先日、誌友会で少し離れたところから来てくれた人がいてよく知っている人ではあったが、どういう経緯で生長の家に入信されたのかは知らなかったので、そのきっかけについて尋ねた。そしたら、こんな話を聞かせてくれました。
病名はヘルニアということでしたが、腰から肩にかけて痛くてたまらず、30分と坐っておれないぐらいで5ヶ月の間、効くと教えられたいろいろな民間療法にかかったが一向回復に向かわず、たまらずについに病院に入院することになった。その入院中の一時帰宅の時に書店で3冊本を買ったが、その3冊の中に谷口雅春先生の「心の○○○(忘れた)」と云う本が入っていたとのことだった。
それで、「読んでどんな気持ちでしたか?」と聞くと、
「もう『こんな世界があるのか!』と云う感じだったねえ」との答え。
「こんな世界があるのか!」という、「こんな世界」とは、もちろん生長の家の説く世界観であり、人間観であり、人生観ですが、その世界観なり人間観は、普通の世界観や人間観から見ればまったく常識外れで荒唐無稽だが、その荒唐無稽がでたらめではなく、深い思索で理路整然としているから、読んだ人は「こんな世界があるのか!」と何とも言えない不思議な感銘を抱かざるを得ないのでしょう。
しかもそれが谷口雅春と云う一個人の独りよがりの見解ではなく、釈迦の教えの真髄と一致し、キリストの教えと一致し、あらゆる正しき宗教教祖の教えとも一致していては、半信半疑ながらも世界が開けたような興奮を覚えずにはいられない。
わたしもはじめて『生命の実相』を読んだときは、これと一字一句違わず、感銘とともに「こんな世界があるのか!」と思いました。
それで、その人が発したその言葉にわたしの心は大きく共振し、「それからどうなった?」と話の続きに興味を覚えずにいられませんでした。
そこで彼の話の続きですが、
病院の彼と同じ部屋には、同じヘルニアの青年がいて、彼はすでに手術が済んでいたが快方には向かわず、それどころか脊髄に注射するのだそうだが、注射したあとはいつもひどい吐き気を催すので彼がその青年の背中をさすってやっていたそうで、そんな様子を見ていたし、生長の家の本を読んだ後でもあるので、医師から、次はあなたの番ですよ(手術が)と云われたとき、どうせ治らない手術などは受けたくないと、手術から逃れるために「通院」にさせてくださいと頼んだとのこと。それで通院することになり、通院し始めて間もなくのこと、新聞に生長の家の練成会の広告が出ているのを見つけて、奥さんに「この練成会に参加したい」と頼んだそうだ。
しかし、奥さんは心配して「そんな体では無理ですよ」と云って止めるし、彼自身も練成を受けられるか自信がなかったので、代わりにそこに掲載されていた練成のテキストとして書かれていた本を本屋さんに注文して取り寄せることにした。そして取り寄せた本を読んで、彼は「自分は今まで間違っていた!」と痛切に感じ、本を読んでは、そうした思いを日記に書いていたとのことでした。そして、彼が云うには「後から思えばそれが浄心行になったんだろうと思う」とのことでした。
注 (浄心行というのは、それまでの間違った自分の思いを紙に書いて吐き出してしまうこと)
そのせいか身体の調子も良くなってきたので、ついに愛知県岡崎で5日間の練成を受けました。
彼が云うには、練成中の講話にはとても感動し、嬉しくて仕方がなくなり、それにつれて身体もどんどん良くなり、練成が終わったときには完全に治ってしまい、家に帰ると奥さんもすっかり良くなっている彼を見て驚き、さらには明日から出勤するというと、また「信じられない」と云うように驚き、出勤すると会社の同僚たちもみな驚いていたと云うことでした。
勿論、その後、奥さんも入信されたそうです。
彼は今70歳ですが、この頃は41歳だったそうです。
この41歳の働き盛りの時にいろいろの民間療法を5ヶ月、さらには病院での入院、通院を5ヶ月で、それでも快方に向かわず精神的にも追い込まれていたので、救われた時には嬉しくてしかたがなかった。それで救われてからは会社でも生長の家の話ばかりしていたので、聞いていた人は迷惑だっただろうなあ、と最後は苦笑いしておりました。
わたしも本を読んだ後、彼と同じように岡崎で練成を受けたし、うれしくて生長の家の話ばかりしていたと云うことも同じだったので、まるで自分自身の話を聞いているようで、その頃の新生したような思いがまざまざと甦ってきました。
それにしても、本当に良かったですね。
彼の話を聞かせてもらいながら、また新たに「生長の家」の教えの尊さ、有難さを感じさせられたことでした。
嗚呼、肉体と云う桎梏からの解放!
