気の向くままに

山、花、人生を讃える

アヤメ科の区別

2010年05月26日 | 
「いずれがアヤメかカキツバタ」じゃないけど、草花の図鑑を見ていたら、アヤメ、カキツバタ、花菖蒲の見分け方が乗っていたので、これはわかりやすいと思い、自分のアルバムを調べて見たら、その三つの花が撮ってあったので、ここに載せてみます。
今まで知らなかったという人の参考になれば幸いです。

左から順番にアヤメ、カキツバタ、花菖蒲です。
下の写真はそれぞれの花の模様をアップにして違いをわかりやすくしたもの。

  

  


アヤメは黄色の網目模様、
カキツバタは白、
花菖蒲は黄色、とのことです。
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天然水いただきます

2010年05月23日 | その他
今日は雨が降るという予報だったので、思いたったが吉日、昨日さっそく写真のように雨水を貯められるようにしてみた。



もともと駐車場の屋根から雨だれしている場所があったので、それを利用したわけだが、うまくいきそうだ。

大きなポリバケツは今朝家内が置いてくれたが、小雨程度の雨でも1時間後に見に行ったら、もう一杯になっていた。予想以上に早い溜まり方である。近いうちにもっと大きなものを置いて見ようと思う。

かようなわけで、金は貯まらなかった代わりに天然水を貯めさせてもらおうと相成った次第です。


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トピックス

2010年05月22日 | その他

昨日は名古屋でも最高気温31度を記録した。
また街なかの太陽の下でニュースキャスターが持っていた温度計では36度だった。

その暑い中、昨日はグリーン・カーテン用のネットを張った。
まだネットを張るには早かったが、とにかくはじめてのことなのでどんな感じになるか見たかったし、うまく張れるかも早く試したかったので、思い立って昼過ぎからやり始めた。

スムーズには行かなかったが、15時30分には終了した。
暑い中の作業だったが、できあがったのを見て大満足。
これです。
ネットはうっち~まま様にいただいた助言を参考にして、市販ですが麻ひものものを使用しました。

 

写真は外から見たものだが、内側の部屋から見ると、これだけでも気分的にけっこう涼しい感じになりました。
右側の小さく葉を出しているのはフウセンカズラで一週間前に芽を出しました。

エアコンはほとんど使いませんが、暑いのは暑いので、どんな涼し気な感じになるか今から楽しみです。
       
今、庭にはニッコウキスゲの仲間のエゾカンゾウが目を楽しませてくれています。
妹が北海道旅行に行った時のお土産で、もう20年以上になりますが、このレモン色が良く、朝夕は特に目に沁みるようにきれいです。

 



今月の9日には、家内の母の米寿の祝いがありました。
義母は若い時から生長の家に触れていて、おかげで今も健康そのもの。
上品でいつも笑みを絶やさず、孫たちからも好かれ、いてくれるだけで有難いおばあちゃんです。
義兄が用意したビンゴケームもあって、ひ孫から大人まで、めでたく楽しいひと時でした。
右はカメラを向けられた時、わざとおどけた顔をしたのですが、できあがったのを見たら、普段の顔よりずっと良かった、というわけでご披露します。
ケッサクの一枚、笑っていただければ幸いです。

 

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困った時の神頼み

2010年05月19日 | 人生
「困った時の神頼み」という言葉は、あまり良い意味では使われない。

しかし、本当は困ったときほど神頼みをするべきなのである。
何故なら、困ったときほど「わたしのもとへいらっしゃい」という神様からの呼びかけであるからだし、
また自分にとっても、困ったときほど真剣になれるからである。

こういうのを「碎啄同時」と言われる。
雛が卵から出る時期が熟したとき、親鳥はそれを察知して外から卵をつつき、同時に雛も内から卵の外に出ようとするのである。

だから、こんな場合、祈りの効果は通常に増して大きい。

人間は順調に行っている時には、とかく神には振り向かないものである。
また自分で何とかできると思っている間も、自分で何とかしようと頑張って、やはり神が視野には入ってこない。
だから困ったときほど、心を神に振り向けられるチャンスだし、「困ったときの神頼み」はこのチャンスを生かすことになるのである。

これは信仰のあるなしにかかわりない。
神は誰にでも答えてくださるのである。
問題は人間の側にあるのだが、困ったときには真剣になれる、自分という我を捨てられる。完全に棄てられなくても気にすることはない。ともかく心を神に振り向け、「神様助けてください。良いように導きください」と祈り、全託するのである。
すべてはそこから始まり、そこから道は開かれるのである。

「困った時の神頼み」を決して笑ってはいけない。
困ったときこそ、窮地に陥ったときこそ、神様がいっそう強く「いらっしゃい」と呼びかけていられるのであり、また、無意識にせよ、自分自身が(魂)がそれを求めている時であるから、必ず道は開かれてくるのである。

今、困っている人、窮地に陥っている人、
心の中で、「神様助けてください。良いようにお導きください」と叫んでみてください。
それだけでも、きっと何かが違ってくるはずだと思います。
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山へ(御座峰)③

2010年05月18日 | 
≪若葉萌ゆ≫

オオイタヤメイゲツ



オオイタヤメイゲツ



不明(オオイタヤメイゲツ?)
生まれて間もないたくさんの幼木が小人のパラソルのように若葉を広げはじめていた。



イタヤカエデ

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山へ(御座峰)②

2010年05月16日 | 
≪山で見た花たち≫

フッキソウ。
こんなバッタ?が写っていた。花は上から下まで3~4センチ程度だから体長は1センチ程度。


イチリンソウ
  
白い花弁のように見える部分は萼片、写真はこれが5枚、6枚、7枚の三種。
ちなみに図鑑には5~6枚とあり。

ルイヨウボタン
 
西丸震哉が小学生の時、理科の時間に先生が「花の色が緑という花はない」という話をされたので、手をあげて、「シュンランは緑です」と言ったら、以来、先生に嫌われてしまったという話を思い出すのですが、確かに野生種で緑は珍しい。このルイヨウボタンは若葉のような緑が何とも良い。図鑑には花の直径約8ミリとあるが、小さくともその造形はなかなか凝っている。

シャク                                 ヤマブキソウ
 

ルリソウ                                スズシロソウ
 

ヒトリシズカ                              マンネングサ
 

ツクバネソウ                              ヤマシャクヤク
 

チャルメルソウ
 


新緑



         新緑の吐息に咽てつづら折れ

         尾根行くや近江の湖(うみ)は夏の色
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山へ(御座峰)

2010年05月16日 | 
昨日は最高の山日和となったので、いそいそと出かけてきました。

空気はからっとしていて、歩いていても汗ばむ程度。木陰に入ってじっとしていると、山の空気で冷んやりしてくる。そんな中、花と新緑、そして広がる山々の展望と、最高にぜいたくなゆったりした時間を過ごしてきました。










琵琶湖中部


 琵琶湖北部 琵琶湖に浮かぶ小さな島は竹生島(ちくぶじま)



この日は加賀の白山(写真の真っ白な山)はもちろん、はるか北アルプスまで見えました。

山々の起伏のつらなりの美しかったこと!
大地の交響楽が聞こえてくるようでした。
そして背後にそびえる真っ白な白山・・・、
いつまでも見飽きない美しさでした。

明日は、花をアップします。
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月はわたしたちが見るからそこにあるのか? ②

2010年05月14日 | 信仰
手元にある『量子論を楽しむ本』(理学博士・佐藤勝彦)には、量子論の導き出した自然観を紹介して、次ように書かれています。

○私たちはあまり疑うことなく、「客観的な事実」というものが存在することを信じています。古典物理学でも、自然界のあらゆる事物は私たち人間と無関係に存在していて、私たちはその様子を客観的に観測できるものだと考えていました。でも、量子論はそうした客観的事実の存在を否定しました。自然は観測によって状態がはじめて決まるものであり、誰も観測していない時にはすべては決まっていない。確定した事実は何一つ存在しないというのです。

また、次のようにも書かれています。

○物と心、自然と人間などを分けて取り扱うのが二元論であり、これらを不可分のものとして取り扱うのが一元論です。客観的事実の存在を否定した量子論は、自然と観測者を分けて考える二元論的な世界観を退け、観測対象である自然と観測する私たちとを一つのセットとして考える、一元論的な自然観を示すのです。

というように、「観測対象である自然と観測する私たちとを一つのセットとして考える」と書かれています。つまり、「物心一如」を説いているわけですが、生長の家では立教のはじめから、谷口雅春先生が「自然は外に対立的に存在するのではなく、自分の内にある」、あるいは「観ることは創ることだ」と教えて下さっているので、なにも驚くには当たらないかもしれません。しかし、ここに引用したのは、一般向けにやさしく書かれているものの、まぎれもなく物理学を紹介した本ですから、ちょっと驚きます。

私たちが学校で学ぶ物理はいわゆるニュートン力学で、量子論に対して古典物理学と呼ばれるそうですが、こういう自然観を導き出した量子論があることも若いうちに教えておくべきだとつくづく思います。そうであれば科学信仰の人にも、仏教の「三界は唯心の所現」の教えや、またイエス・キリストの数々の奇跡も、科学の世界に反するものでなく、でたらめな空理空論でもないことが納得されやすいと思います。

量子論というと、あまり私たちには身近でないように思えますが、このように自然観の変革を促したばかりか、私たちの生活をも大きく変えてきました。いろいろなエレクトロニクス製品、携帯電話やパソコンなどは量子論の産物だし、大きくは宇宙の始まり、星々の生成の過程などの研究にも大きく貢献しています。

しかし、量子論といえどもまだ完成された理論というわけではなく、一つのことが分かれば、また新たな疑問が出てくるという具合で、そこからいろいろな世界観が生まれ(多世界解釈など)、ますます神秘の様相を帯びてきている感があります。

さて、前回の記事にも書きましましたが、アインシュタインは、そのような量子論の自然観に納得できず、量子論発展の親であるニールス・ボーアと議論を戦わし、その論争は興味深いものがあるのですが、最後はニールス・ボーアに軍配が上がったとのこと。
(アインシュタインの指摘した疑問に対して、ニール・スボーアが会心の答えを見つけ出し、アインシュタインはそれに反論できなかった。)
しかし、それでも、アインシュタインは「神様が未来を予測できず、サイコロを振ってAが出た、Bが出たなんてことは、納得できない。私たちが見ても見なくても、変わらない真実存在するものがあるはずだ」というので、最後まで量子論に懐疑的だったとのこと。

さて、本当はいったいどうなのでしょうか。
私たちが見るから月はそこにあるのでしょうか。
それとも、私たちが見なくても月はそこにあるのでしょうか。

生長の家を信仰するものとして、このアインシュタインの発した疑問についてどう考えたらよいのか大いに興味があるところですが、坂本竜馬のような歴史の一方で、このような科学世界での歴史物語があることにもワクワクを覚えずにはいられません。
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初めての経験

2010年05月11日 | 信仰
先日、朝顔のタネから芽が出ていることに気づいて、「生きているとはどういうことだろう?」ということをはじめて思ったと書きました。

「生きているとはどういうことだろう?」
ふとそんな疑問が湧いて少し考えてはみたのですが、タネから芽が出る不思議な感じに頭が混乱するようだったので、すぐに考えるのをやめました。
そして、答えを見つけようとするよりも「生きているとはどういうことだろう?」という不思議な感じが大事なのだと、後で思ったりしていました。

ところが、昨日の記事で『善と福の実現』から谷口雅春先生のご文章を引用するためにぺらぺらとページをめくっている時、「生きているとはどんなことですか」という小見出しを見つけ、思わず、「おっ!」と思い、そこのところを読んでみました。
すると、こんな風に書かれていました。

○それでは生きているとはどう云うことでしょうか。「生きているもの」と、「死んでいるもの」との区別は、「生きているもの」には「心」があり、「死んでいるもの」には「心がない」ということです。

と。

読んで、
「そうか、あのタネもちゃんと心があったんだ!」

そう思ったとき、人とタネでなく、心と心になり、通じ合い、一つにつながったように愛しさが湧いてきました。

そうか、タネは心だったんですね。
はじめて、経験させてもらいました。
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月はわたしたちが見るからそこにあるのか?

2010年05月10日 | 信仰
ミクロの物質についての物理学を量子論とか、量子力学といわれますが、1920年頃からその方面の研究が急速に進みました。

そして、それ以前の物理学は古典物理学といわれますが、その古典物理学では「見る」「観測する」ということを、重要視されていませんでした。

ところが電子などのミクロの物質の研究が進むにつれて、「見る」「観測する」という行為が無視できないことがわかってきました。

例えば1リットル水の温度を計測しようとして温度計を差し込むとき、水と温度計の温度差によって水の温度に与える影響はほんの微々たるもので無視できるものですが、ごくわずかな水の中にその温度計を差し込めば、その影響は無視できなくなってきます。
これと同じように、電子のような極微の世界の物質を観測しようと光を当てると、光の粒が電子に当たって、その運動の方向や速度などの運動量が変わってしまって、観測された電子は、観測前の電子とは違うものになってしまうのです。

しかし、これだけならまだわかりやすい話ですが、電子のようなミクロの存在は研究が進むにつれて、いろいろと常識を覆す、理解しにくい不思議な性質を持っていることが分かってきたのです。

