気の向くままに

山、花、人生を讃える

続 学術会議の件で学んだこと

2020年10月20日 | 社会

先ほど、しばらくブログを休止するとの記事を出したばかりですが、たった今、YAHOOのニュース一覧を見ていたら、
「日本学術会議任命拒否問題」、たった一つの論点。これさえ読めばデマや論点そらしには惑わされない
というタイトルが目に留まり、少し長い記事でしたがそれを読みました。なかなか説得力のある意見で感心しながら読んだのですが、説得力があるだけに、そしてわたしは菅総理を応援したい気持ちもあるので、反論したくなったのでした。
とても重要なところだと思うので、一緒に考えて頂けるなら幸いです。

 

さて、この記事には次のように書かれていました。

○日本学術会議法にこういう条文があります。
≪日本学術会議法 第七条≫ 会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。

この「推薦に基づいて、任命する」の解釈が何なのか、という話なんです。例えば、憲法6条にこういう条文があります。

 ≪日本国憲法 第六条≫ 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

通常、「基づいて任命する」というのに拒否権があるとすると、天皇も総理の任命を拒否できるのか?みたいな法解釈が出来てしまいます。 つまり、「推薦に基づいて」というのは、その推薦をそのまま丸呑みする、推薦された人を全員任命することを前提に行われているわけです。

 

と、このように書かれていたのですが、皆さんはこの解釈をどう思われるでしょうか。

 

以下は、これを読んで私が思ったことです。

この記事には、次の2つのことを同列に扱っています。
①(日本学術会議の)会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。
②天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。

しかし、これは同列に扱うことはできないと思うのです。
何故と言えば、「推薦に基づいて」「指名に基づいて」とでは、「基づいて」は同じでも、「指名」と「推薦」とでは明らかに違うのではないでしょうか。推薦は、あくまで推薦だと思うのです。

それに総理大臣は選挙、あるいはそれに所属する人の総意として指名されるのですが、学術会議の推薦は不透明でハッキリしないのですが総意とは言えないことは確かのようです。この2つの理由から、この場合の「指名」と「推薦」とは、私が思うには。まったくその重さが違うように思います。ですから、これを同列に並べて論じるのは間違っていると私は思ったのですが、どうなんでしょうか。

 

追記  前の記事の 「ブログ休止のお知らせ」 もどうぞお読みください。

 

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ブログしばらく休止のお知らせ

2020年10月20日 | その他

おはようございます。

都合により、このブログを1ヶ月ほど休ませてもらうつもりでいます。

 

いつも訪問してくださる皆様に感謝しますと共に、

また再開しました時には、どうぞよろしくお願いします。

 

    握手して別れ惜しむや鰯雲      な~んちゃって、どうもすみません。

 

    

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「学術会議」の件で学んだこと

2020年10月17日 | 社会

日本学術会議が会員として推薦した105人のうちの6人を、総理が任命しなかったことがマスコミの話題になっています。
そして多くの学者やマスコミが、「学問の自由に対する侵害である」と言っている。

 

わたしはこの件がニュースになりはじめた時、「日本学術会議」という組織があるのを初めて知った。だから、学術会議について何の知識もなかった。

 

この時期、菅総理は誕生したばかりなのでマスコミや国民からの注目度が高い。そんな時に、このような批判を浴びやすい、マスコミの格好の餌食となりそうなことをするには、よほどの覚悟であり、きっと「正しい」と信じてのことに違いない、と言うのが私の最初の印象でした。

 

そしてこの自分の印象が果たして正しいのか、それともマスコミが言うように「横暴・独裁的なのか」、大いに関心があって、これに関する識者たちの毎日の記事に眼を通してきました。

 

そして、日本学術会議について知り始めて、だんだん学術会議そのものに問題点があることを知るようになり、更に昨日は、「これだ!」という、自分なりの最終回答を見つけ、それによってもやもやが解消し、すっきりすることが出来ました。以下に何がどうすっきりしたのか、その点について書かせてもらいます。

 

