気の向くままに

山、花、人生を讃える

バスを待ち大路の春を疑わず

2012年12月29日 | 信仰

先日、娘が最新のデジタルビデオ(ブルーレイ)をプレゼントしてくれました。少し前、職場のくじか何かで、デジタルテレビが当たり、それを我が家にプレゼントしてくれたので、ついでにそれに合わせてビデオもということらしい。

我が家は今までアナログテレビのままで、ケーブルテレビ会社のサービスでデジタルからアナログへの変換器を通して見ていたのですが、これで居間はデジタル放送が見られるようになりました。しかし、わたしの部屋はまだアナログテレビのまま。面白いことに、このテレビも以前、わたしがパチンコしていた頃、パチンコ屋のくじ引きで一等賞で当たったものです。もう15年ぐらいになると思う。

ちなみに、わたしはパチンコでも儲けさせて貰いました。自慢できることではありませんけどね。告白すると、わたしの1代目の登山用具はほとんどパチンコで儲けさせてもらったものでした。今使っているものは別ですが。あの3年間ほどは、お金を使っても使ってもパチンコ屋へ行けばすぐ補充されるというわけで、それが面白くて、パチンコに夢中でした。ハハハ。

話が変な方へそれましたが、娘には、本当に親思いの娘だといつも感心させらます。お年玉もくれるんですよ。わたしは最後まで親からもらっていましたが。その前には再生専用ながら、DVDプレーヤーも買ってくれていて、できるだけ親に楽しんでもらいたいと思っているようです。配線や、設定はすべて娘婿どのがやってくれました。ああ、涙がちょちょ切れる(笑)。娘夫婦にいっそうの祝福あれ!

 

以上は2日前に書いていたものですが、たった今、娘からメールがあり、読むと・・・・

なんと・・・

なんと・・・

なんと・・・

ついに・・・

ついに・・・

ついに・・・

 

7月に赤ちゃんが生まれるとのこと。

 

わかるかなあ、このよろこび。わかんねえだろうなあ。ははは。

 

      バスを待ち大路の春を疑わず  (作者忘れました)

もう一度

      バスを待ち大路の春を疑わず

しつこいけどもう一度言わせてください。

      バスを待ち大路の春を疑わず

神様ありがとうございます。

 

というわけで、今年は、最後にこんな嬉しいニュースでハッピーエンドとなりました。

ここを訪れて下さる皆様にも、ますますよいことがやってきますように。

今年もお世話になりました。ここを訪れて下さいましたこと、心より感謝申し上げます。

ありがとうございます。では、良いお年をお迎えください。


冬の景色、心の景色

2012年12月16日 | 信仰

≪冬の景色≫

冬の朝の光は地を這うように射してきて、いかにも光が射しているという感じがしてうれしい。また枯葉に朝の光が当たるのは何でもない平凡な風景だが、これも冬の詩情を感じさせてくれるものがあってうれしいものです。

若い頃、樹木に関心があったわけではないが、落葉樹よりも、葉の散らない常緑樹がいいと思っていました。それがいつごろからか、落葉樹がいいと思うようになり、裸になった木を見ると、心も人格もある「木の人間」を見るような感覚が湧いてきて、時には兄弟を、また自分の分身を見るような気さえもして、いっそう裸木を見るのが楽しみで好きになってきました。これも冬でしか味わえないことです。

冬で真っ先に思い出すは、

     遠山に日の当たりたる枯野かな  (高浜虚子)

という俳句です。私に冬の美しさを開眼させてくれたのはこの俳句でした。はじめてこの句に接した時、瞬間的に脳裏に、生き生きとした美しい冬の景色が浮かびました。俳句ってなんて良いものだろうと思いました。いながらにして、瞬時に冬の大パノラマを見せてくれるのですから。

この句の解説には「蕭条(しょうじょう)たる枯野・・・うんぬん」という説明があったのもよく覚えていて、それ以来「蕭条たる枯野」という言葉も好きになりました。25,歳の頃だったと思います。これもやはり、冬の日射しがあってこその風景です。

そう言えば、岡潔さんの本には、「冬枯れの野に大根の葉が青々と生きている」と云うような叙述があったのもよく覚えています。

わたしはそれまで、なんとなく冬は万物が眠った寂しい季節のように思っていたのですが、冬ならではの良さがあることを発見させてもらいました。

 

≪人の心の奥の風景≫

昨日、『生命の実相』の第39巻を読んでいたら、聖書の中の「神は光にして少しの暗きところなし」という言葉が出てきて、「この言葉を瞑目して10遍、100遍、1000遍となえよ」とありました。

唱える数はともかく、「神は光にして少しの暗きところなし」と唱えれば、たとえわずかでも光ばかりの世界を観じさせてもらえるのがありがたい。

また、その前には「寂光をさらに超えて」と題する章があり、そこには『出家とその弟子』で有名な小説家の倉田百三さんと谷口雅春先生との宗教上の奥義に関する往復書簡が掲載されていて、それを読んだとき――ここを読むときにはいつもそうですが――読んでいるうちに上へ上へと精神が上昇し、悲喜こもごもの世界を越えて、光ばかりの世界へ出たような気持にさせられるから、谷口雅春先生の宗教的叙述の巧みさやその境地の深さに感心させられるばかりでなく、こちらまで嬉しくなってきます。

「我、常にここにありて滅せず」というのは、同じく『生命の実相』の中に書かれている釈迦の言葉だが、こういう言葉に接するたびに触発されて、一瞬ながら普段の自分を飛び越え、飛躍した気持ちにさせてくれるからこれも有難い。言葉というものはほんとに不思議なものだと思います。

       我、常に此処に在りて滅せず。

      天も地も過ぎゆくが、あなたは過ぎゆかない。(『神との対話』より)


「桃、栗3年」

2012年12月10日 | 信仰

≪心の窓を開く≫

前の記事で、実際に「心の窓が開く」ということを書いたが、今日『生命の実相』の第38巻を読んでいたら、6月28日のところに、次のように書かれていました。

○神は開いた心の扉からのみ来り給うのである。心を開いて待つことが神を招く方法である。

前の記事とピタリ重なることが出てきたのでうれしくなりました。

 

≪雪の結晶≫

今朝は8センチの積雪。初雪であり、1年ぶりに見る白い世界である。

雪の結晶は写真でしか見たことがないから、一度本物を見て見たいものだと思う。

○あなたは雪の結晶だ。生命を表現するために完璧な、この世に二つとない個性をもって、神の世界から舞い降りてきた。

○ひとひらの雪の結晶でさえ、あれほど緻密な模様をしていて、なおかつ一つとして同じものはないのだよ。それをデザインしている宇宙が、“たまたまの偶然”なんていいかげんなことをすると思うかい?                                                『10代のための神との対話』より

なんでもない平凡な言葉なのに、どうしてこうも美しい表現ができるのだろうと感心します。

谷口雅春先生が『目を開けばどこにでも「美」はある』とどこかに書いておられたのが思い出されます。

 

≪桃、栗3年≫ 

昨日、先日の剪定作業をしたところへ道具を忘れたので、そのお宅へ電話して取りに行くと、当日留守をしていた奥さんが出てこられて、さも嬉しそうに「おかげでさっぱりしまして、本当にありがとうございました」礼を述べられました。このような挨拶は毎度のことですが、こんな嬉しそうに言われると、こちらまでうれしくなってしまいます。

体験談発表の時、

「今はシルバーで剪定の仕事をしています。時給800円。」というと、どっと笑いが起きました。

実は、このあと、「これがいいんですよ、いかにも働いている気がして楽しいです」と言いたかったのだが、笑いが起きて、その後何と言ったかよく覚えていない。「しかし、楽しいです」ぐらいのことは言ったと思うが・・・。

また『10代のための・・・』からの引用ですが、

○サム、成功の意味を決められるのは、あなただ。たとえば、あなたの心が歌いだすような気分になる、何かをすること! 何時間も夢中になれるようなこと。「タダでもやる」こと、これでいくらもらえるかなんて考えもしないで、「僕にやらせて!」と言いたくなること。 

 僕はこの最後のフレーズが気に入っている。私にとって剪定はホントにそんな気持ちにさせてくれる仕事です。

 今年から剪定試験をするようになり、今年の夏、その旨の電話があり、試験に合格すれば時給1000円にするということでした。受ければまちがいなく時給1000円になっていましたが、私一人その実技試験を拒否しました。私より1年あとに加わった3人は試験を受けて1000円になりました。

家内曰く、「怒ると、やっぱり損をするようにできているねえ」だと。

こうなると面白くないので、今度は受けることにしています。

(なんじゃ、そりゃ)。

まあ、そうおっしゃらず・・・

遠慮なく上げてもらって、愛行に使わしてもらおうと思っている次第です。

 それにしても剪定を初めて3年目、「桃、栗3年、柿8年」というから、いまは桃、栗と言ったところ。これからは、柿8年を目指しましょう。

ちなみに、「桃、栗3年、柿8年」の後に続く言葉を知っていますか?

正解は「ダルマは9年、俺は一生」です。 (武者小路実篤のことば、かな)


詩を朗唱したかった

2012年12月08日 | 信仰

1日の講師研修会で体験談を発表しました。

この研修は大半が信仰ガールさん(白鳩)で占められるので、相愛会とは勝手が違い、緊張が予想されたので、何度も練習していきました。

当日、100名以上いたと思うが、このような大勢の前で話をするのは初めて。その100名の方がこちらに視線を注ぎ、耳を傾けていて下さることが話しながらよく伝わってきました。それは緊張どころか、温かい雰囲気に包まれるような気持ち良いものでした。おかげで、いい勉強をさせてもらいました。

発表が済んでホッとしたが、一つ心残りがあった。

発表では一例として谷口雅春先生の詩『朝の太陽』を朗唱させてもらいましたが、『天使の声』も朗唱すればよかったと思った。(まだそれぐらいの時間は残っていた)

 

      『天使の声』

    或る日、私は心の窓を開いて、

    大生命のみ空から光線のように降り灌ぐ生命の讃歌に耳を傾けた。

    鳴呼!声のない奏楽、声を超えた合唱

    けれども私はその声を聞いていた。

    宇宙の囁き、神の奏楽、天使のコーラス。

    わたしの魂は虚空に透きとおって真理そのものと一つになった。

    何と云う美しい旋律だろう。

     「これが真理そのものか!」とわたしは恍然と嘆声を漏らした時、

     「お前は実在そのものだ!」

    私はこう云って天使たちが私を讃える声を聞いた。

 

 散歩しながら唱えようと思いついたそのはじめの頃はぎこちなかったが、何度も唱えているうちに、だんだんうまくなっていきました。うまくなってくると、気持ちも乗るようになり、詩と自分がだんだん一体化し、景色を楽しみながら、詩にも集中でき、景色に溶け込み、詩にも溶け込んで、いい気持ちになって何度も繰り返し唱えていました。

「或る日、私は心の窓を開いて、」とありますが、ここを唱える時は、唱えるたびに本当に心の窓が開く気がしました。わたしはその頃、いつものんびり日々を楽しんでいたのであって、けっして心を閉じてなどいなかった。それでも、いつも心の窓が開く気がしました。それで本当に心には窓があることを実感し、「或る日、私は心の窓を開いて、」と唱えれば、実際に「心の窓が開く」ことを発見し、それがまた愉快でうれしいのでした。

ともかく、せっかくの機会だから、大勢の前でこの詩を朗誦すれば良かったと、それが惜しまれた。まあ、「逃した魚は大きい」ということだろうが、しかし、あの頃の散歩していた気分が思い起こされて懐かしかったし、あらためて、この詩の素晴らしさを思ったことでした。

    天も地も朝の光や冬木立

最近はすっかり散歩からも遠ざかっていましたが、発表させてもらってから、また、暇を見て散歩するよう心掛け始めた次第です。

こういう詩を暗記してしまうと、いつも素晴らしい宝を持ち歩いているのと同じで、自分自身が嬉しくなりますね。

暗記で思い出しましたが、今では『甘露の法雨』はもちろん、『天使の言葉』も、『七つの灯台の点燈者の神示』も、『聖使命菩薩讃偈』も暗記してしまいました。おかげで、今まで長く感じられていたものが短く感じられ、読誦がうんと楽になりました。