気の向くままに

山、花、人生を讃える

神への道しるべ ②

2024年01月18日 | 人生

以下は谷口雅春著『神と偕に生きる真理 365章』 からの一節ですが、私が好きな所でもあるし、知っておいて損はないと思うので、いや、ぜひ知って頂きたく思い、紹介させてもらいます。読んでいただければ幸いです。

 

神への聖なる憧れ

○肉体的な自分、頭脳的な知性のほかに、何か一層高き神秘的なものが働いているという感情的な自覚、すべての宗教的な体験はそこから生まれて来るのである。しかしその自覚に達する迄には、頭脳的な追及も知的な探求も必要である。神への追及、神への探求――それがたとい頭脳的な知的なものであるにしても、神への追及又は探求の奥には既に自己の本質が「神である」ことのおぼろげなる自覚があるのである。そのおぼろげなる自覚を探求の緒として手繰って行けば、其処についに内在の神を見出し、内在の神に到達する大通りを見出すことができるのである。
 未だ一度も神を経験しない人が神を探求し追究しようという衝動をかすかながらも感ずるはずはないのである。既に神は自己の内にましますから神への聖なる求めが生まれて来るのである。

 

○こうして、人類の神への聖なる追及と、神をたずねる聖なる巡礼とがはじまる。或る人は神を「仏」の名に於いて仏教で見出す。ある人は神を「慈悲」の名において慈善的な行為や隣人への愛行に於いて見出す。或る人は、神を教会に於いて見出し、教会の礼拝の中に神と自己との接触点を見出そうとします。しかし教会や寺院での神や仏は、それを教える牧師や僧侶の排他的な、縄張り的な狭い心でゆがめられ、本当の神を見失わしめられ、「その教会や寺院を去ったならば、神罰や仏罰で恐るべき災禍に見舞われる」などとおどされて、神を求めたがゆえに、却って神に縛られて自由を失うような結果になりがちです。しかし本当の神は決してそのような神罰や仏罰で人間を威したりする方ではないのであります。 引用終わり

コメント (2)
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