まず私が知った学術会議の問題点ですが、昔から科学者たちの頭脳が戦争兵器開発のため国家に駆りだされ、利用されて来ました。(もちろん、国を愛する気持ちから進んで参加した科学者も多い。ただ、戦後はその事を恥じている人が多いかもしれない)

 

そのような反省から、日本学術会議は、「軍事に利用される研究はしない」という声明を出し、その事に力を入れてきているとのことです。それは私にもよく理解できます。

 

ところが、その一方で、2015年に中華人民共和国の「科学技術協会」と相互協力する覚書を締結しているとのこと。中華人民共和国は一党独裁の国ですから、民間もへったくれもない国です。ですから、いつでも科学者の研究が軍事に利用できるのですから、「軍事に利用される研究はしない」という声明に反すると思う。日本にだけ、これを適用し、覇権主義を地で行くような国と相互協力するなどは、明らかに矛盾であり、ダブルスタンダードと言われても仕方がありません。

 

それに、国基研理事・北海道大学名誉教授の奈良林直と言う人が「学術会議こそ学問の自由を守れ」という記事の中で、こんなことを書いておられました。

○北大は2016年度、防衛省の安全保障技術研究推進制度に応募し、微細な泡で船底を覆い船の航行の抵抗を減らすM教授(流体力学)の研究が採択された。この研究は自衛隊の艦艇のみならず、民間のタンカーや船舶の燃費が10%低減される画期的なものである。このような優れた研究を学術会議が「軍事研究」と決めつけ、2017年3月24日付の「軍事的安全保障研究に関する声明」で批判した。学術会議幹部は北大総長室に押しかけ、ついに2018年に研究を辞退させた・・・と。

もしそれが事実なら、私には、菅総理が任命しなかったことより、こちらの方がよほど横暴なことに思えました。このように、私から見れば、学術会議にはそういう問題点があるのですが、しかし、これを問題とするかどうかは人それぞれというところがあります。それで私はもやもやしていたのですが、昨日、私のそんな気持ちをすっきりさせてくれる記事に出会いました。

 

それは東京大学で宇宙物理学を研究している戸屋友則と言う人が、『天文月報』2019年1月号に寄稿された「学術会議声明批判」と題した記事に書かれているもので、以下は、それを紹介する記事からの引用です。

 

○「いかなる軍事研究も禁止されるべきである(学術会議の声明)」という考えが、現在の研究者あるいは一般社会の間で広くコンセンサスを得ているとは到底思えません。「軍事」と「戦争/平和」の関係はそう単純なものではないでしょう。戦争の惨禍が軍事によって生み出されるのは自明ですが、一方で、パクスロマーナの例を持ち出すまでもなく、平和を生み出し維持するうえでも軍事というものが大きな存在となっていることは、古今東西の人類史を見ても明らかです。

 

○こうした極端に理想的な平和主義は、やはりイデオロギーと呼ぶべきものでしょう。[中略]個人としてどのようなイデオロギーを持とうが勝手ですが、すべての人に一つのイデオロギーを押しつけ、従わない人は審査制度を作って取り締まれというのは、私には「戦前の裏返し」にしか見えません。

 

○安全保障と科学についての議論は、第2次大戦におけるわが国の状況に対する反省から始まっているわけですが、学術界として何を反省すべきかと言えば、それは「軍事研究をしたくない人に強制的にさせてはならない」ということに尽きるのではないでしょうか。・・・引用終わり。

 

そうなんです。引用が長くなりましたが、

「学術界として何を反省すべきかと言えば、それは「軍事研究をしたくない人に強制的にさせてはならない」ということに尽きるのではないでしょうか。

 

私はこれを読ませていただいて、「そうだ、そうだ、まったくその通りだ」と、思ったのでした。

 

≪追記≫
ちなみに、その記事を紹介した記者が、公に学術会議を批判した戸谷教授にその気持ちを尋ねたところ、このような返事が返って来たとのことです。

○学術会議から声明が出て、天文学会でも年長者の先生方が同じ方向で意見をまとめようとする動きがあり、このままでは意見の多様性や研究の自由が縛られるという印象を持った。特に、若手の研究者の間に萎縮して意見を言えないような雰囲気があって、私のような世代(編注・戸谷教授は48歳)が代弁すべきと思ったのです。若手からは『よくぞ書いてくれた』、年長者のある先生からは『反省したよ』と言われました。・・・と話されたとのことです。

 

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「金木犀」が私に言った

2020年10月15日 | 

今日は雲一つない秋晴れの快晴。
そして我が家の金木犀もようやく開花した。

 

剪定に行くと、松やマキと同じく、金木犀もたいがいの家にあるのだが、それは花が咲いたとき、辺り一面によい芳香を放つからだろう。我が家の金木犀もそうだった。

 

何時頃のことか行楽に出かけた時、金木犀が好い芳香を放っていて、その時、家内から「金木犀」と教えられた。そして、わが家にも欲しくなり、玄関前に植えたのである。それが今では1階の屋根より高くなったので、3年前から少しづつ低くし、茂った枝を間引き、透かすようにしてきた。

 

よその家に剪定に行くと、よく言われるのが「もっと小さくしてほしい」である。
花が咲いている時は良いが、そうでないときは大きくなりすぎて鬱陶しがられているのも金木犀の特徴である。一度大きくなったものを、小さく、小ざっぱり仕上げるのはそれなりに骨が折れる。しかし、「おかげで、さっぱりしました」と喜ばれると嬉しいものだ。

 

4、5年前と思うが、どういう加減か、2年続けて花を2度咲かせたことがあった。
1度散ったあと、またいつの間にかたくさん花をつけていて驚いたのだった。
剪定仲間に「金木犀は2度咲くことがあるのか」と聞いても、みんな「知らない」という返事だった。

 

ここまで書いて、念のためにインターネットで調べたら、そんな記事がいくつか出ていて、それほど珍しいことではないと知った。
が読んだ一つの記事には、2度咲いたときの1度目は、咲いて2日後に早くも散ったらしい。それで「散るのが早すぎる」と思っていたら、またもりもりと2度目の蕾をつけ、散った1週間後には花を咲かせたという。

 

私はこの記事を読んで、その早業に驚き、まさに木は「動いている」という感じがした。そして、あの木のどこからそんな蕾ができ、花を咲かせるのだろうかと、今さらながら不思議に思った。

 

すると、金木犀が私に向かって言った。
「あら、あなた、今頃そんなことに気がついたの。随分気づくのが遅いじゃない。
私だって、あなたに負けないぐらい毎日動いているのよ。あなたたちの目には、何にも動いていないようにみえるだろうけどね。
それに、それもあなた達人間に喜んでもらうためになんだよ。そういう努力、ちゃんとわかってよね。
あんた、私を斬っといて、お金貰うことばかり考えてんでしょう。嫌な奴!」

 

「はい、どうも、すみません」

 

   

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消費が伸びる肉の代替え食

2020年10月11日 | 地球温暖化について

知県は喫茶店のサービスがよいことで有名で、地元テレビでは、安くてお値打ちな店を紹介する番組もあるようです。
2年前、生長の家の行事で沖縄の人と一緒になったとき、「愛知県はコメダがあっていいですね」と話しかけられ「えっ、沖縄までコメダが聞こえているの」と驚いたことかあった。

 

コメダは店も駐車場も広いしコーヒーもうまいので、友達と会ったり、県内の遠くへ用事で出かけるときには、早めに出かけてコメダで時間調整するのでよく利用させてもらっている。しかし、コメダ以上にお値打ちの店は地元には珍しくありません。

 

私の自宅から歩いて行けるところにも評判の店があります。
サービスがよく女性客が多いので私一人では行きにくい店なので、昨日の午後、久しぶりに家内を誘ってその店に行きました。

 

下の写真は、インターネットから拝借したこの店のモーニングサービスのメニューとコーヒーです。
12種類から選べますが、E~Lは平均で10食までの限定品、A~Dは限定がないので、昼までに行けばこのどれかから選べる。これとコーヒーのセットで400円。チケットで買えばさらに安い。

       

午後には午後用のサービスメニューがあるが、写真がなくてお見せできないのが残念です。
コーヒーはカップで1杯半ぐらいの量があるので、これも嬉しい要素です。

 

さて、余談はこれぐらいにして、家内が店にあった週刊誌「女性セブン」のページを開いて、「ようやく週刊誌にも、肉食と地球温暖化のことが書かれるようになってきたね」と話し出した。
私はその記事を読まなかったが、それには肉の代替食のことや肉食が温暖化や水不足の原因になることが書かれているとのことでした。

 

1週間ほど前の読売新聞には、肉の代替え食品の消費が増え始めているという記事が出ていて、その記事には「健康志向から」とあったが、温暖化抑止の観点から代替え食品に切り替えておられる人もいると思う。

 

温暖化が進めば自然災害が激しくなるばかりでなく、作物にも大きな影響を与え、貧しい人たちには一層の飢餓の原因となる。日本の2・26事件は、貧しい人たちの生活を何とかしてやりたいという革命思想から惹き起こされたように(良い悪いは別として)、世界の紛争も、やはりこれと同じことが原因となって起こされるのだから、世界平和という観点からも、温暖化は抑止されなければならない。その為に、吾々に先ず何ができるかと言えば、肉食を減らすことなのである。
そんなことで、肉食が温暖化に及ぼす影響について、ようやく新聞や週刊誌の記事になり始めたことを知り、嬉しく思った次第です。           関連記事 肉食・飢餓・温暖化

 

追記:昨日の記事の虫刺されによる腫れは順調に回復中です。

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何でもない昨日のこと

2020年10月10日 | その他

何か虫にやられたのかよくわからないが、顔の両側の頬と額が赤く凸凹と腫れて来た。

そのせいか頭まで痒くなり、昨日、今日と夜中に目がさめた。

鏡でよく見ると、虫に刺されたような点があるから、先日の剪定作業をしている時、やはり何かの虫に刺されたのかと思う。
鏡を見ながら、三浦友和ばりのイケメンが台無しだ、と思った。(思うのは自由だ)

 

昨日は生長の家の行事があり、そのお役で出かけたが、マスクのお蔭でそれほど見苦しさが目立つこともなく助かった。

 

夕方、家内が長めに切ったアロエを差し出し、これを塗ると良いと薦めるので、ほっといても2、3日もすれば治ると思ったが、せっかくだからとテレビを見ながら渇いては塗りを繰り返した。

 

そして今朝、様子はどうかと聞くので、「何も変わらないよ」と答えた後で、片方の頬だけにアロエを塗って、その効果を確かめればよかったと、後悔した。

 

実は昨日よりは少し腫れは引いているようだが、それはもう峠を越えたのか、それともアロエが効いたのか、どちらとも言えず、残念である。折角のよい機会を逃してしまったようだが、次の機会はもう来てほしくない。

 

下の写真は、雨に濡れる寂しげな花たちが窓から見えたので、なんとなく撮ったもの。

「花よ、蝶よ」と騒がれるお前たちも、冷たい雨に打たれる時があるんだねえ・・・とでも思ったのかもしれない。

しかし、大丈夫。午後からは雨も止むらしい。

  

  

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宇宙と人生と

2020年10月09日 | 人生

以下の記事は2014年に書いたものを復活させたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

上のイラストは、宇宙誕生の瞬間から現在の宇宙までを単純に図式化したもので、このようなイラストは宇宙について書かれている本には必ずと言ってよいほど掲載されているものです。

 

一番下が宇宙の始まりの瞬間であり、一番上が現在の宇宙です。
何にもないところから、ある時ひょっこりと小さな小さな一点が現われたかと思うと、たちまち爆発し、膨張し、今も膨張し続け、現在の宇宙になった。そして宇宙の年齢は137億年と言われています。
これを逆にたどれば「宇宙の初め」に行きあたり、宇宙には「はじまり」があったことになります。

 

一番上の現在の宇宙に相当するところにはいくつかの銀河が描かれています。そしてわたしたちはこの銀河の内の一つである天の川銀河の中の太陽系の地球に住んでいるのですが、そんなことを思いながら、このイラストを見ていると、わたしたちがなぜここにいるのか?という、その全体像が見えてくるようで、「人生はお芝居」と言われることに、成程と頷ける気がしますが、どうでしょうか。

 

日本では昔から人間の本質を神の分霊(わけみたま)と言われているが、その「神の分霊」である人間が、肉体という舞台衣装を着て、この地球という舞台に下りて来て、お芝居を演じている。そして一人一人が自分の人生の脚本家であり、一人一人がその主人公である。このような人間観を、わたしは「なるほどなあ」と、このイラストを見ながら思います。
このイラストが、ちようど、昔のテレビのブラウン管のようで、現象世界は「映し世」「浮世」と言われることも、成る程と思えます。

 

さて・・・・・、
宇宙を過去へ過去へと遡っていくと、最後は始まりの小さな点さえもなくなって、エネルギー無限大になるのだそうで、なんにもないのにエネルギーは無限大という物理法則最大の矛盾にぶつかり、これを「始まりの特異点」といっているそうです。 

 

何にもないのに、無限大のエネルギーが現われる。いったいそれはなぜか?と研究者たちはさらにその先へと踏み込もうとしているのですが、しかし、それはもはや物理法則を超えた世界であり、哲学、あるいは宗教的な領域とも言え、多くの科学者たちがそんな世界へと目を向け始めているとのことです。
そして、その一人であるイギリスのブライアン・ジョセフソン博士はこう言っています。

 

○私は、精神が物質を生んだと考えています。私たちが、宇宙だと考えているものより以前から、精神が存在していて、時間と空間は、この精神の中から作り出されたと思います。この精神は、人間の精神とは何もかも違ったスケールを持っています。この最高精神と結びつくことによって、人間の精神は、可能性を広げていくことができます。宇宙を創造した最高精神は、一種の『サイコキネシス(距離をおいて精神力で物を動かしたり変形したりすること。念動。)』のようなものだったと思います。精神と物質の相互作用です。そこでは、最高精神の働きかけで、エネルギーが一カ所に集められて、ビッグバンが起こりました。 (NHK「アインシュタイン・ロマン」より)

 

ジョセフソン博士は、たくさんのノーベル賞受賞者を輩出しているイギリス、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所の物理学者で、「ジョセフソン効果」の論文でノーベル賞を受賞。今、彼は直感力を持つコンピュータの開発など、意識や精神の法則を探究し始めている。とのこと。 (NHK「アインシュタイン・ロマン」より)

 

ここで注目してほしいのは、世界の第1級の科学者が「精神によってこの物質宇宙が作り出された』と言っていることであり、また「この最高精神と結びつくことによって、人間の精神は、可能性を広げていくことができます。」と言っていることです。ちなみに「アインシュタイン・ロマン」では、このブライアン博士が座禅の姿勢で瞑想しているところも紹介されていました。また、瞑想する科学者たちも増えているとのことでした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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似たもの夫婦

2020年10月08日 | 人生

昨日、家内が食事の最中、○○さんに宇宙がどうの、地球がどうのと宇宙論というと大げさだが、何かそのような話を「知ったかぶりして話しちゃった」と可笑しそうに話した。

 

続いて、
「図書館が休館していたもんでね、何か本を読みたくて、おとうさんの物理とか宇宙の本をこっそり読んでいたの。そしたら、よくわからないけど面白かったので、ついしゃべってしまった」というのであった。

 

それを聞いて嬉しくなったのは私だった。
「おお、その面白さがわかってくれたか」という感じである。

 

宇宙がどのようにしてできたかということは、アインシュタインの相対性理論と、量子力学というミクロの物質の研究が進んだことによって、この2つが車の両輪となって、ずいぶん分かる様になって来た。

 

相対性理論の発表される前は、時間空間は変化しないものと考えられていて、物理の対象外であった。
しかし、アインシュタインは時間も空間も相対的なもので観察者の状況によって変化するもの。そして時間と空間は別の現れ方をしているが、本来同じものであることを発見し、それを時空と呼んだ。更にアインシュタインは、その時空は、宇宙を構成するもう一つの要素である物質(エネルギー)と密接な相関関係があることを発見し、その変化の関係をたった一つの方程式で現わすことに成功した。当時の科学者たちは、そのシンプルな美しさに感動したという。


