気の向くままに

山、花、人生を讃える

来る年に向けて

2013年12月28日 | 信仰

今年も残すところあと4日となり、師走もいよいよ大詰めを迎えています。

聖経の1000巻読誦は3年目の今年は、だんだん忙しくなってきてついにわずかというところで達成できずでした。今は1000巻はあきらめて朝夕2回にしています。

『生命の実相』は毎年40巻読むと決意しましたが、2年目で早くも暗礁に乗り上げて、抜き書きに疲れ、気分転換に他の本を読み始め、今年は8巻以降へは進めずでした。1年目の去年は13巻から抜き書きをはじめ、今年は8巻まで来たので、あとわずか。来年には終わる予定です。

『生命の実相』には宗教的真理から生活全般にわたることまで、啓発されることばかりだが、或ることについて、さてどこに書いてあったかと見つけようとしてもなかなか見つけられない。その点、抜き書きしたものを自分でタイトルをつけて、そのタイトルごとにあちらこちらに書かれているものを一つにして置けば、いつでも引き出しから必要なものが引き出せると云う訳で、とても便利で役に立ちます。これは、私の『知の宝』です。

思いつきの『知の宝』と云う言葉から思い出しましたが、今年は『アインシュタイン・ロマン』という昔NHKで6回シリーズ放送された番組のDVDをついに買いました。私は、「アインシュタインの科学と生涯」という記事をインターネット上で読んだのがきっかけで興味を覚え、一般向けの相対性理論や量子力学の本を読むようになりました。はじめ読んだのがとても面白かったんですね。それに関連して天体にも興味を持つようになりました。今ではそういう類の本が20冊にもなりました。わからなくてもとにかく面白いんですよ。読んでいると、いつの間にかミクロの世界へ入っていたり、宇宙の彼方へ飛び出しているような感じです。だから頭が痛くなるどころか、癒しを感じるんですね。一言で云うと、「羽ばたく」と云う感じかな。それと、「結ぼれが解けて行く」そう云う心地よさもあります。

テレビ番組でも夏だったか、「神の数式」と題する2回シリーズの番組がありました。これは宇宙の万物の運動を一つの数式で表わそうと取り組む物理学者たちの挑戦の物語でした。それは「万物の理論」とも言われ、また「隠された神の設計図」とも呼ばれているものです。まだ未完成ですが、難問にぶつかっては乗り越え、確実にステップアップしています。そして、天体を含む目に見える物体に働く力(重力)と、目に見えない素粒子に働く力の方程式が別々に表わされていたものが、近年一つの式で表わされるようになりました(「超弦理論」)。まだこれは仮説ですが、現時点では神の数式に最も近いと言われています。そしてこの仮説では、この世界は4次元(時間を含む)ではなく10次元を予測していて、あとの6次元は超ミクロの世界で見えないだけのこととしている。そして、あのヒッグス粒子を発見したCERN(欧州原子核研究機構)では、その隠れた次元を探し出す実験に臨もうとしているとのことでした。

一方、つい先ごろには、このブログでもお薦めしたような数学者たちの「万物の理論」への挑戦の物語が放送されました。その鍵が「素数」です。一見ばらばらで無秩序に見える「素数の並び方」に、何らかの法則、隠された暗号があり、それが宇宙の設計図ではないかというのです。そしてその暗号を解こうと150年にもわたって数学者たちの挑戦が続いているそうですが、この謎に挑戦して精神を病んでしまった数学者も一人や二人ではないようです。しかし、遅々としながらもこれも一歩、二歩と進んで来ているようです。素数ばかりで構成された方程式から円周率Π(ぱい)が出てきたり、また素数に関連する方程式と、物理学者が導き出した素粒子の方程式とが、そっくり同じだったというようなこともあるようです。

これらの研究が進みのに加えて、観測装置も発達し、「コズミック・フロント」(BSプレミアム)という番組では、最新のケプラー宇宙望遠鏡によってわたしたちの地球がある銀河系(天の川銀河)だけでも、生物が住める可能性のある地球型惑星が多数発見され、そんな惑星が1000億もあると予想されています。

いずれにしても、物理学者も数学者も万物の奥に隠されている設計図を見つけようとしているというわけです。つまり、今まで発見した数式に美と驚異を感じ、神秘を感じながら、さらにもっともっと神に近づこうと没頭しているわけです。少しは私もこういう研究者たちの一途さを少しでも見習わなくてはと思います。

 

だから、来年も頑張ろう。きっと今年以上によい年になる筈だ。

先ずは、奥様にもっと優しく、親切に。

えっ、突然話が小さくなった?

