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気の向くままに

山、花、人生を讃える

ある死刑囚のこと

2025年03月31日 | 人生

昔投稿した記事を読んでいたら、ある死刑囚の話を紹介した記事があり、その時も感動しながら紹介させてもらったのですが、今回もまた感動したので再投稿させてもらうことにしました。読んでいただければ嬉しい!
以下は2015年7月に投稿した「ある死刑囚のこと」の再投稿です。

 

今朝、『幸運の扉を開く』(谷口清超先生著)を読み始めたら、その中に書かれていた話に心を打たれました。それは死刑囚となり、33歳で刑死したペンネーム「島 秋人」という人についての話で、彼について次のように紹介されていました。

○島 秋人さんは昭和9年に朝鮮で生まれ、父親は警察官で、満州でくらし、終戦近くに柏崎に移り住んだ。戦後は公職追放となり、一家はどん底の生活となり、母は、結核で死亡した。以来彼は非行を重ね、強盗、殺人未遂などを犯して、特別少年院に行き、その後に建物放火の罪で松山刑務所に収容された。刑を終わった後でも、面会に来た父と会えなかったというので放火したり、金品を盗んだりして昭和34年小千谷(おじや)の農家に忍び込み、主人に重傷を負わせ、主婦を殺害したのである。公判中も態度が粗暴で、死刑判決を受け、上告して東京拘置所に移され、吉田先生に出した手紙から、次第に人々の愛に目覚め、歌を習い、キリスト教徒ともなり、上告した最高裁からも棄却されて、この世を去ったのである。と

  彼の中学時代の成績は最下位で、行儀も悪かったらしい。それで叩かれたり蹴飛ばされたりしていたとのこと。死刑囚となった或る日、彼は獄中から手紙を書きました。宛先は中学時代の吉田先生。その手紙には、このようなことが書かれていたとのこと。

「今自分は死刑囚となっている。過去を振り返ると良いことは一つもなかった。たった一つ忘れられない思い出は、先生に絵をほめられたこと」と書いてあり、そして「できたら、先生の絵がもう一度見たくなった」と書かれてあったそうです。

 その手紙を読んだ吉田先生は、しばらく考え込み、その様子を見て奥さんが心配して聞くので、その手紙を奥さんにも見せました。そうして、

○このように、昔たった一度ほめられたことが、彼の最後の願いを引き出して、それから吉田先生家族で描いた何枚かの絵を贈られ、歌を習うことにもなり、奥にかくれていた彼の愛と能力が引き出され、信仰にも導かれ、歌の交流を通して盲目の少女とも愛を語り合い、刑死して行ったのである。と

 最初の手紙には、

           さびつきし釘を拾いし獄残暑

という俳句が書かれていたそうです。死刑囚となった彼には、錆びついた釘さえも愛おしく感じられたのでしょうか。彼には『遺愛集』という歌集があるそうで、その中には639首の歌が詠まれているとのこと。そして、吉田先生の奥さんから贈られたセーターを詠んだ歌が紹介されていました。

         ぬくもりの残れるセーターたたむ夜  

                       ひと日の命もろ手に愛しむ

  

 わずか3ページで紹介されている短い話ですが、彼の人生と獄中での心境、その句と歌に心を揺さぶられました。「良いことは一つもなかった」という手紙の一節には、思わず涙がこぼれましたが、それだけに、彼の句や歌にいっそう心打たれたことでした。


人間とは何か?

2025年03月12日 | 人生

人生を生きる上において、人間とは何か? 自分とは何か? は誰もが一度は考えることであり、またわかることなら誰もが知りたいと思っていることではないかと思う。以下は、谷口雅春先生の著書から抜書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。(と言っても、さわりの部分だけですが)

 

○宗教というものは、決して死後のみの問題をとりあつかうのではなく、「生命」の問題をとりあつかうべきものである。それが死後の問題をとりあつかうかの如く見えているのは、死後にも「生命」が存続するからであって、しかも死後存続する「生命」はその働きが肉体のように可視的でないが故に、科学者の対象となることができないで、その結果宗教家のとりあつかう対象になったにすぎないのである。

 

○人間の本質は生命である。しからばその「生命」を此処にだしてみせてくれといわれても、それをみせるわけには行かないのである。吾々が目に視ることができるのはその働きだけであるのである。「自分」とは何であるか。それは決して肉体ではないのである。肉体に於いて働いている所の不可視なる「生命」そのものである。しかしそれは不可視であるが故に、多くの人間は「肉体」を自分自身だと思いあやまる。そして顛倒妄想(てんどうもうそう)に陥るのである。即ち人間は肉体ではないのに、顛倒(さかさま)の想いを起こして、肉体であると思い、目にみえない「生命」であるのに、それに気づかないのである。

 

○宗教家の第一眼目は、ソクラテスの「汝自らを知れ」の箴言に始まるのである。仏教に於ける覚者とは「自分」自らが何であるかを悟った所の人であるのである。キリストは「自分」みずからを「神の子」として悟った所の人であったのである。そしてキリストは、「吾を信ずるものは、吾より大いなる業をなさん」と教えているのである。そして多くの奇跡を生活に実践したのである。『般若心経』には、「顛倒夢想を遠離すれば恐怖なし」と書かれているのである。最も恐れないでいられる人は自分自らの本質を知る所の人であるのである。自己みずからを肉体であると思う者は、肉体は、老い、病み、傷つき、滅びるものであるが故に、恐れざるを得ないのである。これに反して、自己を「生命」と観ずるものは、「生命」は老い、病み、傷つき、滅びることなきものであるが故に、恐れるということはないのである。 

