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気の向くままに

山、花、人生を讃える

ある死刑囚のこと

2025年03月31日 | 人生

昔投稿した記事を読んでいたら、ある死刑囚の話を紹介した記事があり、その時も感動しながら紹介させてもらったのですが、今回もまた感動したので再投稿させてもらうことにしました。読んでいただければ嬉しい!
以下は2015年7月に投稿した「ある死刑囚のこと」の再投稿です。

 

今朝、『幸運の扉を開く』(谷口清超先生著)を読み始めたら、その中に書かれていた話に心を打たれました。それは死刑囚となり、33歳で刑死したペンネーム「島 秋人」という人についての話で、彼について次のように紹介されていました。

○島 秋人さんは昭和9年に朝鮮で生まれ、父親は警察官で、満州でくらし、終戦近くに柏崎に移り住んだ。戦後は公職追放となり、一家はどん底の生活となり、母は、結核で死亡した。以来彼は非行を重ね、強盗、殺人未遂などを犯して、特別少年院に行き、その後に建物放火の罪で松山刑務所に収容された。刑を終わった後でも、面会に来た父と会えなかったというので放火したり、金品を盗んだりして昭和34年小千谷(おじや)の農家に忍び込み、主人に重傷を負わせ、主婦を殺害したのである。公判中も態度が粗暴で、死刑判決を受け、上告して東京拘置所に移され、吉田先生に出した手紙から、次第に人々の愛に目覚め、歌を習い、キリスト教徒ともなり、上告した最高裁からも棄却されて、この世を去ったのである。と

  彼の中学時代の成績は最下位で、行儀も悪かったらしい。それで叩かれたり蹴飛ばされたりしていたとのこと。死刑囚となった或る日、彼は獄中から手紙を書きました。宛先は中学時代の吉田先生。その手紙には、このようなことが書かれていたとのこと。

「今自分は死刑囚となっている。過去を振り返ると良いことは一つもなかった。たった一つ忘れられない思い出は、先生に絵をほめられたこと」と書いてあり、そして「できたら、先生の絵がもう一度見たくなった」と書かれてあったそうです。

 その手紙を読んだ吉田先生は、しばらく考え込み、その様子を見て奥さんが心配して聞くので、その手紙を奥さんにも見せました。そうして、

○このように、昔たった一度ほめられたことが、彼の最後の願いを引き出して、それから吉田先生家族で描いた何枚かの絵を贈られ、歌を習うことにもなり、奥にかくれていた彼の愛と能力が引き出され、信仰にも導かれ、歌の交流を通して盲目の少女とも愛を語り合い、刑死して行ったのである。と

 最初の手紙には、

           さびつきし釘を拾いし獄残暑

という俳句が書かれていたそうです。死刑囚となった彼には、錆びついた釘さえも愛おしく感じられたのでしょうか。彼には『遺愛集』という歌集があるそうで、その中には639首の歌が詠まれているとのこと。そして、吉田先生の奥さんから贈られたセーターを詠んだ歌が紹介されていました。

         ぬくもりの残れるセーターたたむ夜  

                       ひと日の命もろ手に愛しむ

  

 わずか3ページで紹介されている短い話ですが、彼の人生と獄中での心境、その句と歌に心を揺さぶられました。「良いことは一つもなかった」という手紙の一節には、思わず涙がこぼれましたが、それだけに、彼の句や歌にいっそう心打たれたことでした。


人間とは何か?

2025年03月12日 | 人生

人生を生きる上において、人間とは何か? 自分とは何か? は誰もが一度は考えることであり、またわかることなら誰もが知りたいと思っていることではないかと思う。以下は、谷口雅春先生の著書から抜書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。(と言っても、さわりの部分だけですが)

 

○宗教というものは、決して死後のみの問題をとりあつかうのではなく、「生命」の問題をとりあつかうべきものである。それが死後の問題をとりあつかうかの如く見えているのは、死後にも「生命」が存続するからであって、しかも死後存続する「生命」はその働きが肉体のように可視的でないが故に、科学者の対象となることができないで、その結果宗教家のとりあつかう対象になったにすぎないのである。

 

