気の向くままに

山、花、人生を讃える

ヘルニアの治った話とうつ病の治った話

2011年10月22日 | 信仰
先日、誌友会で少し離れたところから来てくれた人がいてよく知っている人ではあったが、どういう経緯で生長の家に入信されたのかは知らなかったので、そのきっかけについて尋ねた。そしたら、こんな話を聞かせてくれました。

病名はヘルニアということでしたが、腰から肩にかけて痛くてたまらず、30分と坐っておれないぐらいで5ヶ月の間、効くと教えられたいろいろな民間療法にかかったが一向回復に向かわず、たまらずについに病院に入院することになった。その入院中の一時帰宅の時に書店で3冊本を買ったが、その3冊の中に谷口雅春先生の「心の○○○(忘れた)」と云う本が入っていたとのことだった。

それで、「読んでどんな気持ちでしたか?」と聞くと、
「もう『こんな世界があるのか!』と云う感じだったねえ」との答え。

「こんな世界があるのか!」という、「こんな世界」とは、もちろん生長の家の説く世界観であり、人間観であり、人生観ですが、その世界観なり人間観は、普通の世界観や人間観から見ればまったく常識外れで荒唐無稽だが、その荒唐無稽がでたらめではなく、深い思索で理路整然としているから、読んだ人は「こんな世界があるのか!」と何とも言えない不思議な感銘を抱かざるを得ないのでしょう。
しかもそれが谷口雅春と云う一個人の独りよがりの見解ではなく、釈迦の教えの真髄と一致し、キリストの教えと一致し、あらゆる正しき宗教教祖の教えとも一致していては、半信半疑ながらも世界が開けたような興奮を覚えずにはいられない。

わたしもはじめて『生命の実相』を読んだときは、これと一字一句違わず、感銘とともに「こんな世界があるのか!」と思いました。
それで、その人が発したその言葉にわたしの心は大きく共振し、「それからどうなった?」と話の続きに興味を覚えずにいられませんでした。

そこで彼の話の続きですが、
病院の彼と同じ部屋には、同じヘルニアの青年がいて、彼はすでに手術が済んでいたが快方には向かわず、それどころか脊髄に注射するのだそうだが、注射したあとはいつもひどい吐き気を催すので彼がその青年の背中をさすってやっていたそうで、そんな様子を見ていたし、生長の家の本を読んだ後でもあるので、医師から、次はあなたの番ですよ(手術が)と云われたとき、どうせ治らない手術などは受けたくないと、手術から逃れるために「通院」にさせてくださいと頼んだとのこと。それで通院することになり、通院し始めて間もなくのこと、新聞に生長の家の練成会の広告が出ているのを見つけて、奥さんに「この練成会に参加したい」と頼んだそうだ。

しかし、奥さんは心配して「そんな体では無理ですよ」と云って止めるし、彼自身も練成を受けられるか自信がなかったので、代わりにそこに掲載されていた練成のテキストとして書かれていた本を本屋さんに注文して取り寄せることにした。そして取り寄せた本を読んで、彼は「自分は今まで間違っていた!」と痛切に感じ、本を読んでは、そうした思いを日記に書いていたとのことでした。そして、彼が云うには「後から思えばそれが浄心行になったんだろうと思う」とのことでした。

注 (浄心行というのは、それまでの間違った自分の思いを紙に書いて吐き出してしまうこと)


そのせいか身体の調子も良くなってきたので、ついに愛知県岡崎で5日間の練成を受けました。
彼が云うには、練成中の講話にはとても感動し、嬉しくて仕方がなくなり、それにつれて身体もどんどん良くなり、練成が終わったときには完全に治ってしまい、家に帰ると奥さんもすっかり良くなっている彼を見て驚き、さらには明日から出勤するというと、また「信じられない」と云うように驚き、出勤すると会社の同僚たちもみな驚いていたと云うことでした。
勿論、その後、奥さんも入信されたそうです。

彼は今70歳ですが、この頃は41歳だったそうです。
この41歳の働き盛りの時にいろいろの民間療法を5ヶ月、さらには病院での入院、通院を5ヶ月で、それでも快方に向かわず精神的にも追い込まれていたので、救われた時には嬉しくてしかたがなかった。それで救われてからは会社でも生長の家の話ばかりしていたので、聞いていた人は迷惑だっただろうなあ、と最後は苦笑いしておりました。

わたしも本を読んだ後、彼と同じように岡崎で練成を受けたし、うれしくて生長の家の話ばかりしていたと云うことも同じだったので、まるで自分自身の話を聞いているようで、その頃の新生したような思いがまざまざと甦ってきました。

それにしても、本当に良かったですね。
彼の話を聞かせてもらいながら、また新たに「生長の家」の教えの尊さ、有難さを感じさせられたことでした。


嗚呼、肉体と云う桎梏からの解放!
飛躍!
昂揚!
歓び!
歓喜!

