このところ秋晴れの行楽日和が続いているが、私にとっては剪定日和が続いていると言った方がいい。来年1月には生長の家総裁の講習会があり、その推進や剪定作業などで何かと忙しい日々を送っています。
先日は高校時代の同級生から、本が送られてきました。本の内容を見ると、それは送り主の日々の日記であり、1年あまりの練習船乗船中に綴ったものでした。また彼からは昨年、在学中の寮生活時代の日記を本にしたものも送られていました。
それはどちらも、懐かしさでいっぱいにさせるものでした。自分が書いた日記でもないのに、そして彼と自分とは性格が似ていると云う訳でもないのに、彼の日記を読みながら、その頃の自分を鏡に映して見るような懐かしさでした。また、何枚かの写真も挿入されていて、その中には私が写っているのもあり、まるで過去に置き忘れて来た大切な品が、何者かの手によって時間を超えて突然に贈られてきたような気分でした。そして私が感じたことは「その頃の自分が、今も自分の中に生きている」そんな気持ちでした。
一冊目が送られて来たときには、礼状を出さなければと思いつつ時期を失して出さずじまいで気になっていましたが、今回は時期を失しないよう、さっそく礼状を出しました。
話は変わって、11月号の「白鳩」誌には、私が庭木の剪定をさせてもらっている白鳩さんを紹介する記事が載りました。古着のリメイク(P14)でバッグやファッショナブルな普段着を仕立てるというそんな記事です。この人は、新聞に入って来る広告の紙や包装紙を使った貼り絵の趣味もあり、一度その作品を見せてもらったことがありますが、とても素晴らしいもので感心しました。わたしはこんな素晴らしい人の家の庭木を剪定させてもらっているのですが、実にありがたいことです。
一昨年のことですが、松の木を剪定させてもらっている時に、脚立から落ちそうになって思わず直径2センチほどの枝につかまった拍子に、その枝がほとんど折れかかって、皮1枚だけで繋がっている状態になりました。慌てて元に返そうとしましたが、折れ口がギザギザですからうまく繋がりません。どうしようもないので、事情を話して謝ったところが、彼女は簡単にはあきらめませんでした。
そして彼女曰く:「『甘露の法雨』をテープででも巻いて縛りつけておいたら、きっとくっつくわよ」
わたし;「いや、折れ口がギザギザでうまく繋がらないからだめですよ」
彼女:「だめでもともとだから、とにかく甘露の法雨をもってくるから、縛ってみて」
というので、折れた枝を無理やりくっつけ、添え木とお守りの『甘露の法雨』を一緒にしてテープと紐で巻きました。わたしは、じきに枯れてくると思ったのですが、その枝は枯れずに今も生きています。彼女の信仰に感心したことでした。記事を見ればわかると思いますが、とにかく明るく、温かく、まったく素晴らしい人です。
最近、本の中の印象に残った話。
○物質と云うものの本体は元素であり、元素は原子から出来ており、電子の集まりであり、電子はその大きさが殆んどないような小さい粒である。即ち微粒子である。結局微粒子が集まっているのが物質である。ハイゼンベルグの不確定原理によると微粒子というものもないと云うことになっているのであるが、ここでは仮に小さな質点として考えて見ても、点がいろいろいくら集まっても線にも面にもなりはしないのである。それを線の如く面の如く、立体の如く表現されているのは、一体何であるかというと、物質そのものには線も面も立体もないのであるから、その線なり、面なりを表現しているのはそこにいのちというものが働いてかく見せているからであるのである。そこで本来、点である或は点すらもないものを線の如く面の如く表現して見せるのはいのちの活動だと云わなければならない。
○物質そのものだけしか見えないのであったら、すべてのものはただ電子的な質点の集まりに過ぎないのである。しかもその質点は驚くべき距離を距てて存在するので、線や面を形成することは本来不可能なのである。吾々の顔でも厳密に「物質である」として取扱うとただ点の集合で立体的なものではないし、輪郭なんというものはない。輪郭も何もない人間が歩き、話をしているのである。ところが電子の質点は点の如く見せず、線を構成し、面を構成し、立体を構成して、そして複雑な姿に表してかく万人が見るというのは、それは既にそこに共通のいのちが働いているという事が云えるのである。 谷口雅春先生著 『幸福生活論』より