○人間の本質は生命である。しからばその「生命」を此処にだしてみせてくれといわれても、それをみせるわけには行かないのである。吾々が目に視ることができるのはその働きだけであるのである。「自分」とは何であるか。それは決して肉体ではないのである。肉体に於いて働いている所の不可視なる「生命」そのものである。しかしそれは不可視であるが故に、多くの人間は「肉体」を自分自身だと思いあやまる。そして顛倒妄想(てんどうもうそう)に陥るのである。即ち人間は肉体ではないのに、顛倒(さかさま)の想いを起こして、肉体であると思い、目にみえない「生命」であるのに、それに気づかないのである。

 

○宗教家の第一眼目は、ソクラテスの「汝自らを知れ」の箴言に始まるのである。仏教に於ける覚者とは「自分」自らが何であるかを悟った所の人であるのである。キリストは「自分」みずからを「神の子」として悟った所の人であったのである。そしてキリストは、「吾を信ずるものは、吾より大いなる業をなさん」と教えているのである。そして多くの奇跡を生活に実践したのである。『般若心経』には、「顛倒夢想を遠離すれば恐怖なし」と書かれているのである。最も恐れないでいられる人は自分自らの本質を知る所の人であるのである。自己みずからを肉体であると思う者は、肉体は、老い、病み、傷つき、滅びるものであるが故に、恐れざるを得ないのである。これに反して、自己を「生命」と観ずるものは、「生命」は老い、病み、傷つき、滅びることなきものであるが故に、恐れるということはないのである。 

 


明るく生きるために⑤

2025年03月07日 | 人生

以下は、自分が人生を明るく生きたいとの思いで、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

○人生を幸福にする秘訣は先ず自分が幸福な気持ちになり、その幸福な気持ちを、花葩(はなびら)をふり捲くように相手にそそぎかければ好いのである。向こうの欠点を見るときにはこちらの心が汚れるのである。欠点を見る暇に、美点を見て誉めてやれば、こちらの心も楽しいし、向こうの心も楽しいのだ。 

 

○太陽の輝きは、星々の煌めきは、花の美しさは神様のあなたに対するやさしい微笑みです。

 

○人間の歓びと幸福とはどこから来るかというと、人間の本来が「常楽なる神の子」であるという本然から来るのである。この本然がなければ人間の歓びと幸福とは出て来ないのである。 

 

○楽しく生きるのが神の道である。憂愁に閉ざされている心は生命を生かさないから神を遠ざかった心である。自分も生かし他をも生かす楽しき心が神心である。人は神の子であるから楽しいのが本来である。 

 

○人々に祝福を与えよ。深切を与えよ。善意を与えよ。喜びを与えよ。微笑を与えよ。すべての善き心の波は相手に祝福を与えるのみならず、与える人自身に幸福を与えるのである。毎日一そう多く吾等は人に与えん事を決意しこれを実行せよ。
 そして、「吾は神からつかわされたる全人類への祝福の使者である」と念ぜよ。電車にのっている時にも汽車にのっている時にも自分の全身からこれらの人々を幸福にするところの念波が自分の全身から放射されて今これらの人を幸福にしつつあるのである、と念ぜよ。常にこのような愛を与える気持ちで日常生活をおくればまず祝福されるのはあなた自身であるのである。 

 

○人を称讃する言葉を与える功徳も無限に伸びる功徳であるのである。この世界を称讃の善き言葉で満たすことは、この世界全体を明るくすることになり、称讃の一つ一つの言葉は相手を生かすだけではなく、全人類を光明化し、あなた自身を生かすことになるのである。


明るく生きるために④

2025年03月05日 | 人生

以下は、自分が人生を明るく生きたいとの思いで、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

○われわれを生かすのは明るい思想である。さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。 

 

○明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲しまぬということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。≪中略≫ 天地一新、悪しきことはいまだかつて一つも起こらなかったし、これからも起こらない。それはすべて一新しゆく姿である。 

 

○明るい反面ばかり見るものは常に生長し、暗い反面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。
 どんなことにも喜びが見出される。雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに「結構な善いお湿りだ」と喜ばねばならぬ。この世の中に何一つ無駄なものはない。この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、われわれは悲しむべき何物もこの世界にないことを知るのである。 P13

 

○明るく生きることは人生の一つの美徳である。強く生きることも一つの美徳である。大きく生きることはさらにもう一つの美徳である。何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと生命の大地を踏みしめて行くことは常によい。 

 