例えばその一つ、ある瞬間における電子はどこにいるかというに、観測前の電子(電子を例として)は、「ここ」というようにある一点には決まっていなくて、A点には50パーセント、B点には30パーセント、C点には20パーセントという具合に、雲のように確率的に広がっているというのです。だから、ある一点の「ここ」にいるとは決められない。観測したとき、その確率的な広がりをもったものが一点に収縮して「ここ」というように限定された姿で観測されるのだそうです。

つまり、観測前はある広がりを持った「あいまい」な状態なのだそうで、「ここ」というようには決められない。観測したとき、そのあいまいさの中から、ある一つの状態を取り出して、「ここ」というように決定されるというわけです。

量子論以前のニュートン力学、あるいは私たちが普通に認識している世界では、例えば江川の投げたボールが、何秒後にどの位置でどの速さかは、答えは一つであって、観測する、しないに関わりのないことでした。観測して1秒後に140キロの速さを持っていたなら、それは観測前でも140キロだったに違いない。ボールの位置でも同じことです。このように、人が観測して見たものは観測前も同じであるという、いわば決定論として自然を見ていました。

しかし、量子論は従来のそんな常識を覆してしまって、物理学者たちを驚かせました。
繰り返しになりますが、量子論では、観測される前の自然はその状態に幅(広がり)を持っていて、一つの状態には決まっていない。「あいまい」であるというのです。どうしてかはわからないが、ともかく観測前の本来の姿はそうなっているというのです。そして、そのあいまいな状態の中から観測ということによって、ある一つの状態に決定されるというわけです。

このあたりのことを谷口雅春先生は、測定だけでなく心によっても変化するということを、『真理』入門篇の中で、次のように紹介しておられます。

○「測定されるもの」は、「測定するもの」に影響せられて、「見よう」とすると、「見られるもの」は、速度や位置や性質を変えるということが分かって来たのであります。最初は電子の位置や速度が測定する物質的方法やその測る過程で変化することが分かったのですが、その後、測定する人の心によって電子のような微視的存在は、その位置や運動の方向に変化をきたす事がわかりました。従って、電子の集合によって成り立っている物質の元素的性質は、人間の心によって変化するものだということが科学的に実証されたのであります。(『真理』入門編、240頁)

これは谷口雅春先生だけではなく、「神との対話」シリーズの「明日の神」という本にも次のように書かれています。

○量子物理学で言われる通り・・・観察されるもので観察者の影響を受けないものはいっさいありません。言い換えれば、創造者と被創造物は一つで、相互に創造しあっている。

また、同様のことがインド生まれの医学博士、ディーパップ・チョプラという人の『ゆだねるということ』という本の中にも書かれていました。

ただし、後に紹介した二つの本は最近の新しい本ですが、谷口雅春先生の『真理』入門篇は初版が昭和29年とあり、「谷口先生は、もうこんな早い時期にこのようなことまで書いておられたんだなあ」と驚きました。

さて、アインシュタインは、そのような量子論の自然観に対して、Aに50パーセント、Bに30パーセントなんていうような自然はそんな不確かなものではないはずだ、というので「神はサイコロ遊びを好まない」という、有名な言葉を残しました。

そして、次のようにも言っていたそうです。
○量子論の言い分が正しいのであれば、月は我々が「見た」からそこにあり、我々が見ていない時にはそこにはないことになる。これは絶対に間違っていて、我々が見ていない時にも、月は変わらずに同じ場所にあるはずだ。(『量子論を楽しむ本』佐藤勝彦より)

と。

いやあ、難しいですねえ。でも、興味をそそられますよね。
皆さんは、このアインシュタインの投げかけた疑問を見られてどう思われますか?
月は私たち人間が「見た」からそこにあるのでしょうか?見なかったら、そこにはないのでしょうか?
それとも・・・・?


どうしてこんな自分の分に過ぎた難しいことを書きたくなったかというと、私自身、このアインシュタインの投げかけた疑問にどう答えたらよいのかわからず、興味津々だったのですが、先日、宇治へ研鑽会に行ったとき、テキストになっていた谷口雅春先生の『善と福との実現』をバスの中で読んでいたとき、ちょうどその答えになる、詳しい哲学的思索が書かれていたので、夢中になって読んだのでした。
(以前にも読んでいたのですが、まるで記憶がありませんでした。253頁から書かれているので、興味のある方はあらためて読んでみてください)
それで、この難しい、そして興味ある一連のことを、ここに来て下さる人にも読んでいただきながら、自分でもこの機会に簡単に整理しておきたいと思って書き始めた次第でした。

長くてあいまいな、わかりにくい文章を最後まで読んでいただき、有難うございました。

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ハンカチノキ

2010年05月09日 | 
今日は変わった樹木の花を見ました。
場所は地元の文化会館。
新聞の地方版に紹介されていたので見に行ったのですが、なるほどこれは一見の価値のあるものでした。

樹木の名前は『ハンカチノキ』と云います。
新聞によれば、ハンカチを吊り下げたような花が咲くらしく、今年は3年ぶりにたくさんの花をつけたとありました。

百聞は一見に如かず。
これです。



図鑑には中国南西部原産、自生地は標高2000メートル以上とありました。







この後、文化会館の敷地内の新緑を楽しみながら30分ほど散策しましたが、この木には入れかわり立ち替わり、常時数人がカメラを構えたりしていました。来た人は、きっと目に見えない幸福のハンカチをお土産に持って帰られたたことでしょう。
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はじめての種まき

2010年05月04日 | その他
ミレーの「種まく人」か「種まく男」だったか、ともかく誰もが知る名作がありますが、僕もどこかの展覧会で実物を見たことがあります。絵の前に立つと、種をまく男の気迫が伝わってきて圧倒されるぐらいの迫力があって驚きました。

生きた本物の男ならともかく、キャンバスに描かれた絵ですからね。
いやあ、ほんと不思議でした。

だからという訳ではありませんが、昨日、僕もちょっとだけ種をまく人になりました。
と言っても麦ではなく、グリーンカーテン用の「あさがお」と「ふうせんかずら」・・・。

生まれて61年目にしてのはじめて種播きでした。
正確には種を植えたというべきでしょうが、ともかく初めてということでは、歴史的記念日。

「アサガオの種の中には既に朝顔の花がある」
僕がまいた種はどう葉を伸ばし、ツルを伸ばし、開花してくれるだろうか?
楽しみ、楽しみ!です。


ところで朝顔のツルは左巻き、右巻き?
いや、私も知りません。
こんな質問にパッと答えられる人は、偉いと思う。
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五月となりにけり

2010年05月03日 | 信仰
         夜学校星座五月となりにけり

これは誰の句だったか作者は忘れましたが、大好きな句の一つです。
この句を頭に思い浮かべるとき、例え昼間の星座がない時にも、頭上には星座がちりばめられ、さわやかな夜の空気まで感じられてきて、何とも言えないほどのすがすがしい気分になります。


さて、いよいよ五月になりました。
不順だった天候もやっと落ち着いてきたようです。

シルバーの仕事、家の仕事と少し張り切り過ぎて少し疲労気味でしたが、気持ちは快調です。
家の仕事とは、今は使っていない排水路の蓋が鉄製で、蓋の裏側を見てみるとずいぶん錆が来ていたので、春の暖かくなってからやろうと気になっていました。それを丁寧に錆落としをして、防錆ペイントを塗り、仕上げペイントを塗り、すっかりきれいに仕上げることができてやれやれです。


そしてホッとしたところで、昨日は相愛会・栄える会合同研鑽会に参加してきました。
久し振りの大会参加でしたが、皆さんの素晴らしい事例発表などに感動し、このような場所に参加させていただいていることが有難く感じられてきて、自分で参加しているのではなく、ご用があって参加させていただいているんだなあということを感じました。

バスの中の感想では、
「自分はいつも使命行進曲を歌う時には目頭が熱くなってくるのですが、それは、入信当初の練成を受けた時の救われた思いや感動が甦って来るからで、それはそれでいいのですが、もうひとつは、申し訳ないという自分への慙愧の思いの反動もあるからではと思う。いつか満面の笑みを浮かべながら歌えるようになりたいと思いました」ということを言いました。
これは素直な自分の思いです。

教化部について、以前に感銘していたやさしく書かれた小冊子「伸びる母と子シリーズ」を買いました。今朝その1の「あなたも私も光の子」読み始め、やっぱり素晴らしいのに感動しました。どこも素晴らしいことがこんなにもやさしく書かれていることに感動するのですが、その中の一節

○人間は成功が目的ではない。立派な人間になることが目的なのです。神様は人間の中に「立派な人間」(神の子)を産みつけておいたのです。「立派な人間」がこの身体の中に、私達の生まれたときから産みつけられているのです。それは朝顔の黒っぽい種のうちに、赤や紫の美しい花が、はじめから産みつけられているのも同じことです。

と、ありました。
こんな本を読んで喜んでくださる人が自分の周りにもきっといるに違いない、そんな人に、例え一人でも伝えられるよう気持ちも新たにして頑張っていこうと思いました。自信はないですけどね。

しかし、ともかくいい刺激をいただいて帰ってきました。
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