気の向くままに

山、花、人生を讃える

映画『ステップ』を見て

2020年07月24日 | 映画

20日の朝、家内が
「私、今日映画を見に行くけど、一緒に行く?」と聞くので、どんな映画かと聞けば、『ステップ』という題名のこんな映画だという。それで、まあまあ面白そうだし、蒸し暑い1日になりそうなので、映画館で暑さ凌ぎと考えて付き合うことにした。

 

緊急事態が解除されてから、2回映画を見ているが、一度は観客は私以外は1人しかなく、もう1回も5人ほどだった。今回はもう少し入っていたと思うが、それでも10人は超えていなかった。

 

昼食を食べ、家内が勘定をしている間に先にチケット売り場に行くと、その手前でお札が落ちているのが目に入り、近くによると4つ折りにされた1万円札でした。昔、まだ高校生だった頃、いつも小遣いが足りなくてピーピーしていて、「俺にも1度ぐらい目の前に1万円札が落ちてないかなあ」と思ったりしたが、遂にその願いが実現したと一瞬顔がほころんだ。しかし、それは遠い昔のことで、今は孫もいるおじいちゃんだ。いくらポケットにしまい込みたくてもそういうわけにはいかないだろうと熟慮に熟慮を重ね、映画のチケット売り場のお姉さんに訳を話して差し出し、はかなくも一瞬の泡と消え去ることになった。

 

さて、余談はさておいて、「ステップ」という映画だが、奥さんに早く先立たれた男が、まだ幼い娘を育てていく物語だった。この映画の主題は、もし、何年後かに再婚したいと思うような相手があらわれた時、他界したとはいえ、まだ心の中に生きている奥さんを、娘にとってはお母さんを裏切ることにならないか、そしてまた、小学生を卒業する年代の娘にとってはどうかという問題が映画の主題になっていたようだ。

 

女手一つで子供を育てるという話なら比較的物語にもなりやすく、また絵にもなりそうだが、この映画は珍しくシングルファザーと娘の物語で、貴重と言えるかもしれない。男がこの映画を見れば、もし自分がこのように早く女房に先立たれていたらどうなっていただろうかと、そんなことが頭によぎるに違いない。その意味で、見て損はない映画だと思う。

 

そう言えば、昨年の今頃は『今日も嫌がらせ弁当』という映画を見た。こちらはシングルマザーの子育ての奮闘記だったが、これも、普通は男が見るような映画ではないが、見れば勉強になる映画だったのを思い出しました。どんな勉強になるかはどうぞこちらを。映画『今日も嫌がらせ弁当』を見て 

 

前にもどこかで書いた気もするが、多くの人と同じように、以前は洋画のアクション映画が好きで、時代劇以外の日本映画はつまらないと思っていた。しかし、「ジェネラル・ルージュの凱旋」を見てからは、日本映画にもこんな面白いものがあると知り、それからはもっぱら日本映画ばかり見るようになった。それもだんだんにおとなしいドラマ的なものを好むようになり、これも年のせいかなという気がしている。ストーリーの派手さよりも、役者の演技を楽しむようになった、そんな感じである。

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映画『今日も嫌がらせ弁当』を見て

2019年07月02日 | 映画

昨日は色々買い物があったので、ついでに映画『今日も嫌がらせ弁当』を見た。

 

反抗期を迎えた娘とシングルマザーという親子の物語。普通なら男が見る映画ではない。が、けっこうオモシロカッタ。娘の反抗に母親はめげるどころか、逆に娘が反抗をやめるまで、母親の意地にかけて意地悪弁当を作り続けるという、そんな明るいキャラクターの母親像が新鮮で面白かった。そして最後には不自然ではない、胸がきゅんとなる感動が待っていた。

 

「人間て、いいものだ!」と感じさせるのに、大仕掛けなドラマは必要なく、日常のありふれたところに感動はある、ということを教えてくれる映画だ。

 

そして、男にとっては、「女とはいかなるものか?」という事を教えてくれる映画でもある。
私は家内を見るとき、ほとんどは「妻」という感覚で観ているように思うが、こういう映画を見ると、女性の心は、特に子供ができてからは「夫の妻」よりも「子の親」としての方がだんぜん大きなウエートを占めていることを感じさせられた。大げさかもしれないが、一つの発見である。

 

こんな映画を見る男性は極めて少ないだろうが、男のわたしでも楽しめたし、「また、見たい」と思わせる映画でもあったったことを付け加えておきたい。

 

所で、母親の意地悪弁当から思い出したことがあります。

 

以前、わたしは食事した後の食器を、多分家内にうるさく言われ、根負けしたからだと思うが、「流し」に運ぶまでは運んでいた。ところが、いつごろだったか、意地悪家内はそれだけでは満足せず、水に浸しておいてくれないと汚れが落ちにくくなるから、水に浸けておいて欲しいという。

 

それで、私が「そんなことまで俺にやらせるな! と、言えば

家内は「やらせるではなく、やって欲しいとお願いしてるんです」と口答えする。

 

まあ、こんな感じで何度か繰り返された。そのうちに、こちらが根負けして、家内への面当ての気持ちもあり、「右の頬を打たれたら、左の頬も出せ」で、「めんどうだ、ついでに洗ってしまえ」というわけで、自分の使った食器は自分で洗っている。もう15年にはなると思う。初めは家内も「ありがとう」といっていたが、今は言わなくなり、私も当たり前の如くそれをしている。(笑)

 

禅宗の『無門関』という本の中に、新しく入門した僧が、師匠に、

「何をすればいいかどうぞ教えてください」と指導を仰ぐと、

師匠は

「ご飯を食べたか?」と聞く。

「はい、いただきました」と答える。すると師匠は

「食べたら、茶碗を洗え」と教えたとのこと。

 

当たり前のことを、当たり前にするのが「悟り」であり、「仏道」である。という教えだそうだが、そうなると意地悪家内は、私のお師匠ということになる。
フーテンの寅さんなら、きっと「男のつれえ所だ」というに違いない。

 

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映画『長いお別れ』

2019年06月07日 | 映画

昨日は午前中で仕事が終わったので、午後から日傘を買いに行くことにした。そして、予想最高気温が32度を超えそうだったので、こんな時には「涼しく映画を」と云う訳で、『長いお別れ』というのを見てきました。

 

私の場合、10年前までは洋画を見ることが多かったが、それ以後はもっぱら日本映画ばかりで、洋画はすっかり興味がなくなり、BSのシネマも録画もしなくなりました。アクションよりドラマの方が面白いと感じるようになったのがその理由です。そして、ドラマと共に役者さんの演技を楽しむようになった、そんな感じです。そのきっかけとなった映画が『ジェネラル・ルージュの凱旋』であり、少し後の『ステキな金縛り』でした。

 

さて、今回の映画『長いお別れ』は、山崎 努が演じる高齢の主人が認知症になり、それを支える家族の物語である。だから娯楽作品ではなく、物語としては暗くなりがちだし、地味だが、妻の松原智恵子、次女の蒼井優、外国に暮らす長女の竹内結子の好演が、この暗くなりがちな映画を花あるものにしていて、そこがなかなかいいのでした。 

そして、「いい映画だった!」というのが、私と家内の感想でした。

 

なお、蛇足ながら、

『長いお別れ』というのは、認知症が少しづつ記憶が失われていくことをいっているようです。

 

 

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涙なしには・・・

2019年02月12日 | 映画

先日、市の文化会館で上映された映画「めぐみ――引き裂かれた家族の30年」を見ました。

 

北朝鮮から脱国した、元北朝鮮のスパイだった人物の証言によると、「めぐみ」さんを拉致したのは彼のスパイ仲間の先輩であり、その先輩から聞いた話としておよそ次のように語っていました。

 

めぐみさんは拉致された後、寒い船倉の中に閉じ込められ、40時間かかって北朝鮮に着いたときには、船酔いで吐き出したものと、「お父さ~ん、お母さ~ん」と助けを呼びながら手で壁をひっかき、その爪が剥がれそうになり血だらけになっていた、とのことでした。

 

北朝鮮スパイは、めぐみさんをまだ中学生とは知らずに拉致したらしいが、冷酷な北朝鮮スパイも、その様子を見てさすがに後悔していたとのこと。

 

めぐみさんのその時の気持ちや、ご家族の気持ちを思うと、ほんとうに涙なしには見られませんでした。

 

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死神なんか怖くない!

2018年05月13日 | 映画

先日、「虹のじゅもん」さんのブログの中にあるいくつかの「詩」を見ていて、「詩」はいいものだなあとあらためて感じさせられました。(形としては)何もないところから、こういう美しい作品が生まれてくることが何か不思議な気がします。そして、詩はやっぱり芸術だなあということを改めて感じさせられました。それで、詩は書けなくとも、何かちょっとしたエッセイでも書きたい気分になって、その昔、掲示板に投稿した記事を読んでいたら、「憑神」という映画を見た感想を書いた記事がありました。

 

それはエッセイとは関係ないのですが、この映画にこめられたメッセージが素晴らしく、詩はその作者だけでなく、人間の良さ、心情の美しさを感じさせてくれるのですが、この映画は、人生のすばらしさを教えてくれている気がします。以下は、その投稿した記事ですが、読みながら、懐かしさと共にまたこの映画を見たくなったことでした。投稿したのは2007年7月になっているので、約11年前に上映された映画ということになります。読んでいただければ幸いです。

 

≪映画「憑神」を見て

先日、「憑神」という映画を見てきましたが、面白そうな娯楽作品と思っていたら、なんと、素晴らしいメッセージが隠されていました。

幕末、俊才ではあるが運に恵まれない一人の若い武士がいました。運に恵まれない彼は人からすすめられ、気まぐれに小さな祠に神頼みをします。そして、神は神でも貧乏神に取り憑かれてしまうところから物語は始まります。貧乏神からは何とか逃れることができましたが、その貧乏神が忠告したとおり、貧乏神の次には疫病神、疫病神の次には死神に取り憑かれることになります。

死神に取り憑かれた彼は、じたばたするのをやめ、死神から逃げようともせず、潔く覚悟を決めて、死神に「早く殺せ」と言います。ところが死神は「私は死の段取りをするだけで、自ら手を下すことはない」と言います。それで、主人公はどうやって死のうかと考え始めます。そして、死と向かい合って考えているうちに、彼は「神にはできないが、人間であればこそできることがひとつだけある」ということに気がつきます。

それが、とっても感動的で素晴らしいものでした。それで、今までは運に恵まれず職にもありつけず、ぶらぶらしていただけの主人公でしたが、その、「神にもできない、人間だからこそできること」をするために立ち上がりました。

妻夫木さん、さわやかでとても格好よかったですよ。何と読むのか、名前も知らなかったのですが、いっぺんにファンになりました。もう1回見に行こうかな。なるほど、そうなんですね。「神にもできない、人間だからこそできること」が、あったんですね。人生って、そんなに素晴らしいものだったんですね。人生を再発見したようで、なんだかとてもうれしくなりました。

 

≪映画「憑神」を見て 2≫

憑神』の主人公、別所彦四朗は最後には死神に取り憑かれてしまうのですが、しかし、それも元はと言えば自分がまいた種、こうなったからには逃げも隠れもせぬ、というわけで死と向き合っていました。そして、願うことはただひとつ、「どうせ死ぬなら満足できる死に方をしたい」ということでした。自分にとって満足できる死に方とは何か?彦四朗は死と向き合いつつ考える中で、「神にはできなくて、人間だからこそできることがひとつだけある」ことに、気がつきました。それは何かと言うと、およそ次のようなことでした。


「死というものがない神には、命を懸けることはできない。しかし、人間は死ぬ。死がある人間であればこそ、命を懸けるということができるのだ。」


このように気づいた彦四郎は「わたしは、自分の志を遂げるために命を懸けることにした」と、死神にその胸中を語るのでした。

そして、死神、その死神というのは実はとてもかわいい女の子が演じているのですが、素晴らしい名演技を見せてくれます。そして、そのかわいい女の子の姿かたちをした死神も、そんな彦四郎が大好きになり、彦四郎のハートの中に入って、彦四郎と一体になります。そして彦四郎は神(死神)と一体になって、颯爽と志を果たしにいくのでした。

私は死神とのやり取りの中で語られた彦四郎の台詞、「死がある人間であればこそ、命を懸けるということができるのだ」というのを聞いたとき、頭の中の視界がぱっーと明るくなり、人生は何て素晴らしいのだ、と大発見したようにとてもうれしい気持ちになりました。

男子と生まれたからには、誰でも「命を懸ける」ということに、大きな憧れをいだく時期があると思います。いや、誰でも本当は心のどこかで、いくつになってもそんな憧れを抱き続けているのかもしれません。でも、本当にそれを果たせる人は少なくて、多くの人にとっては、果たせぬ夢・・・・それどころか、反対に「ああ、自分はダメだ」なんて思うことの方が多いかもしれません。実は私も未だにそこから抜け出すことができず、もがいているという感じです。

しかし、彦四郎の「死がある人間であればこそ、命を懸けるということができるのだ」という台詞を聞いたとき、命を懸けるかけないよりも、まず、いま、自分はそれが可能な人生を生きている、そのことが格好良く、とても素晴らしいことに思えてきました。そして、「死神なんて一つも怖くない」そんなふうに思えたことでした。