飛躍!
昂揚!
歓び!
歓喜!
人が救われた話を聞くのは本当にうれしいものです。
先日、シルバーの剪定仕事を、簡単な仕事だったのではじめて一人で行きましたが、10時頃になって「お抹茶を立てましたので、どうぞ召し上がってください」とおっしゃっていただいたので、それならば冷めないうちにと、遠慮なく召し上がらせていただきました。(笑)
立派なお座敷座布団が敷かれていたが、勿論私は作業服だから座布団は遠慮したが、おいしい梨と「皮までそのまま食べれますよ」というブドウまでいただきまして、まるで賓客をむかえるような「おもてなし」をいただきました。
シルバーで働くようになってときたまこのような「おもてなし」を受けるのですが、シルバーの一職人にすぎない自分が賓客に対するような「おもてなし」を受けると、本当に「大切な人」と云うような接遇を受けているようで、実際に自分が高いところへと引き上げられるような気がします。
先祖でも、お堂に祀られている霊魂でも、人から来拝されると喜ぶと云うことを読んだ記憶がありますが、わたしはその礼拝されると喜ぶということがどうもピンとこなかったのですが、こういう「おもてなし」受けると、礼拝されると霊魂が喜ぶと云うのも良くわかる気がします。
さて、仕事が終わって後片付けをしている時に奥さん(70歳ぐらいかな)が出て来られたので、抹茶を出されたのは初めてだったから、「お茶の先生をしているんですか?」と聞くと、「いえ、わたしは長唄をしているんですよ。長唄で三味線をやっているんですが、もう18年になるんですよ」といわれて、
「3年前までは鬱病でね、5年間も死にたい、死にたいで死ぬことばかり考えていたんですよ。辛くてねえ」と話しだされた。
彼女の話によると、友達から別の医者を紹介されて医者を変わってから良くなっていって、「おかげで今は完全に良くなりましてねえ。わたしね、今うれしくて仕方がないの」と云われた。
はじめの医者の処方する薬がきつくて、却ってそれが悪かったらしいが、ともかく、その奥さんの「うれしくてしかたがないの」という顔が印象に残ったことでした。
病名はヘルニアということでしたが、腰から肩にかけて痛くてたまらず、30分と坐っておれないぐらいで5ヶ月の間、効くと教えられたいろいろな民間療法にかかったが一向回復に向かわず、たまらずについに病院に入院することになった。その入院中の一時帰宅の時に書店で3冊本を買ったが、その3冊の中に谷口雅春先生の「心の○○○(忘れた)」と云う本が入っていたとのことだった。
それで、「読んでどんな気持ちでしたか?」と聞くと、
「もう『こんな世界があるのか!』と云う感じだったねえ」との答え。
「こんな世界があるのか!」という、「こんな世界」とは、もちろん生長の家の説く世界観であり、人間観であり、人生観ですが、その世界観なり人間観は、普通の世界観や人間観から見ればまったく常識外れで荒唐無稽だが、その荒唐無稽がでたらめではなく、深い思索で理路整然としているから、読んだ人は「こんな世界があるのか!」と何とも言えない不思議な感銘を抱かざるを得ないのでしょう。
しかもそれが谷口雅春と云う一個人の独りよがりの見解ではなく、釈迦の教えの真髄と一致し、キリストの教えと一致し、あらゆる正しき宗教教祖の教えとも一致していては、半信半疑ながらも世界が開けたような興奮を覚えずにはいられない。
わたしもはじめて『生命の実相』を読んだときは、これと一字一句違わず、感銘とともに「こんな世界があるのか!」と思いました。
それで、その人が発したその言葉にわたしの心は大きく共振し、「それからどうなった?」と話の続きに興味を覚えずにいられませんでした。
そこで彼の話の続きですが、
病院の彼と同じ部屋には、同じヘルニアの青年がいて、彼はすでに手術が済んでいたが快方には向かわず、それどころか脊髄に注射するのだそうだが、注射したあとはいつもひどい吐き気を催すので彼がその青年の背中をさすってやっていたそうで、そんな様子を見ていたし、生長の家の本を読んだ後でもあるので、医師から、次はあなたの番ですよ(手術が)と云われたとき、どうせ治らない手術などは受けたくないと、手術から逃れるために「通院」にさせてくださいと頼んだとのこと。それで通院することになり、通院し始めて間もなくのこと、新聞に生長の家の練成会の広告が出ているのを見つけて、奥さんに「この練成会に参加したい」と頼んだそうだ。
しかし、奥さんは心配して「そんな体では無理ですよ」と云って止めるし、彼自身も練成を受けられるか自信がなかったので、代わりにそこに掲載されていた練成のテキストとして書かれていた本を本屋さんに注文して取り寄せることにした。そして取り寄せた本を読んで、彼は「自分は今まで間違っていた!」と痛切に感じ、本を読んでは、そうした思いを日記に書いていたとのことでした。そして、彼が云うには「後から思えばそれが浄心行になったんだろうと思う」とのことでした。
注 (浄心行というのは、それまでの間違った自分の思いを紙に書いて吐き出してしまうこと)
そのせいか身体の調子も良くなってきたので、ついに愛知県岡崎で5日間の練成を受けました。
彼が云うには、練成中の講話にはとても感動し、嬉しくて仕方がなくなり、それにつれて身体もどんどん良くなり、練成が終わったときには完全に治ってしまい、家に帰ると奥さんもすっかり良くなっている彼を見て驚き、さらには明日から出勤するというと、また「信じられない」と云うように驚き、出勤すると会社の同僚たちもみな驚いていたと云うことでした。
勿論、その後、奥さんも入信されたそうです。
彼は今70歳ですが、この頃は41歳だったそうです。
この41歳の働き盛りの時にいろいろの民間療法を5ヶ月、さらには病院での入院、通院を5ヶ月で、それでも快方に向かわず精神的にも追い込まれていたので、救われた時には嬉しくてしかたがなかった。それで救われてからは会社でも生長の家の話ばかりしていたので、聞いていた人は迷惑だっただろうなあ、と最後は苦笑いしておりました。
わたしも本を読んだ後、彼と同じように岡崎で練成を受けたし、うれしくて生長の家の話ばかりしていたと云うことも同じだったので、まるで自分自身の話を聞いているようで、その頃の新生したような思いがまざまざと甦ってきました。
それにしても、本当に良かったですね。
彼の話を聞かせてもらいながら、また新たに「生長の家」の教えの尊さ、有難さを感じさせられたことでした。
嗚呼、肉体と云う桎梏からの解放!
飛躍!
昂揚!
歓び!
歓喜!
人が救われた話を聞くのは本当にうれしいものです。
先日、シルバーの剪定仕事を、簡単な仕事だったのではじめて一人で行きましたが、10時頃になって「お抹茶を立てましたので、どうぞ召し上がってください」とおっしゃっていただいたので、それならば冷めないうちにと、遠慮なく召し上がらせていただきました。(笑)
立派なお座敷座布団が敷かれていたが、勿論私は作業服だから座布団は遠慮したが、おいしい梨と「皮までそのまま食べれますよ」というブドウまでいただきまして、まるで賓客をむかえるような「おもてなし」をいただきました。
シルバーで働くようになってときたまこのような「おもてなし」を受けるのですが、シルバーの一職人にすぎない自分が賓客に対するような「おもてなし」を受けると、本当に「大切な人」と云うような接遇を受けているようで、実際に自分が高いところへと引き上げられるような気がします。
先祖でも、お堂に祀られている霊魂でも、人から来拝されると喜ぶと云うことを読んだ記憶がありますが、わたしはその礼拝されると喜ぶということがどうもピンとこなかったのですが、こういう「おもてなし」受けると、礼拝されると霊魂が喜ぶと云うのも良くわかる気がします。
さて、仕事が終わって後片付けをしている時に奥さん(70歳ぐらいかな)が出て来られたので、抹茶を出されたのは初めてだったから、「お茶の先生をしているんですか?」と聞くと、「いえ、わたしは長唄をしているんですよ。長唄で三味線をやっているんですが、もう18年になるんですよ」といわれて、
「3年前までは鬱病でね、5年間も死にたい、死にたいで死ぬことばかり考えていたんですよ。辛くてねえ」と話しだされた。
彼女の話によると、友達から別の医者を紹介されて医者を変わってから良くなっていって、「おかげで今は完全に良くなりましてねえ。わたしね、今うれしくて仕方がないの」と云われた。
はじめの医者の処方する薬がきつくて、却ってそれが悪かったらしいが、ともかく、その奥さんの「うれしくてしかたがないの」という顔が印象に残ったことでした。