 


明るく生きるために⑤

2025年03月07日 | 人生

以下は、自分が人生を明るく生きたいとの思いで、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

○人生を幸福にする秘訣は先ず自分が幸福な気持ちになり、その幸福な気持ちを、花葩(はなびら)をふり捲くように相手にそそぎかければ好いのである。向こうの欠点を見るときにはこちらの心が汚れるのである。欠点を見る暇に、美点を見て誉めてやれば、こちらの心も楽しいし、向こうの心も楽しいのだ。 

 

○太陽の輝きは、星々の煌めきは、花の美しさは神様のあなたに対するやさしい微笑みです。

 

○人間の歓びと幸福とはどこから来るかというと、人間の本来が「常楽なる神の子」であるという本然から来るのである。この本然がなければ人間の歓びと幸福とは出て来ないのである。 

 

○楽しく生きるのが神の道である。憂愁に閉ざされている心は生命を生かさないから神を遠ざかった心である。自分も生かし他をも生かす楽しき心が神心である。人は神の子であるから楽しいのが本来である。 

 

○人々に祝福を与えよ。深切を与えよ。善意を与えよ。喜びを与えよ。微笑を与えよ。すべての善き心の波は相手に祝福を与えるのみならず、与える人自身に幸福を与えるのである。毎日一そう多く吾等は人に与えん事を決意しこれを実行せよ。
 そして、「吾は神からつかわされたる全人類への祝福の使者である」と念ぜよ。電車にのっている時にも汽車にのっている時にも自分の全身からこれらの人々を幸福にするところの念波が自分の全身から放射されて今これらの人を幸福にしつつあるのである、と念ぜよ。常にこのような愛を与える気持ちで日常生活をおくればまず祝福されるのはあなた自身であるのである。 

 

○人を称讃する言葉を与える功徳も無限に伸びる功徳であるのである。この世界を称讃の善き言葉で満たすことは、この世界全体を明るくすることになり、称讃の一つ一つの言葉は相手を生かすだけではなく、全人類を光明化し、あなた自身を生かすことになるのである。


明るく生きるために④

2025年03月05日 | 人生

以下は、自分が人生を明るく生きたいとの思いで、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

○われわれを生かすのは明るい思想である。さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。 

 

○明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲しまぬということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。≪中略≫ 天地一新、悪しきことはいまだかつて一つも起こらなかったし、これからも起こらない。それはすべて一新しゆく姿である。 

 

○明るい反面ばかり見るものは常に生長し、暗い反面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。
 どんなことにも喜びが見出される。雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに「結構な善いお湿りだ」と喜ばねばならぬ。この世の中に何一つ無駄なものはない。この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、われわれは悲しむべき何物もこの世界にないことを知るのである。 P13

 

○明るく生きることは人生の一つの美徳である。強く生きることも一つの美徳である。大きく生きることはさらにもう一つの美徳である。何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと生命の大地を踏みしめて行くことは常によい。 

 

○人に逢うて何かなつかしく、いつまでもその人と話していたいと思える人と、そうでない人とがある。ひらいた心の人でないと明るい眼の人にはなれるものではない。幼児の眼が澄んで清らかなのは、幼児の心は打ち開いた澄んだ天空海闊の心をしているからである。
 ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で相手を見る人は必ず幸運である。

 

○沈滞期に屈せざる心の明るさと、努力を継続せしむる意思の力と、その意志の力を継続せしむる感激の押し出す力とを失わない者はついに大成するのである。 

 

○われわれは太陽のない国に置かれてさえも、心で太陽を創造して自分の棲む世界を明るくしてみせると言うほどの自信を持たねばならぬ。人間は信念だけの値打ちである。  

 

○神は開いた心の扉からのみ入り来たり給うのである。心を開いて待つことが神を招く方法である。
明るい心、歓喜の心、智慧ある悟り、すべて神を招き入れる扉である。  

 

○無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――そのこと自身がすでに価値であるからである。人間も同じことである。 

 

○私は罪なき神の子である。すでに浄まれるものである。神の健康なる生命、神の喜びに充ちた生命がわたしである。わたしは喜びそのものである。私は幸福そのものである。私は健康そのものである。 

 

○この世の中に悪しきもの、病い、不幸、災禍(わざわい)等があると思うな。かくの如き暗き観念をあなたの心の中より一掃せよ。ただ、明るきもの、健康、幸福、祝福、のみがあると信ぜよ。そして常に心の中に「神は光にして少しの暗き所なし」と念ぜよ。この言葉を心の中に繰り返せよ。やがてあなたの周囲に光の世界が、神の国の肖像なる世界が現実世界にあらわれて来るでありましょう。


明るく生きるために③

2025年03月03日 | 人生

以下は、自分が人生を明るく生きたいとの思いで、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

○「笑う門には福来る」ということは真実である。すべからく1日3回は鏡に向かって自分の表情をできるだけ幸福にし、自分はかくのごとく常に幸福な表情をしているということを自分の心に奥深く印象せしめよ。かくのごときこと3ヶ月にしてその人は真に幸福な人となるであろう。この方法だけでも病気がよくなる。  

 

○心の悲しい人よ。毎日鏡を見てできるだけ朗らかに笑って自己が幸福であることを印象せよ。心の暗い人は心の暗さを見まもっていてはますます心が暗くなる。それを心で一転して朗らかに笑った顔を見よ。これは方便である。はじめは不自然でも自然に幸福に笑えるようになってくる。

 

○心の明るい人は別に鏡を見て工夫して笑わなくてもよい。心の明るさを見つめていればよい、そして自己をついに光明遍照の世界の相において見るのだ。これが極致だ。 

 

○快活と憂鬱とは一つの心のうちでは同居できない。憂鬱が来たら快活はいなくなる。だから大笑せよ。大笑して憂鬱を吹き飛ばせ。 

 

○憂鬱になってきたと思う瞬間、哄笑を爆発させよ。これが健康と若さを保つ秘訣である。 

 

○人間は悲しめばどれだけでも悲しめるが、また歓べばどれだけでも喜べるのである。

悲しみを呼べば悲しみが来て合奏し、歓べば歓びが来て合奏する。 

 

○悲しいか、本当のお前は悲しんでいるのではない。本当のお前は笑っているのだ。 

 

○自分は愉快である――常に想起してかく思え。 

 

○隠れたる生命力を発揮せしめる最も有効なる方法は快活に楽天的に心をもつということである。

 

○何もないのに嬉しい気持ち、ありがたい気持ちというものが、生命の実相であります。生命の実相の悟りというものは、常住坐臥、現象的に何がなくとも嬉しい、ありがたい、なんにもないうちになんともいえない爽やかな一種の歓びが続いているものであります。この爽やかなありがたさというものが本当に体得できた時に、家庭はむろん光明化しますし、運命も境遇もよくなるのであります。 

 

○「我れ妻を喜ばさんがために存在す」と自覚する良人は、妻を喜ばしうると同時に、良人自身もまた幸福になるのである。

 

○逆境の来るごとに莞爾として微笑せよ。微笑は心の中に光明を点じて一切の苦難を耐え易からしめ、失われたる希望を喚(よ)び起こし、再起の勇気を奮い立たし、暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであります。 


明るく生きるために②

2025年02月28日 | 人生

以下は、自分が人生を明るく生きたいとの思いで、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

○光となって輝きたい者は笑うがよい。幸福でもないのに笑えないというな。笑わないから幸福が来ないのである。  

 

○植物の葉に緑を与え、その花にいろいろの色彩を賦(あた)え、その果(み)に美しい光沢と美味しい味を与えるものは太陽の光である。それと同じく人間の心にも太陽の光が必要なのである。心に必要な太陽の光とは、光の名に相応しい、生命の自然から湧き起こる明るい歓びである。 

 

○輝くような明るい笑いは人生の不幸を吹き飛ばし、不治症さえ雲散霧消する不思議な効果をもっているものなのだ。 

 

○われわれは一日に3回ぐらいは鏡に対ってできるだけ平和な表情になるように眉の伸ばし方を稽古し、眼にニコヤカな表情をもたす稽古をし、その時の感じを覚えていて、常に四六時中そういう明るい表情を続けているように努めねばなりません。 

 

○ひとに対して晴れやかに笑え、晴れやかな笑いは自他の栄養剤である。 

 

○周囲に対して微笑みかけよ。周囲もまたなんじににこやかに微笑みかける。 

 

○喜ぶ人は喜びの種子(たね)を蒔く人だ。呪う人は呪いの種子を蒔く人だ。悲しむ人は悲しみの種子を蒔く人だ。 

 

○人間の栄える要素となるべき心の徳はいわゆる狭い意味の窮屈な善ばかりではありません。正しさも一つの心の徳ではありますが、強さや、明るさ、豊富さ、偉大さや、自由自在な心境などもまた人間になくてはならぬ心の徳です。何よりも気の小さいということは悪い。気が小さいということは、言い換えれば神を本当に信じないということです。 

 

○諸君よ、この書を手にせられたのを機会に今日からあなたの家庭をもっと明るく笑いに満ちたものとしようではないか。苦い顔は家庭の外でもう見飽きるほど見ているのである。厭味や小言はもう飽き飽きするほど家庭の外で聞かされているのである。せめてわれらは家庭にいる間だけでもわれらの人生を楽園としようではないか。われらが外に出て人生の戦いを戦うとき、振り返って、帰れば楽しい明るい慰めらるべき家庭があることは何という力強いことであろう。諸君よ、この人生の楽しいオアシスを、決して苦い火宅とするな。あなたの天国に地獄を持ち込むな。一歩あなたの家庭に入るとき、そこを天国だと思え。家庭の全員が、そこを天国だと思うようにするならば、そこに本当の天国ができ上がるのである。 

 

○天照大神が岩戸隠れをせられて天地ただ暗黒に満たされたとき、その暗黒の真っただ中にあっても悲観せず、失望せず、陽気な音楽を奏でつつ明るい笑いを笑い、ついにその暗黒を笑いによって吹き飛ばした天宇受売命(アメノウズメノミコト)こそ生粋の古代日本人の標本である。苦難に面するとも朗らかに哄笑せよ。やがて諸君はその苦難を征服することができるであろう。

 

○自己に宿る「太陽の魂」をその十全の光において輝き出ださしめよ。なんじに宿るキリストを磨き出だせよ。イエスは常に「汝ら歓び勇め」と言っていたのである。 


明るく生きるために①

2025年02月26日 | 人生

以下は、自分が人生を明るく生きたいとの思いで、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

心に思い浮かべる念を明るいものとすれば、この現実世界が明るくなる。

 

○われらは快活に小鳥のように陽気のみちた生活を送ろうではないか。陽気のみちた家は必ず生長する。この世界はなにもわれわれが悲しんでやらなければ悲しみに不足して困るというようなことはないのである。黒住教祖に倣え、陽気になれ、嬉しいことを語れ、はしゃげ、哄笑せよ

 

○彼女は一日少なくとも3回、どんなことがあっても必ず心から声を出して笑うということに決めたのである。それで人と話している時など、ちょっとした機会があっても必ず心から笑うようにし、自分の部屋にいるときには鏡を見て笑うようにしたところが、まもなく健康が見ちがえるようになり、性格も一変して明るくなった。

 

○笑いはただその人自身を健康に愉快にするばかりではない。快活な人は周囲に幸福と健康とをまいて歩く。明るい朗らかな親切な笑顔を向けられては何人も幸福にならずにはいられない。そういう人が医者であれば、患者は医者の顔を見るだけでよくなったりするものである。

 

朗らかな笑いは、自然が与えた最良の強壮剤である。哄笑を爆発さすとき、憂鬱な心で押さえつけられていた生理作用はたちまち活発に活動をはじめる。血液の循環は順調になり、白血球の喰菌(しょっきん)作用は増加し、自然療能はさかんになる。

 

○ちょっとした洒落、ジョーク、諧謔などに触発されて哄笑が飛び散るならば、諸君は砂漠でオアシスを見いだしたように蘇生って再び元気よく仕事に掛れるであろう。聡明な上役は、仕事の合間に下役の気を引き立てるような罪のない諧謔を飛ばす。能率を望む実際家もまた笑いの効果を知らねばならない。上手な教育家は生徒を時々ユーモラスな話で笑わせながら授業を進めて行く。それで生徒に喜ばれてかえって成績がよいのである。上品なユーモア、巧みな頓智、無邪気な馬鹿話、悪気のない哄笑――これらは天が与えた自然の良薬である。

 

○人は必ずしも仕事だけをする機械ではないのである。人にはなんとなきその人特有の空気(雰囲気)が付随している。その空気が別の仕事をする。その空気が一緒に働く人たち全体の空気を活き活きとさすことができれば、それはすでに大いなる仕事である。心のわだかまりがとれるに従ってその人の健康はよくなる。境遇も良化してくる。周囲の人がおのずから善くしてくれるからである。

 

○愛とか善とかいうことを人に「物」を与えることばかりだと考えているのはまちがいでありまして――欠乏している人に「物」を与えるということはむろん善いことでありますが――それよりもなおいっそう大切なことがある。それは明るい善い心の波動を人々に与えることであって、これはあらゆる善行のうちの王者であるとさえいえるのであります。 


「有難さ」に目覚める言葉⑦

2025年02月24日 | 人生

以下は、自分が「有難い」気持ちになりたいと思い、たくさんの谷口雅春先生の著書から、抜き書きしていたものの一部ですが、他の人にも読んでいただければと思い、ここにもアップさせてもらいます。

 

○あなたが幸福になろうと思ったならば、まず、朝目がさめたとき、その“今日”に呼びかけて、「祝福されたるこの朝よ、あなたは太陽と共にすべての人間に幸福をもって来る。わが家族にも幸福をもって来る。私にも幸福をもって来る。私は感謝の心に満たされている。神さま、ありがとうございます。天地の万物、ありがとうございます」と感謝の言葉で、声を出して、また口のうちで唱えるもよい。感謝する人のところへ“感謝すべき良きもの”が集まって来るのである。言葉の力の応用である。 

 

○神はすべての渾てである。一切のものは神の生命・智慧・愛の表現であるのである。一枚の木の葉、一輪の草花、日光、空気、水、その他、どんな大きいものも、どんな小さなものもことごとく神の生命・智慧・愛・・・などの実現ならざるものはないのである。 
あなたは神の生命に包まれ、神の愛にいだかれ、神の智慧に導かれて生活しているのである。わたしたちを生かし、わたしたちを導いていて下さる神の霊の存在を自覚して、神に感謝しなければならないのである。

 

○神は到るところに在まし、わが内にもまします。それだから、人間自身が神を憶えば、神も人間を憶いたまう。其処に神と人との感応道交ということが行われるのである。・・・現実生活の幸福な状態は、あなたの存在の奥にある“神性”の自覚が第一歩なのである。どんなに人間が不完全に見えていようとも、それは吾らの心の鏡にそう映っているだけであって、どんなに映っていようとも、人間の実相は完全であるのである。 

 

○今あなたに与えられてある幸福の数々に感謝せよ。今自分に与えられている数々の神の恵み、衆生のご恩に感謝せよ。今与えられている幸福や供給の数々を、いちいち名前を挙げて、その一つ一つに感謝して見よ。どんなに多くの恵みをわたしたちは既に受けていたかに気がついて驚くであろう。

 

○感謝によって神から受けたものに対する反射作用を完全にいとなむときその人の人生が明るくなってくるのである。感謝はすでに受けたる賜物に対する反射作用である。恩恵に対して感謝する心のない者は、この反射作用がないようなものであるから、光の世界に住みながら暗黒な生活を送るほかはないのである。 

 

○感謝の功徳は実に数えきれないほど大なるものであるのである。自分の周囲のすべての人々に、感謝し、自分の周囲にあるすべての事物に感謝し、空気に感謝し、日光に感謝し、水に感謝し、すべての飲食物に感謝し、建物に感謝し、すべての什器・調度に感謝するがよい。さらに仕事に感謝し、自分の境遇に感謝し、僅かな収入であってもそれに感謝しつづけるとき、あなたはしだいに思いがけぬ幸福に見舞われ、不思議に収入は増加し、一層健康となるに相違ないのである。 


