気の向くままに

山、花、人生を讃える

我が家の風物詩?

2020年01月29日 | その他

今日の名古屋の最低気温は10度で予想最高気温は14度。
「春まじか」というより、もう春が来ているような陽気である。

 

此の暖冬のせいか、金柑が例年以上に粒が大きく豊作である。そして初めて金柑ジャムを作ってみた。
ネットで調べたレシピによれば、金柑260gに対して砂糖130gとあったが、こんなに砂糖を使うのかと思い、100gに減らしたが、それでもなお甘すぎるぐらいに甘かった。

 

これでは甘すぎると思ったが、パンにつけて食べてみるとその甘さも案外気にならず、おいしく食べれたので安心した。しかし、次に作るときはもう少し砂糖を減らそうと思った。

 

去年、私の友達がハッサクの皮で砂糖漬けを作って試食させてくれたが、それがなかなかうまかった。そして友がこんなことをするのかとその意外さに感心し、自分も何かつくってみたくなって去年初めて金柑の砂糖漬けを作った。

 

そして今年、剪定に行った先のお宅からたくさんの柚子を頂き、家内が柚子のジャムを作ってくれた。その柚子ジャムがなくなったので、今度は自分が金柑ジャムを作ってみようと思ったわけだが、去年までは、自分がこのようにジャムを作るとは想像もしなかったことである。料理というほどのこともないのだろうが、この自分がジャムを作れるようになったと思うと嬉しいものである。

 

金柑は家内が誰かから頂いてそれを植えたものだが、毎年隣家の人が欲しいというのであげていたが、わが家で食べることはなかった。沢山あげても、まだ沢山実をつけているので、これから毎年ジャムを作ってみようと思う。例年の行事になったら、我が家の風物詩になるかもしれない。そんなことを想像していると思わず顔がにんまりしてくる。

 

早くも咲き始めた椿

 

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人は「瓦か、ダイヤモンドか?」

2020年01月22日 | 人生

私の好きな話に、こんな話があります。

 

ある寺の小僧が毎日熱心に仏さまを拝んでいました。

そんなある日。お師匠さんがその小僧に聞きました。

 

お師匠さん:毎日熱心に仏を拝んで感心なことだが、それはどうしてかな?

小僧:ハイお師匠様、わたしは悟りを開いて仏になりたいと思っているのです。それでこうして毎日仏さまを拝んでいるのです。

 

と、小僧は答えました。

それを聞いたお師匠さんは何も言わず、黙ってその場を立ち去りました。

 

それから、しばらくした或る日のこと、今度はお師匠さんが一生懸命に瓦を磨いていました。

それを見かけた小僧が、お師匠さんに聞きました。

 

小僧:お師匠様、瓦を磨いてどうされるんですか?

お師匠:うん、実はな、瓦も磨けばダイヤモンドになるんじゃないかかなと思っての、こうやって磨いておるんじゃよ。

 

お師匠さんがこう答えると、小僧はつい可笑しくなって言いました。

小僧:お師匠様、瓦をいくら磨いたって、瓦は瓦ですよ。ダイヤモンドにはなりません。

 

そう答えた瞬間、小僧はハッと気づいたそうです。

自分は今まで凡夫が修行して仏になると思っていたが、そうではなく、初めから仏であるものが、仏であることに気づくのだ、と。

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どこから生まれて来たか?③

2020年01月19日 | 人生

今から100年ぐらい前、つまり1905年、そして1915年に、アインシュタインによってそれぞれ特殊相対性理論、一般相対性理論が発表された。それと並行するように、その頃から原子の構造が解明され、ミクロの物質、つまり素粒子の振る舞いなどの研究が進み、量子力学と言われる新しい物理学が誕生した。その相対性理論と量子力学、この2つによって、今では宇宙がどのように造られてきたかということが、随分わかるようになってきた。

 

そして驚かされるのは、小はミクロの物質から、大は天体まで、それらの生成や運動が数学的秩序の上に成り立っていて、その運動は方程式で現わされるということである。

 

そのために――まだ多くの謎があるが――ともかく、それらの運動に関する方程式をコンピュータに入力することで、どのように宇宙ができてきたかをシミュレーションすることができ、私たちはその宇宙生成過程の一部を映像で見ることができるぐらいになっている。

 

宇宙の生成過程に数学的秩序があるなら、宇宙が偶然にできたとは考えにくい。偶然の産物ではなく、その背後に、眼に見えない智慧が働いていて、その智慧によって生成過程が導かれ、原子、素粒子、あるいは天体等の動きが統制されている、そう考えても決して突飛とは言えないだろう。 (そこに智慧があるということは、そこに生命があるともいえる) 多くの研究者たちは、その美しいほどの数学的秩序に感動し、神秘を感じているらしい。あるいは偉大なる生命を感じているかもしれない。だからこそ、知れば知るほど奥深いものを感じ、興味が尽きないのではないか。

