気の向くままに

山、花、人生を讃える

名所散歩

2018年10月31日 | その他

10月は好天に恵まれ忙しかったが、先日は久しぶりに「予定なし」の日となり、近場に出かけ、秋の日差しの中、のんぴりウオーキングを楽しんだ。

写真は車で15分で行ける公園で、小さいながら薔薇園があり、色づき始めたメタセコイアが光を受けてなかなかきれいだった。

 

 

 

黄色でもなく、ピンクでもなし、やわらかい感じの珍しい色だったので撮ってみた。

 

その後、天下の奇祭「裸祭」で有名な「国府宮(こうのみや)神社」に寄ってみた。

毎年2月の裸祭の様子はテレビで放映されるが、実際に訪れたのは40年ぶりの2度目。

そして、境内には近頃ではあまり見ることもなくなった菊の花が展示されていて、散歩に花を添えてくれました。

 

   楼門 (重要文化財)

 

  拝殿 (重要文化財)

 

         


久しぶりに見た菊の花から、芭蕉の 「菊の香や奈良には古き仏たち」 という名句を思い出した。 

おかげで今日もとても良い1日でした。   

 

       大悲倦(あ)くことなく我を照らす   (親鸞聖人)


この世に咲いた天の花

2018年10月15日 | その他

昨日のこと、部屋の中にいる私に、家内が

「お父さん、ちょっと外を覗いてみて」というので、窓を開けて家内が指さす方を見ると、いくつかのサツマイモが置かれていた。

「大きいでしょう」というので側に近寄ってみると、なるほどドデカイ。

 

私は芋を掘ったことがないからわからないが、

家内はこれだけの芋を掘り出し、「すっかりくたびれ果てた」らしい。

もっとも、「くたびれ果てた」というのは、家内のいつもの口癖だが。

 

ともかく、せっかくだから「ブログに」というわけで撮ったのが下の写真。

比較のため30センチの物差しをおいているから、その大きさがわかると思う。

 

 

午後から散歩に出ると、一人の小学生(3年生ぐらい)が、水のない用水路に下りてザリガニをとろうとしたらしく、泥の中にめり込んだ足が抜けず、上にいた仲間と騒いでいた。しばらく様子を見ていたが、やはりどうにも抜けないらしいので、上から引っ張りあげるように手を貸してやると、どうにか抜け出し、上に上がることができた。「ああ、良かった」と思いながらその場を離れようとしたら、小さな子供が「おじさん、ありがとう」などと礼を言うので、こちらが感動してしまった。

 

小学生よ

 

更に歩いていくと、空き地にコスモスがいっぱい咲いていた。

 

 

  「あなたはこの世に咲いた天の花である」


ご存知ですか?

2018年10月13日 | その他

                   ご存知ですか?

                 コスモスが風に揺れるのを

                 あなたが目にして

                 ふと立ち止まったのは

                 神様のささやきに

                 あなたが気づいたのだということを

 

                 ご存知ですか?

                 コスモスに顔を近づけて

                 あなたが微笑んでいるとき、

         神様もあなたに

         微笑みかけているのだということを

 


美しき夕焼け

2018年10月08日 | その他

今日の夕方、夕食の買い物に出かけた家内から、「まだ夕焼けじゃないけど、すごくきれいな空だよ」と知らせて来たので、外に出てみると、空に雲が映えて美しかった。それで、見事な夕焼けになりそうだったので、すぐカメラを持って近くの視界の広いところまで行き、久しぶりに夕焼けの写真を撮った。

 

 

 

 

 

自宅の近くに、広々と美しい空を眺められるところがあるのは有難い。

こんな空を眺めていると、心まで広々とひろがり、美しさに満たされるようだ

 

考えてみれば、人の心は素晴らしいものだと思う。

一瞬にして、こんなに美しい空を自分の中にとりこんでしまうのだから。

 


「小さな死』

2018年10月08日 | 人生

昨日、「思うようにいかない悲しさを乗り越え」を書きながら、同時にシスター・渡辺和子さんの話を思い出していました。

 

以下の「小さな死」と題する文章は、You/Tubeで渡辺和子さんが話されていることを、以前に文章にしていたものです。あらためて読んでみてしみじみ伝わって来るものがあったので、アップさせてもらうことにしました。読んでいただければ幸いです。

 

『小さな死』

私が小学校3年生の9歳の時の事でございました。昭和11年2月26日の朝、1台のトラックに30数名の陸軍青年将校たちが乗ってまいりまして、私の家を襲撃し、私の眼の前で父を殺して引き上げていきました。世に2.26事件と呼ばれている昭和のクーデターでございまして、この時を境に日本の国は戦争へとひた走っていくことになります。

 

私にとっては悲しく辛い出来事でございました。朝の6時前だったと思いますけれども、その時まで床を並べて休んでおりました父が、ほんの数分間の間に冷たい骸となって物言わぬ人になってしまった。雪の降り積もった朝、真っ白な雪の上に点々と残っていた血の跡、軽機関銃の音、その光景と音をわたしは多分一生の間忘れないだろうと思います。

 

この事件は、同じ部屋で物陰から見ておりました9歳の私に、いろんなことを教えてくれました。
一つは人のいのちがほんとに儚い、強くて優しくて大好きだった父が、ほんの数分の間に死んでしまった命の儚さと、したがって命の尊さ、それを一つ教えてくれました。

 

それからもう一つは、自分たちの目的を遂げるために手段を選ばない人の心の恐ろしさというものも教えてくれました。

 

そして3番目に、人を殺すのは必ずしも43発の鉛の球ではなくて、その軽機関銃を撃った人、さらに言えば、その背後にあって撃たせた「人の心」です。その意味で私たちが本当に心に平和をもつこと、その事の大切さを教えてくれました。

 

父が亡くなりましていろいろと苦労も致しましたし、18歳の時にカトリックの洗礼を受け、それから30歳になるまで家庭を助けるために働いて、そして修道会に入りました。その前後、よく人さまから「あなたはお父様を殺した人を恨んでいますか、憎んでいますか」と訊ねられ、そのたびに「いいえ、その方たちにはその方たちのお考えがあってのことですから」と答えていました。

 

ところが修道院に入りまして20年も経った頃だったでしょうか。 2月26日の前後に関西のあるテレビ局から、殺された側の唯一の生き残りとして、その当時右傾化していた日本において、2.26事件の恐ろしさというものをぜひ語って欲しいと言われて、何回もお断りしたんですけども、仕方がなくテレビ局に行ったことがございます。そうすると、びっくりしたことに、わたしに何の断りもなく、父を殺した側の人が一人呼ばれて来ていらっしゃいました。

 

二人の間に何の話もあろうはずもなく、手持無沙汰でおりましたところ、局の方が気を利かしてコーヒーを出してくださり、朝の10時頃でございましたから、私も喜んでコーヒーカップを手に取って口元まで運んでいきながら、とうとう自分の父を殺した人を前にして一滴もそのコーヒーが飲めなかったことがございました。

 

その時に私がしみじみ思いましたのは、人間というものは頭や心で赦していても、言葉で赦すと言っても、体が赦さないということをしみじみ思いました。そして、同時に私の中にはやっぱり父の血が流れていると、ちょっと嬉しかったことも覚えております。

 

父を殺した人を心から赦すということは、言うのは易しいですけども、なかなか難しいことだと、その時に知りました。しかし、それよりもっともっと難しいのは、日々の小さなことで自分を傷つけたり、自分に対して意地悪をしたり、悪口を言ったり、悪意の塊でしかないようなそういう人たちを赦せるかということだと思います。

 

私が修道院に入りました時に目上の方に、「私はイエス様のように十字架の上で死ぬ覚悟ができています」と生意気に申し上げました時に、目上の方が「いいえ、これからのあなたの十字架は、毎日毎日針の先でチクチク刺されるような、そういう痛みを笑顔で受けることなのですよ。決して華々しい死ではなくて、本当に人知れず、人知れず自分が受ける小さな苦しみを人に悟られることとなく受けていくこと」と、おっしゃってくださいましたけれども、本当に私はそうだと思います。

 

そして、修道院に入りましてから今50年経っておりますが、私は、日本語ではちょっとおかしな言葉かもしれませんけども、「小さな死」という言葉を自分の一つのモットーにしております。

 

それは、人は誰しも迎えなければならない「大きな死」のリハーサル、それを毎日繰り返すということです。リハーサルをすればするほど本番が落ち着いてパフォームすることができるように、毎日の生活の中で「小さな死」を事あるごとに繰り返すことによって、しかも美しく繰り返していくことによって、もしかしたら大きな死を、心静かに美しく迎えることができるかもしれないと思います。わかりませんけれども、自分の毎日の体の不調とか、むつかしい人間関係とか、どうしても人様に話さなければいけない嫌なこととか、腹が立つこと、たくさんそういうことがございますけれども、そういうことを一つ一つ逃げないで自分らしく受け止めていく。

 

そしてもう一つ大切なのは、頭で「小さな死」を遂げるのではなくて、口の中で「小さな死」と、人に聴こえないようにつぶやくことなんです。これはわたしが経験して習いました。頭だけで、心だけで思っているだけでは駄目なんですね。やっぱり自分の口で「小さな死」とつぶやく。そうすることによって何か「小さな死」を意味あるものに変えることができると思います。つまり私たちは人に殺されるのではなくて、自分が主体性をもって死ぬんです。しかも、それは意味のある死に変えることができるんだと思います。

 

八木重吉という信仰詩人の詩に

 

              神のごとく赦したい

              人が投ぐる憎しみを胸に温め

              花のようになったならば

              神に捧げたい

 

という詩がございます。本当にそうです。自分に投げかけられる様々な苦しいこと、嫌なこと、辛いこと、それをしっかり受け止めて、自分の胸の中であたためて、いつの日かそれがお花のようになったときに、それを神様に捧げたいと思います。

 

キリストさまは死んで「生きる道」を示してくださいました。私たちも「小さな死」を日々繰り返すことによって、この死がいつか豊かな実りとなってくれるよう願いながら生きていきたいと思います。

 

以上が渡辺和子さんのお話ですが、実際に渡辺和子さんの話を聞きたい方は、ここをクリックしてください。

https://www.youtube.com/watch?v=RwzQ84y7dNE

 


思うようにいかない悲しさを乗り越え

2018年10月07日 | 人生

この記事は、 始めはややこしそうなことを書いていますが、はじめだけですので、ややこしいところは流していただいて、最後まで読んでいただければと思います。

 

前の記事で貴乃花の相撲界引退について書きましたが、そのことから私はアインシュタインのことを思い出しました。

 

アインシュタインは20世紀の初めに二つの「相対性理論」を発表しました。
一つは、1グラムの物質にも莫大なエネルギーが秘められていること。
一つは、それまで空間はどこまでも均一に広がり、時間もどこまでも均一に刻まれていくものとして考えられていたが、時間も空間も均一ではなく、進む時間が早くなったり遅くなったり、空間もゆがんだり縮んだりと相対的に変化するものであこと。そして時間と空間は二つにあらわれていても同じ一つのものであること、それによって時間・空間は一つの時空としてあらわされ、その時空と物質(エネルギー)の関係を一つの方程式で表しました。

 

ある実験で、その方程式が示す理論の正しいことが証明されたとき、科学者たちは、宇宙を構成する時間と空間と物質の関係がたった一つの方程式で表されている、そのシンプルな美しさに涙を流さんばかりに感動したといいます。そしてこれにより、それ以前に比べ宇宙のことがずいぶんわかってきました。

 

そして一躍有名になったアインシュタインはいろいろな国から招待を受け講演するのですが、日本からの招待状には、兼ねてから行きたいと思っていたのでひときわ喜んだとのこと。そして、1ヶ月の日本滞在中、各地で相対性理論の専門的、あるいは一般向けの講演を行い、国民が講演を聞きたいと会場からあふれんばかりに押し寄せ、その熱心さにアインシュタインも感激したとのこと。また、忙しい合間をぬって名所を見学し、日本の美しさにも感激したそうです。(アインシュタインの日本滞在は1922年11月17日~12月29日)

 

しかし、やがてドイツではナチスが台頭しユダヤ人の迫害が始まり、ユダヤ人であるアインシュタインはドイツを逃れてアメリカに逃れますが、その頃、アインシュタインが発見した「1グラムの物質にも莫大なエネルギーが秘められている」ことをもとに、ドイツが原爆の開発を始めたという情報がもたらされました。

 

ドイツのような国が原爆を開発したら、大変なことになるとアインシュタインは心配になりました。
そんな時、名前を憶えていませんが、ある人が、アメリカ大統領宛に「ドイツに先をこされないよう急ぎ原爆を開発する必要がある」と進言する手紙を持参し、それに署名するよう頼みました。そして迷った末、アインシュタインは署名したのでした。

 

ところが、第二次世界大戦もいよいよ終わりに近づいたころ、すでにイタリア、ドイツは降伏し、日本だけが戦っていました。この状況にアインシュタインは大変心配しました。横暴なドイツという国を止めるには原爆開発もやむを得ずと恐る恐る署名したのに、それがあろうことか、ドイツではなくアインシュタインが愛する日本に落とされるかもしれないと、心配でたまりませんでした。そして、それが現実となりました。

 

この時のアインシュタインの悲しみはどんなであったろうかと、アインシュタインの心を思わずにいられません。国家意識とは距離をおいていたアインシュタインも、目の前で同胞のユダヤ人たちが迫害されるのを見れば、否が応でも同朋意識が湧き上がり、ドイツを憎まずにはいられないでしょう。暴走するドイツを止めなければと神にも祈る気持ちだったでしょう。そして、迷った末に、原爆開発を進言するアメリカ大統領への手紙に署名したのでした。

 

しかし、自分の思いとは裏腹に、原爆はあの日本国民の上に落とされてしまいました。

 

ああ。この思うようにいかない悲しさ!

 

追い打ちをかけるように、ある日本人から、博士を批難する手紙が博士のもとに送られたそうです。それに対して博士は「人を批難するときは、相手のことをよく調べてから非難するものだ」と、その手紙の裏に、しかも鉛筆で書いて送り返したとのこと。

 

日本人と同じように悲しみ、やれきれない気持ちでいる時だったので、思わず感情のまま吐き出さずにはいられなかったのだろうと思います。

 

中途半端ですが長くなったのでここでやめます。
アインシュタイン博士のことを少しでも知っていただくきっかけとなれば、うれしいです。

 

そして、大なり小なり、思うようにいかない悲しみを経験し、それを乗り越えながら人間は成長いていくのかもしれま゛んね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


やめる勇気

2018年10月05日 | 人生

貴乃花の相撲界退職のことが話題になっています。

 

私も多くの人と同じように、若貴時代は、この二人の活躍を楽しみにしていましたが、若貴時代の終焉と共に関心がなくなりました。そのあと、娘が結婚してから、娘の招待で3年続けて名古屋場所を見に行き、なかなか楽しかったのですが、娘に子供ができてからはご無沙汰で、また関心がなくなりました。

 

相撲界の内部のことは何も知らないし、どんな問題があり、貴乃花が何をしたかったのかについても何も知らないのですが、ただ、貴乃花が相撲界を退職したことだけについて言えば、潔いということは言えると思います。そしてさすがに貴乃花だとも思います。

 

特に、
ラグビーの試合で違反した選手について、なぜそんなことまでしてラグビー部にいたいのか、なぜそんな監督についていかなければならないのか、そんな監督なら見切りをつけてやめてしまえばいいじゃないかと思いましたし、(大学生では自分でそういう判断をすることはまだ難しいかもしれませんが)

 

また、
ボクシング協会のあまりに行き過ぎた会長の支配的横暴さを報道で見ているとき、その周辺にいた理事たちはいったい何をしていたのかと思ったりしました。普通の人ならあんなヤクザのような人間に歯向かうことはできないだろうということはよくわかる。しかし、あのような態度を目にしながら、そして恐れおののきながら、なぜいつまでも付き合う必要があるのか、さっさとやめてしまえばいいじゃないかと思いながらこれらの報道を見ていました。

 

さらに、ブラックリストに載るような会社で働いている社員たち、なぜそんなことまでさせられながら我慢し続けるのかと思うような報道をときどき耳にすることがありました。

 

そういうわけで、今回の貴乃花の退職について、「偉い!さすが」と感心しました。そのまま相撲界に残っていれば、経済的には安心であったはずなのに、しかし、貴乃花は多分、これ以上自分が相撲界にいても意味がないと感じたのではないだろうか。貴乃花にとってはとても残念なことだったに違いないと思うが、これ以上騒ぎを起こしては申し訳ないと思ったのかもしれない。そして潔く退職する道を選んだ。さすがだと思いました。

 

貴乃花の選んだ道が一番良い道であったかどうかはわかりませんが、しかし、ともかく「やめる勇気」、そして「潔さ」を見せてくれたと思います、その意味でわたしはよい手本になったと思うのですが、皆さんはどう思われますか。

 

≪追記≫
相撲協会の理事の方々が、前にあげた悪どい、こわもての人たちと一緒にしているわけではありませんので、その点はよろしくご理解願います。

 


台風一過

2018年10月01日 | その他

昨日は台風の影響で停電するかもしれないと思い、早めに夕飯を済ませ、風呂もいつもより2時間早い7時にすませた。そしてその日の朝は3時に目がさめたので、夜になると眠くて仕方がなく、9時過ぎには寝てしまった。

 

そのため、通常は5時ごろに目がさめるのだが、今朝はまた昨日に続いて3時に目がさめた。
それで、仕方なくそのまま起き、今これを書いている。

 

台風はすっかり通り過ぎたようで風の音もなく静まりかえっている。
天気図で24号が通過した後を見ると、台風の目は我が家の頭上を通り過ぎていったようである。

 

前回の21号はかなり強い風が吹き、今回の24号は21号より近くを通りそうだったから少し心配したが、進路が予報より南へずれてくれたせいか、あまり強くは吹かなかったようである。それとも、寝入ってしまって気づかなかっただけなのかも知れない。いずれにしても今はしんと静まりかえっているが、各地であまり被害が出ていなければよいがと思う。

 

昨夜のニュースでは、風の中、何か作業をしていた人が脚立から落ちて怪我をしたが、幸い軽傷だったというのを聞いた。軽傷ですんだからよいものの、台風の注意情報が出ているときに、そして、落下して重症をおったり死んだりした人のニュースを何度も耳にしているのに、なんでこんなときに脚立なんかに乗って作業をするんだと、少し腹立たしくなった。

 

今日は10月1日で衣替えだが、半袖は昨日しまい込んだ。扇風機も片付けようかと思ったが、もう少し様子を見ることにした。

 

今日の天気予報は1日中晴れマークが続いている。
午前は教化部に出かけ、月次祭に出席し、午後は剪定の予定である。
10月の日差しはまだきつく、西日に向かって仕事をしていると顔がひりひりする感じがするぐらいである。
しかし、見わたす田んぼは黄金色で、向こうの山並みもいっそう美しくなる。

 

こんなことを書いていると山口百恵さんが歌った「いい日、旅立ち」思い出し、

        ああ、日本のどこかに 

        私を待ってる人がいる

と、歌いながら、自分も一人旅立ちたくなってくる。 (いや、これは冗談だが)

 

        己が目に色彩ありや赤とんぼ