気の向くままに

山、花、人生を讃える

8月の終わりに思う

2020年08月29日 | 人生

8月も終わりに近づいている。
コロナと猛暑続きで、出かけるといえば、散歩か買い物位のもので、7月、8月はほとんど家の中に閉じこもりの2ヶ月だった。そんな季節も、いよいよ「終わり」と思うとちょっぴり寂しい。

 

新型コロナのお蔭でいろんな行事が中止になり、定年後がこんなに忙しいとは思わなかったと愚痴りたくなるぐらいだったが、コロナのお蔭で随分のんびりさせてもらい、良い休養になった。

 

そして4月頃から絵を中心にしたブログを訪問させてもらっているうちに、絵を描く楽しみみたいなものが伝わって来て、ちょうど気持ちに余裕もあったせいか、急に描きたいという気持ちが湧いてきた。

 

そして、まるで「才能なし」と思っていた自分が、「おっ、案外いけるじゃないか」ということで、何か書くたびに嬉しくなり、この夏は良いことを覚えたと喜んでいる次第です。

 

下は季節外れですが、先日動画を見ながら描いたトマトです。こんな絵でも描いている間は暑さも忘れてしまうほどです。

           

         

 

話は変わりますが、
毎日5時ごろに起きて瞑想の後、30分ほど散歩しますが、家内も同じく瞑想し後、近くの畑に出かけます。
今日はそのおばあちゃんを取材しようとカメラを持って出かけました。
下がその写真です。

       

     おお、ミレーの「落穂拾い」にも似たるこの神々しい姿! (笑)

    

    ≪収穫した茄子をもって≫

     

       

     おお、何よりも美しいモナ・リザの微笑み!

     そして、わが永遠のマドンナ (笑)   (今日はあなたが主役です)

     暑い中、毎日おいしい食事をありがとう。

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「変化」の奥にあって「変化しないもの」

2020年08月27日 | 信仰

下の絵は、ちょっと失敗作だが、左はアオムシで、右はアゲハ蝶である。

    

絵は、アオムシが蛹を経て蝶へと「変化」することを現わしている。(中間の蛹は省略)

 

アオムシが蝶へと変化することは誰でも知っていることだが、では、その変化の奥に、「変化しないものがある」ということに気付いておられるだろうか。

 

木の枝を這いずっていたアオムシが、花から花へと飛ぶ蝶へと変化する。
この様に外見はまったく違ったものになりながら、その奥には変化しないものがある。

 

もし、「変化」の奥に「変化しないもの」がなかったら、それは或るものが消え、別のものが現われたのであって、その場合には、「変化」したとは言わない。変化と言うからには、変化の奥に変化しないものがなければならないのである。

 

さて、次は人間が「オギャア」と生れた赤ちゃんから、次第に成長して成人となり、やがて老人になる人間の一生を現わしている。

  

生理学では、人間の全身の細胞は、説にもよるが15年もしたらすべての細胞が入れ替わると言われる。生まれたばかりの赤ちゃんのときと、青年や老人の時とは、まるで見た目も細胞もすっかり入れ替わってしまっている。

 

この場合も、肉体の変化の奥に、「変化しないもの」がある。
だから、15歳のときに借金した自分と、今の自分とは肉体的には全然別だから、「俺は知らないよ」と言ってもそれは通用しない。

 

これが、人間は肉体ではないということの証拠であり、肉体は地球上で生活するための「宇宙服」と言われる所以なのだが、うべなるかなと思う。

 

今生では男だった自分が、次には女となって生まれてくるかもしれない。このように、男から女へと変化しても、やはり私は私であって、男として生きていた時も、女として生きているときも、同一人物と言わなければならない。

 

では心はどうか。
心も、精神状態も肉体の新陳代謝と同じく常に変化している。精神的な成長もあるし、性格も、とんがっていた性格が円満になったりもする。恨んでいた心が、感謝の心に変わったりすることは信仰の世界では珍しいことではない。

 

朝顔の花なら、種を割って調べても、その花の形はどこにもないが、しかし、朝顔の種は必ず朝顔の花を開くのであってバラの花にはならない。種の中には、三次元を超えた世界に既に朝顔の花が備わっているから、地に植えれば、時間の経過と共に双葉が出、茎が伸び、花芽が出、蕾となり、やがて花が開くように、人間も色々な経過をたどりながら、その人本来に備わっている美しい花を開かす時が来るのだろう。この様なことを人間は無意識のうちにも知っているから、人生の意義を見出そうとしたり、努力したりもするのではないか。