≪追記≫

ちなみにブログ「虹のじゅもん」さんの記事の中には、「海の誓い」という詩があり、わたしは特にこの詩が好きですが、その中に、

             海は待っているに違いない
      叶った夢の報告を
      叶わなかった夢の報告を
      新しく見つけた希望を

という素敵な一節がありますが、ほんとに「そうだなあ」と思い、もっと夢をもって生きていかなきゃあと思ったことでした。

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映画「ナミヤ雑貨店の奇跡」

2017年10月07日 | 映画

剪定シーズンたけなわですが、昨日は昼頃から雨との予報で、予定していた仕事が中止となったのを幸いに、久しぶりにのんびり映画を見たいと思って上映中の映画を調べてみました。すると西田敏行が出演している映画があったので、彼が出演しているなら、そこそこ楽しませてくれるだろうと思って見に行きました。題名は「ナミヤ雑貨店の奇跡」でした。

すると、予想以上というよりも、予想に反してと言った方がよいくらいとても素晴らしい作品でした。

東野圭吾の小説を映画化したもののようですが、わたしの場合、いくら良くても、原作まで読みたいと思うことは今までほとんどありませんが、今回は原作も読みたくなりました。とは言っても、読むつもりはないのですが、読みたくなるほど良かったということです。

内容はというと、西田敏行扮するナミヤ雑貨店の店主は、きっかけは不明だが、ともかく人生相談をしていた。相談の手紙が雑貨店の郵便受けに投函されると、店主はそれを読んで返事をしたため、牛乳瓶受けに置いておく。そして相談者はそこから勝手に返事の手紙を受け取る。そういう仕組みになっていた。

しかし、その店主も高齢となり、自分の回答が、相談者たちの力になれたかどうかと気にかけながら、1980年、この世を去る。

それから32年後の2012年のこと。警察に追われているらしい若者3人が、店主が他界して長いこと空き家になっている「ナミヤ雑貨店」に潜入した。すると、32年前の1980年に書かれた相談の手紙が投かんされた。興味を覚えた3人組のひとりが、回答の手紙を書いた。それに対してまた返信がきた。また別の相談者からの手紙も来た。こうして、また人生相談が始まるのだが、以前と違って回答の手紙を書いているのは、不良らしい若者たちである。ただし、不良の彼らも相談の手紙に対して興味本位ではあるが、真摯に返事を書いている。そして、相談者たちは、彼らの回答によって、元気を取り戻したり、得をしようとする生き方から、もっと地道で堅実な道を歩むようにと諭されたりして、人生で成功を収めていったりするのである。(単純で大雑把に書いていますが、実際の映画はもっと複雑で感動的です。)

この映画を見ながら、わたしは改めて手紙の良さを感じさせられました。人生のことで悩む相談の手紙が、不良3人組に興味を覚えさせ、しかも、だんだん、この相談者たちに幸せになってもらいたいという思いで、真摯に相談の手紙に向き合っていく。つまり、相談者の手紙が、殺伐とした若者の心に、いつしか人間らしい温かい心を呼び覚ましていくのである。そして、相談者たちも、彼ら若者3人の回答に、生きる勇気を与えられたりする。それがとても自然で、映画のため、鑑賞者を感動させるためという不自然さを全く感じさせないのだ。これは脚本も素晴らしいが、役者の演技も、自然体でとてもいい。そして、実際にあり得ることだからだと思う。うまく説明はできませんが、とにかく、とても素晴らしい映画で感動しました。

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映画「恋妻家宮本」の感想

2017年03月18日 | 映画

すっかりご無沙汰しています。

以下は、以前に書きかけていた映画の感想で、すでに時機を失していますが、それを仕上げてアップさせてもらいます。よろしければ見てください。

 

昨年11月末、生長の家の「栄える会」繁栄ゼミナールを受講したことは前の記事で紹介させてもらっていますが、その時の本部講師の話も素晴らしいものでした。

その本部講師は21世紀に求められる宗教について話をされましたが、初めは身近な夫婦の話から始まり、それが面白くて場内は大爆笑の連続でした。具体例を言えばこんな話でした。(以下の話は、保険会社が調査した資料に基づいたもの、とのことでした)

○70歳を超えた夫婦で、奥さんに先立たれた夫は、5年以内に他界する率が高い。

○70歳を超えた夫婦で、反対に夫が先だった場合は、奥さんが15年以上生きる率が高い。(大爆笑)

○奥さんに先立たたれた男性はしょぼんになってしまいますが、女性の場合は逆に若返るようですね。(大爆笑) 

○夫が認知症になっても、奥さんの顔は最後まで覚えているそうですが、奥さんが認知症になると、最初に夫の顔を忘れるそうです! (さらに大爆笑)

いやいや、確かに。「クローズアップ現代」で川柳の流行が取り上げられた時も、解説者はこういっておりました。「男の川柳は奥さんを題材にしたものが多いが、女性の川柳で良人を題材にしたものは少ないですね」と。

確かに男のシルバー川柳では、奥さんを話材にしたものに事欠かないし、そして思わず笑ってしまう名句も少なくない。 

ところで、なぜこんな話を持ち出したかというと、昨日、家内と見に行った「恋妻家宮本」という夫婦を主題にした映画がまったく素晴らしくて感動したからです。この「恋妻家宮本」というわけのわからない題名の映画は、ヤフーでの点数では3.9ポイントとまあまあの数字で、別に期待もせず見に行ったのですが、掛け値なしに4.5ポイントはあげたいところでした。どんな風に良かったのか、紹介するのはむつかしいが、ざっと話せばこんな映画でした。

 

ある日、主人公(阿部 寛)は恋人から、ベビーができてしまったと告げられ、どうしようかと相談を持ち掛けられた。それで、主人公は責任感から結婚しようとプロポーズした。そして結婚し、今はその夫婦も50代になった。今振り返って、はたしてそのプロポーズは「よかったか、よくなかったか」。主人公にとっても「よかった」と言える自信はないし、奥さんもなにか物足りなさを感じていた。

一方、主人公が教師を務める中学では、彼の優柔不断は優しさから来るということで生徒の人気は悪くはなかった。そして、いつもオチャラケて明るくふるまう男子生徒がいたが、その少年の家庭には問題があった(母親が不倫、子供は寂しい思いを隠して明るく振舞っていた)。そして主人公の先生は優柔不断ながら、一方の優しさで何とかしてやりたいと動き出す。このあたりの生徒と阿部 寛がとてもよく、この隠し味がこの映画の魅力にもなっていました。しかし、これはメインではなく、あくまで脇。(それでも思わず涙がこぼれます)

  そして途中の経過は省くが、紆余曲折の末、映画のラストに近づくと、主人公は20数年前のプロポーズしている自分に向かってこう叫びます。「そうだ。お前の判断は正しい。お前が結婚する相手はその人だ。自信を持て!」と。

ここが実に圧巻の何回も見たくなるほどに素晴らしいところでした。

「ジェネラル・ルージュの凱旋」以来、阿部 寛のファンになったが、それにしてもいい役者になりました。

 

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,熱中症そして映画

2015年06月29日 | 映画

 23日から最高気温30度の中でのフルタイムの仕事が3日続き、さすがに3日目には疲労からか熱中症にかかってしまいました。昼休み前には汗だくで、はーはー、ぜぇーぜぇーと息も絶え絶えになり、昼のサイレンが鳴ると同時にしゃがみこんでしまった。「熱中症だ」なんていっていると、その家のばあさんが親切にも「これで冷やして下さい」と氷水で濡らしたおしぼりを二つ差し出してくれました。最初は、「いや大丈夫です」と遠慮したが、折角用意してくれたのだからと、遠慮なく顔から首筋を拭かしてもらったが、そのヒンヤリした気持ち良さに、まさに生き帰るような心地がしました。

 家に帰り、シャワーを浴び、食欲がないからお茶づけを流し込んで再び作業開始。なんとか最後まで持ちこたえてくれたのですが、とにかく終わってからも体がだるくて仕方がなく、その日は9時に寝てしまいました。熱中症のだるさと、お年寄りの優しさが身に染みた、忘れられない1日になりました。

 翌日も何となく身体がだるいので、映画でも見に行こうと思い、調べてみると「愛を積むひと」というのが佐藤浩一、樋口可南子主演で上映中とのこと。これなら面白そうだ、というのでそれを見に行きました。あらすじは書きませんが、とてもいい映画でした。

 一月ほど前には、「びりギャル」を見ました。これは落ちこぼれの女子高生が、塾へ行き、塾の講師の言葉に一念発起し、とうてい無理と思われた早稲田大学に(だったかな?)合格するという物語です。生長の家の「生命の教育」を物語にしたような映画で、これも面白くて、感動させられる映画でした。

 出来の良い映画はわたしは何度見ても飽きないのですが、「ジェネラルルージュの凱旋」や西田敏行の「ステキな金縛り」などはその典型例で何度か見ています。ストーリーが分っていても、役者の演技が楽しめるのです。上の二つも、暇があるなら映画館でもう一度見たいと思わせる映画であり、今からテレビ放映されるのが楽しみです。

 

昨日は我が家で誌友会があり、講師はこんな話をしてくれました。

「寝る前に、10分でもよいから、すべてにありがとうと感謝すると良い。そうすれば、寝ている間もその感謝の念が続く(傾向の心)。心の荷物を下ろして、感謝の念で満たして寝ること」

  すると、我が家にははじめて来てくれた派遣会社の社長をしているひとが、良い話が聞けたと喜んでいただけ、私もうれしいことでした。

 

 ≪キンポウゲ科 カラマツソウ≫

 

 

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『ガイア・シンフォニー』第一番を見て

2010年09月05日 | 映画
野澤重雄さんという人を御存知でしょうか?
バイオテクノロジーも特殊肥料も一切使わずに、普通のトマトの種から一万数千個もの実をつけさせた人です。
その様子は、1985年の筑波国際科学博覧会の日本政府館のメイン展示に採用され、多くの方がそれを見られたのだそうです。

私は、映画「ガイア・シンフォニー」の第一番を見て始めて知りました。
映画では、その野澤さんの話を交えながら、タネから苗、苗から巨木のように育っていく様子を見せてくれましたが、まるで巨樹・巨木のように枝を張り、その枝に数えきれないほどのトマトがたわわに実る様は壮観でした。

秘密は地面ではなく大きな水槽の中で育てられたことです。
つまり生命は無限で、そして生長の妨げとなるものがなければ、いくらでも生長するものだ、ということを知ってもらうために、「根」が生長するのに抵抗となる地面ではなく、自由に根が伸びることができるよう水槽の中で育てられたわけです。

その野澤さんが言います。
○一番大事なのは、まだ小さい苗のとき、物心もないようなときに、どんどん成長しても充分必要なものは入って来るんだという安心感のあることですね。

○疑わないってことです。ですから、信じるとことがどんなに大切かということをつくづく感じますね。これは、神に対する疑いを持たないって、言い換えたらそういうことですよね。私が「神」って言うのは、自然の、この高度なメカニズムの実態ですから。
(「ガイア・シンフォニー」第一番のパンフレットより)

と、野澤さんはこのように言っています。

今、社会情勢だけを見ていると不安を抱かざるをえません。そして、その社会情勢を見ているだけでは、それは片手落ちというもので、その片手落ちは私たちの人生にも決していい影響は及ぼしません。不安が日に日に募るばかりです。

今、私たちに最も大事で必要なメッセージは、「どんどん成長しても充分必要なものは入って来るんだ」という野澤さんの言葉ではないでしょうか。
「信じる、信じない」の前に、先ずは立ち止まり、このような言葉に耳を傾けることも大事なのではないでしょうか。自分自身が不安の方へと傾向いてしまわないようにバランスを取るためにも。

こういうことを言っているのは、野澤さん一人ではなく、最も有名なのはイエスの言葉ですね。

○空の鳥を見よ。播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養い給う。汝らは之よりも遥かに優る者ならずや。(マタイ伝 福音書より)

私が尊敬する「生長の家」創始者の谷口雅春先生は、「人間は、神がこの世に遣わし給うたのであるから、必ず神が養い給うのである」と教えて下さっています。
そして、実際に「不安」から「安心」へと気持ちが変わり、貧困にあえいでいた人が、豊かな供給を受けるようになった方はたくさんおられます。

また、これも谷口雅春先生を通して知ったことですが、釈迦の教えである法華経の中にも、人間は本来無限の宝を持っているのに、自分で「これだけしか持ってない」と自己限定をしてしまっている、という意味の喩え話があるそうです。≪「長者窮子(ちょうじゃぐうし)の喩え」≫

私たちは世の中の動きを知るためにニュースを見ることも必要かもしれません。
が、その一方で、このような野澤さんや、イエス・キリストの言葉に耳を傾けることも大切かと思います。

私たち一人一人が抱えている「不安」を小さくしていけば、そして、一人一人の心の中の「安心」のスペースを広げていけば、それだけでも、社会は明るい方へと向かって行くのではないでしょうか。

特に、子供たちには、不安ではなく、希望や安心を与えていきたいものですね。

その為には、先ずは自分から。
心に神の子であるというヘッドライトを灯して行きましょう。(「あなたも私も光の子」より)
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地球(ガイア)の声がきこえますか。

2010年08月28日 | 映画
おはようございます。

いやあ、毎日猛暑、猛暑、そして熱帯夜ですねえ。
これだけ続くと気持ちは慣れっこという感じですね。
仕事もしていない身とあってはエアコンを使うのが申し訳なくて、扇風機で我慢していますが、しかし、一週間予報を見ても、一向にこの暑さが衰える気配ないのには、さすがに今年の暑さは異常だなあと感じます。

昨日、一番暑い昼下がりに、どんな暑さかとためしに草刈り機で空き地の草刈りをしたのですが、さすがに暑くて熱中症になりそうでした。あと少しを残してやめたのですが、やめた後で、無理をしないで良かったと思いました。もう少しだからと無理をしていたら本当に熱中症になっていたかもしれないところでした。

熱中症のニュースを見ながら、「なんで熱中症になるまでやるのか、バカだなあ」などと思っていましたが、夢中になっていると気づかないもので、仕事をやめてはじめて危ないところだったと分かるんですね。「ああ、なるほど、これだなあ」と思いました。

後ですぐに、昨夜の残り湯の水風呂の中にドブンと入り、そして、しばらく頭がボワーンでした。


さて先日、「地球交響曲(ガイア・シンフォニー)」一番、二番を見てきたのですが、出演者の語る言葉が、二度目の今回ははじめてみた時よりいっそう心に響き、パンフレットにはその大部分が書かれているので、そのパンフレットを申し込み、昨日届きました。

すると、その一番最初に素晴らしい詩が出ていて、「なんという素晴らしい詩だろう!」と、その詩に泣きたくなるほどでした。読まれた方もきっと、泣きたくなるのではないでしょうか。
詩の作者名は書いてないので、龍村 仁監督自身の作だろうと思います。

こんな詩でした。


      ≪地球(ガイア)の声がきこえますか≫

あなたの声を、
風は、確かに聞いているんです。

山だって、耳を澄ましている。

花や樹は、
あなたが呼びかけていることを、
もうとっくに知っています。

喜びで、トマトの顔が真っ赤になった。

石だって震え始めた。

象や鯨たちが、あなたに会うために
歩み始めています。

心で聴いてください。

地球交響曲(ガイア・シンフォニー)


(監督の名前を前の記事では「滝村 仁」としていましたが、私の思いこみ違いで、正しくは「龍村 仁」でしたので訂正します)  

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昨日の記事への追加

2010年07月10日 | 映画
滝村 仁さんのサイン入り「地球交響曲第七番」のパンフレット表紙。



写真に写っているのは、この映画の登場人物の一人であるアンドルー・ワイルさん。
この映画ではじめて知りましたが、早くから統合医療、自発的治癒力を提唱・啓発している人らしい。
日本教文社からも「人はなぜ治るのか」という本が出版されているようで、滝村さんの推薦図書に挙げられていました。
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「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」第七番

2010年07月09日 | 映画
先日のしじみさんのブログを読んで、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第七番」が始まっているのを知りました。

この「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」という映画は、多くの映画館から「こんな映画では観客が集まらない」というので、上映を断られ、やむなく有志による人たちによって自主上映されている映画です。

しかし、わたしも第一番から四番までは見ていましたが、とても良い映画で、今回しじみさんのブログですでに「第七番」が上映され始めているのを知って、是非見たいと思い、さっそくネットで近くでの上映日を調べ、今日見に行ってきました。

いやあ、良かった!
どう良かったかは言わないことにします。(実は言えないのですが)

画面は通常の映画の半分ほどの小さなサイズながら、映像も内容もとても素晴らしく、是非、お薦めしたい映画です。
今日の「第七番」も良かったのは勿論ですが、はじめての方には「第一番」「第二番」もお薦めです。
興味をもたれた方はネットでお近くでの上映場所や上映日を検索してみてください。

そして今日は映画の後で思いがけないサプライズがありました。
監督の滝村 仁(70歳)さんの1時間の講演もあり、第七番のエピソードなどを聞くことができました。
監督には「ガイアのささやき」という本がありますが、これも素晴らしいものです。

終了後、パンフレットを買って滝村さんにサインと握手をしてもらいました。
サインは「魂の友へ」と書かれ、日付と監督の名前が書かれていました。
家内に、「ミーハーだね」と笑われました。ははは。


