと思っています。

 

それに、見たという人が何人もいて、それがすべて、面白半分の嘘とか、何かの見間違い、或は錯覚と判定するのも、ナンセンスな気がします。人間は錯覚を起こすものだといっても、もし、UFOらしきものを見たなら、普通の人なら、まず、自分自身が錯覚ではないかと疑うはずで、その上で、なお確かめて、「見た」というのなら、見たのだろうと私は信じたい。

 

私の同級生が、外洋航海中の夜間の当直に入っている時、船橋の窓から、遠くに見えたオレンジ色の物体が直角に曲がった。あんな風に直角に曲がるのはUFOとしか思えない。一緒に当直していた操舵手も見ているから、絶対錯覚ではない、と言っていたのを思い出します。(直角に曲がった後、急にスピードをあげてあっと言う間に消えたそうです)

 

また、私が尊敬している登山家であり、探検家でもある西丸震哉(故人)という人は、小説から抜けだした現代のサムライと言えるような人ですが、この人が北アルプスの黒部ダムを、眼下に見下ろす位置に聳えている針ノ木岳の山小屋に止まった時、トイレの窓からオレンジ色だったかに輝く大きなUFOが尾根の彼方に消えて行くのを見た。そして、それを山小屋の女将に話すと、その女将はこともなげに「ああ、それなら毎日のように見えますよ」と言った、という話が本の中に出ていました。

 

針ノ木岳(標高2821m)は、日本の三大雪渓の一つである針ノ木雪渓を登っていくのですが、私はその話を読んで俄然登りたくなり、家内とともに登ったのでした。そして、小屋に着くなり、受付をしていた男に、「本にこんな話が載っていたが本当か」と聞くと、その男曰く、

「ああ、それは私のお袋が小屋をやっていた頃の話ですね。私は一度見ただけですが、その頃山小屋で働いていた私の友達も何人か見ているし、その頃はよく見えたそうですよ」とのことだった。

 

ここで「その話は本当か?」と聞いたのは、西丸震哉の話を疑ったからではなく、確認したというだけのこと。そして、その答えを聞いたとき、「ああ、やっぱりそれは昔の話で、今は見れないのか」と残念に思って、それ以上詳しくはきかなかったことが、今となっては惜しまれます。

 

しかし、その夜は二度とは見られないような、こんなにも星があったのかとただ驚き、目を見張るばかりの満点の星空で、どこからUFOが現われてもおかしくない夜でしたが、残念ながら現われてくれませんでした。

 

それにしても、空飛ぶ円盤、あるいは地球以外の生命体の存在を信じる人はどのくらいいるのだろうか。

私は意外と多い気もするのですが、どうでしょう。

ひょっとして、宇宙人も関心を持っているのかも知れません・・・ね(笑)

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少年と大きなリンゴの木

2020年05月01日 | 読書

アメリカの絵本作家であるシェル・シルヴァスタインという人が書いた『The giving tree(与える木)』という絵本があるそうです。
日本では村上春樹が翻訳していて、『大きな木』という題名だそうです。

1964年に出版されて以来、今日まで38カ国で900万部を超えて売られているロングセラーなんだとか。

 

私はその絵本を直接は見ていなくて、『この星で生きる』(谷口純子著)という本の中で紹介されているのを読んで知りました。
それは少年とリンゴの木の物語ですが、次のように紹介されています。

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ある所にリンゴの木があった。その木は小さな少年を愛した。少年も木が好きで、毎日木のところに来て、葉っぱを拾ったり、木に登って遊んだり、リンゴを食べたりした。やがて少年は成長して、あまり遊びに来なくなり、木は寂しくなった。

 

そんなある日、少年はまた木のところにやってきたが、自分は大きくなりすぎてもう木では遊べないと言う。それよりお金が欲しい、と木にねだる。木は自分はお金は持っていないが、自分の枝に実ったリンゴを売ればいいという。そこで少年は、リンゴを抱えて帰っていく。木は、その後ろ姿を見て幸せを感じる。

 

 何年もたち、少年は成長し、ある日またリンゴの木を訪れる。そして、「家がほしい」と木に頼む。木は自分の枝を切って家を作ればいいという。少年はリンゴの枝を伐って家を建てる。少年の役に立って、リンゴの木は幸せだった。 

 

 さらに何年もたち、少年は中年になって木のところへやってくる。そして、「遠くへ行くためにボートがほしい」と木にねだる。木は自分を切り倒してボートを作ればいいという。リンゴの木は倒され、切り株だけが残る。 

 

 やがて、さらに何年もたった後に、年老いた少年がやってくる。彼はもう何もほしがらないが、疲れたので休みたいという。そこで木は、切り株になった自分に座って休めばいいと言い、少年はそれに従い、木は幸せを感じる。 

      

     

以上ですが、これを読まれてどんな感想をもたれるでしょうか。

 

ある人曰く、「木の与えるばかりの愛に、無償の愛を感じて感動した」・・・これは著者の感想。

 

また或る人曰く、「僕は無償の愛より、木から与えられるばかりの恩知らずの少年と、親の恩に気付かずに来た自分が重なり、なんだか物悲しい気持ちになった」・・・これは実は私が最初に読んだときの感想。 恥ずかしいので小さい字。

 

また或る人曰く、「僕は、自然と人との関係を象徴していると思う。人類は自分本位に好き勝手に自然を利用し、破壊して来たが、自然に与え返すことをしてこなかった。それを象徴しているように感じた」・・・・これは著者の夫になる人が別の本で書いていた感想。

 

なるほと、色々感じ方があるものですね。絵本とは言え、考えさせられる話だったので、紹介させてもらいました。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

      ムラサキ科 ホタルカズラ(蛍葛) 

    

伊吹山で初めて見ましたが、その時のことはよく覚えていない。絶滅危惧種になっていたと思う。

 

 

コメント (8)
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