 

さて、人間には黒人、白人、その中間の黄色人種と言われるものがあるが、皮膚の色は違っても人体の構造は同じであるから、その設計者は同じといえるだろう。

 

人体を構成しているその材料(窒素、炭素、カルシウムなど)は、星の中でつくられ、星が寿命をむかえて爆発し宇宙に飛び散り、それがやがて人体をつくりだす源になっているから、「人間は星のカケラでできている」とか「星から生まれた」とか言われる。

 

そして夫婦の和合により精子が卵子に到達すると細胞が分裂増殖しはじめる。しかし、それだけでは人間はできない。「人間なるもの」の設計が必要であり、その設計(智慧)に従って、ただ単に同列一様に細胞が分裂増殖するのではなく、手となり、足となり、内臓各器官の臓器となって配置されなければならない。このように智慧(つまり生命)が天下ってそれに導かれることがなければ、人体なるものは誕生しない。人体を誕生せしめたものは智慧ある生命であり、その智慧ある生命が人間であり、人体は地球という天体で生活するための宇宙服と言えるのではないだろうか。

 

つまり人間は、色々な言い方が出来るが、要するに宇宙を誕生させた智慧ある生命と同質であり、生命から誕生した生命である、といえるのではないだろうか。

 

たとえば、「私の身体」という言葉は、所有格を意味する言葉で、「私なるもの」と「身体」とは別であることを示しており、「私なるもの」が身体から去れば、その身体を「抜けがら」とか「亡きがら」とか言うことを思えば、「なるほど」と頷けるのではないかと思う。

 

その智慧ある生命を、尊きもの、神聖なるもの、素晴らしいもの、とかいうのではないだろうか。

であればこそ、それに反することをすれば気が咎めるのであり(本来の自分ではないから)、反対に他に親切をした時とか、何かよいことをした時に嬉しくなったりするのは、それが本来の自分であるからだろろう。

 

インターネットで調べた記事の中には、「自分らしく生きること」とあったが、その「自分らしく」とは具体的に何かは書かれてなかったが、つきつめれば、多分、上に書いたようなことになるのではないだろうか。

 

以上は、本で読んだ受け売りですが、いじめが少しでもなくなることを願いつつ書かせてもらいました。

最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。

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どこから生まれて来たか?②

2020年01月17日 | 人生

前の記事で「どこから生まれて来たか?」と題して書きはじめたのですが、あとで「しまった!」と後悔しました。

 

実は相変わらず子供たちの「いじめ問題」がニュースの話題になったりするので「どうしてこんなことになるのか」と気になっていて、先日、今の子供たちはどんなことを思ったり考えたりしているのかと、インターネットで参考になる記事はないか調べてみる気になりました。

 

そして最初に読んだ記事に、子供の成長に大切なことは「自己肯定感である」ということ、そして日本の子供たちはアンケートの調査結果によれば、他の国に比べて「自己肯定感」がいちじるしく低いということが書かれていました。

 

わたしは経験上、そして自分の得た知識からも、この考えに大いに賛成でした。そしてこの自己肯定感をもつためには、「人間はどこから生まれて来たのか」ということを知ることがとても大切だと思ったのでした。

 

何故なら、私は若い頃、「生まれて来たくて生まれて来たんじゃない。親が変なことをするから生まれたくもないのに生まれて来たんだ」などと、自分が堕落したのは自分の責任じゃないと言い訳するように漠然とそんなことを思ったりしていたものでした。

 

自分の日々が順調な時はそんなことは思わないと思いますが、「面白くない」と感じるようになると、若い年頃にはそんなふうに考えやすいのではと思います。そして、その上に何かのマイナス要因が重なったりすると自暴自棄になったり、何か悪さをしてウサ晴らしに走ったりするのではないかと思います。

 

そんなことから、自己肯定感がもてるようにと「どこから生まれて来たか」について、自分の学んだことを書きたくなったわけですが、「しまった。分に過ぎたことを書き始めた」と後悔し、この話の続きはなしにしようと思っていました。

 

ところが、自分の記事の「アピールチャンス」が来たとき、思い切ってクリックすると、自分が思っていた以上の反響があり、「この問題については多くの人に関心のある事なんだ」とあらためて思い、そしてまた嬉しくなり、「続きを希望」に後押しされて、もう少し書いてみる気になった次第です。

 

さて、人間は母親の子宮を通ってこの世に誕生しているが、かといって母親が製造元ではないことは確かだろうと思います。母親が製造元なら、男の子が欲しいと思えば男の子が生めるし、女の子が欲しいと思えば女の子が生める。が、実際にはなかかなか思うようにはいかない。また、これ以上子供はいらないと思っても生まれるようですし、反対にどれほど欲しいと願っても生まれないこともあるのを見れば、父親・母親が子供をこしらえたのではないことは明らかだと思います。

 

禅宗の『無門関』という本の第8則に次のような話があります。

 

月庵(げったん)和尚が、弟子の修行僧たちに次のような質問をした。

≪問≫奚仲(けいちゅう)という人が車を発明して100輻造った。ところがせっかく造った車を何を思ったのか、両方の車輪を取り去り、車軸を外し、ばらばらにしてしまった。そして首をかしげて考え込んでいる。さて、契沖は一体何を明らかにしたかったのか、答えて見よ。・・・というのでした。

 

これは、「果たして、車はどこにあるのか?」という問題なんだそうですが、「車はどこから生まれて来たか」と置き換えてもいいと思います。

 

そして、車は先ず最初に奚仲(けいちゅう)という人の心の中に描かれ、そして心に描かれた設計に従って、部品が集められ、車が作られた。つまり車は「契沖の心の中にある」。そして車の本質は何かと言えば、眼に見える形ではなく、「わっばがあり、それが回転して、前進するもの」そのアイディアが「車なるもの」であり、車の本質であると・・・。形あるものはいつか壊れるが、心の中にあるアイディア、「車なるもの」は毀れることがないから、色々形を変えては、新しい車が出現する(進化)。

 

人間がこしらえたものはこのように、車も、飛行機も、船も、汽車も、ラジオも、テレビも、携帯電話も、ありとあらゆるものは、まず最初に人間の心の中に描かれものであり、そしてそれがやがて眼に見える形となってあらわれて来た。

 

では、それらを作った人間はどこから生まれて来たかという話になるわけですが、本当に、人間は親のセックスによって、生まれたくもないのに偶然に生まれてきたのだろうか。もし、本当にそうであるなら、悪いことをしてはいけないという根拠、立派な人になりなさいというような根拠はどこから生じて来るのだろうか。

 

偶然に生まれ、やがて死んで何もなくなるのが人間であるなら、何故、多くの人の心の中に、利己主義者になってはいけないとか、威張り散らかす様な人間になってはいけないとか、そして、やさしい人間になりたいとかの欲求が内部から涌いてきたりするのだろうか。

 

そんな問いに答えることができなければ、もし、子供たちから、「いじめはなぜいけないの?」「自殺は何故いけないの?」ときかれても、答えることができない。そして、そこにいじめの問題が改善できない要因があるのではないかと、そんな気がしています。

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どこから生まれて来たか?

2020年01月14日 | 人生

今年は東京オリンピックが開催される年ですが、前回、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの時の話として、次のような話を思い出します。それは私が21歳の時(昭和45年)初めて生長の家の練成会に参加したときに聞いたのですが、講師がこんな話をしました。

 

それはホテルに泊まった或る外国人のこと。多分アフリカの人だったと思いますが、彼は水道の蛇口をひねると水が出ることに驚き、「こんな便利なものがあるならぜひ国に持って帰りたい」、そう思ってフロントに行き、「あれをお土産に持って帰りたいが、とこに行けば買えるのか?」聞いたという話です。

 

ウソか冗談のような話ですが、その講師は「わたしかフロントをしていた人から直接聞いた話ですから、本当の話ですよ!」と話していて、それが今も鮮明にわたしの記憶に残っています。

 

さて、この講師がなぜこんな話を持ち出したかということですが、それは、「水道の水は果たして蛇口から生まれてきたのか?」という問いかけであり、それは同時に「人間は果たして母親の子宮から生まれて来たのか?」という問いかけであり、さらには「人間はどこから生まれて来たか?」の問いかけでもありました。

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「地球温暖化懐疑論」について思ったこと

2020年01月09日 | 地球温暖化について

あるブログに「二酸化炭素による温暖化」説を否定するような記事が出ていた。そのブロガーは誠実に物事を考える人で、いい加減なことを言う人でないので、一体どんな根拠があって温暖化を否定するのかと不思議に思った。

 

それで、温暖化に否定的な科学者はどんなことを言っているのかと、とりあえずインタ~ネットで調べてみる気になった。するとウイキペディアに「地球温暖化に対する懐疑論」というページが出て来ました。それには色々な項目にわたって懐疑論者の意見と、それに対する肯定論者の意見が述べられていました。

