気の向くままに

山、花、人生を讃える

「対称性」の美しさ

2014年07月31日 | 信仰

最近、「対象性」とか「非対称性」という言葉をよく耳にします。その意味は、ひっくるめて言えば共通性を持つことが対象性であり、異なることが非対称性と言えるようだ。

ところが、家内はなんのことかさっぱりわからないというので、私は以下のような話をした。すると家内は「そんな話を聞いたらみんなも感激するね」とわたしをおだてた。ところが私はよい気になって、まんざらおだてでもないと思い、ここに書いて見ようという気になった。以下は、その時に話したことを再現したものです。

 

アインシュタインの「一般相対性理論」の方程式があるが、当時の科学者たちはその方程式を見て、「美しい!」と涙を流さんばかりに感動したそうだ。

アインシュタインが相対性理論を発表するまでは、時間・空間・物質はそれぞれ別のものだと思われていた。また時間はどこまでも均一に刻まれ、空間はどこまでも均一に広がっているものと思われていた。ところが、時間=空間であることをアインシュタインは発見し、その時空は物質(エネルギー)と密接な関係があり、時空がそれによって伸びたり縮んだりしてゆがむことことを見抜いた。つまり極端な言い方をすれば、時空も物質も一つのものであるということを物理学的に見抜き、それを式に表わした。科学者たちはその方程式のシンプルな、対称性の美しさに感動した。

 

それはちょうど自分たちが、『万教帰一』の美しさに感動するのと同じだ。はじめて『生命の実相』を読んだとき、それまで別のものだと思っていたキリスト教、仏教、神道、天理教などが、谷口雅春先生の実相哲学によって見事に一致することに、感動を覚えずにいられない。これも「対象性の美しさ」の典型であり、科学者たちがアインシュタインの方程式に「美しい!」と感じるのもこれに似たようなものだろう。

 

「宇宙論 白熱教室」では、こんな話をしていた。人間の身体は星のかけらでできている、と。身体の成分である、窒素、リン、鉄、炭素などは、太陽のような恒星の寿命が来て大爆発を起こす。これが超新星爆発といわれるもので、これらの成分は星で造られ、爆発の時に宇宙に飛び散って、それが自分たちの身体になっている。つまり人間の身体は星のかけらで、星からできている。だからこれも「対象性の美しさ」だ。

 

同じく「宇宙論 白熱教室」で、こんな話もしていた。臨終の間際に「ブルータス、お前もか」と言ったカエサルの吐いた息の幾分かを、今、自分たちが吸っている。それは物理的にちゃんと計算できる。それは地球の表面積に大気圏の高さをかければ大気の総量がわかるし、一回の呼吸が1000CCだとすれば、その中に1023個の原子が含まれていることもわかっている。だからカエサルの吐いた息の中に含まれていた1023個の原子が大気全体に散らばり、その大気中からまた1000CC吸えば、計算上では103個の原子が含まれていることになる。これはごく大雑把な計算からの答えだが、いずれにしても、カエサルの吐いた原子を自分たちが吸っている。カエサルではなく、谷口雅春先生が悟りを開かれた時に吐きだされた原子を吸っていると考えてもいい。これも対象性の美しさで、霊的に一体であるだけでなく、物理的にもみんな一体だということだ。

 

それから、BSの「コズミック・フロント」でやっていたが、月は地球から出来ているらしい。月の石を持ち帰って分析したら、地球とまったく同じ成分でできていたらしい。はじめは、ずっと昔に地球に小天体が衝突して、その小天体が粉々になって宇宙に散らばり、その散らばった物質がやがて重力で一塊りになり、月になったと考えられていた。ところが月と地球が同じ成分だったことから、地球に小天体がぶつかった時、小天体は地球のマグマの中にもぐりこんでしまって、宇宙に散らばったほとんどは地球自身が飛び散ったもので、それが重力で固まって月になったということだ。こうして月は地球からできた。これもまた対象性の美しさだ。そして、月の引力を受けて潮の満ち引きがあり、そこから生命が生まれた。こんなことはとても偶然とは思えない。凄いと思わないか。

 

というような話をしました。

ちなみに、家内は「宇宙論 白熱教室」を2回と3回だけ見たらしいが、「よくわからないけど面白かった」とのことでした。

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「懐かしさ」について(『春宵十話』から)

2014年07月04日 | 読書

岡潔さんの本には情操とか情緒という言葉がよく出てくるのですが、その情緒の中心は「懐かしさ」だと言い、その「懐かしさ」についてこんなふうに書いています。

○理想とか、その内容である真善美は、わたしには理性の世界のものではなく、ただ実在感としてこの世界と交渉を持つもののように思われる。芥川龍之介はそれを「悠久なものの影」という言葉で言い表している。

○理想は恐ろしくひきつける力を持っており、見たことがないのに知っているような気持になる。それは、見たこともない母を探している子が、他の人を見てもこれは違うとすぐ気がつくのに似ている。だから基調になっているのはこの「なつかしい」という情操だといえよう。これは違うとすぐ気がつくのは理想の目によって見るからよく見えるのである。

 

岡潔さんは「よいものはよい(悪さも同じ)」とはっきりわかるのは、こういう情緒が分らせてくれるのだといいます。また数学は真善美のうちの「真」の調和であり、芸術は「美」の調和であるといい、どちらも、基本になるのは情操教育だといっています。

さて、別のところでは岡潔さんが小学生の時に読んだという「魔法の森」という物語があらすじで紹介されているのですが、それがとてもよく懐かしさの感じが出ているので、ここにも書かせててもらいます。 

○森のこなたに小さな村があって、姉と弟が住んでいた。父はすでになく、たった一人の母もいま息を引きとった。おとむらいがすむと、だれもかまってくれない。姉弟は仕方なく、森を超えると別のよい村があるかもしれないと思ってどんどん入っていった。これこそ人も恐れる魔法の森であることも知らないで。

 ところが、行けども行けどもはてしがない。そのうち木がまばらになって、ヤマイチゴの一面に実をつけている所へ出た。もうだいぶおなかがすいていた姉弟は喜んでそれをつんだ。ところが天然のイチゴの畑に一本の細い木があって、その枝にきれいな鳥がとまっていた。姉弟がイチゴを食べようとするのを見て「一つイチゴは一年わーすれる、一つイチゴは一年わーすれる」とよく澄んだ声で鳴いた。姉はそれを聞いてイチゴを捨て、食べようとしている弟を急いで引きとめた。しかし弟はどうしても聞かないで、大きな実を十三も食べてしまった。それで元気になった弟は、森ももうすぐ終わりになるだろう、僕が一走り行って見てくるから姉さんはここで待っていて欲しいというや否や走りだして、そのまま姿が見えなくなってしまった。

 いくら待っても帰って来ない。そのうちに日はだんだん暮れてくる。この森の中で一晩明かすと魔法にかけられて木にされてしまうので、小鳥は心配して、さっきからしきりに「こっちいこい、こっちいこい、こっち、こっち」と泣き続けているのだが、姉は「いいえ、ここにいないと、弟が帰って来たとき、私がわからないから」といって、どうしてもその親切な澄んだ声の忠告に従わない。

 一方、弟の方は、間もなく森を抜ける。出たところは豊かな村で、そこの名主にちょうど子がなく、さっそく引きとられて大切に育てられた。ところがそれから八年過ぎ、九年過ぎだんだん十三という年の数に近づくにつれて、なんだか心が落ち着かなくなっていった。何か大切なものを忘れているような気がして、どうしてもじっとしていられず、とうとう十一年目に意を決して養父母にわけを話し、しばらく暇を乞うて旅に出た。

 それからどこをどう旅しただろう。ある日ふと森を見つけ、何だか来たことのあるような所だと思ってしばらく行くと、イチゴ畑に出た。この時がちょうど十三年目に当たっていたため、いっぺんにすべてを思い出し、姉が待っていたはずだと気がついて急いで探す。すると、あの時姉の立っていたところに一本の弱々しい木が生えている。弟は、これが姉の変わり果てた姿だと悟って、その木にすがって思わずはらはらと涙を落した。

 ところがそうするとふしぎに魔法がとけた。姉は元の姿に戻り、姉弟は手を取り合ってうれし泣きに泣く。小鳥がまた飛んで来て「こっち、こっち」と澄んだ声で嬉しそうに鳴く。こんどは二人ともいそいそとその後についていって森を出る。養父母も夢かと喜び、その家で姉弟幸福に暮らす。

 

そして、岡潔さんは次のように言っている。

○この物語全体が一種の雰囲気に包まれていると感じられないだろうか。私には、十三年に近づくに従って大切なものを忘れている気がして・・・という心の状態、その情操というものがひどく印象深く、いつまでもきれいに覚えている。これは慈悲心に目覚めるというだけでなく、心の故郷が懐かしいといった気持ではないだろうか。こうしてこの気持ちがなければ、人の人たるゆえんのもの、つまり理想を描くこともできないのだ。

 

以上、『春宵十話』からの引用でした。

 

≪追記≫『春宵十話』を、私は今の今まで「はるよいじゅうわ」と読んでいましたが、ただしくは「しゅんしょうじゅうわ」であるらしい。挟んであっパンフレットにふり仮名があって、はじめて知りました。前回の『春風夏雨』は「しゅんぷうかう」でした。

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「雪の結晶」と中谷宇吉郎

2014年07月01日 | 読書

下の写真は、雪の結晶のいくつかのモデルのスケッチで、BSプレミアムのある番組の中で紹介されたものです。

   

これは世界ではじめて雪の結晶を作ることに成功した物理学者の中谷宇吉郎さんの手書きスケッチとのことだったので、貴重な映像と思い、写真にとらせてもらい、ここにアップさせてもらうことにしました。

岡潔(きよし)さんの著書の中には「中谷宇吉郎」という名前がたびたび出てくるので、テレビでその名前を聞いて、岡潔さんの本を思い出し、懐かしくなって久し振りに読み始めました。

岡潔さんの本はいずれも文庫本で4冊あったのですが、自宅の火事の際に台無しになり、今手元にあるのは10年ほど前に、別の出版社から再販されているのを見つけて購入した『春宵十話』という一冊だけ。それで別の本も再販されていないかとインターネットで検索すると、『春風夏雨』という本が文庫本で出ていたのでさっそく購入しました。いやあ、さっそく手に入ってうれしかった~。岡潔さんの本が絶版になってしまっては大変もったいないことで、手ごろな価格で購入できるよう、さらに文庫版で再販してもらいたいものです。

さて、購入した次の朝(昨日)の7時ごろ、コーヒーを飲みながら読むともなく「春風夏雨」をひらくと、最初が「生命」という見出しで、「近頃、生命とは何かがようやくわかって来たように思う」という書き出しで始まっていたので、たちまち吸いつけられ夢中になってしまい、お陰で、この日は剪定の仕事があったのも忘れて、うかつにも8時半、シルバーの事務方から電話で呼び出されるという始末でした。

以上、前置きが長くなりましたが、中谷宇吉郎さんは理研に所属していた物理学者で、その師匠は同じく理研の寺田虎彦であり、寺田虎彦は夏目漱石に学んでいます。それで、岡潔さんの本の中から「寺田虎彦」と「中谷宇吉郎」さんについて書かれているのをすこし、紹介させてもらいます。

 

○中谷宇吉郎さんが寺田虎彦のことで岡潔さんに語った話。

寺田虎彦は理研時代、若い研究生たちに次のように話した。「今自分はイルリバージブル(不可逆)な現象を研究しようと思って、ガラスの破れ目を調べているところで、毎日毎日見ていると、しまいにはガラスの破れ目が大きな渓谷のように見えてくる。その頃になって、自然はポツリ、ポツリと秘密を漏らし始める。

 

○岡潔さんと一緒に留学した文部省のMさんが中谷宇吉郎さんについて、語った話。

Mさんが理研に出かけてあれこれ質問しても、誰も親切に答えてくれなかったが、中谷宇吉郎さんだけはとても親切で、こちらが訊ねないことまで、いろいろ気をきかせて教えてくれた。中谷さんは理研一の親切な人だったので、よく覚えている。(一部は『春宵十話』に出ていた話)

 

○岡潔さんが病床にあった中谷宇吉郎さんを見舞ったときに中谷さんが語ったこと。

「人工雪は僕や花島君(高弟)らが作るとたいていうまくできるのだが、他の人には作れない。僕たちでも必ずできるとは限らない。天覧の時などうまく作れるかと思って、零下40度の低温室だのに冷や汗をかいた。そんなふうだから日本の物理学者たちは、そんなものは物理実験ではない、だから中谷のやっていることは物理学ではないといって、どうしても僕たちのしいてることを学問とは認めない。それで僕も少々閉口している。」

 

ここに書かれている人工雪とは、雪の結晶のことだと思いますが、いやあ、STAP細胞のことを思い出しますねえ。小保方晴子さんに、雪の結晶を世界で初めて作った中谷さんのこぼしたこの話を届けてあげたい気持ちになったことでした。

 

○中谷宇吉郎さんの臨終のときこと。

中谷さんは奥さんに子たちに対する注意を述べ、自分が非常によくしてもらった礼を述べた後、「静子、人には親切にするものだよ」と言い残した。

 

岡潔さんがフランス留学した頃、この中谷宇吉郎さんとは二週間ほど一緒で、毎晩岡潔さんの部屋にやってきて、寺田虎彦の実験の話をよく話してくれたとのこと。そして、間もなく中谷さんは日本に帰国した。後に岡潔さんはその時のことを思い出して、読んだのが次の句。

 

        のいばらに轍消え行く響きかな

 

以上、岡潔さんの『春風夏雨』からの中谷宇吉郎さんについての紹介でした。

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