以下は、パンフレットの滝村監督の言葉より抜粋したものです。


「神社は日本人にとって、原始的直観を新たにする霊的元気回復の場である」
日本の神社に関してこれほど明快・的確に表現した言葉を他に知りません。彼が(註:ジョセフ・メイスンのこと)外国人であり、ジャーナリストでありながら、ケルトの魂を内に秘めていたからこそ言い得た珠玉の言葉である、と言えるでしょう。

「第一番」のエンヤの章で触れたように、ケルトの自然観と日本神道の自然観の間には、深く通じるものがあるのです。
「原始的直観を新たにする」とか、「霊的元気回復の場である」とか言うメイソンの言葉は、まさに私が「第七番」を通して、観客おひとり、おひとりの中に甦ってほしい、と願っていることでした。そこで初めて「第七番」の中に「霊性の原風景」という章を設け、日本神道の源流を描いてみたい、という発想が生まれたのです。

しかし、この発想はもともと矛盾に満ちています。神道には「神ながらこと上げせぬ」という考え方があります。その意味は、神道の真髄は言葉で解説したり、説明したりできるものではなく、ただひたすら、気配によって感じ取るものである、というような意味です。すなわちメイソンの言う原始的直観が冴えわたって来たとき、自ずと感得されるのが神道の真髄なのです。それを、ドギュメンタリー映画という目に見える世界、耳に聞こえる世界で描こうとするのですから、初めから無理と言えば無理な話です。

しかし、振り返ってみると、映画「地球交響曲」は「第一番」の時から、目には見えないもの、耳には聞こえないものを描こうとしてきた映画でした。だからこそ逆に、わたしたちにとって最も生々しい存在、すなわち、今この地球に現実に生きている人の生き方を通して描こうとし続けてきたのです。
以下略。


今回は伊勢神宮の月次祭、他の神社の神事の様子なども収録されていて、「目に見えないもの、耳に聞こえないもの」が今まで以上に強く感じさせられるものでした。

そうそう、滝村さんは「こういう時代だからこそ、“生かされている”ということを思い出してほしいですね」と言っておられました。
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映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」

2009年04月18日 | 映画
2月だったかに、「ジェネラル・ルージュの凱旋」という映画を見ました。
これは救急医療現場の問題点を取り上げた社会派映画で面白く見応えのあるものでしたが、主題とは離れた別のところで非常に感動させられたシーンがありました。

それはどんなことかと言うと、どこかで大惨事が起こり、ある病院の救急センターに救急車から受け入れ可能かどうかの連絡が入るのですが、堺雅人演ずるセンター長は受け入れ可能である返答をします。そして、惨事にあった救急患者が運ばれてきます。次から次へと連絡が入り、救急患者が次々に運ばれてきます。救急センターのスタッフの一人は、「これ以上は無理だ。やめてくれっ!」と叫ぶのですが、センター長は構わずに次から次へと受け入れ、最後には、電話応対者に向かって「全部引き受けろ!」と号令します。


話は、個人的な小さなものになりますが、
わたしがはじめて新米機関士として乗船して行った時、担当機器の一つに乗組員の食料となる肉や野菜を保冷するための冷凍機がありました。それで、まず注意されたのが、「不調になったら、その冷凍機のそばで寝るぐらいでないとだめだぞ」と言われました。乱暴なようですが、これがその頃の常識で、実際に不調になれば、いろいろ調整したりして寝ずに番をしていました。

また、車で言うターボチャージャーという機器がトラブルを起こした時は、機関部総員で連続2日間の徹夜で修理したことがありましたが、海上ですから、誰も応援に来てくれるわけでもなく、自己完結しなければならないのだから、過重労働などと文句を言うものはなく、酒盛りをした時には皆、満足感が漂っていました。

その後、フェリーに職場を変わったのですが、船が新しくなるにつれて近代化され、乗組員の数は減り、それに連れて時間と人手を要する仕事は陸上業者に頼まざるを得なくなり、だんだんにプロを志向することができにくい環境になっていきました。

プロか?それとも歯車か?
かけに出るか、安全策か?
組織という枠の中では、多くの現場で、このような命題を抱えているのかもしれませんね。


再び、映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」ですが、
「これ以上は無理だ、やめてくれ!」と、スタッフの一人が叫ぶ。
その通り、誰が見ても無理だ。
しかし、救急医療センター長はかまわずに受け入れていく。
最後は「全部引き受けろ」と号令する。

気違いにならないとできないことですね。
でも、その気違い的行為に、本当に感動させられました。
しびれるような感動の中で、人は「気違いになって飛び越えたい!」という欲求が、深いところで渦巻いているのかなと思いました。


≪写真:芽吹き前の雑木林≫

コメント (6)
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