 

そして、それを読んでの私の感想は、確かに温暖化説を肯定するハッキリとした根拠はないと言えるかもしれない。だが、かといって温暖化を否定する確実な根拠もないと感じました。要は得たところのデーターをどう解析・分析するかによって肯定と否定派とがわかれるような気がしました。つまり、どちらの説が有力であるか、それぞれの判断のように私には思われました。

 

例えば、そのブログの中には温暖化を否定する根拠の一つとして、南極の氷が減るどころか増えていることが挙げられていましたが、ウイキペディアの記事の中には、その説に対して、「部分的に増えているところもあるが、南極全体では減少している」と反論されています。見たわけではないので、どちらの説を信じるかはそれぞれですね。

 

また、そのブログは地球寒冷期説を信じておられるようでしたが、これについては、私が尊敬する探検家の西丸震哉という人が(今は故人)、15年ほど前に出版された本の中で書いていたことを思い出します。

 

それには、「自然のサイクルから言えば地球は寒冷期に入っている。その一方では人工的な温暖化が言われている。この両方が相まって程よい気候になってくれればよいが、そうはならず、気候変動が激しくなるだろうと予測していましたが、残念ながらその通りになって来ているように感じます。そういうことで、寒冷期に入っているからとて、温暖化を否定する根拠にはならないと私は思っています。

 

そして多くの科学者が二酸化炭素の濃度や地球の平均気温、或は海水温が上昇していることを報告、さらに南極はいざ知らず、北極やグリーランド、ヨーロッパアルプスなどの氷河が年々減少していることなどが報告されていることは今や多くの人が知っていることだと思う。それはNHKなどの温暖化説とは関係ない登山や紀行番組の中でも報告されていて、それらが嘘とは私には思えません。

 

そして、日本だけでなく世界中で気候変動による被害が顕著になって来ているのに、なぜ、二酸化炭素濃度増加による温暖化を否定するのだろうと、正直、不思議に思うのです。これでは、まるで温暖化対策など必要ないと主張しているように聞こえます。

 

わたしは子供や孫、或いは未来の人類のために、対策は急がれなければならないと思っていいます。世界の各国は自国の利益が先に立ち、温暖化対策が進まないのが現状ですが、しかし、各国とも温暖化対策が必要であることに於いては一致している筈だと思います。ウソの説に誤魔化されて、各国の首脳が集まって温暖化対策の会議が開かれているのではないと思っています。

 

それともう一つ、20年も前に科学者たちがスーパーコンピュータによるシミュレーション結果から予測されてきたことが(例えばスーパー台風)、今、現実になりつつあることを思うと、私は断然、否定説よりも肯定説を支持したいと思います。

 

ここで私は、元福島大学の実践経営学の教授をしておられた飯田史彦という人が『生きがいの創造』シリーズの中で書いておられたことを思い出します。それは経営戦略として、どちらに転んでも損をしないという戦略の話をされ、そして、人間は死ねば何もなくなると信じている人と、死んでも生きていると信じでいる人とどちらが戦略的に有利かについて、こんなことを書いていました。

 

人間は死ねば何もなくなると信じている人は、もし仮にその人が信じていた通りに、死んだあと何もなければ、自分が信じていたことが正しかったと勝利感を味わうことはできない(死ねば意識もなくなるのだから)。反対に、死んだ後も生きているとしたら、自分は間違ったことを信じていたと後悔するかもしれない。

 

一方、人間は死んでも生きていると信じていた人が死んだ場合、死んで何もなくなったとしたら、意識も何もないから、「自分は間違ったことを信じていた」と思うこともない。反対に信じた通りに、死んでも生きていたとすれば、「ああ、自分が信じていたことは正しかった」と喜べる。この場合は、どちらに転んでも「失敗感」を味わうことはないことになる。

 

地球温暖化の場合、この戦略に当てはめて考えた場合には、どうなるだろうか?

もし肯定説が間違っていたにしても、人類は化石燃料から脱皮して自然エネルギーを利用する方向に転換していくことは、いずれ石油が枯渇する(原子力のウランも同じ)ことを思えば必要なことであって、何ら人類にとっての不利益とはならないのではないだろうか。又、温暖化対策の一つとして肉食を減らすことも、人類にとって何ら弊害とならないばかりか、森林伐採や、水不足、水質汚染、穀物の不足などについてもプラス材料となるし、さらに温暖化説が正しければ、これらを早めに対策すればするほど人類にとってプラスに違いない。

 

それに対して、温暖化説を否定して対策を急がず、そして、実際に温暖化が進めばどうなるか?

その結果は明白だと思うのである。

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