気の向くままに

山、花、人生を讃える

日本の地形と文化

2020年05月31日 | 読書

韓国出身の呉善花(オ・ソンファ)さんは、日本の文化に魅せられ、深く研究している人だが、この人の書いた本を読むと、日本人の私が反対に教えられることが多く、とても勉強になります。

 

今朝、何気なく以前読んだ『日本オリジナルの旅』という本を手に取って、付箋がしてあるページを開くと、そこに興味あるこんなことが書かれていました。

 

○外国人が日本に来ると、たいていの人が日本人は礼儀正しい」「思いやりがある」「秩序を保つ」などの印象を持つ。体系的な宗教教義とはほとんど無縁な人が多い日本で、なぜそうなのか不思議だと外国人は言う。韓国や中国ほどに、儒教の影響が強いわけでもない。これだという道徳や倫理の基準がはっきりしていることもない。善悪感も極めて相対的である。

 

と、このように外国人が不思議がるそうだ。
それについて呉善花(オ・ソンファ)さんは次のように述べています。

 

○私の考えでは、日本では礼儀正しいことは、倫理・道徳にかなった振る舞いというよりは、美しい振る舞いとしてあるのだ。≪中略≫ 正しい生き方というよりも、美しい生き方というのが日本人である・・・と。

 

日本人の根底にあるのは「美しい生き方」である、とこういうのですが、成る程と思うと同時に、素晴らしい洞察だと感心させられました。

 

それから、日本のことを、「島国根性」などと自虐的に表現することがありますが、しかし、呉善花さんは日本の沿岸部の、山が海の近くまで迫り、山や海、平地、川などが一目で見られる、その独特の地形の美しさについて記した後、こんなふうに書いています。

 

○内陸へ入れば、今度は海がなくて四方を山に囲まれ、川や尾根道や谷筋の道を介して外部へとつながる、狭小な盆地での生活が展開されることになる。私はこのように様々な地形がギュッと圧縮を受けたかのように接近し合った「自然の箱庭」のような日本の独特な風景に、ずっと魅せられ続けてきた。そして、日本各地への旅を重ねて行くなかで、日本文化はこうした特異な地形から実に大きな影響を受けつつ、形づくられて来たのではないかと、そう考えるようになった。

 

と、このように述べています。そして、大陸では平野や高地が互いに独立しているように遠く離れ、そのことが民族的な距離の大きさを生みだしていることを記し、その大陸的文化と比較して次のように述べています。

 

○日本列島のような地形では、大陸のように、高地と平地が民族的、文化的な対立をつくり出すだけの条件がない。そのため日本列島では、対立よりは親和とか融合の観点を大きくとってみることが重要なのだ。このことは、日本列島では文化的な複合がきわめて起こりやすいことを意味している。 
 各地のさまざまの文化の複合体としての日本、徹底した対立にまで行くことがなく、いつしか融合と調和へと結果して行く日本、農業、林業、漁業から各種の職業技術を共に発展させてきた日本・・・以下略

 

と、このように日本文化が融合と調和に特徴があることを述べています。

 

確かに日本文化は、この頃は使われなくなった風呂敷を例にとれば、西洋のバッグと違って、折りたためば手の中に納まるぐらい小さくなるのに、かなり大きなものまで美しく包むことが出来ます。下駄や草履は、靴のように履ける人が限定されないで、かなり許容範囲があるし、着物にしても洋服ほどには、それを着れる人が限定されない。そういう点からも、呉善花の説が肯定できると思いました。

 

それにしても日本の地形は、大陸に住む外国人から見ると、箱庭を見る様に、とても美しいのだそうです。
その美しさを私も船員だったので知っているつもりでしたが、幕末や明治の頃に、船で大陸から日本へ始めてやって来た外国人たちは、海から日本を見て、その美しさに目を見張り、感嘆したことを、多くの外国人が旅行記に書いているそうで、そんな話を聞くと、「ああ、日本はそんなに美しい国だったのか!」と、あらためてその美しさに気付かされる心地がしたのでした。

 

長くなったのでここまでにします。
呉善花(オ・ソンファ)の本については、以前に、無類の花好き、日本人 と題して書いた記事がありますので、よろしければ見てやって下さい。


少年と大きなリンゴの木

2020年05月01日 | 読書

アメリカの絵本作家であるシェル・シルヴァスタインという人が書いた『The giving tree(与える木)』という絵本があるそうです。
日本では村上春樹が翻訳していて、『大きな木』という題名だそうです。

1964年に出版されて以来、今日まで38カ国で900万部を超えて売られているロングセラーなんだとか。

 

私はその絵本を直接は見ていなくて、『この星で生きる』(谷口純子著)という本の中で紹介されているのを読んで知りました。
それは少年とリンゴの木の物語ですが、次のように紹介されています。

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ある所にリンゴの木があった。その木は小さな少年を愛した。少年も木が好きで、毎日木のところに来て、葉っぱを拾ったり、木に登って遊んだり、リンゴを食べたりした。やがて少年は成長して、あまり遊びに来なくなり、木は寂しくなった。

 

そんなある日、少年はまた木のところにやってきたが、自分は大きくなりすぎてもう木では遊べないと言う。それよりお金が欲しい、と木にねだる。木は自分はお金は持っていないが、自分の枝に実ったリンゴを売ればいいという。そこで少年は、リンゴを抱えて帰っていく。木は、その後ろ姿を見て幸せを感じる。

 

 何年もたち、少年は成長し、ある日またリンゴの木を訪れる。そして、「家がほしい」と木に頼む。木は自分の枝を切って家を作ればいいという。少年はリンゴの枝を伐って家を建てる。少年の役に立って、リンゴの木は幸せだった。 

 

 さらに何年もたち、少年は中年になって木のところへやってくる。そして、「遠くへ行くためにボートがほしい」と木にねだる。木は自分を切り倒してボートを作ればいいという。リンゴの木は倒され、切り株だけが残る。 

 

 やがて、さらに何年もたった後に、年老いた少年がやってくる。彼はもう何もほしがらないが、疲れたので休みたいという。そこで木は、切り株になった自分に座って休めばいいと言い、少年はそれに従い、木は幸せを感じる。 

      

     

以上ですが、これを読まれてどんな感想をもたれるでしょうか。

 

ある人曰く、「木の与えるばかりの愛に、無償の愛を感じて感動した」・・・これは著者の感想。

 

また或る人曰く、「僕は無償の愛より、木から与えられるばかりの恩知らずの少年と、親の恩に気付かずに来た自分が重なり、なんだか物悲しい気持ちになった」・・・これは実は私が最初に読んだときの感想。 恥ずかしいので小さい字。

 

また或る人曰く、「僕は、自然と人との関係を象徴していると思う。人類は自分本位に好き勝手に自然を利用し、破壊して来たが、自然に与え返すことをしてこなかった。それを象徴しているように感じた」・・・・これは著者の夫になる人が別の本で書いていた感想。

 

なるほと、色々感じ方があるものですね。絵本とは言え、考えさせられる話だったので、紹介させてもらいました。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

      ムラサキ科 ホタルカズラ(蛍葛) 

    

伊吹山で初めて見ましたが、その時のことはよく覚えていない。絶滅危惧種になっていたと思う。

 

 


『恋文』

2019年06月25日 | 読書

先日、ある方のブログに「恋文」という短編小説のあらすじと書評が書かれているのを読み、興味を覚えて早速それを買って読んだ。
註:「恋文」は『たば風』(宇江佐真理著)というタイトルの本の中の1編。

 

その短編とは、こんな風である。
母親が、三男の元服(15歳.)を機に、これで母親としての責任を果たしたとホッとしたとき、その三男に、離婚を決意していることをうっかり話す。すると、しばらくした後、その息子が母親に、どうしても離婚するというなら、父親に100通の「手紙」を出してほしい。できれば恋文をと言う。その中に必ず1回は「好き」という言葉を使って欲しいとのこと。

 

母親は、離婚しようとしている夫に「恋文」を書けといわれても、そんなもの書けるはずがないと拒否する。が、.愛する息子が熱心に頼むので、その真意を尋ねると、息子の言い分はこうだった。

 

熟年離婚した人のその後を調べたが、離婚後は張りつめていた気持ちが失せ、腑抜けたようになり、あまり良い暮らしぶりをしていない。だから、本当に離婚するつもりなら、恋文を100通でも書く気構えを見せてもらえれば自分も安心できる。そして、その恋文を父親に見せ、離婚を承諾するよう説得するために使うという。それで、母親は、やむなく手紙を書くことを承諾した。

 

しかし、離婚することばかり考えてきた妻が、急に夫に恋文を書こうとしても、さっぱり書くことが頭に浮かんでこない。それでも書かなければと思案しているうちに、いろいろなことが思い出されてくる。そうやって、必要に迫られ、離婚という視点から、恋文を書くという視点に心の向きが変わり始めると、忘れていたことを思い出したり、気づかなかったことに気づいたり、さらには、自分の至らないところがあったことにも気づき始めた。その様にして30通余り書いたところで、ようやく「恋文」と呼べる1通が書けた。

 

その1通を早飛脚に託し、藩の用で国元に帰っている夫に出した。

やがてその夫が、藩の用向きを終えて江戸に帰ってきた。すると夫は、お茶を差し出した妻の手を愛おしそうに握り、言った。

 

夫:あれを読んで年甲斐もなく胸が高鳴った。みく(妻のこと)が傍におれば、わしは何でもできる、そう思った・・・

妻;もったいないお言葉、わたくしこそ、物知らずの妻でございました。

 

という、ざっとこのような内容の短編でござるわけであるが、めでたくハッピー・エンドを迎え、読ませてもらった某(それがし)も、登場人物と共に、まことに目出度き気分に相成り申した次第に候。あ、いつの間にか候文になってしまった。(笑)

読んでいただき、感謝に御座候。

 


「胸が痛む」とは?

2019年06月15日 | 読書

今日は、またアジサイ寺に出かけましたが、その車での移動中に、家内がこんなことを話し始めました。

 

○昨日は寝る前に見ていたテレビ番組のせいで、なかなか寝付けなかった。その番組と云うのは、10年前にいじめが原因で自殺した中学生の、その後の家族の話だった。自殺した少年には兄がいて、そのお兄さんはは弟想いのお兄さんで、弟がそんな辛い思いをしている時にどうして気づいてやれなかったかと、そのことが悔やまれて仕方なく、それが原因で精神を患い、33歳の時にそのお兄さんも自殺してしまった。

○3番目の子は、そう云う訳で暗くなっていたその家を出たくなり、一人長崎に住むようになった。そしてキリストの教えに帰依し、教会に勤めながら、子供たちの相談相手になっている、とのこと。

○お父さんは、テレビを通じて呼びかけてだったか、何でも子供たちの相談相手になっていて、1000通もの相談の手紙がきていて、それにひとつひとつ丁寧に返事を出している。そして、ある人はその返事に救われ自殺を思いとどまったという話などが紹介されていた。

 

ざっとこんな話で、私も聞いていて胸に痛みを感じながら、以前に読んだ『親が子に語る人生論』(飯田史彦著)という本を思い出しました。

この本の著者は、学校の先生が、子供たちに、「いじめは駄目ですよ」「自殺は駄目ですよ」と教えると、子供たちは逆に、「どうして?」と素直な気持ちで聴いてくる。それに対して先生たちも、どう答えてよいかわからないとのことで、多くの先生から、子供にもわかるように説明できる手本となる本が欲しい、との要望を受けていたとのこと。その要望に真正面から応えたのが、この『親が子に語る人生論』という本でした。

 

わたしはこの本は、「いじめ問題解決」のために、もっと多くの人に読まれてよい、掛け値なしに素晴らしい内容の本と思っていますが、久しぶりにその本を開くと、その開いたところには、こんな会話が語られていました。少し長くなりますが、引用させてもらいます。(前半部分の一節から)

 

娘:ちょっと整理してみない?まず「脳」っていうのは、人間の頭部に入っている物体のことでしょ。それに対して、「心」っていうのは、少なくとも、物体としては存在してないわよね。人体解剖図の中に、「心」っていう器官や部分は、ないんだもの。

息子:そうだよ、「心」は、物体じゃないんだから、見えないんだ。つまり、」心」っていうのは、「脳」が思考する作用のことであって、「心」そのものは。どこにも存在していないんだよ。

父:大事なところに入ってきたぞ、それじゃ、「あなたを心から愛しています」と誓う時の、「心」って何なんだ?「あなたを脳から愛しています」って言われても、ぜんぜん嬉しくないよな? 

娘:やだ、嬉しくな~い!

父:それじゃ、いろんなものを考えるのは「脳」なのに、人を愛するのは、どうして「心」なんだ?

「心」が「脳」の思考作用のことを指しているんなら、人間を愛するのも「脳」の作用だろう?

娘:う~ん・・・。

父:だったら「脳」のほかに、わざわざ「心」なんて言葉を使わなくても、「あなたを脳から愛しています」って言えば、いいじゃないか。

≪中略≫

父:もう一つ聞こう。「心」が「脳」の思考作用のことを呼ぶだけのものだったら、例えば、「気の毒な人を見ると、心が痛む」なんて言わなくても、「脳」が痛むって言えばいいじゃないか。

娘:でも、脳が痛んじゃったら、頭痛になっちゃうわよ。

父:ほら、気の毒な人を見たからって、頭痛がするわけじゃないだろ?

≪中略≫

父:こういう見方もできるぞ。「心が痛む」っていう表現と同じように、「胸が痛む」なんて言い方もするよな。この場合は、「心」というのは「脳」じゃなくて、「胸」の部分を指しているんだ。でも、「胸」と言っても、臓器としての「心臓」が痛みを感じるわけじゃなくて、自分の中のどこかが「つらい」とか「悲しい」とか感じることを、「胸が痛む」って表現するわけだ。

≪中略≫

母:ねえ、さっきから聞いていて思ったんだけど、「胸」というのは、「心臓」のある部分で、人間の命を守るために、一番大切な場所でしょ?だから、「胸が痛む」っていう表現は、「私の中の、一番大切な部分が痛みを感じる」という意味なんじゃないかしら。

≪中略≫

母:だったら「心から愛しています」って言うのも、「自分の中でいちばん大切な、自分の中にある部分から、深く愛しています」って言うことを伝えようとする、特別な表現なのね。

息子:なんだか、父さんの話術にはまっちゃったような気もするけど、まあ、そういう見方もできるよな。

父:そうだろ?そうすると、つまり「心」っていうのは、自分という存在の構成要素の中で、一番大切な何かを表現する言葉なんだよ。

息子:だけど、その心も、脳が作り出す作用であることには、変わりはないよ。

父:つまり、お前の脳が生まれた時に、おまえの「心」も生まれて、おまえの脳が死んだ時には、おまえの「心」も消滅してしまう、というわけだな?

息子:そういうこと。

父:でも、どうして、そう言い切れる?

 

きりがないので、引用はこれぐらいにさせていただきます。

家内から、話を聞いてこの本を思い出し、もっとこの本が世に知られることを願いつつ書かせてもらいました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


『前世療法』から

2019年06月12日 | 読書

もう20年以上も前になると思うが、飛行機に乗るとき何か読む本はないかと空港の売店を覗くと、『前世療法』という本が目に入った。
題名はいかがわしかったが、「はしがき」を読むと、無責任な、いい加減の本とは思えなかったので買って読んだ。
著者はブライアン・ワイス博士、アメリカの病院の精神科部長とのことだった。

 

ブライアン博士が言うには、例えば、水や暗がりとか、対人恐怖症の患者を治療する場合、どうするかというと、医師が誘導して幼い頃の記憶を思い出させるのだそうである。そして、その原因となる事件や事柄が思い出され、それを追体験すると、恐怖症状は消えるそうだ。何故かというと、多くの場合、それは幼き頃の些細な体験が原因になっていて、それを大人になって追体験すれば「些細なことだった」とわかるからだそうである。

 

ところが、ブライアン博士がある女性患者を誘導中、その原因となっている時までさかのぼるように指示すると、その女性患者は突然、男の声になり、話し方も男の様な荒々しいものになり(時には他国の言葉になったりする)、話の内容も、一体誰の話をしているのかと思うようなことだったりで、博士の頭は「一体何が起きているのか?」と混乱した。

 

話が長くなるので、結論を急ぎますが、要するにこの患者は、突然前世までさかのぼり、前世の記憶を話し始めたのでした。もちろん、ブライアン博士はすぐにそのことを理解した訳ではなく、始めは、何が起きているのかわからなかったし、わかるようになってからも、そんなことはあり得ないと疑っていた。しかし興味をもって治療を続けて行くうちに、前世があることを信じざるを得なくなっていったのでした。

(長くなるので証拠となるような具体例は省略します)

 

そして、それまでの今生の幼い頃の記憶にさかのぼるだけだと、治癒の確率も半分程度だったものが、過去生の記憶までさかのぼると、その治癒率は向上したと本には書かれている。

 

ブライアン博士は、数々のそのような臨床経験を重ねていくうちに、いよいよ過去生があることを確信せざるを得なくなり、博士は特にキリストを信仰している人ではないそうだが、聖書の教育はうけているので、「どうしてこんな大事なことが教えられていないのか」と不思議に思い、図書館に通い聖書の歴史を調べたそうだ。すると、過去の聖書にはいわゆる「輪廻転生」の記述もあったが、ある時代から抹消されていることが分かったそうです。

 

註:『神との対話』では、確か中世の頃だったと思うが、輪廻転生があるとなれば、今生の反省から、次の人生では「やり直し」ができるという事にもなり、教会でお金を献金して懺悔する必要もないと考える人も出て来たりする。そうなれば教会にお金が集まらなくなるからだ・・・ということが書かれていた。

 

そして、ブライアン博士は、どうしてもこの「過去生(輪廻転生)はある」という事実体験を世間に知らせたいと思ったのでした。しかし、キリスト教国のアメリカでは前世などないと信じられている国でしたから、科学者である彼が、そんなことを世間に発表したら、どんなパッシングを浴びるかもしれず、医師としての地位まで失う可能性も十分あったので、発表すべきかどうか、心の葛藤が続きました。

 

しかし、彼はついに勇気を出し、その事を発表することにし、この『前世療法』という本が世に出ることになり、アメリカでベストセラーとなったのでした。その巻末には「この本が出版され、多くの人に読まれるようになってから、アメリカでは過去生があることを信じる人が少なかったが、アンケートでは信じる人が半数を超えるようになったと、「あとがき」か、「解説」に書かれていました。

 

更にまた、同じ医師仲間からは、「自分にもこんな経験があったが、人には話せなかった。よく発表してくれた」と連絡してくれる人も幾人かいた。また、「私にはこんな体験がありました」という多くの報告や、励ましのメッセージをいただいたとのことでした。

以上、『前世療法』という本について書きましたが、最後に、私はこの本を3回読んだと思うが、もう20年近く前のことなので、不正確なところもあると思う。ただ大筋や、この本が何を言わんとしているかなど、肝心なところは間違っていないと思うので、記憶のままに書かせてもらいました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 


「おーい、俳句」

2018年09月29日 | 読書

今日は1日中雨降りの予報なので、こんな日にしか行けないと思い、映画「散り椿」を見に行きました。
ところが上映開始時間を間違え30分早く着いたため、時間つぶしに本屋さんで俳句の本を見ていたら、『おーい俳句』というのがあり、気分転換に良さそうだったので、買いました。

 

「はしがき」を見ると、お茶の伊藤園主催で、「新俳句」のコンテストが平成元年からスタートしたそうで、この本には、その内のいろいろなテーマ、いろいろな年代の人の作品から、優秀なものや、ユニークなものなどが掲載されています。

 

そして「新俳句」とは、季語なしOK、字余りOK、思ったこと感じたことを伸び伸び表現してくださいとのこと。

 

前置きはこのぐらいにして、その中から独断でよいと思ったものを紹介せてもらいます。
本には作者の名前も書かれていますが、ここでは年齢だけにしました。

 

     パパとじじ ぼくがならんで うり3つ        (8歳)

 

     わたり鳥 やっぱりはみ出る やつがいる    (13歳)

 

     冬の夜 自転車をこぐ僕 深海魚          (18歳)

 

     祖母と見た 山の景色を 孫と見る          (56歳)  

 

           言いたきを 胸におさめて 蜜柑むく        (95歳)  

 

次は特に気に入ったベスト4です。

どれも、見ればたちまちうれしい気分にさせてくれる傑作ぞろいです。

 

     にわとりが 空をとびたい 目をしてた     (10歳)

 

     せんたくものへ ぴかぴか光 おりてくる    (9歳)

 

     たんぽぽが 私に言った 大丈夫        (16歳)

 

     百歳の 笑みこぼしつつ 星祭る        (100歳)      「星祭る」は七夕祭りのこと。

 

  どの句も何でもない日常のありふれた言場ばかりなのに、どうしてこんなにぴかぴか輝く作品になるのか、本当に不思議です。だから、芸術なんでしょうけどね。

 


描いた夢は破れても・・・

2018年07月10日 | 読書


神は人間に自由を与え給うた。
そして、神は無限の愛であるから、罰は与え給うことは決してない。
では、自殺者は死んだらどうなるか?



死んだとたんに、死んでも何も解決しないことを知り、とんでもないことをしてしまったと猛烈な慙愧の念に駆られ、他の人に合わせる顔がないというわけで、みずから真っ暗闇の中に閉じこもってしまい、そこで反省の日々を過ごすそうだ。
(いわゆる「穴があったら入りたい」の心境)


ただし、その一方では、自殺者本人が言うには、真っ暗闇とは言っても、なんとなく愛に包まれている感じもするとのこと。



ある自殺者がその真っ暗闇の中で光を見つけた。そして、その光に向かって「あのう・・・」と話しかけた。その話しかけられた光とは、当時大学3年生の飯田史彦さんだった。
飯田史彦さんは「ん?何だろう?」と耳を傾けると、再び「あのう・・・」という声が聞こえたので、「何ですか?」と返事をした。そこから、世にも不思議な物語がはじまった。



飯田史彦さんは当時、まだ唯物論者だったそうで、自分の脳がおかしくなってしまったのではと恐れたのですが、興味深々たるやりとりの末、最後はその自殺者に頼まれるままに、残された両親の家を訪ねることになる。



自殺したその青年が言うには、好きな女性がいて、彼女の誕生日にプロポーズするつもりで逢ってほしいと電話をした。ところが断られてしまい、その失恋のショックで発作的に自殺してしまった。それで両親に事の真相を話して謝りたいのだという。



残された両親は息子の自殺の理由が分からず、生前、毎日仕事で遅くに帰ってきていたので、過労のせいに違いないと会社を恨み、訴訟さえ起こそうとしていた。だが、会社を恨んでいては両親は救われないし、自分自身も罪悪感から解放されない。それで自殺の真相を伝え、両親を恨みから解放したいのだった。そして、自分をふったその女性には何の罪もなく、恨まないでほしいということも伝えたかった。



飯田史彦は「狂人扱いにされるに決まっている」と、家の前まで来てなお躊躇するのだが、自殺した魂に勝手に自分の口を動かされて両親に話しかけた。



すべての真相が、自殺者から飯田史彦へ、飯田史彦から両親へと知らされる。
もちろん両親は突然のこのような話をはじめから素直に信じるわけはない。
しかし、やがてはその情報の正確さに信じざるを得なくなり、最後は、目には見えないが、自殺した息子との感動的な対面となる。そして、息子は大丈夫なんだとはっきり知る。



これは「生きがいの創造2」にあった話で、4、5回は読んだと思うが、読むたびに泣かされてしまう感動的な話だ。10人近くの人にすすめたが、電車の中では読まないようにと、あらかじめ警告している。大泣きしてしまう危険がないとも限らないからだ。



自殺者の話がもう一つ載せられている。
自殺した夫から、残された奥さんへのメッセージだ。その時の会話の一部始終が、今、目の前で起きているように、生々しく、そして、さらに感動的に語られている。



読後、感動とともにすごく優しい気分に包まれる。
これを読んでわかるのは、自殺しても苦しさから逃れることができないこと、それどころか、一層激しい自責の念に駆られて苦しまなければならないこと。しかし、そういう経過をたどるものの、いつまでもその状態が続くわけではなく、「自殺した者も大丈夫なんだ!」ということ。そして、最後に神の救いはあらゆるところに行き届いているということ。



誰も好き好んで自殺する者はいない。さんざん苦しみ、苦しみぬいた揚句の果てに自らの命を絶ち、さらにその果てには本人にも、残された家族にも耐えがたい苦しみと悲しみが待っているのではやり切れない。
生まれ変わったとき、また同じような状況が来るかもしれないが、もしそうだとしても、それはもう一度やり直すチャンスなのだ。

    描いた夢は破れても、あなたはまだ夢を描く自由があるのだ。
    兄弟よ倒れ切るな、倒れても起き上がれ!
    失敗のたびごとに あなたは希望の実現に近づいていることを知れ。

                              (「生長の家」創始者 谷口雅春先生 「夢を描け」より)

と、神は限りなき愛をもって激励し給うのだ。



こうして、「生きがいの創造」シリーズの著者、飯田史彦先生は今日まですべて自費で北海道から九州まで、忙しい公務(大学教授)の合間を縫ってメッセンジャーとしてのボランティア活動をしておられるとのこと。
                 (今は「大学教授のままでは思うように活動できない」ということで退官されている)


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


馬の目に涙 ②

2015年07月15日 | 読書

昨日の続きですが、以下の話は「日本教文社」から出版されている『ユーモア先生行状記』(著者 佐野一郎)という本に書かれている話です。

 時は佐野一郎先生が大学生の時、つまり今からおよそ60年ぐらい前、そして場所は先生がその頃住んでいた別府でのこと。先生の義理の父親は獣医をしていた関係で、佐野先生は近所の人から通称「若先生」と呼ばれていました。

或る日、大学の授業が休講になった若先生は自宅でのんびりくつろいでいました。すると、激しく玄関のドア―を叩く音がする。「すわー、何事か!」と出てみると、ねじり鉢巻きをした大男がただならぬ気配で立っていた。「先生はいるか」と問うので、「今往診中で留守だ」と答えれば、さらに「どこへ?」と聞いてくる。事情を聴くと、荷車に鉄材を山と積んでこの先の国道と県道が交差する三叉路まで来たら、何が気に入らないのか馬が突然動かなくなってしまって、困り果てている。ここの獣医先生なら何とかしてくれるというので、頼みに来た」というのだった。しかし、あいにくその獣医先生はいない。その馬子は「あんた獣医先生の息子ならなんとかしてくれ」というが、若先生は医学的知識もなんにもないから「わたしが行ってもどうにもならない」と再三断るのですが、相手の必死の頼みに断り切れず、若先生はのこのこ出かけました。

 現場に到着すると、黒山の人だかり。十重二十重に人垣ができ100人、いや200人もいるかと思われるほど。それを見た若先生、「こりゃだめだ」と引き返そうとしたところ、誰かが、「獣医先生とこの若先生が来た。もう大丈夫だ」と叫んだらしい。その言葉を合図のように、別の誰かが若先生の手を引っ張って人垣を押し分け、現場最前列へと押し出されてしまいました。

 するとそこに見たのは悲惨な光景。馬が動かなくなり、交通の邪魔をしているので、ドライバーたちからさんざんにクラクションを鳴らされ、「何をもたもたしているんだあ!」と怒声を浴びせられ、残っていたもう一人の馬子はなんとか必死で馬を動かそうと、引っ張ったり、鞭で叩いたり、それでも動かない馬に頭にきたのか、白眼をむき、口から泡を出している馬に向かって、大声でわめきながら太い角ばった薪で馬をなぐっていた。辺りには鮮血が飛び散っている。それを見た先生、思わず、「何をする!殴ったって動くか~!」と叫びながら、その馬子からその薪を取り上げた。それを見ていたヤジ馬はやんやの大喝采。そこまでは良かった。が、その後シーンと静まり返りました。「次に若先生はどうするのか?」と群衆の興味はその一点です。若先生も瞬時に自分が今おかれている立場に気づいたとのこと。こんな馬をどうして動かすことが出来るのか、獣医でもないのに分る筈がありません。かといって、この場から逃げたくても逃げるわけにもいきません。若先生はどうしようもない窮地に立たされました。

 その絶対絶命の時、「神さまあ~、吾が為すべきを知らしめ給え!」と、生涯でもこれほど必死な気持ちで神の名を呼んだことがないというほど、呼んだとのこと。するとその時、天来の声というか、言葉ではいいようのない閃きがあり、「『甘露の法雨』を読もう!」という気持ちがむら雲の如く湧いてきたとのこと。そして、その『甘露の法雨』を胸から取り出して、馬に近寄り、その経本で馬の鼻をなでながらこう言ったといいます。

「これアオよ、何が気に入らず立腹しているか知らないけれど、ここは国道、みんなの迷惑、今から生長の家の有難いお経を読んであげるから、心落ち着け、平常心に戻っておくれよ」と。

そうして、『甘露の法雨』の冒頭にある「七つの燈台の点燈者の神示」を読み始めました。それは

○汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。

という書き出しで始まっています。それを三分の一辺りまで読み進むと、あちらの隅、こちらの隅から「ブワッ」とか「クスリ」とかの笑い声が聞こえはじめ、さらに誰かの「アララー、この馬はもうダメばい。先生がお経読み始めたもんね」という素っ頓狂な声をきっかけにして、どっと笑いが起き、群衆が笑い転げ出したとのこと。これには若先生も参ってしまい、もともと信念があって『甘露の法雨』読み始めたわけでもないので、区切りのよいところでやめようと心に決めます。ところが、その区切りのよい所へ来ても自分の「もうやめよう」という意思とは関係なく、声が先行して勝手に先へ先へと読み進んで行ってしまう。何度区切りのよいところへ来ても同じで、「こんなバカな!」と心があせりながら、結局最後まで読んでしまったとのことです。

読み終わって気がつくと、あれほど笑いころげ、騒がしかった群衆がシーンと静まり返り、一点を凝視しているので、若先生もそこへ目を向けました。すると目をむき、口から泡を出し、足を突っ張り反抗していた馬が、まるで別人、いや別馬のように温和になっており、さらには、その両目からナスビぐらいの大きさの大粒の涙を流していたとのことです。

 さすがに動物の心に鈍感な私も(ひとの心にも鈍感ですが)、この時、大粒の涙を流したという馬の気持ちが痛いほど分る気がしました。そして、牛や馬が涙を流すという話は、「間違いない」とすっかり疑いが晴れることになりました。おめでとう!馬のおかけです。いや、若先生のお陰かな。

さて、馬のナスビのような大粒の涙を見てビックリ仰天していると、また、あの天来の声が聞こえ、「今なら動く、早く動かせ」と言った。そこで馬の手綱をしっかり握り、願いを込めて「オーラ」と引っ張ると、馬が動き、さらに「オーラ、オーラ」と声をかけながら引っ張りつづけると、荷車もガラッガラッと音を立てながら動き出したとのことでした。

本ではまだ少し話が続いていますが、ここでは、ここまでにさせてもらいます。合掌


馬の目に涙

2015年07月14日 | 読書

芭蕉に「往く春や鳥啼き魚の目は泪」という俳句があります。

いくらなんでも魚が目に涙するなんてことはあるまいと思うので、これは芭蕉の春を惜しむ気持ちを鳥や魚に託して詠んだのだと思われます。 しかし、魚に涙はないにしても、牛や馬ならどうでしょうか。

生長の家では現在、脱肉食の「ノー・ミート」運動を展開しているのですが、なぜこのような運動をするかと言えば、食肉の需要が増大するにつれ環境破壊、地球温暖化、さらには飢餓や国際紛争などに大きな影響を及ぼしているからです。

簡単に言えば、次のような図式になっています。①豊かになる ②食肉の需要が殖える。 ③食肉のための動物を飼育するための土地がさらに必要になり森林が切り倒される。④それらを飼育するため大量の穀物が必要になる。(牛は人間の7倍、豚は人間の4倍の穀物が必要とされる) ⑤人間の食物となる穀物が不足気味になり、値段が上がり、貧しい人には買えなくなる。 ⑥人々の不満が増大し、紛争を引き起こす。ということになるからです。

ほとんどの人は牛や豚が、いつ何処でされ、解体されるか知らないのですが、それはできるだけ人目につかないよう隠されているからだそうです。そして本によると、牛や豚が場へ引かれていくとき、自分が殺されることを敏感に察知して、とても嫌がるそうですが、なかには悲しそうに涙を流す牛もあるそうなんです。嫌がるのはよく解るのですが、しかし、牛が涙を流すなんてこれは本当だろうかと、にわかには信じられない気持でした。そして、本当かどうかと、小生は牛の悲しみよりも、そちらの方にとても科学的興味を感じていたのです。

そうしたところ、先日、生長の家の佐野一郎先生の著書『ユーモア先生行状記』という本を読んでいましたら、面白くも悲しい、悲しくも面白い、先生が実際に体験され、またその場に居合わせた多くの観衆、実は野次馬ですが、馬がナスビ程もある大粒の涙を流すのを見たという話が載っておりました。

長くなりそうなので、残念ですが、ここから先は「続く」ということにさせてもらいます。


ある死刑囚のこと

2015年07月04日 | 読書

 今朝、谷口清超先生の著書『幸運の扉を開く』を読み始めたら、その中に書かれていた話に心を打たれました。それは死刑囚となり、33歳で刑死したペンネーム「島 秋人」という人についての話で、彼について次のように紹介されていました。

○島 秋人さんは昭和9年に朝鮮で生まれ、父親は警察官で、満州でくらし、終戦近くに柏崎に移り住んだ。戦後は公職追放となり、一家はどん底の生活となり、母は、結核で死亡した。以来彼は非行を重ね、強盗、殺人未遂などを犯して、特別少年院に行き、その後に建物放火の罪で松山刑務所に収容された。刑を終わった後でも、面会に来た父と会えなかったというので放火したり、金品を盗んだりして昭和34年小千谷(おじや)の農家に忍び込み、主人に重傷を負わせ、主婦を殺害したのである。公判中も態度が粗暴で、死刑判決を受け、上告して東京拘置所に移され、吉田先生に出した手紙から、次第に人々の愛に目覚め、歌を習い、キリスト教徒ともなり、上告した最高裁からも棄却されて、この世を去ったのである。と

  彼の中学時代の成績は最下位で、行儀も悪かったらしい。それで叩かれたり蹴飛ばされたりしていたとのこと。死刑囚となった或る日、彼は獄中から手紙を書きました。宛先は中学時代の吉田先生。その手紙には、このようなことが書かれていたとのこと。

「今自分は死刑囚となっている。過去を振り返ると良いことは一つもなかった。たった一つ忘れられない思い出は、先生に絵をほめられたこと」と書いてあり、そして「できたら、先生の絵がもう一度見たくなった」と書かれてあったそうです。

 その手紙を読んだ吉田先生は、しばらく考え込み、その様子を見て奥さんが心配して聞くので、その手紙を奥さんにも見せました。そうして、

○このように、昔たった一度ほめられたことが、彼の最後の願いを引き出して、それから吉田先生家族で描いた何枚かの絵を贈られ、歌を習うことにもなり、奥にかくれていた彼の愛と能力が引き出され、信仰にも導かれ、歌の交流を通して盲目の少女とも愛を語り合い、刑死して行ったのである。と

 最初の手紙には、

           さびつきし釘を拾いし獄残暑

という俳句が書かれていたそうです。死刑囚となった彼には、錆びついた釘さえも愛おしく感じられたのでしょうか。彼には『遺愛集』という歌集があるそうで、その中には639首の歌が詠まれているとのこと。そして、吉田先生の奥さんから贈られたセーターを詠んだ歌が紹介されていました。

         ぬくもりの残れるセーターたたむ夜  

                       ひと日の命もろ手に愛しむ

  

 わずか3ページで紹介されている短い話ですが、彼の人生と獄中での心境、その句と歌に心を揺さぶられました。「良いことは一つもなかった」という手紙の一節には、思わず涙がこぼれましたが、それだけに、彼の句や歌にいっそう心打たれたことでした。

 


「懐かしさ」について(『春宵十話』から)

2014年07月04日 | 読書

岡潔さんの本には情操とか情緒という言葉がよく出てくるのですが、その情緒の中心は「懐かしさ」だと言い、その「懐かしさ」についてこんなふうに書いています。

○理想とか、その内容である真善美は、わたしには理性の世界のものではなく、ただ実在感としてこの世界と交渉を持つもののように思われる。芥川龍之介はそれを「悠久なものの影」という言葉で言い表している。

○理想は恐ろしくひきつける力を持っており、見たことがないのに知っているような気持になる。それは、見たこともない母を探している子が、他の人を見てもこれは違うとすぐ気がつくのに似ている。だから基調になっているのはこの「なつかしい」という情操だといえよう。これは違うとすぐ気がつくのは理想の目によって見るからよく見えるのである。

 

岡潔さんは「よいものはよい(悪さも同じ)」とはっきりわかるのは、こういう情緒が分らせてくれるのだといいます。また数学は真善美のうちの「真」の調和であり、芸術は「美」の調和であるといい、どちらも、基本になるのは情操教育だといっています。

さて、別のところでは岡潔さんが小学生の時に読んだという「魔法の森」という物語があらすじで紹介されているのですが、それがとてもよく懐かしさの感じが出ているので、ここにも書かせててもらいます。 

○森のこなたに小さな村があって、姉と弟が住んでいた。父はすでになく、たった一人の母もいま息を引きとった。おとむらいがすむと、だれもかまってくれない。姉弟は仕方なく、森を超えると別のよい村があるかもしれないと思ってどんどん入っていった。これこそ人も恐れる魔法の森であることも知らないで。

 ところが、行けども行けどもはてしがない。そのうち木がまばらになって、ヤマイチゴの一面に実をつけている所へ出た。もうだいぶおなかがすいていた姉弟は喜んでそれをつんだ。ところが天然のイチゴの畑に一本の細い木があって、その枝にきれいな鳥がとまっていた。姉弟がイチゴを食べようとするのを見て「一つイチゴは一年わーすれる、一つイチゴは一年わーすれる」とよく澄んだ声で鳴いた。姉はそれを聞いてイチゴを捨て、食べようとしている弟を急いで引きとめた。しかし弟はどうしても聞かないで、大きな実を十三も食べてしまった。それで元気になった弟は、森ももうすぐ終わりになるだろう、僕が一走り行って見てくるから姉さんはここで待っていて欲しいというや否や走りだして、そのまま姿が見えなくなってしまった。

 いくら待っても帰って来ない。そのうちに日はだんだん暮れてくる。この森の中で一晩明かすと魔法にかけられて木にされてしまうので、小鳥は心配して、さっきからしきりに「こっちいこい、こっちいこい、こっち、こっち」と泣き続けているのだが、姉は「いいえ、ここにいないと、弟が帰って来たとき、私がわからないから」といって、どうしてもその親切な澄んだ声の忠告に従わない。

 一方、弟の方は、間もなく森を抜ける。出たところは豊かな村で、そこの名主にちょうど子がなく、さっそく引きとられて大切に育てられた。ところがそれから八年過ぎ、九年過ぎだんだん十三という年の数に近づくにつれて、なんだか心が落ち着かなくなっていった。何か大切なものを忘れているような気がして、どうしてもじっとしていられず、とうとう十一年目に意を決して養父母にわけを話し、しばらく暇を乞うて旅に出た。

 それからどこをどう旅しただろう。ある日ふと森を見つけ、何だか来たことのあるような所だと思ってしばらく行くと、イチゴ畑に出た。この時がちょうど十三年目に当たっていたため、いっぺんにすべてを思い出し、姉が待っていたはずだと気がついて急いで探す。すると、あの時姉の立っていたところに一本の弱々しい木が生えている。弟は、これが姉の変わり果てた姿だと悟って、その木にすがって思わずはらはらと涙を落した。

 ところがそうするとふしぎに魔法がとけた。姉は元の姿に戻り、姉弟は手を取り合ってうれし泣きに泣く。小鳥がまた飛んで来て「こっち、こっち」と澄んだ声で嬉しそうに鳴く。こんどは二人ともいそいそとその後についていって森を出る。養父母も夢かと喜び、その家で姉弟幸福に暮らす。

 

そして、岡潔さんは次のように言っている。

○この物語全体が一種の雰囲気に包まれていると感じられないだろうか。私には、十三年に近づくに従って大切なものを忘れている気がして・・・という心の状態、その情操というものがひどく印象深く、いつまでもきれいに覚えている。これは慈悲心に目覚めるというだけでなく、心の故郷が懐かしいといった気持ではないだろうか。こうしてこの気持ちがなければ、人の人たるゆえんのもの、つまり理想を描くこともできないのだ。

 

以上、『春宵十話』からの引用でした。

 

≪追記≫『春宵十話』を、私は今の今まで「はるよいじゅうわ」と読んでいましたが、ただしくは「しゅんしょうじゅうわ」であるらしい。挟んであっパンフレットにふり仮名があって、はじめて知りました。前回の『春風夏雨』は「しゅんぷうかう」でした。


「雪の結晶」と中谷宇吉郎

2014年07月01日 | 読書

下の写真は、雪の結晶のいくつかのモデルのスケッチで、BSプレミアムのある番組の中で紹介されたものです。

   

これは世界ではじめて雪の結晶を作ることに成功した物理学者の中谷宇吉郎さんの手書きスケッチとのことだったので、貴重な映像と思い、写真にとらせてもらい、ここにアップさせてもらうことにしました。

岡潔(きよし)さんの著書の中には「中谷宇吉郎」という名前がたびたび出てくるので、テレビでその名前を聞いて、岡潔さんの本を思い出し、懐かしくなって久し振りに読み始めました。

岡潔さんの本はいずれも文庫本で4冊あったのですが、自宅の火事の際に台無しになり、今手元にあるのは10年ほど前に、別の出版社から再販されているのを見つけて購入した『春宵十話』という一冊だけ。それで別の本も再販されていないかとインターネットで検索すると、『春風夏雨』という本が文庫本で出ていたのでさっそく購入しました。いやあ、さっそく手に入ってうれしかった~。岡潔さんの本が絶版になってしまっては大変もったいないことで、手ごろな価格で購入できるよう、さらに文庫版で再販してもらいたいものです。

さて、購入した次の朝(昨日)の7時ごろ、コーヒーを飲みながら読むともなく「春風夏雨」をひらくと、最初が「生命」という見出しで、「近頃、生命とは何かがようやくわかって来たように思う」という書き出しで始まっていたので、たちまち吸いつけられ夢中になってしまい、お陰で、この日は剪定の仕事があったのも忘れて、うかつにも8時半、シルバーの事務方から電話で呼び出されるという始末でした。

以上、前置きが長くなりましたが、中谷宇吉郎さんは理研に所属していた物理学者で、その師匠は同じく理研の寺田虎彦であり、寺田虎彦は夏目漱石に学んでいます。それで、岡潔さんの本の中から「寺田虎彦」と「中谷宇吉郎」さんについて書かれているのをすこし、紹介させてもらいます。

 

○中谷宇吉郎さんが寺田虎彦のことで岡潔さんに語った話。

寺田虎彦は理研時代、若い研究生たちに次のように話した。「今自分はイルリバージブル(不可逆)な現象を研究しようと思って、ガラスの破れ目を調べているところで、毎日毎日見ていると、しまいにはガラスの破れ目が大きな渓谷のように見えてくる。その頃になって、自然はポツリ、ポツリと秘密を漏らし始める。

 

○岡潔さんと一緒に留学した文部省のMさんが中谷宇吉郎さんについて、語った話。

Mさんが理研に出かけてあれこれ質問しても、誰も親切に答えてくれなかったが、中谷宇吉郎さんだけはとても親切で、こちらが訊ねないことまで、いろいろ気をきかせて教えてくれた。中谷さんは理研一の親切な人だったので、よく覚えている。(一部は『春宵十話』に出ていた話)

 

○岡潔さんが病床にあった中谷宇吉郎さんを見舞ったときに中谷さんが語ったこと。

「人工雪は僕や花島君(高弟)らが作るとたいていうまくできるのだが、他の人には作れない。僕たちでも必ずできるとは限らない。天覧の時などうまく作れるかと思って、零下40度の低温室だのに冷や汗をかいた。そんなふうだから日本の物理学者たちは、そんなものは物理実験ではない、だから中谷のやっていることは物理学ではないといって、どうしても僕たちのしいてることを学問とは認めない。それで僕も少々閉口している。」

 

ここに書かれている人工雪とは、雪の結晶のことだと思いますが、いやあ、STAP細胞のことを思い出しますねえ。小保方晴子さんに、雪の結晶を世界で初めて作った中谷さんのこぼしたこの話を届けてあげたい気持ちになったことでした。

 

○中谷宇吉郎さんの臨終のときこと。

中谷さんは奥さんに子たちに対する注意を述べ、自分が非常によくしてもらった礼を述べた後、「静子、人には親切にするものだよ」と言い残した。

 

岡潔さんがフランス留学した頃、この中谷宇吉郎さんとは二週間ほど一緒で、毎晩岡潔さんの部屋にやってきて、寺田虎彦の実験の話をよく話してくれたとのこと。そして、間もなく中谷さんは日本に帰国した。後に岡潔さんはその時のことを思い出して、読んだのが次の句。

 

        のいばらに轍消え行く響きかな

 

以上、岡潔さんの『春風夏雨』からの中谷宇吉郎さんについての紹介でした。


「いのちの森の台所」②

2010年08月24日 | 読書
先の記事を書いた時は、まだこの本の2/3ぐらいを読んだところで、後の1/3は未読で、記事を書いてから残りを読みました。

その残りの方に、あの鐘を送ってくれたアメリカの修道院の院長と実際にお逢いになったときのことが書かれていたので、それを書きたくなったのでまた書かせてもらっています。

初女さんと有志が、1999年の秋にお礼と報告のために鐘を贈ってくれた修道院を訪れることになったそうですが、初女さんはその直前になって体調をくずし、ご自身は同行できなかったとのこと。
しかし、「地球交響曲」の英語版を見た修道院の創設者でもあるベネディクト院長が、「初女さんに会いに日本へ行きたい。この修道院を創設したとき以来の強い促しを感じる」と言って、とうとう向こうから、本当に「イスキアの森」を訪問してくれたのだそうです。

これは戒律の厳しいベネディクト派では考えられないことであり、また遠い日本の一信徒への訪問はカトリック教会としては前例のないことだそうです。

その二人のご対面時の様子が次のように書かれていました。

○森のイスキアに到着された院長さまは、じっとイスキアの森の小さな家を眺められたあと、私の目をみつめて、「あなたは苦しみましたね」とおっしゃいました。
「わかりますか?」と尋ねると、
「わかります。私も苦しみました」
そうゆっくりした口調でおっしゃいました。

とのこと。
これには「へー!」と感心しました。
私などはその顔からはやさしさや芯の強さ、高潔さは感じられても、苦しみを乗り越えてきた人とはまるで想像できませんでした。「肝胆相照らす」とはこんなことかと思いました。

続いて次のように書かれています。

○そのとき、院長さまは数えで90歳、車椅子を使われているにもかかわらず、イスキアの階段を手すりにつかまりながらひとりで上がられて、
「私には勇気がありますから大丈夫です」と微笑まれました。
そんなふとした言葉や行動にも、とても通じるものを感じました。言葉を超えて、こころとこころで通じ合っていたと思います。

このように、90歳でしかも車いすを使われているぐらいなのに、わざわざアメリカから来られたんですね。本当に強い衝動があったのだと思います。

そして、普段通りの料理でもてなしたところ、「一食が一日分あるようです」と言いながらも、全部食べられたとのこと。そして次の日のこと、

○送っていただいた鐘を「二人で鳴らしたい」と強く希望して下さり、一緒に打てたことは、素晴らしい体験でした。あの時の鐘の音は、今も私の心の中で美しく響いています。

と、ありました。


初女さんが80歳を過ぎてからは、死についてどんなことを考えているか?とよく聞かれるそうですが、
初女さんは後のことは何も考えていないそうで、ただ、「今を生きる」ことだけを心掛けていられるとのこと。
そして、「何かのお役に立ちたいのですが・・・」という相談にも、それは、しょうと思ってできることでなく、ただ、今自分にできることを一生懸命やっていくうちに、自然に物事が動いていくと答えておられ、「今を生きる」という言葉を他の相談にも繰り返し使っておられました。

また、父親が事業に失敗し、その心労から若いころに、笑うだけでも血管が切れるという胸の病気を患い、17年もの闘病生活を送られたとのこと。それでも結婚を申し込まれ、結婚してから、そんな病弱では危険だから子供を産んではいけないと医者からも止められていたそうですが、腹の中に大丈夫という確信があり、お子さんを産まれたとのこと。

その病気から完全に立ちあがるきっかけになったのは、どなたからいただいた旬のおいしい食事からだそうで、その時に身体の細胞から元気が湧き出してくるように感じられ、そこから本当に「生きよう」という強い気持ちが湧いてきたとのことでした。(医者が処方してくれる薬は、良くなる兆しもないし、苦くて飲みたくないので、こっそり棄てていたとのこと)
そして、「食はいのち、食材もいのち」と感得されたようで、以後、薬の世話にはならず、風邪をひいて痰や咳が出ても、出るものが出てしまえば治る、で来られたそうです。

おむすび一つについても、米のとぎ方、水加減、握り方など、一つ一つの工程に生き届いた心配りが書かれていて、料理に縁のない私にもとても興味あるものでした。そして、「お米の一粒一粒が呼吸できる程度に握る」という言葉には、本当にお米のいのちを感じておられるんだなあと感動させられました。

一人の息子さんがあったのですが、その息子さんがまだ若いうちに亡くされているようです。


最後に、「人も野菜も透明がいい」という小見出しにあった感動した話を・・・。

最近は“ゆでる”ばかりになって“ゆがく”という言葉は聞かなくなりましたが、“ゆでる”と“ゆがく”は違うらしい。そして、初女さんは言う。
たっぷりのお湯の中で野菜をゆがいていると、緑が鮮やかになる瞬間があり、その時には茎が透明になる。その時に火を止めて冷やして食べるとおいしい。特にブロッコリーや小松菜は緑鮮やかに、そして茎が透明になる瞬間がよくわかる。

キャベツやゴボウなどを炒めているときにも、透き通ってくる瞬間があり、その時に味をつけて火を止め、しばらく休ませておくと味がしみ込んで、歯ごたえも良く、香りのよい炒めものが出来る、とのこと。

そしてその後、次のように書かれていました。

○透明になるときは、野菜のいのちが私たちのいのちとひとつになるために生まれ変わる瞬間、いのちのうつしかえのときです。いのちが生まれ変わる瞬間には、すべてが透き通るんですよ。セミやザリガニが脱皮するときも、蚕がさなぎに変わるときも、透き通っているそうです。

と、ありました。
素晴らしいお話ですね。感動しました。


「地球交響曲」の監督、滝村 仁さんの「ガイアのささやき」という本の中には、人間に捉えられて動物園で飼育されるようになった動物が、ある瞬間――例えば調教師と心が通い合った瞬間など――これらの動物たちが捉われの身になったことを受け入れ、「人間の役に立つなら訓練を受け入れよう」と覚悟を決めたとしか思えない、そういう変化の瞬間があると多くの調教師が語っている、という話を思い出しました。

長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

『いのちの森の台所』

2010年08月21日 | 読書
久し振りの更新です。

昨日家内が、「良かったらどうぞ」と言って本を手渡すので、見ると、佐藤初女さんの『いのちの森の台所』という本でした。

佐藤初女さんは、地球交響曲第二番を見てはじめて知った人ですが、明日22日にはその映画をもう一度見に行く予定なので、家内は図書館でその本を見つけて借りてきたようです。

佐藤初女さんはこの映画で紹介されてからは、あちらこちらから講演依頼が来るようになり、またマスコミにも出ておられるようだから御存知の方も多いかもしれませんね。

「地球交響曲」という映画は、いろいろな形で霊的な人生を送っている人たちを紹介するドギュメンタリー映画で、一本に4、5人の出演者がありますが、この佐藤初女さんは映像が美しかったせいもあって最も感動した人でした。

心のこもった料理を作る人らしく、この佐藤初女さん手作りのものをいただくと、皆さんがそのおいしさに感動し、人生に疲れきった人たちまでが癒されてしまうらしい。

映画の中では、(記憶ですが)
「夜中でも漬物の声が聞こえてくる。漬物が『重いよ~』と言うんですね。すると夜中でも起きていって、漬物石の重さを変えてやるんですよ。だから、漬物石も重いものから軽いものまで十種類以上もあるんですよ」というようなことを話しておられました。

また、この人の握ったおにぎりを食べて、そのおいしさに感動して、自殺を思いとどまった人もあるという話も紹介されていました。

佐藤さんはカトリックを信仰する人ですが、短大で染物実習の講師をしていたらしい。そして自宅には染物工房の一室があり、或る時、「狭くてもよい、ここにどなたをも暖かく迎え入れよう」と決意されたとのこと。それからいろいろな人が訪れるようになり、やがて手ざまになり、多くの人に支援されて家が増築され、「弘前イスキア」と名前もつけられました。

当時はサラ金問題が多発していた時だそうで、暴力団から逃れるようにしてここへやって来る人も多かったそうです。それも近隣からばかりでなく、遠くは沖縄からも。そして、このような人たちを長期滞在させるには限界があり、「自然の中にみんなが集い、安らげる場があれば・・・」と切に願うようになったとのこと。

そして、資金があったわけでもないのに、いろいろなたくさんの人からの支援があり、ついに念願のその為の土地も購入でき、やがては人々を招き入れる建物も立ちました。これが有名な「森のイスキア」と呼ばれるものですが、青森県の名山、岩木山山麓の一画にあり、映画では上空から写したカットがありましたが、一面に森が広がる一度見たら忘れられないほどのとても美しい光景でした。

佐藤初女さんは小学校の頃から、教会の鐘の響きにとても心を惹かれていたらしく、この「イスキアの森」にも、そんな美しい音色を響かせてくれる鐘が欲しいと願っておられました。そんな初女さんの願いを知った或る人が、アメリカへ行った時にそんな鐘がないだろうかと心当たりを探ってくれ、細かいことは忘れましたが、ともかくそんな話を聞いた或る修道院の院長さんが、保管されていた由緒ある鐘を贈ってくれることになりました。

映画では、イスキアの森と佐藤初女さん、そしてアメリカの修道院とその院長さんを交互に映しながら、それぞれのインタビューの声を聞かせてくれるのですが、人種が違っても、まるで姉妹のように共通した美しさがあって、遠く隔たっていても「通い合うこころ」をまざまざと実感させてくれる本当に美しいシーンでした。(お二人は当時で、70歳、80歳ぐらいだろうか)

この地球交響曲という映画は、知らなかったのですが、海外のいろんな国でも上映されているようですね。そして、海外からも初女さんへの講演依頼が少なくないようだし、また「森のイスキア」を訪れる外国人も少なくないようです。

家内に本をわたされた時、読んでいる最中の本があったし、またこれからも読みたい本があったので、一旦は「読まないよ」と返したのですが、思いなおして、せっかくなので拾い読みぐらいしてみようかと思い、途中のページを開いて拾い読みをはじめたのですが、たちまち引き付けられて、すぐ最初から読み始めました。

難しいことは何も書いてないのに、何処を開いても癒しに充ちていて、どうしてだろう?どこが違うのか?と不思議でした。

「木は生きている。生きているものに釘を使うなんて、生きている木を殺すようなものだ」と言ったのは、有名な宮大工棟梁の西岡常一さん。

佐藤初女さんは「食材は生きている。それを生かして使うよう工夫すればおいしくなる」と言う。
佐藤さんの一言一言に、「命」という言葉の奥にある、その「いのち」を感じさせてくれる本でした。

巻末を見ると、今年発行されたばかりの本で、初女さんは89歳になられるようです。
今年の新緑の頃に書かれた「おしまいに」の挨拶文の中には「神のはからいは限りなく」という言葉があって、その実感のこもった美しい言葉にまた感動させられました。
そして、ご健在なのを知って嬉しくなりました。

最後に、巻頭に掲載されていた小学校五年生、吉田 健君の詩が素晴らしいのでここへも書かせてもらいます。

  
   ≪仕事≫  吉田 健

   仕事は大変だ。
   なのに、つけもの石くんも、
   電信柱くんも、ふすまくんもがんばっている。
   つけものいしくんは、いっしょうけんめい長~い間すわっているし、
   電信柱くんは、雨がふっても、雪がふってもたっている。
   ふすまくんも、風を止めて、人がきたらちゃんとどく。
   なのに人間は仕事をやるのに、もんくをつけたりする。
   仕事はなかなかできるものではない。


これは学校の宿題で書かれたものとのこと。
そして、その吉田 健君は大学四年生の時に急逝されたのだそうです。

そう言えば、先日、高校の同級生の訃報が届いて、それに対する同級生たちの返信もパソコンのメールに届いて、それを読みながらとても懐かしくなりました。

止まらなくなりそうなので、この辺で。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

「宗教と科学の接点」-2

2009年07月11日 | 読書
「宗教と科学の接点」で、もう一つ印象深かった話。

○ある会社員が会社に行く気がしないと言うので相談に来た。
ところがカウンセラーに話しているうちに、自分の上司が不正を働いており、それを同じ課のものは少しの恩恵を受けたりして見て見ぬふりをしている。自分だけがそれに仲間入りする気がせず、さりとて密告するのも嫌だし、毎日が憂鬱で仕方がないと話した。
ところでそのカウンセラーは、まったくの素人だったので単純に考えてしまって、そのことを本人には内緒で会社の幹部にもらしてしまった。しばらくたって、例の上司は左遷され、相談に来た社員は喜んで会社に行くようになった。カウンセラーが喜んでいると旬日ならずして、その社員は欠席を始め重い抑うつ状態になり、結局は退社してしまった。

以上のような具体例を示した後、河合さんは次のように述べている。
○相談に来た会社員は、上司のことを嘆き、それを攻撃したり、どうすべきか悩んだりすることを自らやりぬくことによってこそ意味があったのだ。本人に内緒で事を運んだカウンセラーは、いうなれば当人の生きる意味を奪ってしまったのであり、強い抑うつ状態になったのも当然である。

人生の奥深さを感じさせられる、とても印象深い話で、今まで本で読んできた人生の意味についてのいろいろな言葉が脳裏を駆け巡りました。

人生は思い通りにならないからこそ意味がある。(飯田史彦)
むやみに苦しみが取り去られないのには意味があるのである。(生命の実相)
人生のすべては完璧だ。特に完璧だと思えないところにこそ、完璧性を見なさい。(神との対話)

ちなみに、最近大流行の、自分だけもうけて人はどうなってもいいというような、大人たちのやり口にうんざりしていたわたしは、そういう嘘やごまかしを発見したら「どんどん密告したらいい」と、密告を奨励する気持ちでいましたことを告白します。
これを読むと、単純に密告すればいいというのも、大いに問題がありそうですね。
人生、実に奥が深いですね。


ついでにもう一つ。
この本の「ホログラフィック・パラダイム」という小見出しのところで、著者の河合隼雄さんは、初心者様が掲示板で紹介しておられたデイヴィッド・ボームについて、次のように紹介されていました。

○理論物理学者のデイヴィッド・ボームは、われわれが普通に知覚している世界は、一種の顕現の世界であり、その背後に時空を超えた全一的な、彼の言う暗在系を有しているとの画期的な考えを持つようになった。われわれが五感を通じて知る世界はいろいろな事物に分類され、部分化されているが、それらのものは暗在系に対する,明在系である。

○明在系においては外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては全き存在として、全一的に、しかも動きを持って存在している。これを彼はホロ・ムーブメントと名付けた。
暗在系のホロ・ムーブメントは五感によって把握できないものである。

そして、河合隼雄さんが次のように述べておられるのが印象的でした。

○ボームの言葉を借りると「物質も意識も暗在系を供用している」のだから、すべての事象は人間の意識とつながっているわけである。

まるで、生長の家で説かれる実相(暗在系)と現象(明暗系)と同じですね。
つまり、理論物理学者ボーアと、「宗教と科学の接点の著者」河合隼雄、そして生長の家が、細部には違いがあるかもしれないが、根本のところでは一致しているのがとても興味深く感じられました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。