いずれにしても、変化する外見の奥に、変化を超えた、変わらざる「私なるもの」がいて、それが「本当の自分」なのだろうと思う。

 

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コロナ禍がもたらした良いこと②

2020年08月23日 | 地球温暖化について

今月初旬に「コロナ禍がもたらした良い点」なる記事を書いたが、コロナ禍は、それとは別の面でも良いことをもたらしているようだ。以下は、5月22日付のニューヨークタイムズに書かれていた記事とのこと

 

それによれば、アメリカのトランプ大統領が、食肉産業はアメリカ文化にとって大変重要だから、いろんな産業の中で食肉産業だけは営業を続けて宜しいと判断した。ところが、ある食肉工場で新型コロナウイルスの感染が拡大して、死者まで出たので、しばらく営業指し止めになった。そして肉が品薄になり、肉の値段が上がった。その影響から、それまで高かった植物性の代替え肉が相対的に安くなり、その消費がコロナ禍以前より35%も増加し、「味もあんまり変わらない」と言うことがわかって来て、その後も徐々に代替え肉の消費が増えてきているとのこと。これも人類にとっての朗報の一つであると思う。

 

肉の消費量の増加と地球温暖化の関係は既に多くの科学者が指摘している所だが、新型コロナの感染についても、人類が自然を破壊しながら、野生動物の世界に入り込み過ぎていることの影響が指摘されている。

 

感染症が人間へと感染する経路について、ある科学者は次の3つの経路を挙げている。

一つは、野生動物の肉を食べること。

一つは、感染動物が食べた果実や野菜を食べること。つまりネズミやコウモリが食べた後の、まだ尿とかがついているようなものを人間が食したとき。

一つは、ジャングルに近接した農場、つまりジャングルを切り開いて家畜の牧場にした場合など、野生動物から家畜、そして人間へと感染する経路。

 

以上3つの経路によって新しい感染症がおこっていると述べている。

 

日本に住むわれわれには関係のないことのようにも思えるが、誰に限らず一人一人が少しづつでも肉の消費量を減らしていかない限り、相変わらずジャングルは切り開かれ、温暖化に歯止めはかからず、何らかの新しい感染症が起きて来ることは覚悟しなければならないかもしれない。

 

だが、新型コロナ禍の影響で、植物性の代替え肉が少しづつでも世界の人たちに認められる様になっていくなら、それはきっとよいことに違いないと思う。

 

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おばあさんになったあなたを見られる幸せ

2020年08月22日 | 人生

この頃、ふと思い出す短歌があります。
それは3年ほど前に「ある夫婦の物語」と題して紹介させてもらった記事の中にある、

 

   おばあさんになったあなたを見たかった  庭にちひさくまどろむような

 

という歌です。

 

これはある男の奥さんが乳癌で他界し、一人になったその男が、その後、奥さんを偲んで作った歌なのだが、この頃ふとした拍子にこの歌が思い出される。

 

家内は私より2つ年上で、2年前に肺がんがみつかって手術し、その後の経過は順調だが、以前のような元気さはなくなり、早く歩くと多少息苦しさを感じたりするようだ。そして、もともと痩せていたのがさらにやせた感じで、長い時間、椅子に腰かけているとお尻が痛くるらしいのである。

 

そんなことを聞いたり、痩せ細った姿を見たりしていると、ときどき、ふと「老いたな」との感じを受ける。そしてこの歌が思い出され、何となく愛しいような気持ちが湧いてきて、これまでのことや、若かった頃の家内の姿が思い出され、それと同時に、歌にあるように「庭に小さくまどろむような」おばあさんになるまで、そばで見ていられるということは、本当に幸せなことなんだなということを感じたりするのである。

 

家内の方は、次に生まれ変わって結婚するなら、もっと優しくていい男と結婚しようなどと考えているかもしれない。
しかし、わたしはそれで全然かまわないと思っている。

とにかく、庭に小さくまどろむような、老いた家内を見られるのは、それはとても幸せなことなのだと思う。

 

≪追記≫

ある夫婦の物語」は、NHK「平成万葉集」の3部作の内、「男と女」というサブタイトルの中で紹介された感動的な話です。興味を覚えられ方は是非読んでみて下さい。

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ホットか、アイスか

2020年08月19日 | その他

昨日は久しぶりに、今季初めてコーヒーをアイスで飲みました。
若い頃は夏になればアイスと決まっていましたが、何時頃からかは覚えていないが、たまにはアイスで飲むこともあるものの基本的には、私は夏でもホットで飲みます。

 

一般的には若い人はアイスコーヒーだが、シルバーになるに従ってホット派になるよう思う。
だからアイスで飲む人はまだ若いといっていいだろう。

 

わたしがアイスをあまり飲まなくなったのにはきっかけがあります。
それは『地球交響曲』という映画を作った龍村 仁さんが本の中でこんなことを書いていたのです。

 

中東方面の暑い砂漠の国へロケに行ったときのこと。車の中の温度が40度を超す様な熱い砂漠の中を長い時間かけて目的地に向かって走っていた。すると、一人の若いスタッフがその暑さに我慢しきれず、しきりに冷たい飲み物を飲む。滝村仁さんは注意するが、我慢できず、冷たい飲み物を飲んでは渇きを覚えるの繰り返し。そして目的地に着いたときには、その若いスタッフは、数日間、医者のお世話にならなければならなくなったというのである。そして、暑い砂漠の人たちは、冷たい紅茶ではなく、熱い紅茶を飲むのだということを紹介していました。

 

私はこれを読んで、妙に納得するところがあった。というのは、それ以前の若い頃、誰にも覚えのあることだと思いますが、暑い季節になると喉の渇きを覚えて冷たいものを飲みたくなる。おいしいからまた飲みたくなる。その繰り返しで食欲がなくなるのを経験的に知っていた。だから、「砂漠の人たちは、熱い紅茶を飲む」というところに、妙に感心させられたのでした。それで私も見習うようになり、全然飲まないわけではないが、基本的には熱いコーヒーを飲むようになったというわけです。そうすると、年齢の影響もあるかと思うが、確かにのどの渇きは起こらなくなりました。そして私はやはりコーヒーは熱いほうがうまいと思う。ちなみに砂糖は使いません。

 

さて、話は変わりますが、下の絵は昨日描いたもので、やはり動画で講師が30分程度の時間で解説しながら描いていくのを見て、「ああ、いい絵だなあ」というわけで、自分も描いてみたくなり、講師が描いていた手順を思い出しながら真似して描いたもの。

 

所要時間は1時間で、このような絵が1時間程度で描けてしまうのだから、今までの私からすれば、かなりいい加減の描き方に思える。しかし、それでいて早朝の穏やかな田園風景の感じがでているのだから、やはり我流ではなく、上手の真似をするに限ると思いました。空の朝焼けの感じが、ぼかしによってうまく出た初めての作品です。
ちなみに、手前の花はアヤメですが、これでもいいんでしょうね。先生がこんなふうに書いていましたから。

      

私は朝起きると瞑想しますが、瞑想と言っても無念無想ではなく、神と一体であるということを念ずるのですが、今日は、この穏やかな早朝の田園風景が雑念で脳裏に浮かんできました。雑念ながらすがすがしく、いかにも平和ないい気持ちでしたよ。

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練習作 ピーマン

2020年08月18日 | その他

毎日、超暑いですね。
これだけ暑い日が続くのもはじめてのような気がします。
テレビでは災害的な暑さと形容しているが、まさにそんな感じです。

 

日中は何回か冷たい水風呂に入ったりしながら、エアコンを使わず扇風機だけでしのいでいますが、8月の初めごろから夜間だけはエアコンのお世話になっています。夜になっても室内温度は30度を超えているので、睡眠不足にならない為にもエアコンのお世話にならずにはいられない、というわけで、エアコンの有難さを強く感じるこの頃です。ちなみに1日で一番暑いときの私の部屋の温度は34度位です。

 

で、毎日何をしているかと言うと、お絵かきです。(笑い)

始めは、絵の勉強する気はなく、ただ我流で好き勝手に描いて楽しむだけのつもりでしたが、描き始めると、少しは上達したくなって試しに「水彩画の描き方」で検索したら、なんと、その関連の動画がいっぱいあるんですね。

 

そして、絵の講師が実際に、例えば風景画などを解説しながらどのように描いていくかを見せてくれます。その筆さばきや、絵が仕上がっていく様子を見ていると、もう本当に魔法を見ているみたいで面白いわけです。そういうのが次から次へと出て来るから、もうテレビを見ているより面白い。

 

そして見ていて面白いものですから、自分でも書けそうなものなら、その筆さばきなど真似して描いてみたくなるんですね。そして実際に描いてみる分けですが、これが愉しくていくらでも時間が欲しい位。とは言っても、やはりそればかりに熱中していても飽きるので、適当に他のこともやりながら、この暑さの中、何とか生きています。

 

下の絵は、そういう動画を見ながら描いたもので、講師の筆さばきを真似て、こまごまと丁寧に書くのではなく、大ざっぱに、いい加減ともいえるような筆使いで描いたもの。そこそこに「それらしさ」が出ている気がして、自分では嬉しく思っています。ピーマンの白い部分は、塗った後、水で濡らしてそれをティッシュで吸い取って色落ちさせたのですが、これも教えられたひとつです。

            

 

 

             

 

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愉快である!

2020年08月09日 | その他

昨日、友達がたくさんのサザエを持って来てくれた。

 

今まで頂いたものをスケッチするようなことはなかったが、今のわたしは、これをスケッチしないわけにはいかない。
で、どの程度描けるかと疑心暗鬼でスケッチブックにまず描いてみた。すると、思ったよりよく描けた。

 

それで、気をよくして今度は絵手紙のつもりではがきに描いた。それが下の絵。

せっかく描いた絵なので、文もまじめな文章にした。

       

 

友達が、「あいつ、いつの間にこんな絵を描くようになった!」と、仰天するに違いない。

と、想像すると、また一段と楽しくなるから愉快である。

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孫に絵手紙

2020年08月08日 | その他

新型コレラ感染防止のため、息子家族が帰省できなくなった。
5月の連休も来れなかったので、孫は「今回は」と楽しみにしていたようだが、仕方がない。
ということで、さっそく「特技(笑)」を発揮することにした。

えっ、特技って何?

これですよ。(笑)

          

 

保育園に通う女の子がアンパンマンが好きだと聞いていたので、インターネットでイラストを検索し、これなら書けそうだというのを見て描いたものです。描いているうちに自分が風船をもって空に浮かんでいるような気持ちになりました。

 

毎日の猛暑と、コロナの影響で引きこもりの日々、本やテレビの合間に、こんな絵を描いていると暑さも忘れます。そして出来上がりを見ては「ほ~、なかなか良いではないか」と勝手に自画自賛もできる。

 

これで孫たちからも、「おじいちゃん、絵が上手でかしこいね~」と少しは見直してくれるかもと期待が膨らみます。
何せ、相手は孫ですから。

 

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「帰省しないほうがいい」と言った母親

2020年08月06日 | 人生

この時期、テレビでも報道されている様に盆の帰省をどうするかで、それぞれ悩ましいことと思いますが、我が家の東京にいる息子家族は帰省しないことになったそうで、私はほっとしているところです。

 

最初は家内が、東京にいる息子に帰省するかどうか電話するというので、私はそんな電話をすれば、暗に「おいで」と誘っているようなものだと思い、「まだ電話するのは早い」と反対したのですが、家内は黙って待っておれなかったようで、結局電話したのでした。すると息子もどうしようかと迷っていたとのこと。当然そうだろうと思いつつ、家内が余計な電話をするから、迷っていた息子が帰省する方向に気持ちが傾きはしないかと、私は心配していました。

 

すると、翌日の朝になって、家内が「やっぱり、来ないように電話する」とのこと。
家内が言うには「息子に判断させるのは気の毒」と思ったらしい。
わたしはそれを聞いて「なるほど、母親らしい考えだ」と思いました。

 

こうして、結局、息子家族は帰省しないことになってほっとしているのですが、家内が最初に電話してから次の朝まで、私は、もし帰省すると言い出したらどうしたものかと、あれこれ心配しながら考えていました。

 

しかし、心配しながらぐずぐずと考えていただけでしたが、家内のお蔭で、帰省しないことになり、「おお、さすがゴッド・マザー!偉大なる妻よ!」というわけで、めでたし、めでたしとなりました。

 

「老いては女房に従え」といいますが、もし、それが気に食わない方は、

「鰯の頭も何とか」と考えるのも、良いのではないでしょうか。(笑)

 

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コロナ禍がもたらした良い点

2020年08月04日 | 社会

新型コロナの感染がわれわれを脅かしているが、そのコロナ禍も一つ良いことがある。

 

中華人民共和国は第2次世界大戦後の1949年に建国された国で、私の誕生年と同じである。
この国を一般に中国と呼称されるが、正しくは戦後に、新たなイデオロギーをもって建国された国である。したがって興っては消えていった歴史上の国々と土地は同じ地理上にあっても、イデオロギーはまるで違う別の国なのである。中国と言うと、さも同じ一つの国が連綿と続いているような錯覚を覚えるが本当はそうではない、と言うのが私の感覚だ。

 

その意味で私は中華人民共和国のことを中国ではなく、中共といわせてもらうのだが、この国とアメリカはトランプ政権になって中共に批判的政策をとるようになり、貿易摩擦からさらに発展して、しきりに中共に対して矛を向けるようになった。それに歩調を合わせて、今までは親中政策をとって来たオーストラリアをはじめ、ヨーロッパ各国も中共に対して敵対的意見をはっきりモノ申すようになった。これはコロナ禍がもたらした良い点だといえるだろう。