○人に逢うて何かなつかしく、いつまでもその人と話していたいと思える人と、そうでない人とがある。ひらいた心の人でないと明るい眼の人にはなれるものではない。幼児の眼が澄んで清らかなのは、幼児の心は打ち開いた澄んだ天空海闊の心をしているからである。
 ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で相手を見る人は必ず幸運である。

 

○沈滞期に屈せざる心の明るさと、努力を継続せしむる意思の力と、その意志の力を継続せしむる感激の押し出す力とを失わない者はついに大成するのである。 

 

○われわれは太陽のない国に置かれてさえも、心で太陽を創造して自分の棲む世界を明るくしてみせると言うほどの自信を持たねばならぬ。人間は信念だけの値打ちである。  

 

○神は開いた心の扉からのみ入り来たり給うのである。心を開いて待つことが神を招く方法である。
明るい心、歓喜の心、智慧ある悟り、すべて神を招き入れる扉である。  

 

○無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――そのこと自身がすでに価値であるからである。人間も同じことである。 

 

○私は罪なき神の子である。すでに浄まれるものである。神の健康なる生命、神の喜びに充ちた生命がわたしである。わたしは喜びそのものである。私は幸福そのものである。私は健康そのものである。 

 

○この世の中に悪しきもの、病い、不幸、災禍(わざわい)等があると思うな。かくの如き暗き観念をあなたの心の中より一掃せよ。ただ、明るきもの、健康、幸福、祝福、のみがあると信ぜよ。そして常に心の中に「神は光にして少しの暗き所なし」と念ぜよ。この言葉を心の中に繰り返せよ。やがてあなたの周囲に光の世界が、神の国の肖像なる世界が現実世界にあらわれて来るでありましょう。


明るく生きるために③

2025年03月03日 | 人生

以下は、自分が人生を明るく生きたいとの思いで、谷口雅春先生の多くの著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

○「笑う門には福来る」ということは真実である。すべからく1日3回は鏡に向かって自分の表情をできるだけ幸福にし、自分はかくのごとく常に幸福な表情をしているということを自分の心に奥深く印象せしめよ。かくのごときこと3ヶ月にしてその人は真に幸福な人となるであろう。この方法だけでも病気がよくなる。  

 

○心の悲しい人よ。毎日鏡を見てできるだけ朗らかに笑って自己が幸福であることを印象せよ。心の暗い人は心の暗さを見まもっていてはますます心が暗くなる。それを心で一転して朗らかに笑った顔を見よ。これは方便である。はじめは不自然でも自然に幸福に笑えるようになってくる。

 

○心の明るい人は別に鏡を見て工夫して笑わなくてもよい。心の明るさを見つめていればよい、そして自己をついに光明遍照の世界の相において見るのだ。これが極致だ。 

 

○快活と憂鬱とは一つの心のうちでは同居できない。憂鬱が来たら快活はいなくなる。だから大笑せよ。大笑して憂鬱を吹き飛ばせ。 

 

○憂鬱になってきたと思う瞬間、哄笑を爆発させよ。これが健康と若さを保つ秘訣である。 

 

○人間は悲しめばどれだけでも悲しめるが、また歓べばどれだけでも喜べるのである。

悲しみを呼べば悲しみが来て合奏し、歓べば歓びが来て合奏する。 

 

○悲しいか、本当のお前は悲しんでいるのではない。本当のお前は笑っているのだ。 

 

○自分は愉快である――常に想起してかく思え。 

 

○隠れたる生命力を発揮せしめる最も有効なる方法は快活に楽天的に心をもつということである。

 

○何もないのに嬉しい気持ち、ありがたい気持ちというものが、生命の実相であります。生命の実相の悟りというものは、常住坐臥、現象的に何がなくとも嬉しい、ありがたい、なんにもないうちになんともいえない爽やかな一種の歓びが続いているものであります。この爽やかなありがたさというものが本当に体得できた時に、家庭はむろん光明化しますし、運命も境遇もよくなるのであります。 

 

○「我れ妻を喜ばさんがために存在す」と自覚する良人は、妻を喜ばしうると同時に、良人自身もまた幸福になるのである。

 

○逆境の来るごとに莞爾として微笑せよ。微笑は心の中に光明を点じて一切の苦難を耐え易からしめ、失われたる希望を喚(よ)び起こし、再起の勇気を奮い立たし、暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであります。