気の向くままに

山、花、人生を讃える

宇宙と人生と

2014年09月10日 | 信仰

上のイラストは、宇宙誕生の瞬間から現在の宇宙までをごく単純に図式化したもので、このようなイラストは宇宙について書かれている本には必ずと言ってよいほど掲載されています。

一番下が宇宙の始まりの瞬間であり、一番上が現在の宇宙です。

何にもないところから、ある時ひょっこりと小さな小さな一点が現われたかと思うと、たちまち爆発し、膨張し、今も膨張し続け、現在の宇宙になった。そして宇宙の年齢は137億年と言われています。

つまり、宇宙には「始まり」があったわけですね。

一番上の現在の宇宙に相当するところにはいくつかの銀河が描かれています。そしてわたしたちはこの銀河の内の一つである天の川銀河の中の太陽系の地球に住んでいるのですが、そんなことを思いながら、このイラストを見ていると、わたしたちがなぜここにいるのか?その全体像が目に見えるようであり、「人生はお芝居である」ということが実感としていっそうよくわかる気がするのですが、どうでしょうか。

わたしたち人間は本来「神のいのち」そのものであって、その「神のいのち」である人間が、肉体という舞台衣装を着けて、この地球という舞台に下りて来て、お芝居を演じている。そして一人一人が自分の人生の脚本家であり、一人一人がその主人公である。

このような生長の家の教えを、わたしは「なるほどなあ」と、このイラストを見ながら肯かされます。このイラストが、ちようど、昔のテレビのブラウン管のようだし、なるほど現象世界は「映し世」「浮世」だなあと思います。そして、わたしたちは今この地球に姿を現していながら、本体である「いのち」そのものは、この宇宙を創りだした最高精神である神とひとつである、ということがいっそうよくわかる気がします。

さて・・・・・、

宇宙を過去へ過去へと遡っていくと、最後は始まりの小さな点さえもなくなって、エネルギー無限大になるのだそうで、なんにもないのにエネルギーは無限大という物理法則最大の矛盾にぶつかり、これを「始まりの特異点」と言うのだそうです。

何にもないのに、無限大のエネルギーが現われる。いったいそれはなぜか?と研究者たちはさらにその先へと踏み込もうとしているのですが、しかし、それはもはや物理法則を超えた世界であり、哲学、あるいは宗教的な領域とも言え、多くの科学者たちがそんな世界へと目を向け始めているとのことです。

そして、その一人であるブライアン・ジョセフソン博士はこう言っています。

○私は、精神が物質を生んだと考えています。私たちが、宇宙だと考えているものより以前から、精神が存在していて、時間と空間は、この精神の中から作り出されたと思います。この精神は、人間の精神とは何もかも違ったスケールを持っています。この最高精神と結びつくことによって、人間の精神は、可能性を広げていくことができます。宇宙を創造した最高精神は、一種の『サイコキネシス(距離をおいて精神力で物を動かしたり変形したりすること。念動。)』のようなものだったと思います。精神と物質の相互作用です。そこでは、最高精神の働きかけで、エネルギーが一カ所に集められて、ビッグバンが起こりました。 (NHK「アインシュタイン・ロマン」より 1991年放送)

ジョセフソン博士は、たくさんのノーベル賞受賞者を輩出しているイギリス、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所の物理学者で、「ジョセフソン効果」の論文でノーベル賞を受賞。今、彼は直感力を持つコンピュータの開発など、意識や精神の法則を探究し始めている。とのこと。  (NHK「アインシュタイン・ロマン」より)

ここで注目していただきたいのは、世界の第1級の科学者が「精神によってこの物質宇宙が作り出された』と言っていることであり、また「この最高精神と結びつくことによって、人間の精神は、可能性を広げていくことができます。」と言っていることです。

ちなみに「アインシュタイン・ロマン」では、このブライアン博士が座禅の姿勢で瞑想しているところも紹介されていました。

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とんでもない誤解

2014年09月06日 | 信仰

人間は誰でも寛大になりたいのであって、狭量になりたいなどと思っている人はいないはずだと思うのだが、不思議なことに、世界には自分たちが崇めている神を、人間が神様の気にいらないことをしたら怒って罰を当てるなどと信じている人がたくさんいるらしい。

人間だって良い親なら子供に寛大であるはずで、もし、子供に怒ってしまったら、親として情けなくなるのが普通ではないかと思う。もちろん、怒らなければならない時もあるだろうが、しかし、どんな親でも子供に罰を与えたいとは思わないだろう。

その癖、神様は罰を当てるものだと信じている。そして一方では、神は愛だという。考えて見れば不思議なことだ。神を信じていない人でさえ、なんとなく神様をそんなイメージで見ているようだ。

ニール・ドナルド・ウオッシュの『10代のための神との対話』という本の中で、「私は裁かない」と神が言うと、オスロの13歳の少女がびっくりしたように、こう答えている。

「神が裁かないですって?それが神様のすることだと思ってたわ!」

わたしも生長の家の教えを知るまでは、神がいるとは思ってなかったが、それでも、ばくぜんとした神のイメージがあって、そのイメージはこの少女と同じようなものだったと思う。だからこの少女が口にしたことは、実に素直だと思うし、とても共感できる。

「神ははたして人を罰するのか、それとも、全然そうではないのか?」多くの人にとって、こんな疑問はどうでもよいかもしれないが、まあ、神様の言い分をちょっとだけ聞いてやって下さい。

これからいうことは、ニール・ドナルド・ウオッシュ著の『神との対話』シリーズの中で書かれていたことですが、まあ、こんなようなことを言っています。(かなりいい加減な記憶ではありますが、大きな間違いはないはず)

わたしは何人も罰したりはしないし、裁くこともない。人間は「悪いものは罰しなければならない」という考えに捉われていて、その考えをわたし(神のこと)にあてはめて「神は罰する」ものだと考えはじめた。この考えは、神を信じていない人たちにも広く浸透している。そして、さらにそこから、自分と考えの違う者を殺りくしてもよいと正当化するようになり、殺戮を神の意志だというものまで現われた。人類は長い歴史の中で幾度もそんなことを繰り返してきた。そんな歴史の繰り返しに終止符を打ちたいなら、神が人を裁いたり罰したりするという、あなたがたの神に対する信念を変える必要がある。

いやあ、これが本当なら、たかが迷信などと笑っておれないですね。

 ちなみに少女が「神が裁かないですって?それが神様のすることだと思ってたわ!」に対し、神の返答はこうなっています。

神:人間は長い間、ずっと、そう思ってきたね。でも違うんだ。それは真実ではない。それは大きな「誤解」の一つだ。あなたがたの思い違いなんだよ。「裁き」があるという幻想、そして、それは「非難される」という幻想につながっていく。『聖書』にも、「裁くなかれ、非難するなかれ」と書いてあるのにね。

 

≪追記≫

聖書のマタイ伝にはイエス・キリストの言葉として次のように書かれています。

○天の父はその日を悪しき者のうえにも、善き者のうえにも照らし、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給うなり。 (マタイ伝 第五章 四十五節)

 

また、生長の家の『実相研鑽』という本の中には、次のような親鸞の言葉が出ている。

○大悲倦(あ)くことなく我を照らす。

 「大悲倦(あ)くことなく我を照らす」いいですねえ、この言葉。思い出すだけで神の愛に包まれている気がしてきます。

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