 

これらの国々は、中共の市場が大きいからと、経済を優先して、チベットやウイグルにおける人権弾圧や、香港での人権抑圧に目を瞑り、口を閉じ、南シナ海、東シナ海における横暴に対しても我関せずで、ひたすら中共の機嫌を損ねないようにしていた。

 

ところが新型コロナの感染を早くから知りながら、それを公表せず国連のWHOまで金で味方につけ、隠していたことがわかってくると、経済的打撃の大きさ故に、各国は黙ってはおれなくなったのである。彼の国が、人から人へと感染することや、武漢の惨状を隠して公表しなかったために、武漢や中共各地からたくさんの人がヨーロッパへと移動し、一挙に感染が広がってしまった。最初に感染爆発したイタリア北部は中国からの移民が特に多いとのことだし、同様にスペイン、イラン、ニューヨークもこの国からの移民が多い。

 

つまり中共のだんまりのために、大きな経済的被害を受けたのである。こうして中共の信用はがた落ちとなった。

 

さらには確かめたわけではないから本当のところは知らないが、いろんなニュースに出ているから、まんざら出鱈目ではないと思って書かせてもらうのだが、だんまりを決め込んでいるうちに世界中からマスクを買い集め、それによって自分の国のコロナ感染を抑え、騒動が落ち着いたら、今度は救世主のような顔をしてマスクなどを贈っている。ところが粗悪品が多く突き返されたりして、こういうところからも信用を失っているようだ。

 

このようなわけで、ようやく世界はこの中共という国が、21世紀にふさわしくない、平和を脅かす国であることを知り始め、これまで中国様さまだったドイツそしてイギリスの首相、さらにフランス大統領もここへきてはっきりと中共批判するようになったのである。
そしてアメリカ大統領は「我々は手を繋いで中共に当たらなければならない」と呼びかけるまでになった。

 

子供のいじめも黙っていてはエスカレートするばかりで、これを止めようと思うなら、勇気を出して皆が声をあげるようにならなければならない。どこの国も経済を優先しすぎるから、却って困ることになることは歴史も教えてくれているのである。

 

そもそもの発端は、台湾が中華民国と言われていた頃は、中華民国は中国の正当政府だと世界から認められていた。ところが中共の毛沢東政府が力をつけ始めると、単に市場が大きいという損得計算から中華人民共和国との付き合いを優先し、世界も日本も、中華民国を捨てて、中華人民共和国を正当政府と認める選択をした、そこに間違いがあったのである。

 

他の国はともかく、道義を大切にする日本が、このような弱い者いじめのようなことをしてはしてはいけないのだ。大人がこんなことをするから、子供まで後に続けと見習い始めるのである。子供のいじめは、実は大人の問題なのである。

 

今日は少し重苦しい話になりましたが、最後に私が丹精こめて描き上げたトウモロコシ、どうぞ見て、食べた気になってください。
私などは見ているだけで涎が出そうになります。(笑)

    

実はブログに載せるのにこれではいけないと、もう一度書きなおしたが、あまりよくならなりませんでした。

 

 

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始めて描いた山の絵

2020年08月02日 | その他

ようやく梅雨が明け、いよいよ暑い暑い夏の始まりです。

私は夏と言えば、子供時代から40歳ごろまで毎年海へ行き、40を少し過ぎてからは山に魅せられ、夏になると小屋泊まりで山へ行くのが楽しみになりました。

 

しかし、その山も最近はめっきりご無沙汰で、特に小屋泊まりの登山は5年前の、上高地から憧れの涸沢カール(2300M)を目指したのが今のところ最後となっています。

 

下の絵は、その時の河童橋から穂高連峰を眺めた写真があり、それを見て描いたものです。

最初に描いたものは、近景の林がうまく描けず、いじればいじるほど悪くなるばかりだったので、この素晴らしい眺めをもう少し何とかしたいと思って再チャレンジして描いたものです。しかし、その再チャレンジも、陰影をつけてそれらしくしたいと思っても、さっぱりそれらしくなってくれず、御覧のとおりの結果となりました。

 

というわけで恥ずかしいような絵ですが、それでも、以前なら「こんな難しそうなもの、描けるはずがない」と、その意欲も湧かなかった筈で、それに比べれば、こんな絵でも「おお、やればやれるじゃないか」というぐらいのもので、大いに喜んでいる次第です。

                 

   

                     山の絵をはじめて描いた梅雨明けだ      

                                      小学生レベルですみません (笑)

 

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