気の向くままに

山、花、人生を讃える

,熱中症そして映画

2015年06月29日 | 映画

 23日から最高気温30度の中でのフルタイムの仕事が3日続き、さすがに3日目には疲労からか熱中症にかかってしまいました。昼休み前には汗だくで、はーはー、ぜぇーぜぇーと息も絶え絶えになり、昼のサイレンが鳴ると同時にしゃがみこんでしまった。「熱中症だ」なんていっていると、その家のばあさんが親切にも「これで冷やして下さい」と氷水で濡らしたおしぼりを二つ差し出してくれました。最初は、「いや大丈夫です」と遠慮したが、折角用意してくれたのだからと、遠慮なく顔から首筋を拭かしてもらったが、そのヒンヤリした気持ち良さに、まさに生き帰るような心地がしました。

 家に帰り、シャワーを浴び、食欲がないからお茶づけを流し込んで再び作業開始。なんとか最後まで持ちこたえてくれたのですが、とにかく終わってからも体がだるくて仕方がなく、その日は9時に寝てしまいました。熱中症のだるさと、お年寄りの優しさが身に染みた、忘れられない1日になりました。

 翌日も何となく身体がだるいので、映画でも見に行こうと思い、調べてみると「愛を積むひと」というのが佐藤浩一、樋口可南子主演で上映中とのこと。これなら面白そうだ、というのでそれを見に行きました。あらすじは書きませんが、とてもいい映画でした。

 一月ほど前には、「びりギャル」を見ました。これは落ちこぼれの女子高生が、塾へ行き、塾の講師の言葉に一念発起し、とうてい無理と思われた早稲田大学に(だったかな?)合格するという物語です。生長の家の「生命の教育」を物語にしたような映画で、これも面白くて、感動させられる映画でした。

 出来の良い映画はわたしは何度見ても飽きないのですが、「ジェネラルルージュの凱旋」や西田敏行の「ステキな金縛り」などはその典型例で何度か見ています。ストーリーが分っていても、役者の演技が楽しめるのです。上の二つも、暇があるなら映画館でもう一度見たいと思わせる映画であり、今からテレビ放映されるのが楽しみです。

 

昨日は我が家で誌友会があり、講師はこんな話をしてくれました。

「寝る前に、10分でもよいから、すべてにありがとうと感謝すると良い。そうすれば、寝ている間もその感謝の念が続く(傾向の心)。心の荷物を下ろして、感謝の念で満たして寝ること」

  すると、我が家にははじめて来てくれた派遣会社の社長をしているひとが、良い話が聞けたと喜んでいただけ、私もうれしいことでした。

 

 ≪キンポウゲ科 カラマツソウ≫

 

 


神の愛、そして父の日のプレゼント

2015年06月22日 | 信仰

20、21日と一泊見真会、そして21日の夜は出講。明日からは3日続きで剪定の仕事が入っています。暇なようでわたしもけっこう忙しくしていて有難いことです。

昨日の誌友会参加者は男5人、『神真理を告げ給う』の第五章をテキストに、ところどころを輪読しながら話を進めさせてもらいました。そして帰りの車の中では、良い話が出来たといい気持ちになって帰ってきました。

 

≪神は愛であり、神罰はない≫

○”わたし”は”愛”であるから、誰に対しても苦しみを与えるような神罰を課するように宣告を下したことはないのである。

「神は神罰を下さない」というのは、生長の家では当たり前のようになっていますが、これはとても大切なところで、こういう考えがあると、自分自身を責めたり裁いたり罰したくなったり、また他をも罰したくなったりするわけですから、当たり前のように聞き流していてはいけないところだと思います。神が神罰を下すという誤った信仰が、人間の「悪い奴は罰しなければならい」という考えになり、暴力を肯定するようになるんですね。それが度を超し、集団的になってきた時、テロや宗教戦争へと発展するんですね。

以前、ある会場ではじめて生長の家の誌友会に来られた方がいて、その人は宗教は大嫌いだが、友達に誘われたので仕方なく付いてきたということでしたが、その人が、わたしに「世界の歴史を見ると、いろんな時代に宗教戦争というものがあるが、それについてどう思うか」と質問されたことがあったのですが、宗教戦争は「神は罰するものだ」という考えが原因なんですね。しかし、それは神に対する間違った信仰であって、神はただ愛する。無条件に愛するというのが、神様の愛なんですね。

たとえばわたしが友達に2回、3回と忠告して、相手がその忠告をきいてくれなかったとしたら、わたしなら「あんな奴はもう知らん、ほっとけ」となりますが、神様はそうじゃないないんです。わたしたちが神様の「こうすると素晴らしくなれるよ」という教えをいくら無視しても、神様は「あんな奴はもう知らん」などとは思わない。人間でも、良い母親なら、いくら子供が不良に走っても、その子供をみ捨てるどころか、ますます愛せずにはいられない。人間の母親でさえそうなら、神様の愛ならもっと深く大きいはずで、そのことを親鸞聖人は「大悲倦くことなく我を照らす」と言われたそうで、私の好きな言葉の一つになっています。

≪泥中に咲く蓮華≫

○泥中にある蓮が、時来れば、美しき葉茎(ようけい)を水上にあらわし、宇宙の実相をあらわす蓮華荘厳の姿の花を開くのである。これが神の御業である。すべての人間はみな荘厳なる神の子の実相の花を開かす時が来るのである。あなた達よ、恐れず、憂えず、悲しまずに進み行け、必ず神の御業があらわれる。そしてその神の御業は、あなた達の実相の中に既にあるのである。

そろそろ蓮の花が咲く季節になってきましたが、ここは、とても美しく感銘させられるところですね。谷口雅春先生の『実相研鑽』という本がありますが、その中に、「宗教体験を得るいろいろな道程」という小見出しがあり、そこにも感銘させられることが書かれているので紹介させてもらいます。

そこには、まず釈迦やキリストが一生懸命修行をして悟りを開いたことを典型的な宗教体験として話され、その次に、パウロは何も修行せず、反対にキリストの伝道の邪魔ばかりしていたこと、また、スター・デーリーも修行どころか強盗犯だったこと、それにもかかわらず、パウロも、スター・デーリーもキリストの幻を見て、いっぺんに心が転向して、キリストの福音を述べ伝える者になったことを述べられ、春に咲く花もあれば、夏に咲く花もあるという具合で、それぞれに花咲く時期があり、そして各人のそれぞれの神の子なる実相が花開く時期が来たら、修行も何もしないでも、パッと宗教的体験を得るのだと書かれていました。そして、わたしが感銘したのは、その次に書かれていることでした。

○われわれの天分が熟してきたら、われわれは、本来神の子なんですから、自然と宗教的体験を得るわけでありますが、それまではそこへ到達するための過程として準備的にわれわれが日常生活中で何かさせられているのであります。結局われわれは自分が生きているようですけれども、本当は日々の日常生活の中で神様に導かれ生かされているのであります。この日々の生活の中のあらゆる大小の体験は、普通は宗教的体験と認められないけれども、日常生活そのものの中に自分の内部に宿る神性仏性が顕れてくる尊い道程――道すがら――みたいなものがあるわけです。

ですから、私たちが失敗したり、落ち込んだりするようなことがあっても、そういう日常体験の中に、「自分の内部に宿る神性仏性が顕れてくる尊い道程――道すがら――があるわけです」ね。だから、「恐れず、憂えず、悲しまずに進み行け、必ず神の御業があらわれる。」と示されているわけです。

 

とまあ、こんな話をさせてもらいました。さも自分が知っているように話していますが、断るまでもなく、みんな本で読んだ知識ばかりで、話しながら、自分が教えられているような有難い気持ちになり、その一部をここに書いておこうという気持ちになったしだいです。書きながら、また神の愛に包まれているような気持になってきました。

 

さて、話は変わりますが、今朝、家内が「これ、タカシ君からの父の日のプレゼントだって」と言って、テーブルの上の小さな包みを指差しました。それを手に取って見ていると、目がうるうるしてきて、こんなことで目がうるうるとは自分も年をとったと思いました。以前ならプレゼントのその包みを開いて、すぐに何が入っているのか見るのですが、今回は恋人からのプレゼントでもあるように、まだ開かないでいる。息子は今34歳。来年6月に結婚予定。まだ早いが、おめでとう!

                             息子からのプレゼント

            


伊吹山

2015年06月10日 | 

6月7日の日曜日、久し振りに伊吹山に登った。伊吹山は50回近く登っているが、そのほとんどは林道を通って三合目まで車で行き、そこから歩いて山頂まで2時間という手軽さだった。しかし、その林道が一般車は通行できなくなり、登山口から歩いて登らなければならなくなり、コースタイムは4時間とそれまでの倍の時間がかかるというので、つい遠ざかってしまっていた。

 そして、今回は6年ぶりの伊吹山登山ということになるが、「ああ、この風景、この風、この匂い」という感じで実に懐かしかった。この時期に伊吹山に登れば必ず聞こえるのが、ホトトギスとカッコ―の囀り・・・。そして、この時期に咲く花たち。懐かしい再会だった。

 そして驚いたのが、その賑わい。梅雨入り前の日曜日ということもあるだろうが、それにしてもこの時期にこれほど大勢の登山者がいるとは予想しなかった。しかも、若い人が多かった。人気のない静かな山もいいが、登山者が多ければ、それはそれで活気があって楽しい。

 ただ、今回はあいにく7,8合目あたりからガスがかかり、山頂付近はときおり数メートル先も見えないぐらい濃いガスに包まれ、肌寒く、山頂であまりのんびりできなかった。そして山々の展望はまた次回の楽しみということにあいなった。

 

クサタチバナ (ガガイモ科) 

 

ヤマカラシ (黄色い花)

 

イブキシモツケ (白い花)

 

 

 

8合目から見た登山道

 

行き交う登山者たち

 

ファッショナブルな山ガール(右端)。とても絵になっていました。

 

キバナハタザオ

 

琵琶湖と竹生島(ちくぶじま) 2合目付近