前の記事で「どこから生まれて来たか?」と題して書きはじめたのですが、あとで「しまった!」と後悔しました。
実は相変わらず子供たちの「いじめ問題」がニュースの話題になったりするので「どうしてこんなことになるのか」と気になっていて、先日、今の子供たちはどんなことを思ったり考えたりしているのかと、インターネットで参考になる記事はないか調べてみる気になりました。
そして最初に読んだ記事に、子供の成長に大切なことは「自己肯定感である」ということ、そして日本の子供たちはアンケートの調査結果によれば、他の国に比べて「自己肯定感」がいちじるしく低いということが書かれていました。
わたしは経験上、そして自分の得た知識からも、この考えに大いに賛成でした。そしてこの自己肯定感をもつためには、「人間はどこから生まれて来たのか」ということを知ることがとても大切だと思ったのでした。
何故なら、私は若い頃、「生まれて来たくて生まれて来たんじゃない。親が変なことをするから生まれたくもないのに生まれて来たんだ」などと、自分が堕落したのは自分の責任じゃないと言い訳するように漠然とそんなことを思ったりしていたものでした。
自分の日々が順調な時はそんなことは思わないと思いますが、「面白くない」と感じるようになると、若い年頃にはそんなふうに考えやすいのではと思います。そして、その上に何かのマイナス要因が重なったりすると自暴自棄になったり、何か悪さをしてウサ晴らしに走ったりするのではないかと思います。
そんなことから、自己肯定感がもてるようにと「どこから生まれて来たか」について、自分の学んだことを書きたくなったわけですが、「しまった。分に過ぎたことを書き始めた」と後悔し、この話の続きはなしにしようと思っていました。
ところが、自分の記事の「アピールチャンス」が来たとき、思い切ってクリックすると、自分が思っていた以上の反響があり、「この問題については多くの人に関心のある事なんだ」とあらためて思い、そしてまた嬉しくなり、「続きを希望」に後押しされて、もう少し書いてみる気になった次第です。
さて、人間は母親の子宮を通ってこの世に誕生しているが、かといって母親が製造元ではないことは確かだろうと思います。母親が製造元なら、男の子が欲しいと思えば男の子が生めるし、女の子が欲しいと思えば女の子が生める。が、実際にはなかかなか思うようにはいかない。また、これ以上子供はいらないと思っても生まれるようですし、反対にどれほど欲しいと願っても生まれないこともあるのを見れば、父親・母親が子供をこしらえたのではないことは明らかだと思います。
禅宗の『無門関』という本の第8則に次のような話があります。
月庵(げったん)和尚が、弟子の修行僧たちに次のような質問をした。
≪問≫奚仲(けいちゅう)という人が車を発明して100輻造った。ところがせっかく造った車を何を思ったのか、両方の車輪を取り去り、車軸を外し、ばらばらにしてしまった。そして首をかしげて考え込んでいる。さて、契沖は一体何を明らかにしたかったのか、答えて見よ。・・・というのでした。
これは、「果たして、車はどこにあるのか?」という問題なんだそうですが、「車はどこから生まれて来たか」と置き換えてもいいと思います。
そして、車は先ず最初に奚仲(けいちゅう)という人の心の中に描かれ、そして心に描かれた設計に従って、部品が集められ、車が作られた。つまり車は「契沖の心の中にある」。そして車の本質は何かと言えば、眼に見える形ではなく、「わっばがあり、それが回転して、前進するもの」そのアイディアが「車なるもの」であり、車の本質であると・・・。形あるものはいつか壊れるが、心の中にあるアイディア、「車なるもの」は毀れることがないから、色々形を変えては、新しい車が出現する(進化)。
人間がこしらえたものはこのように、車も、飛行機も、船も、汽車も、ラジオも、テレビも、携帯電話も、ありとあらゆるものは、まず最初に人間の心の中に描かれものであり、そしてそれがやがて眼に見える形となってあらわれて来た。
では、それらを作った人間はどこから生まれて来たかという話になるわけですが、本当に、人間は親のセックスによって、生まれたくもないのに偶然に生まれてきたのだろうか。もし、本当にそうであるなら、悪いことをしてはいけないという根拠、立派な人になりなさいというような根拠はどこから生じて来るのだろうか。
偶然に生まれ、やがて死んで何もなくなるのが人間であるなら、何故、多くの人の心の中に、利己主義者になってはいけないとか、威張り散らかす様な人間になってはいけないとか、そして、やさしい人間になりたいとかの欲求が内部から涌いてきたりするのだろうか。
そんな問いに答えることができなければ、もし、子供たちから、「いじめはなぜいけないの?」「自殺は何故いけないの?」ときかれても、答えることができない。そして、そこにいじめの問題が改善できない要因があるのではないかと、そんな気がしています。