人が救われた話を聞くのは本当にうれしいものです。

先日、シルバーの剪定仕事を、簡単な仕事だったのではじめて一人で行きましたが、10時頃になって「お抹茶を立てましたので、どうぞ召し上がってください」とおっしゃっていただいたので、それならば冷めないうちにと、遠慮なく召し上がらせていただきました。(笑)

立派なお座敷座布団が敷かれていたが、勿論私は作業服だから座布団は遠慮したが、おいしい梨と「皮までそのまま食べれますよ」というブドウまでいただきまして、まるで賓客をむかえるような「おもてなし」をいただきました。
シルバーで働くようになってときたまこのような「おもてなし」を受けるのですが、シルバーの一職人にすぎない自分が賓客に対するような「おもてなし」を受けると、本当に「大切な人」と云うような接遇を受けているようで、実際に自分が高いところへと引き上げられるような気がします。

先祖でも、お堂に祀られている霊魂でも、人から来拝されると喜ぶと云うことを読んだ記憶がありますが、わたしはその礼拝されると喜ぶということがどうもピンとこなかったのですが、こういう「おもてなし」受けると、礼拝されると霊魂が喜ぶと云うのも良くわかる気がします。

さて、仕事が終わって後片付けをしている時に奥さん(70歳ぐらいかな)が出て来られたので、抹茶を出されたのは初めてだったから、「お茶の先生をしているんですか?」と聞くと、「いえ、わたしは長唄をしているんですよ。長唄で三味線をやっているんですが、もう18年になるんですよ」といわれて、
「3年前までは鬱病でね、5年間も死にたい、死にたいで死ぬことばかり考えていたんですよ。辛くてねえ」と話しだされた。

彼女の話によると、友達から別の医者を紹介されて医者を変わってから良くなっていって、「おかげで今は完全に良くなりましてねえ。わたしね、今うれしくて仕方がないの」と云われた。
はじめの医者の処方する薬がきつくて、却ってそれが悪かったらしいが、ともかく、その奥さんの「うれしくてしかたがないの」という顔が印象に残ったことでした。
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祝、聖経千巻読誦達成

2011年10月15日 | 信仰
早いもので10月もはや中旬となり、今日は久し振りのまとまった雨が降っている。
金木犀が良い香りを放っているが、家内が言うには湿度が高いといっそう香りが強くなるとのこと。
その金木犀もそろそろ終わりを告げ始めている。

その金木犀に負けないぐらいに良い香りを放っているのが、誰かというと、この私である。
と、自分でそう思っているのが、昨日、今日の私である。(笑)

というのは、昨年の11月21日にふと思いついて聖経の千巻読誦をはじめたが、3日前に達成前夜となって浮き浮きし始め、一昨日はついに達成し、昨日はまた新たな千巻読誦の初日を迎えると云うおめでたい日が続いたからである。

千巻と云っても平均してみれば1日3巻だから、たいそうなことではないが、こういう嬉しさは数では測れないということなのかもしれない。続けてゆけば、自分が思い描く素晴らしさにまで生長していけるに違いないと蕾が膨らむように希望がふくらんでくるのである。

時間的、空間的に見れば道は遥かに遠いが、しかし、完全円満なる自分がいま既に実在しているのだというし、その本当の自分は、現象的な時間・空間を超えているというのだから、遠い道と云うこともなく、早い話が、いつでも、どこでもお釈迦様の手のひらの上にいるようなものである。
だから、いつでも、どこからでも再出発ができるし、もう年を取ったから遅いということもない。
いつ、どこで、初めから完全円満なる、神のいのちそのままの本当の自分に出会うかもしれないのである。

まあ夢ではあるけれども、夢にしても、実に壮大な夢ではないか。
いつまでも、ただの肉の塊なんぞでいられるもんか。
肉体を超え、時間を超え、空間を超えて私は羽ばたくのである。
神様よろしくお願いします。


さて、昨日、有難いことに天から少しまとまったお金が降って来て(笑)、いよいよ軽トラックを買えるようになりました。
シルバーで剪定の仕事をするようになって、いつか自分も軽トラックを持ちたいと思っていました。メンバーの半数が軽トラックを持っているからというわけではない。自分で持てば、本当の剪定職人になったようで嬉しいし、軽トラックに脚立を積んで、あっちの家、こっちの家と走りたいではありませんか。しかし、剪定の収入と購入費用を考えると、考えるまでもなく大赤字。
でも、やっぱり欲しいなあ。
いや、やっぱり維持費もかかるしなあ。
神様、軽トラックが欲しい!(笑)

と云うわけでしたが、昨日、その天から降ってきた(笑)お金を囲んで、

わたし:そのお金で軽トラックを買おう。
家内: そうだねえ。母がきたら(同居するようになったら)、お父さんが車で仕事に行ってしまって車がなかったら不便だもんねえ。

と云うことで、即決した。

これ、大きな声で言うけれど(笑)、千巻読誦達成の翌日だからね。

えっ?脚立から落ちて骨折したのは、いつ、誰のことだって?

まあ、いいじゃないですか。人生いろいろあるんですよ。
ワッハッハ。


○金光教祖が「大根にも机にもお礼を言う心にならなければならぬ」とおっしゃったと云うのは、御礼を言う形ではない。心が目覚めて大根の中にある大生命を見、机の中にある大生命を見たとき、そこに自然に御礼の心が湧いて来るのである。「天地の開ける音を聴け!」である。「一華開いて世界起こる」とはこれである。
しかし、「花未だ開かざる時の如くんば、何処へ目を著けよう。」
一本の花が開いているのを見たときにだけ、「天地の開ける音」を聴くようではまだ足りない。
それでは病気が治った時だけ神様は有難いと思って、病気の治らない時にもある有難さが分かっておらぬ。
其処で、「花未だ開かざる時に」天地の開ける音を聴き、天地の有難さを聴くにはどうしたら好いか?
                                (『無門関解釈』P50より)


「どうしたら好いか?」と云われても、わたしに分かるわけはないのだが、読んでいるだけでも、天地の開ける音が聞こえてきそうなので、引用させてもらいました。


≪追記≫
最近、シコク様のブロク「いろどりひかる☆(2) 」(http://blog.goo.ne.jp/hinokagayaki)に、実に感動的で素晴らしい体験談が発表されました。すでに読まれている方が多いと思いますが、まだ読んでおられない方がありましたら、是非、読んでみてください。『ふたつめの誕生日~神様との約束』と『父との和解』と題する2つの記事です。
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