気の向くままに

山、花、人生を讃える

人間とは何か?②

2015年04月16日 | 信仰

偶然、ここへきて下さったあなたへ。

電球が明るく灯るのは、発電所から電気が送られ、電球の中を電気が流れているからであり、水道の蛇口から水が出てくるのは、水源地から水道管を通って水が送られているからです。

ところが、ここに笑い話のような面白い話があります。東京オリンピックのとき、ホテルに泊まったあるアフリカ人選手が蛇口をひねると水が出てくるのに驚き、「世の中にはこんな便利なものがあるのか、是非国へもって帰りたい」と思ったらしく、「あれはどこに行けば買えるのか?」とフロントスタッフに質問したとのこと。これは蛇口が水を生み出す機械と勘違いした笑い話のような実話だそうです。

わたしは19歳のとき、ある宗教の門を叩いたのですが、その時、地元の青年幹部らしい人と喫茶店で話をしました。その時、話のきっかけは覚えていないのですが、多分、「人間とは何か」について話をしていたのだろうと思います。わたしが「いや、片手が無かろうと、片足がなかろうと、そんなことは人間の値打ちになんの関係もないはずだ」と言うと、相手の人は「いや、片手、片足がないよりも、やはり五体満足の方がいい」という話になったことがありました。

相手の青年幹部は、「人間の値打ち」を「人さまのお役に立てる」という意味に解して五体満足の方がいい、と言ったのだと思いますが、わたしの方は、もっと本質的な意味での「人間の値打ち」についてでしたが、わたしも、なぜ「片手、片足がなくても人間の値打ちに関係がない」と言えるのか、その理由は説明できませんでした。

ところが、のちほど生長の家の『生命の実相』を読むことになり、その理由がとてもよく解りました。

人間は平等だといいますが、肉体が人間なら平等であるはずがありません。男と女は、肉体の面から明らかに平等ではないし、また同性間で比較しても、運動能力や知的能力、その資質等、明らかに個人差があって平等とは言えません。しかし人間は、そういう個人差があるのを認めながら、一方では本来的と言ってもよいほどに、平等であることを要求する気持ちがあります。これは何故だろうか。

それは「本当の人間」は、そのような外見的なものではなく、肉体を超え、美醜を超え、運動能力や知的能力をも超えて、その奥にあって流れている「いのち」であり、しかも、その「いのち」なるものは等しく神のいのち、仏のいのちだからではないでしょうか。

例えれば、電灯の形はいろいろ違っても、その奥に流れている電流(いのち)は同じ源から来ているのであり、その電流に匹敵するものこそ、人間の本質だから・・・。

と、生長の家ではこのように教えていただいているのですが、あなたはどう思われますか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間とは何か?

2015年04月14日 | 信仰

偶然、ここへ漂着したあなたへ。

 

わたしは若い頃、生長の家の人間観にふれてビックリし、そしてその教えに傾倒していったのですが、あなたが賛成して下さるかどうかはともかく、その人間観をごく簡単に紹介させてもらいます。

 

水道の水は蛇口から生まれて来るのではなく、ただ蛇口を通って出て来るだけである。それと同じように人間も母親から生まれてくるのではなく、それはただ通り道にすぎない。人間の「いのち」そのものは神から生まれた「神の子」です。

もし、母親が子を生むなら、「男の子が欲しかったのに、女の子が生まれた」などということがありうるはずがありません。だから、昔から子供は神からの授かりものといわれています。

よく肉体をさして「わたし」の身体(からだ)といいます。この場合、「身体」の前に「わたしの」が付いていることに注意して下さい。「わたしの」の『の』は所有格です。だから、肉体はわたしの所有物であって「わたし」自身ではなく、わたし自身は別の「何か」であることをあらわしています。その「何か」が「いのち」です。

普通、肉体の生理機構が動いているから「生きている」ように思われている節がありますが、それは逆です。いのちがあるから肉体の生理機構も動いている。「いのち」が容れ物である肉体を動かしているのであって、肉体の生理機構が動いているから生きているのではない。だから「いのち」の容れ物である肉体を「カラだ」といい、いのちが去った肉体を「なきガラ」といいます。

人間の本質は無形の「いのち」そのものであり、「いのち」は「いのち」からしか生まれず、その「いのち」の本源を「神(仏)」と言います。ですから、生長の家では人間を「神の子」といっています。

 

と、このように説くのが生長の家の人間観ですが、あなたはどう思いますか?

 

○あなたは、あなた自身が今考えているような価値なき、つまらない者ではないのである。あなたは“物質”ではないのである。また肉体でもないのである。“生ける霊”なのである。“わたし”の分身なのである。分身というと本体から分離してしまったように誤解してはならない。あなたは“わたし”から永久に分離することのできない存在である。“わたし”は普遍的存在であるから何処にもあり、あなたの内にも住む。あなたの内に“わたし”は常に居り、あなたもまた“わたし”の内に常にある。   生長の家創始者 谷口雅春先生著 『神真理を告げ給う』より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小倉山

2015年04月01日 | 

20年ほど前、一人飛び込みで下呂温泉の比較的安い料理旅館に泊まった。その時、旅館の主人が「どうしてここへ来たんですか」と尋ねるので、「山へ昇るため」と答えると、主人は「ああ、そうですか。山へ登る人に悪い人はいないといいますね」とかなんとか言ったので、その時、はじめてそんなことを聞いたのだが、「なるほどそうかもしれない」と思ったことがある。

たしかに山中に入ると、自然の中に抱かれ、自然の中に溶け込んだような、広々としたうれしい気持ちにさせられる。山に登り始めた頃、これはうれしい発見であり驚きだった。それは自然(野生)をとりもどしたような「自然人」というような感覚だったが、山に登る人はその感覚の歓びがあるから山へと向かうのだろう。こんな時には、おおらかでやさしい気持ちになっているから、「山に登る人で悪い人はいない」ということも一理あるように思う。

さて、いよいよ春山シーズンだが、昨日は先ず足慣らしということで近くの小倉山に登った。何度も登っている平凡な山だが、しかし自然に平凡はない。どこを見ても美しいし、どこを見てもうれしい。豊かな自然の一つ一つが鏡に映るように心の中に入ってくる。

木々は芽吹き前の静けさ。アセビは咲きはじめ、カンアオイも土の中から顔を出しはじめていた。

中腹の木漏れ日の射すところでは白い妖精のバイカオウレンが花盛りだった。

麓の桜は登る時には蕾が多かったが、下山の時にはこの日の暖かさで7分咲きの見ごろになっていた。

 

 

≪バイカオウレン≫

    

 

        人知れず春の宴か白き花

にぎやかに咲いているが、登山道からはほんの少しながら離れているので、気づく人はほとんどいないようだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする