気の向くままに

山、花、人生を讃える

ある母親のドラマチックな物語

2018年11月30日 | 人生

以下は2年前の生長の家の月刊誌に紹介されている話ですが、先日初めて読んで大変感銘したので紹介させてもらいます。少し長いですが、最後まで読んでいただければ幸いです。

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花子(仮名)さんは10代の頃、両親の仲が悪く、暗く冷たい雰囲気の家庭から逃れたくて、中学1年の頃から不良仲間と付き合い始めたという。そして家出や非行を繰り返し、髪を染め、眼付もきつかったという。 (49歳になられる現在のお顔からは想像できないが)

 

中学を卒業した花子さんは、ブティックに就職し、8歳年上の男性と同棲するようになり、17歳のとき女の子を出産した。その、誕生したわが子の顔を見たとき、愛おしさで涙がこぼれ、この子には自分のような寂しい思いをさせたくないという思いでいっぱいになったという。

 

花子さんは出産を機に入籍し、19歳の時には次女を授かったが、その頃のご主人は転職を繰り返し、経済的に余裕がなかったので、花子さんは飲食店に働きに出るようになった。また、ご主人は家事に協力的でなく、子どもを邪見に扱ったりもするので、一緒にいたくないとの思いがつのり、ついに離婚したいとご主人に告げた。しかし、ご主人の方は「絶対に分かれない」と言い、もし分かれるなら子供は自分が引き取るとまでいうので、やむなく離婚は思いとどまった。

 

子供が成長して学校に通うようになると、花子さんは街で不良グループを見かけたり、子供の帰宅が遅かったりすると、わが子が、誰かに脅かされたり、悪い方に道を踏み外してはいないかと、不良に走ったかつての自分と重ね合わせて、心配になったという。そして、テレビ番組は悪い影響を与えると考え、10年間ほどテレビを置かず、代わりにクラッシック音楽を聞かせたり、絵本を読み聞かせたり、夜は決まった時間に家中の電気を消し就寝したとのこと。

 

しかし、長女も、次女もアレルギー体質で喘息やアトピー性皮膚炎を時々発症するので、体質改善について勉強し始め、自然食に興味を持つようになり、料理教室を開いている人と知り合いになり、その人から生長の家を紹介され、母親教室に通うようになった。それからやがて3人目の女の子が生まれた。

 

そんなある日、花子さんはご主人に言った。
「私は何も欲しいものはない。家族みんなの幸せがわたしの幸せ」と。

すると、ご主人は
「俺は幸せじゃない。お前は、一にも二にも三にも子供のことで、俺のことは何も考えとらん」と訴えた。

 

それから平成11年には4番目の子となる長男を授かったが、その年、ご主人の浮気が発覚し、生長の家の講師に相談した。
その講師は、
「大根の種子を蒔けば大根が生えるでしょう。環境は自分の心の影ですから、自分で蒔いた種が生えるんですよ。あなたはどんな種を蒔きましたか?」と言われたという。それで、これからはご主人に「はい」の心になり、ご主人を立てるよう心掛けることにした。

 

ところが一方のご主人は、浮気相手とは別れたが、今度はパチンコで数百万円も借金していたことが判明した。それが中古住宅を購入したばかりの頃で、家のローンとご主人の借金の支払いとで家計はひっ迫し、そこへもって五人目の二男を授かり、実家からは「育てられるのか」と心配されたという。

 

それから10年が過ぎたが、その間にもご主人は花子さんに内緒で借金を重ねていて、相変わらずその返済に追われていたが、「自分が蒔い種が生える」と教えられて以来、その言葉を思い出し、自分を責め、自分がどう変わればいいのか、何もわからなくなっていたとのこと。

 

花子さんは言う。
「平成24年、夜逃げをするしかないと思えるぐらい、家計はどん底の状態にありました。三女は高3、長男は中1、二男はまだ小学5年生で、返済のつらさから逃げ出すため、飲食店のパートで懸命に働き、親からも援助を受けてきました。それでも限界でした」と。

 

そして、再びご主人と別れようと思ったが、立ち直って欲しいという思いもあり、最後のお願いだからと、生長の家の本部練成会の参加を勧めた。今まで何回勧めても良い返事は帰ってこなかったが、この時初めて素直に応じてくれたという。

 

そして、ご主人はこの練成会参加中の1週間、毎日電話をかけてきて、楽しそうに練成会のことを報告してくれたとのこと。その練成会を終えて帰宅したご主人は、見違えるように顔が輝き、自信にあふれていたそうで、その時、奥さんは、「私はこの人のこんなところが好きだったんだ」と惚れ直したそうだ。

 

そして、それまで父の営む運送会社で働いていたご主人は、心機一転して独立し、みずから運送業を始めた。借金の返済は今もつづいているが、昼夜を分かたず働いている主人を見ながら、私も頑張ろうと勇気づけられているとのこと。

 

5人の子供のうち、上の3人は独立し、長女は4人の子の母になっているとのこと。
長男は中2の時、不登校になったことがあり、花子さんは「自分の何がいけなかったのか」と悩んだそうだが、友達にその悩みを話すと、「子供は神の子で、必ず良くなるから、親は心配しなくて大丈夫よ」と言われて驚いたとのこと。花子さんは、それまで家族に問題が起きるたび、「自分が蒔いた種」と自分を責めてきたが、人間本来の善なることを信じ、そのままで素晴らしい神の子と観ることのほうが大切だと教えられ、「長男はそのままで素晴らしい神の子なんだ」と思い直したとき、肩の荷が下り、「必ず良くなる!」と信じつつ過ごしているうちに、みずから高校に進学したいと言いだし、建築士になる夢を描いてがんばっているそうだ。

 

このような話の後、花子さんは言う。
「10代の頃から両親に迷惑をかけ続けてきた私でしたが、父母への感謝を説く生長の家に触れてからは、両親に過去の過ちを何度か謝ってきました。両親は『今は一生懸命に生きているんだから、自分を恥じることはない』と温かく話してくれ、今ではこの両親に生まれて来られたことを感謝しています」と語っている。

 

この素晴らしい花子さんは、ご主人が独立したころから生長の家の教化部でパートで働くようになり、平成28年から正職員として採用されたとのことです。

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さて、『神との対話』では、人生で過ちを繰り返してきたという著者のニール・ドナルド・ウォルシュに対して神はこう言っています。とても好きなところなので紹介させてもらいます。

〇いいかね。あなたには価値がある。誰にでも価値があるように。

価値がないというのは、人類に浴びせられた最悪の非難だ。

あなたは過去をもとに自分の価値を決めるが、わたしは未来をもとにあなたの価値を決める。

未来、未来、つねに未来だ!人生、生命は未来にあるのであって、過去にはない。

未来にこそ真実があるのであって、過去にはない。

これまでしてきたことは、これからすることに比べれば重要ではない。

これまで犯してきた過ちは、これから創造するものに比べれば何の意味もない。

あなたの過ちを赦そう。間違った意見も、見当違いの理解も、有害な行動も、自分勝手な決定も赦そう。

すべてを赦そう。他の人は赦してくれなくても、わたしは赦す。

他の人は罪悪感から解放してくれなくても、わたしは解放する。

過去を忘れて前進し、新しい何かになることを誰も認めてくれなくても、わたしは認める。

あなたは過去のあなたではなく、いつも、いつまでも新しいあなただと知っているから。

罪人は一瞬にして聖人になる。1秒で。1息で。ほんとうのところ、「罪人」などいない。

誰も罪を犯すことなどできない。ましてわたしに対してはあり得ない。

だから、あなたを「赦す」というのだよ。あなたにわかる言葉を使っているのだ。

ほんとうはあなたを赦すのではない。これからも赦さなければならないことなど何もない。

だが、あなたを解放することはできる。だから、いま解放しよう。今。再び。

おおぜいの他の教えを通じて、過去に何度も解放してきたように。

 

最後まで読んでいただき有難うございました。

 

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手術が終わって

2018年11月16日 | その他

13日家内は肺ガンの摘出手術を受けるため入院し、そしてその翌日、手術も無事に終わった。

 

家内は民生委員の仕事や、11日には生長の家の講習会があってその準備や推進、家事、畑仕事、そして朝夕の神想観(瞑想)と先祖への供養も欠かすことはなかった。そして、はじめて手術を受けるという不安や心配のそぶりも見せず、いつもと変わることなく元気に過ごしていた。

 

手術に要する時間は3時間~3時間半とのことだったが、手術前日の看護婦さんの説明にも、にこやかに笑顔で聴いていて、家内のそんな様子を、わたしは感心しながら見ていた。

 

そして、手術は終わった。
ドクターの説明を受けた後、家内に会わせてくれたが、家内は呼びかける声に返事をするだけの意識はあった。しかし、手術前とは打って変わって、全身麻酔されてベッドに横たわっている家内を見るのは、うれしさよりも、モノ悲しさがあった。

 

このようなことは私にとっては初めての経験だったが、しかし、例外なく誰もが経験してきた、あるいは経験していくことなのだろう。ある意味では、その分だけは一人前に近づいたといえるのかもしれない。

というわけで、まずは、めでたし、めでたしである。

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続 人間は死んでも死なない

2018年11月14日 | 人間死んでも死なない

先日のクラス会に出席したとき、女の同級生と挨拶して雑談になったとき、わたしが何気なく「子供さんたちも元気ですか」と聞いた。
するとその同級生は何年か前に娘をなくしたという。もう何年も過ぎて今は元気になったと言いながらも、思い出すと悲しみが湧いてくるのか、たちまち目が涙で潤んできて、私は余計なことを訊いてしまったと後悔した。

 

息子や娘に先立たれるという悲しみは、経験したものでなければわからないだろうし、自分の良人や妻の死、あるいは幼いときに父や母を亡くした悲しみや辛さもよく聞く話である。

 

『神との対話』はアメリカでベストセラーとなり、世界中で翻訳され読まれているとのことだが、その姉妹書ともいうべき『10代のための「神との対話」』という本がある。

 

これは世界中の10代の若者に、「もし神が疑問に答えてくれるとしたら何を質問したいか?」と、その質問を募集し、それに神が著者のニール・ドナルド・ウォルシュを通して答えてくれるという本である。(信じるか、信じないかはそれぞれの自由ですが)

 

その中に14歳のヴィクトリアという少女のこんな質問があります。

「いつ、誰が死ぬかを、神様はどうやってきめているのですか?
わたしの父は、私が小さいとき、突然、死にました。その理由がどうしてもわからないのです」

 

これに対して神は次のように答えています。(要点の抜粋)

○人が死ぬのは決めているのは、神ではないのだよ。ヴィクトリア。あなたのお父さんがあなたの小さいときに死ぬように決めたのは、わたしではない。あなたのお父さんがあの時死んだのは、彼の魂が次の段階に旅立つためだった。

 

○お父さんの死があなたにとって、とても悲しいことなのはわかっているし、悲しみが消えないことも知っている。ただ、悲しみは、取り去るべきものでもないのだ。悲しむことはちっとも悪くない。悪く思う必要もないし、直そうとしなくてもいい。――それを「使う」方法があるんだ。

 

○あなたが経験したような大きな悲しみは、時に人を情け深く、繊細に、思いやり深くする。

 

○あなたは現在もすでに、友人たちが話したいとき、聞いてもらいたいとき、あなたのところへやって来るのに気づいているだろう。これは偶然ではない。あなたのバイブレーションは、悩みや痛みを持つ人たちへの、深い思いやりのエネルギーを持ち始めている。

 

ざっとこんな話をした後、神はこの少女に対して、そしてこの本の読者に対して、こんなメッセージを送っています。

 

○魂がまちがったタイミングで、身体に入ったり出ていったりすることはない。早すぎたり、遅すぎたりすることは決してないんだ。
タイミングは魂の目的に関係するが、その目的全体は、意識的なレベルで理解できるものではないし、ほかの人がわかるものでもない。それでも、お父さんは完璧に分かっていたことは確かだ。あなたもいつか、完璧に理解できる日がくる。必ず。
その時がくるまでは、人生を信頼しなさい。それがお父さんの願っていることだ。
人生を信頼し、愛すること。
情熱をもって、幸せに、精いっぱい生きなさい。
楽しみ、喜びを広げ、愛しあうのだよ。 
 

 

さて、あなたはこれらのことを読んでどう思いますか?

私はここに書かれていることが真実であってほしいと思うし、よくわからないながらも、「きっとこれが真実であるに違いない」という気もしています。

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人間は死んでも死なない

2018年11月09日 | 人間死んでも死なない

ある日のこと、わたしは北海道のある港に入港中、薄暗い機械室で客室のエアコンの点検をしていました。

すると私の背後を黒い人影のようなものが「すっ」横切る気配がするので、「おやっ」と思って振り向くのすが、別段変わったことは何もない。それでまた仕事を続けるのですが、また、すっと黒影がよぎる気配がするので、思わず振り向きます。しかし、やはり何事もない。普通なら数回も繰り返せば気のせいと思って振り向かなくなると思うのですが、しかし、確かに何かがよぎる気配がするので、思わず反射的に振り向いてしまいます。おかしいなあと思いながらまた仕事をはじめると、また気配を感じて思わず振り向くということを5,6回は繰り返しました。

 

そして、その内に点検も終わり、「おかしいなあ」と思いながら自分の部屋に戻ると、そこへちょうど事務員が「電報」を届けに来ました。それはお袋が他界したことを知らせる電報でした。一瞬びっくりしながらも意外と冷静で、ああ、あれはお袋がお別れに来てくれたんだと納得したのでした。そして、急遽下船して千歳空港から自宅へと急いだのでした。

 

そのあと、数年したころ、私が「生長の家」の「聖経」と言われている『甘露の法雨』というお経(現代詩)をあげると、その頃しきりに蝋燭の上に輪ができたり、またある時には、蝋燭のロウが一度にたくさん流れ落ち、そのロウではっきりと観世音菩薩とわかる像ができたこともありました。

 

人間は死んでも、本当には死んではいなくて、ただ肉体を離れたに過ぎないのだろうと思います。

 

以下は『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ著))からの抜粋です。

○魂の目的、つまり魂が身体に宿った理由は、ほんとうの自分になり、それを表現することだ。魂は自分を知り、自分を経験したいと願っている。この知りたいという願いが、存在しようとする生命だ。表現することを選んだ神だ。あなたがたの魂は、わたしが自分を表現し、経験するための道具なのだ。 

あなたがたは生命そのものだ。生命が生命でなくなることはできない。したがって死ぬことはない。
では、臨終のときに何が起こるか・・・生きつづけるのだよ。

○「向こう側」にいる誰かについてほんのわずかでも考えれば、とたんに彼らの意識はあなたの許へ飛んでくる。「逝った人」について何かを思ったり考えたりすれば、その人のエッセンスは必ず気づく。愛こそがコミュニケーションの最高の「霊媒(メディア)だよ。

○いいかな、わたしはすべての花であり、虹であり、空の星であり、すべての星をめぐるすべての惑星上のすべてだ。わたしは風のささやきであり、太陽の温かさであり、それぞれが信じられないほど個性的で、しかもこの上なく完璧な雪の結晶のひとつひとつだ。わたしはすべてに存在する。わたしはすべてだ。

 

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クラス会と小さな再会

2018年11月06日 | 人生

先日の日曜日、中学のクラス会に出席した。

このクラス会には1昨年におよそ50年ぶりに出席して懐かしかったので今年も参加した。
(多分、これからは都合がつくかぎり出席するだろうと思う)

 

お互いが同じ一つの中学から巣立ち、社会人となり、結婚し、子供も生まれ、孫もでき、そのような人生を歩んだ後、再び50年前の中学生に還って歓談しているわけだから懐かしいのも当然だろう。

 

「袖触れ合うも他生の縁」というが、同じ巣から巣立ち、同じ巣に還るということは、よほど縁が深いのかもしれない。言ってみれば同じ年に、同じ地域へ「あの世」から「この世」へ集団移住してきた仲間といえるかもしれない。

 

出席者は同じではないが、出席数はほぼ前回同様で、男女とも20人づつ、合計40人の出席だった。

前回は男性陣もほとんど誰だか分らなかったが、しばらく歓談しているうちに、それぞれの面影が見えはじめ、名前も思い出されてきて、今回は8割程度が誰だかすぐに分かった。

 

一方、女性陣は男性以上にまるで見当がつかない。名前を教えられてもぴんと来ない。しかし、しばらくすると、やはりだんだんその子の面影が見えてくる。

 

人間の細胞は10年しないうちに骨の細胞まで入れ変わるということを聞いたが、中学生の頃と70歳になろうとしている今では、身体的には全く別人と言わなければならない。しかし、やはり薔薇はバラであるごとく、その人をその人たらしめている何かがあるのだろう。

 

そのクラス会が終わった後のこと。
用があって同級生の家を訪ねたのだが、番地を間違えていたので、どうしてもその家がどこにあるのかわからなかった。出直すのも面倒なので、何とか探し当てたいと思い、道を尋ねるべく農家らしい屋敷内に入っていった。すると女の人が仕事をしていたので声をかけた。

 

「すみません、お尋ねしたいんですが、○○さんの家はどこかご存じありませんか」と聞くと、

「○○さんの家はもう少し向こうだけど、お宅は誰?」というので、不審な人物と怪しまれているのかと思い、

「同級生ですが」と答えると、さらに

「同級生の誰?」と聞くので、

「スズキです」と答えた。すると

「○○君?」と私の名前をいうのでびっくりしていると、

「アキ子です。○○アキ子です」という。

 

突然のことなので、とっさには「聞き覚えのある名前だ」ぐらいしか思い出せなかったが、同級生のよしみか、親切に探している家まで案内してくれて、その間に少しづつ思い出していった。そして、最後に礼を言いながら近くで顔を見ると、やはり往時の面影があった。
そして、
ときたも入った家の人が同級生だったことや、何でもないようなこの小さな再会が、なぜか後になってもほのぼのと嬉しいのである。

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日本男児 またまだ捨てたもんじゃない

2018年11月03日 | 人生

繰り返される企業の検査データの改ざんにはあきれてしまいますが、かつての人気歌手のドタキャンにも呆れました。(最初は「ドタキャン」て何のことかと思ったが、マスコミで使われているのでわたしも使わせてもらった)

 

それぞれに、それなりの事情はあるでしょうが、下に掲げる中学生(12歳)の俳句に見られるような純情は、いくつになっても失わないほうが、自分自身のためにも、きっとよいのではないかと思う。

 

        ずる休みした私の顔を犬見てる     12歳

 

        水仙を見るたび背筋伸ばす朝      12歳

 

このようなニュースを見たり聞いたりしたら、子供たちは何を思うだろうか?

きっと、「偉そうなことを言っても、大人はインチキばかり」とか、「大人はわがまま」とか思うに違いない。

はたして、そんなことでいいのかと心配になる。

 

それから、大の大人が首を並べて「どうも申し訳ありませんでした」と頭を下げるシーンは今や定番化した感があるが、マスコミもそういうシーンを報道するのはいい加減やめにしたらどうかと思うがどうだろう。

 

さて、面白くもない話題はここまでにして、

次の、或る68歳の男性の俳句を見てください。

  

         心まで老いてたまるか大根抜く     

 

続いて75歳の男性、

 

         爽やかに手ぶらで生きん余生かな    

 

いやあ、いずれも素晴らしいですね。

たったの5、7、5なれど、みているだけで爽やかになり、元気が出てくるではありませんか。

日本男児、まだまだ、捨てたもんじゃない! と嬉しくなります。

 

 

最後まで見ていただきありがとうございます。

ここに掲げた俳句はすべてネット上の「お~いお茶新俳句」から借用したものです。

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