「有難さ」に目覚める言葉⑥

2025年02月21日 | 人生

以下は、自分自身が「有難い」気持ちになりたいと思い、たくさんの谷口雅春先生の著書から、抜き書きしていたものですが、他の人にも読んでいただければ幸いと思い、ここにもアップさせてもらいます。

 

○皆様、本当に『有難い』という心を起して合掌して拝み切って御覧なさい。そうして自分自身が「有難い」という心そのものに成り切って御覧なさい。そこに、自分のうちに神さまの心のリズムが感じられます。自分の内に神様が宿っていることが如実に感じられるのであります。そういう風にして夫婦拝み合って御覧なさい。自分の内に、そして配偶(あいて)の内に神様がいますことが如実に感じられて来る。そしてその家庭は実に円満な神の子の家庭になってくるのであります。拝み合うのは必ずしも夫婦間だけのことではない。親子の間でも同じ事であります。親は天であり子は地であります。天は地を拝み、地は天を拝む。そして親子の拝み合いが本当に行われた時に、そこが天国になるのであります。 

 

○神に感謝し、周囲のすべての人々に感謝しているけれども、まだその人に感謝することをわすれがちである一人がある。その一人は「自分自身」である。「自分自身」の魂は神の子として此処に神から与えられた使命遂行に尊き努力を捧げつつあるのである。此の「自分自身」の魂に感謝を捧げないのは片手落ちである。更にその「自分自身」の魂が乗り物として使命遂行の用途に使いつつある「自分自身」の肉体に対して感謝しないのも片手落ちである。 

 

○毎日毎日を、神から与えられた「幸福の日」であると信じて“毎日”を感謝しなさい。あなたが素直に、神の祝福を見る目をもって“毎日”を迎えられるならば、至る処に神の祝福を見出されるに相違ないのであります。そこに、今、愛し愛される家族があるではありませんか?親も子も配偶者もない天涯孤独の人であっても、そこに今、“神”が居たまうのです。そこに友があり、知己がある。友も知己もないにしても、そこに「見知らぬ人」がある。その見知らぬ「赤の他人」と見える人も“神の子”であり、あなたの兄弟姉妹であるのです。彼らは決して「赤の他人」ではないのです。あなたと同じ“神の子”のいのちが流れているのです。肉体の兄弟姉妹は「血を分けた兄弟姉妹」と言いますが、彼らは「神のいのちを分けた兄弟姉妹」なのです。その人たちに優しい言葉をかけてごらんなさい。きっとやさしい言葉があなたに返ってきます。互いに兄弟である証拠です。

 

○あなたの心の緊張を解きゆるめなさい。過去はないのです。今の苦しみもすでに過去に刻々なりつつあるのです。それらのものは全て過ぎ去るものにすぎないのです。過ぎ去るものは実在ではないのです。実在ではないところのものを捉えて悩んでみても仕方がないではありませんか。心に重荷を背負わせてはなりません。過ぎ去るものが、如何にあなたに苦悩を与えたにせよ、それが過ぎ去るときにはそれに祝福と感謝とを与えなさい。どんな艱難も何かの意味に於いて、あなたの魂に経験を与えそれだけあなたの魂に教訓を与えたのです。 過ぎ去るものに御礼を言う心持になったとき、次に来るものが貴方によって一層善きものとなるのです。一切を祝福する気持ちになるとき、もう何ものもあなたを害することは出来ないのです。

 


「有難さ」に目覚める言葉⑤

2025年02月19日 | 人生

以下は、自分が「有難さに」目覚めたいと思って、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものです。ここに来ていただいた方にも見て頂ければと思い、紹介させてもらいます。読んでいただければ幸いです。

 

○朝々が常にその人にとって「新生」なのである。神は、「今」新生するとき、過去をもって責めたまうことはないのである。神が「今」を与え給うことを、神に対して感謝しようではありませんか? 過去に何があったであろうとも、それは既に過ぎ去ったのである。「今」は一切の過去を変貌させる力をもっているのである。「今」ここに自分の生命に神が在(まし)ますことを自覚したとき、それは自己の魂に燈をともされたのと同じことなのである。

○紛争や不調和が起こる原因の一番根底には「自己嫌悪」が横たわっていることが往々にしてあるのである。自分自身を嫌悪しているために、それが他の人に移入されて文句を言いたくなるのである。吾々はもっと度々神想観(瞑想のこと)を実修して自分自身を祝福し自分自身に感謝し、自分自身に和解しなければならない。 

○感謝の念こそ、天地一切のものと和解する最善の魂のひびきであり、既に受けたものに対する最も素直なる応答であり、これからまさに来らんとして、“実相の世界”に既に準備されている善きものを“現象世界”に受像するための魂のひびきの同調であるのである。 

○また実際叶えられた事柄も随分沢山あるではありませんか。顔を洗うのに水もあったし、腹がへっているのに食事もいただけたし、空気を吸いたいのに空気も与えられたし、着物を着たいのに着物も与えられたし、お茶を飲みたいのにお茶も与えられたし、すべてこれらの事は、あなたの願いが叶えられた事柄であって、それに感謝しないで、叶えられない方面ばかりを心に留めてそれに不平をいってはならないのです。与えられたもの、願いの叶ったものに、「私の願いを叶えて下さいまして、ありがとうございます」と感謝していれば、次の願いも叶えられる事になるのです。

○吾々人間は神の子であり、自由意志を与えられており、自己の運命を如何に決定するかの自由選択の権利と、この選択したものを実現するための道具とを与えられている。その道具というのはほかでもない。自己の「想念」と「言葉」と「行動」である。吾々がよき想念をつくり出そうと思うならば、現実の不幸や病気などに心を振向けていてはならないのである。まず神の方へ心を振向け、神のもちたまえる凡ゆる善き性質を思い浮かべ、それを讃嘆し、それに感謝する想念を起こすようにするがよいのである。 

○既に求むるものを受けたりと云う信念から衷心からの熱情的な感謝をするならば、奇跡的にその求むるものを得ることができるものである。「実際に求むるものがまだ現実にあらわれて来ていないのに感謝できません」という人が往々にしてあるけれども、これは大変間違った考え方なのである。
 先ず、既に与えられている無数の恵みについて感謝せよ。空気、日光、住宅、衣類、家族、食物、健康等既になくてはならぬ多くのものを与えられているのであって、其の事実に対して感謝せよ。


「有難さ」に目覚める言葉④

2025年02月17日 | 人生

以下は、自分が「有難さに」目覚めたいと思って、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものです。多くの人にも見て頂ければと思いここに紹介させていただきますが、読んでいただければ幸いです。

 

○どんな小さな恵み、小さな贈与、または小さな幸福にせよ、それに対して純粋な心で感謝せよ。大きな恵福であるから感謝し、日常の小さな恵福であるから感謝しないというのでは、その人の心は現象的分量にとらわれ、取引根性、打算根性に陥ってしまっているのである。分量を見ないで、その恵みの奥にある神の愛を見なければならないのである。そして感謝の念を起こすとき、自分の心が浄まるのである。自分の心が浄まるとき、自分の心の波長が、実相世界に於いて既に与えられている無限の供給に波長が合い、それが現象化してあらわれて来るようになるのである。

○何よりも大切なのは、吾々の生活になくてはならぬ全てのものが、実はその本源が神より来るものであることを知ることなのです。それを本当に知ったとき、真実神への感謝の念が起こって来るのです。神への感謝の念が本当に起こって来たとき、吾々の精神波動が神の国と完全に霊交し得る精神波動となって来て、神の国に既にあるところの健康、財福、希望実現、その他あらゆる善きものが現実化することができるようになるのです。 

○吾々の生活に、どんなに多く、大自然の恵みを受けているか、衆生の御恩を受けているかを顧みよ。あまりにも私たちは受けている恩恵に対して鈍感であり過ぎたのである。それらを当然のこと、当たり前のこととして感謝することを忘れていたのである。あまりに自分が受けていた恩恵に対して気がつかな過ぎたのである。何でも気がつかないときは、それが存在しても「無い」のと同じことである。すべての恩恵を認めたとき、私たちはその恩恵の所有者になるのである。 

○肉眼で見える太陽の光の奥に万物を生かそうとする神の愛を感じ、曇っている雲の奥に万物を潤そうとする神の慈悲を感じ、囀る鳥の声に神の子の生命をよろこんでたのしんでいる「生命の兄弟」を見ることができるものこそ、現象の相対的善悪の奥にあるところの「絶対の善」を見るところの人である。即ち現象の「善を思わず、悪を思わず、唯絶体絶命の時、わが生命の正体如何」を知るのである。それは神の生命であり、唯ありがたいばかりなのである。かくして自ずから口にのぼってくるものは、ただ「ありがとうございます。ありがとうございます」の感謝のことばとなってくるのである。 


「有難さ」に目覚める言葉③

2025年02月15日 | 人生

世の中に住んでいると、何かと不平に思うことが多い。その不平に心を捉えられると、自分自身が不幸な感じになるばかりでなく、よけいに不平が目に付いてきたりする。反対に、意識的に「有難い」と思える方向に目を向けると、何かと有難いことが多いことに気がつく。特に夫婦の場合、毎日一緒に住んでいるから、そしてお互いの気持ちがよく伝わるのだから、その影響は大きく、「ありがたい」と思えば、ますます有り難くなるばかりで自分自身が幸せになれる。

私たち夫婦は今年金婚式を迎える。「こん畜生」と思うこともたびたびあったが、おかげで、ありがたいと思えるようになってとても嬉しく、1日1日を有難く感じています。

以下は自分自身が有難さに目覚めたいと思い、谷口雅春先生の多くのご著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

○あなたが『運命』に感謝する心持ちになられた時に、『運命』は貴方に微笑みかけるでしょう。
『運命』とは、あなたの心の反影(かげ)だったのでした。あなたが『運命』に対して微笑みかければ『運命』はあなたに微笑みかけます。繰り返して申しますが、あなたの運命はあなたの心の思う通りになるのです。

○見よ!まず自分のうちに宿る神を!われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。かくのごとくして、われらは次第に進んで各人自身のうちに「神」を宿し給うた本源の神を拝むことを知るのである。 

○われわれはわれわれを躓かしてくれたものを怒ることなく、かえってこれに感謝すべきである。
われわれは躓くごとに、自分の内部の故障に目を向けて反省しさえすれば、躓きはかえって内部を浄める指示器となり、いっそうわれわれを高め上げてくれる動機となるのである。  

○今日自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために働く力を、考える力を他のために与えて奉仕せよ。これが富の道である。 

○岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。すべてのものに仏の生命が生き、神の智慧が輝き、天地の愛が現われているのである。天変地変を恐れるものは、きっと、岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは、天地一切のものが、すべて覚体であるという前提があってのことである。覚体でなければ、和解のしようがない。ただその機械的暴力に従うか、それを利用するか、征服するか、征服せられるかのほかはない。和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。 

○無我の心になって、私欲的なすべてを捨ててしまった時に、すべてが合掌の中にあることがわかるのであります。・・・中略・・・合掌は『既にある幸福』への感謝であり、天地の抱き合いであり、夫婦の拝み合いであり、人類の相互合掌であり、そのままが全ての成就であります。 