例をあげれば、浦島太郎の話が単なる空想ではなく、現実に起り得ることを証明した。
物理学ではこれを「浦島効果」と名づけているらしく、こうして相対性理論は当時の常識を打ち破った。
この浦島効果は日常生活の中でもおきていることだが、その効果があまりに小さいので人間の感覚ではとらえきれないだけのこと。

 

一方の量子力学は原子を構成する電子など、ミクロの物質や、その振る舞いについて研究するものだが、こちらもそれらについて何かが発見されるたび、常識を覆すことばかりで、研究者たちにとっては驚きの連続だったようである。代表例をあげれば、パソコンや携帯電話、スマホなど、電気製品の進歩は、これらの研究がもたらしたものだ。

 

そして、この相対性理論と量子力学を得たことで、宇宙についての研究も進み、こちらも新発見があるたび、研究者たちを驚かせてきた。

 

人間は、或る意味、常識という檻の中に棲んでいるようなものだから、何か自由でない苦しさを感じるが、こういう本を読んでいると、自分の中の常識が打ち破られいく。そして、高揚感さえも感じる。
だから、よくわからないけど面白い、ということになるのかと思う。

 

それで、わたしは「それなら、もっと初心者用のわかり易い本があるよ」と言えば、
「それなら、その本見せて」と言うので、さっそくその本を差し出した次第。

 

ということで、以下は私の独り言。
かあさんよ。俺たち似たもの夫婦だな。
いつか一緒に宇宙へ羽ばたこうぜ!

 

追記
人間が不自由を感じるのは、人間は本質的に本来自由であって、その自由をどこかで経験して知っているから、自由でないとき、不自由を感じるのである。もし人間が本来不自由なら、不自由さえも感じることが出来ない・・・と、ある本に書かれていたが、私は感動しながら、成程と思うのです。

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昨日の1日

2020年10月06日 | 人生

昨日は家内を連れて日赤病院に行った。
先日、家内は息苦しさを感じたらしく、心配して近所の医者に診てもらったのだが、紹介状を書くから詳しく日赤で診てもらった方が良いとのことだったので、昨日診てもらうことになったのだった。

 

結果は「異状なし」ということで安心したが、月曜日ということもあったせいか診察を待つ人が多く、ずいぶん待たされてしまった。予約の時間は10時半だったので10時に着いて、終わったのは14時30分だった。その間近くの店で食事をしたが、その時間を別にしても3時間半は病院内でじっと待ち続けて、剪定の仕事をしているよりも疲れた気がした。

 

待っている間は、イヤホンで自分で朗読して録音した『神との対話』(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)をずーと聞いていたので、何だか耳も疲れてしまった。ずーと長い時間きいておられたのは、その対話が素晴らしいからだが、改めて私の心に響いたのは次の箇所だった。少し長くなるが、過去に抜き書きしていたものを掲載させてもらいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神:家庭人にとっては、気を散らすことがいくらでもあり、現世的な心配がいくらでもある。
だが、精神的な美だけを追求する者はそうしたことに煩わされない。
パンと水を携え、粗末なワラ床で休み、祈りと瞑想と神性を思いめぐらすことにすべての時間を捧げる。
そういう環境なら、神性を見ることはどれほど簡単だろう!務めはどれほど単純だろう!
しかし、配偶者があり、子供があったら!
午前3時におむつを変えなければならない赤ん坊に神性を見る。毎月1日に支払わなければならない請求書に神性を見る。
配偶者を襲う病に、奪われた職に、子供の発熱に、親の苦痛に神の手を見る。
それができたら、聖者だろう。
あなたが疲れるのはよくわかる。苦闘にうんざりしているのもよくわかる。
教えてあげよう。わたしに従えば、苦闘は終わる。神の場で暮らせば、すべての出来事が祝福になる。

                                            

ニール:でも、失業して、家賃を払わなければならず、子供は歯医者にかからなければならないとき、どうすれば神の場に着けるのですか。高貴で哲学的な場が、こうした問題を解決してくれるとはとても思えないんですが?

 

神:つらいときには、真の自分を忘れがちになり、自分が選んだ人生を創造するために与えられた道具を忘れがちになる。
今こそ神の場に行くときだ。そこでまず大きな精神の平和が得られる。
平和な精神からは良いアイディアが溢れ出す。
そのアイディアで、あなたが抱えていると思っている問題が解決するかもしれない。
第2に、神の場でこそ、あなたの自己が実現する。それが、あなたの魂の目的、唯一の目的だ。
神の場に入れば、いま経験していることはすべて、かりそめに過ぎないとわかるだろう。
言っておくが、天国も地上も過ぎ去るが、あなたは過ぎ去らない。
この永遠という視点から見れば、ものがよく見えてくる。
現在の状況や環境は、一時的なかりそめのものだと正しく考えられるようになる。
そして、それを道具として使えるようになる。
状況や環境は、現在の経験を創造していくうえでの、一時的なかりそめの道具に過ぎないからである。
あなたは自分を何者だと考えているのか?失業との関連で、自分は何者だと考えているのか?
そして、もっと肝心なことだが、わたしを何者だと考えているのか?
問題が大きすぎて、わたしには解決できないと思うのか?
今の苦境からの脱出という大きな奇跡は、わたしの手には負えないと思っているのか? 

 

ニール:あなたの手に負えないかどうかではなく、あなたが手を出して下さるかどうか確信が持てないんです。

 

神:あなたはわたしの能力を疑っているのではなく、わたしの意図を疑っているということなのだね。

 

まだまだ続くが、ここまで。

 

長い時間ジッとしていて疲れてしまったので、病院から帰ってすぐ、個人的に頼まれているお宅へ伺い、2時間ほど剪定させてもらった。このお宅は知り合いで、いつでも好きな時に来てやってくださいということなので、とてもありがたいのである。
その後は録画した映画「エアーホースワン」を見た。面白かった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

追記:この記事に興味を持たれた方は、合わせて 神様に手紙を書く も読んでいただければうれしい。

 

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朝のひとり言

2020年10月05日 | 人生

床屋さんには大きな鏡があって、自分の姿とともに背後の部屋の風景や調度品なども映し出される。
それは小さい子供の目には、あまりに本物らしく見え、鏡の向こう側にも部屋があるように見える。

 

わたしが小さかった頃、鏡に自分の姿が映っていることはわかっていたが、部屋は写し出されているようにも見えたし、向こうに部屋がある様にも思えた。それで、実際の部屋や調度品と鏡に映っているものを見比べようと思うのだったが、きょろきょろすると床屋さんに叱られそうで確かめる勇気もなかった。

 

そして散髪が終わったあと外へ出て、鏡の向こう側を確かめると、何もない空き地なので、おかしいなあと首をかしげる。そして次に行ったとき、また同じことを繰り返し首をかしげた。そんなことを何度か繰り返したが、気がついたときには、いつの間にか、鏡に映っているのだと当たり前の如くわかる様になっていた。

 

それよりもっと小さい頃は、新聞社のサービスで、学校のグランドで映画が上映されたりしたが、その会場に親につれられていく。そしてニュース映画で乗用車がこちらへ向かって走ってくるシーンがあるたびに、自分がその車に引かれるような恐怖を感じたのを思い出す。

 

これは、二次元と三次元の区別がつかず、本物と写し出されたものとの区別が出来なかったことによるのだが、これもいつとはなしに分かる様になっていて、いつの間にか怖さを感じないようになっていた。

 

そして思うに、人間は大人になってからも、これと同様な錯覚を起こして不安や恐怖を感じたりしているのではないだろうか。例えば怖い話をニュースで聞いたりすると、いつか自分にもそんなことが起るかもしれないと、現実には起きていないのに、取越し苦労をしたりするのである。

 

お釈迦さまは、生老病死という人間の4つの苦しみから逃れる道はないかと、王宮での何一つ不自由のない皇太子としての暮らしを捨て、その道を求め、修行し、瞑想し、ついに夢(迷い)から覚め、解脱したという。
そして、人間の本質は「本来仏である」と悟り、
「今、ここが仏国土であり、山川草木悉皆成仏」との悟りを得られたという。

 

ああ、拙者もお釈迦様にあやかりたいものだ。

お釈迦様、聞いてますか? 

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「恋の未練」を断ち切る

2020年10月03日 | 人生

村田英雄が歌っていた『侍ニッポン』という歌があります。
古い歌だから私も知らなかったのですが、誰かがカラオケで歌ったのを一度聞いて、すっかり気に入り、すぐにこの歌を覚えてしまいました。


その一番の最初の歌詞はこんなふうです。

     人を斬るのが侍ならば
     恋の未練がなぜ切れぬ

と、なかなか粋な文句で始まっています。

これは歌の歌詞ですが、侍といえども恋の未練を断ち切るのは難しかったかもしれませんね。
しかし、侍でもないわたしが恋の未練を見事に断ち切ったという、その自慢話を書かせてもらいます。

世界的に有名な数学博士の岡潔(おかきよし・故人)さんのことはこのブログでもたびたび書かせてもらってますが、その岡潔さんの本の中に、およそこんなことが書かれていました。

○窓を開けると向こうにダッチアイリスの花が見える。離れたところにあるのに、窓を開ければ即座に見える。これが実に不思議である。自分の情緒が飛びだしていっているからだろう・・・と。


わたしはこの「情緒が飛び出す」というところがとても気に入り、さっそく情緒を飛び出させてみようと思ったのでした。
どうしたかというと、乗船中でしたので、船の上から海を見ながら、「今自分の情緒が飛びだして、ふわふわと海の上を散歩している」というイメージで、船から少し離れた海の上、海面から1mぐらい上をフワフワと散歩したのです。


すると、本を読んで感銘していたせいか、本当に情緒が飛び出して、海の上を散歩している気持になって楽しむことが出来たのでした。それで、すっかり味を占めて、その頃はよくそうして海の上を散歩して楽しんでいました。


その後、外航から国内の大型カーフェリーに転職しましたが、東北とか、北海道の雪景色は、その頃の私には新鮮で珍しいものでした。それで、本を読むのに飽きた時など、窓の外の雪景色に誘われ、情緒を飛び出させ、窓から見える雪景色の中を散歩して楽しんだりしていました。


私は20歳の時、初恋に失恋し、21歳の時にときたま本屋で見つけた生長の家の本を読み、神が本当にいることを知り、感動し、「これからは求道一筋に生きよう、二度と恋愛はすまい」と誓っていました。そして、もし結婚するなら恋愛ではなく、見合い結婚のつもりでいました。


ところが運命のいたずらか、転職後、生長の家で青年会の活動をするようになってから、わたしの意中を占める女性があらわれてしまった。その頃には私も少しは大人(25歳)になっていたから、初恋のように胸を焦がすようなことはなかったが、しかし、恋愛感情というものは決して油断ならないもので、「これは困ったぞ」というのが、その頃のわたしの心境でした。そして、「今のうちになんとかして消してしまわなければならない。神様よろしくお願いしいます」という心境でもあったのですが、一旦芽生えた恋愛感情をそうやすやすと消し去ることができるとも思えず、それであればこそ、「これは困ったぞ」というわけでもありました。


ところが、思いがけないところで、思いがけないことが起きてくれのでした。


ある日の仙台港停泊中、部屋の中から情緒を飛び出させ、数キロ先の小高い丘まで一気に飛んでいき、そこでふわふわ散歩している気分になって楽しんでいました。楽しみながらも、心の奥には「これは困ったぞ」という悩ましさ重苦しさがあったのですが、その時、突然に自分の中を流れ星が走ったように、恋愛感情がすーと消えてしまうのがわかりました。それは本当に流れ星が走って消えたような感覚で、同時に身も心もすーと軽くなったのでした。


丸い心とか、とんがった心とかいうように、心には形があると言われますが、形ばかりでなく、心がすーと軽くなって、心には重さもある、とその時思いました。


ということで、これは意識して出来たことではないですが、こんなこともあり得るんだなということで、書かせてもらいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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