○心の眼を開いて合掌の中をじっと見ると、無限の知恵、愛、生命、供給がそこに充満して居るのであります。この小さな合掌の中に時間空間を超えたところのひろがりと持続とがあるのであります。それをじっと味わうと何とも云えない気持ちのいい状態になるのであります。『神様、お父様、お母様、すべての衆生様、有難うございます』と合掌して御覧なさい、本当の感謝の心がわかります。何とも云えない涙がにじむような有難さを感じるのであります。即ち宇宙と同根の心であります。神すなわち宇宙の真理と一つになった心、合掌の心であります。この中に無限の知恵、愛、生命、供給が充満しているのであります。 

○何事を為すにも、斯く自分が為し得るのは神が自分を愛して神が斯く為し得る力を与え給うたお陰であると思い、自分の一挙手一投足毎に「ありがとうございます」と心に唱え、言葉に唱えるがよい。 


「有難さ」に目覚める言葉②

2025年02月12日 | 人生

以下は私自身が有難さに目覚めたいと思い、谷口雅春先生のご著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

自分が一人で生きておったら、何か自分の力がやっておるのだから、ありがたいとも何とも思わないが、ありがたいというのは全体の生命と自分の生命とが繋がっておって、恵みによって生きている自覚ができる。宗教的情操とは、この「ありがたい」という深い感じだと思います。ですから、宗教的情操の養成は「ありがたい」という感じを常に喚起するようにつとめていくということによって、知らず識らずのうちに全体と融け込んだ一つの感じというものが出てくる。したがってまた利己主義というふうなことも自然に起こってこなくなる――。(子供の教育についての座談会で)  

○われわれは空気の恩恵について感謝すべきことに気がついた時、われわれの周囲に感謝すべきものがかくも多数に充ち満ちていることに気がつくだろう。 

○われわれは毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえに、ありがた味を感じない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。しかし、これでよいだろうか。目覚めて立て!わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生かされているのである。ありがたさは物の分量にあるのではなくて、心の目ざめにある。心の目ざめている人を悟っているという。 

○万象は神の愛の顕われだと見ることができる。太陽はわれわれを温めてくれるし、水はわれわれの渇きを医やしてくれるのである。植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓――そしてあらゆるもののことごとく神の愛である。空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。ああ空気――ありがとう。ああ太陽――ありがとう。ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。われわれは神の愛に包まれているではないか。数えきれない神の愛の中に包まれていながら、ただ一つ二つの不足について不平を言うような心は功徳を得る心ではない。まず感謝しなければならない。また、そんなに神の愛に包まれていることを思えば、まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。愛するということは幸福の初めである。

○偉大になるとは「反対者」をも包容しうるようになることである。右回りの歯車は左回りの歯車を「反対者」だと思うが、時計全体から見れば右回りの歯車と左回りの歯車と両方あるので調和しているのである。 

○小さい「我」がくだけたときに、天地一切から自分に働きかける自分を生かそうという不思議な力に目覚める機縁が与えられるのであります。ちょうどゴム風船の風船玉の中の空気が、このゴムの中だけが自分の世界だと思って、自分の力だけで意気揚々と空中に浮いていたのが、そのゴムがパチンと割れたために、中の空気と外の無限の空気とが一緒になった。そして自分を空中へ浮かしていたのは、風船玉の中の空気だけの力ではなく、実は外にある無限の浮かす力で押し上げられていたのだと気がつくようなもので、そこから感謝の念も生まれ、今まで世の中を冷たいものだと思っていたのが、冷たくないものだとわかってきて、心はのびのびとして自然の力が回復してくる。そして自然に健康になってくるのであります。 


「有難さ」に目覚める言葉

2025年02月09日 | 人生

夏目漱石は小説『草枕』のなかで「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」と書いている。人間には智の勝った人と、情に優った人がいるようだが、わたしはどちらかと言えば、知のまさったというか、情のうすい性質で、批判力が旺盛であり、この「他を裁く」性質をできるだけうすめ、優しい角の立たない人間になりたいというのがわたしの以前からの念願であった

下記は、少しでもよくなりたいとの思いで、尊敬する「生長の家」創始者、谷口雅春先生のたくさんの著作から抜き書きしたものだが、自分一人だけのものにしておくのも惜しい気がするので、これから少しづつここにアップしていきたいと思う。訪れてくださる方にとっても参考になるものがあれば、ありがたいと思う。

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遺伝が良くないといって失望するな。胎教を過(あやま)ったといって失望するな。人間はその最も深いところに実に根強く、神の子としての神性の遺伝をもっているのである。神性の根強い遺伝に比ぶれば、数代前十数代前位からの遺伝の力は太陽の前の星でしかないのである。このことを強く信ずる者は幸いなるかな。われらはこの「神性の遺伝」に敬礼し、感謝し、日夜この神性に対して讃嘆の声を雨降らさなくてはならないのである。 

○心の修養はやはり生涯の修行であって、常に柔らかく、温かい感情を持ち、誰にでも深切にし、常に楽しい嬉しい、悪いことは一つも考えないで、人を拝み、感謝する心を起こすようにしていますと、ますます表情がよくなるばかりです。 

○皆さんは自分というものを本当にもっと尊敬していただきたいのであります。自分は何しに生まれているのであるか、なんのために生きているのかという根本問題からもっと深く反省していただきたいのであります。皆さんは自分自身を尊び、自分のいのちを尊び、一分間でも自分のいのちを無駄にしないようにしなければならないのです。自分のいのちが地上に顕わされているその意義をありがたく思い、自分のいのちを尊敬して、たとい一分間の間といえども無駄に自身の生命を軽んずるということはいけないのです。一分間でも自分が向上することを考えなければならないのです。 (花嫁学校の生徒への講話から)                          

○毎朝、顔を洗って「顔を洗った、ああ、ありがたい」と分かるのが悟りであります。空気を吸うた、ああ、ありがたいと感謝できるのが悟りであります。

○われわれの心が麻痺していませんでしたら、いつも顔を洗って嬉しい、いつも空気を吸って嬉しい、いつもご飯を食べて嬉しい、というように、ありがたさは天地の間に満ちているのです。このあたりまえのことに天地の恵みを自覚してありがたいと分かるのが悟りであります。 

○物質を物質として観るかぎり本当のありがたさは湧いてこないのであります。それはただ、化学方程式の世界であって、あるべきものがあるべきように動いているのですから、ありがたさは湧いてこないのです。ところが物質を見ても「物質は無い」と知り、そこに神仏の愛、兄弟の愛が現われているのであると知ると初めてありがたさが湧いてくるのであります。

 


「自死は何故いけないか?」について思う

2024年09月20日 | 人生

ある人のブログの「『人生案内』なぜ自死はいけないのか」と題する記事を読ませてもらった。
それによると、読売新聞に次のような投稿があったらしい。

「自殺はよいことか悪いことかと問われれば、もちろん悪いこと、ただ自死を考える人はものすごく悩んで生きるのがしんどくなってその道を選択してしまっているのではないでしょうか、なぜ自死はいけないことなのか教えていただきたいです」(50代前半 パート女性)

 

以前にもこのブログで書かせてもらったことだが、当時福島大学で「経営学」の教授をしておられた飯田史彦さんの話によると、学校で先生が子供たちに「いじめは駄目ですよ」「自殺はいけませんよ」というと、子供たちは素直な気持ちで「どうして?」と聞いてくるらしい。そして、その「どうして?」に対して、先生たちも答えることができないらしく、飯田史彦さんに、答えられるように何か参考になる本を書いて欲しいと多くの要望が寄せられたとのことだった。そして出版されたのが「親が子に語る人生論」と題する本だった。その後たしか題名が変わっていたと思う。(わたしは3度読ませてもらいました)

 

悲しいことに、わたしはいまだかつてマスコミに登場する著名人も、あるいは他の誰であっても「なぜ自殺はいけないのか」その理由を語っているのを耳にしたことはただの一度もない。口では「いけない」と言いながら、その理由について語らないのは、「人間は死ねばおしまい」と思っているからに違いない。「死ねばおしまい」なら、「死ねば、それとともに苦しみも消える」わけだから、「自殺はいけない」という理由もみつからない。だから、その理由を語ることもできないということになる。そのくせ、多くの人が「自殺はいけない」と言うのは、口では「死んだらおしまい」と言いつつ、心のどこかに、「死んでもおしまいではない」という思いがあるからだろうと私は思う。

 

さて、それはともかくとして、私の大好きな本『神との対話』という本に書かれていたことだが、人間は「善」とか「悪」とかについてのこだわりが強い。そしてその為に人類は多くの争いを起こしているとのこと。
そして、それに対する神の処方箋は何かというと、善悪で物事を考えるのではなく、「自分が目指している方向に照らし合わせて、そう考えることは役に立つか、役に立たないか」、つまり「善悪」ではなく、「役に立つか」「役に立たないか」で考えることを提案していた。

 

それでいくと、いろいろ原因があるにしても、自殺は今の苦しみから逃れたいという願望から自殺という考えが浮かぶと思うのだが、しかし、「楽になる」ことを目指して自殺するというのは、どうやらあまり役に立たないらしい。楽になるどころか、むしろ反対に、死んだ後、「とんでもないことをしてしまった」という強烈な後悔と、人前に出ることもできない恥ずかしさから、文字通り「穴があったら入りたい」心境で、自ら真暗闇の中に閉じこもり、長い間、後悔の念で苦しむらしい。

だから、自殺は「いけない」というよりも「役に立たない」というのが正解のようだ。

 

もし、自殺願望のある人、あるいは自殺願望なくとも、死んだ後どうなるかについて興味ある人は、飯田史彦著『生き甲斐の創造Ⅱ』を読まれることをお勧めしたいと思う。

 

此の本の中に、失恋して発作的に自殺してしまった青年が、是非とも父母にメッセージを伝えてほしいと飯田史彦に依頼してきたこと、そして父母と自殺した青年との幽明を境にした会話が詳しく書かれているし、もう一つは自殺した夫が、自殺してしまったことをひたすら奥さんに謝りたくて飯田史彦にメッセージを頼んできた夫のこと、そして残された奥さんとの会話が詳しく紹介されていて、どちらも涙なしでは読めない感動があるし、とても興味深いものがあります。
感動的というと誤解を与えそうですが、それは苦しみを乗り越えた後の話であることをお断りしておきます。

 

 ちなみに飯田史彦は「魂のメッセンジャー」として若い頃から、無料で自殺した魂から頼まれるままに全国に出向いておられ、そんなことが10年前で100回を超えると書いておられた。40代半ばごろまで福島大学で「経営学」の教授をしておられましたが、今は大学教授を辞してフリーで活躍されている。

以前に書いた記事ですが、よろしければお読みください。

描いた夢は破れても・・・ - 気の向くままに (goo.ne.jp)