いやいや、太陽だって小さな素粒子から始まっているんだ。

それに、大の男が、女房一人幸せに出来なくてどうする?

だろう?(一人言です)

 

では皆様も、どうぞ良い正月をお迎えください。

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「末井 勉先生の体験談」覚え書き

2013年12月22日 | 信仰

早くもクリスマスが目の前ですね。

クリスマスと言ってもわたしには何の関係もないのですが、世間がお祝いのような気分になる雰囲気はうれしいものです。それに小学生のころは、商店に飾られているクリスマスツリーを見ると、「お伽噺」の世界が現実に現われたようで嬉しかったものです。やはりこういう飾りつけは子供たちに夢を感じさせるものがあるのでしょう。

 

その飾り付けですが、最近Tomyさんのブログで「B型母親教室~クリスマスリース作り」と題した記事が写真入りで掲載されています。急なB型誌友会への変更にもかかわらず、廃品を利用したすてきなクリスマス飾りが紹介されていますので興味のある方はご覧ください。こんなものが皆で楽しく作れて素晴らしいなあと、男の私も感心してしまいました。(Tomyさんのブログはブック―マークにあるのでそこをクリックして下さい)

 

さて、今日は40年前に飛田給練成を受けた時、当時「全国巡回本部講師」であられた末井 勉先生の体験談を書かせてもらいます。愛知県教化部にも来られたことがあるのですが、この話を聞いたことがあると云う人は、もうそう多くはないと思うし、わたしにとって忘れられないとても印象的な話でもあるので、ここへ書き留めておきたいと思った次第です。

 

末井さんがまだ若い時のこと、道を歩いていると、トラックがバックして来て危うく惹かれそうになり、慌てて逃げるのですが、そのトラックはまるで追いかけるようにして、とうとう末井さんの脚にタイヤがのっかってしまったそうです。骨が折れたかどうか、細かいところは記憶がありませんが、ともかく足の怪我は治ったものの、タイヤの下敷きになった片方の足は曲がらなくなってしまいました。

 

それ以来、そのトラックの運転手を恨むようになったそうです。その一方、末井先生は以前から、世界中の誰にも負けないぐらい熱心に幸せを求めてきたとのことでした。そしてトラックにひかれて何年か過ぎたときのこと、ある人から、その曲がらない足も「生長の家」に行ったら治るかもしれないときいて、どんな治療院かと思いながら、教えられた先生の家を訪ねて行きました。

 

先生というからさぞ立派な邸宅だろうと思っていたが、着いて見ると、ただの普通の小さな家だったそうです。はじめ婆さん出て来て、しばらく待つように言われて曲がらない片足を伸ばしたまま縁側に座って待ちました。するとやがてお爺さんが出てきたそうですが、そのお爺さんはメクラで口髭のところにご飯粒が一つ着いていたとそうです。そして、そのお爺さんはメクラですから、そこに末井さんの脚があることに気が付かず、なんとその脚の上に尻をおろしました。末井さんは痛いとも言えず、呆気にとられていると、その爺さんはドモリながらいきなりこう言ったそうです。

「お、お、おまえは、し、し、し、幸せになりたいかっ?」

末井さんは誰にも負けないぐらいに幸せを求めて来たから、「幸せになりたいか」ときかれて、思わず「幸せになりたい!」と、大きく返事をしました。

すると爺さんはすかさずドモリながら、最後は怒鳴るように言いました。                                          「に、に、人間はなあ、た、た、たとえ、ひ、ひ、ひとりでも、は、は、はんぶんでも、う、う、うらんでいては、幸せになれんぞ~」

それは聞いた末井さん、その瞬間、脳天に電撃ショックを受けたそうです。                                               地球が真っ二つに割れ、真っ二つに割れたその間を末井さんはまっさかさまに落ちて行きました。落ちて行きながら、「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」というお釈迦様の声が三回聞こえてきたそうです。

 

しばらくしてその衝撃から我にかえった末井さんが目を開くと、先ほど爺さんの髭についていた米粒が、黄金色に燦然と輝いていたとのこと。

それからどうなったか、細かいことは覚えていないので、先へ飛ばします。

                                      

末井さんは、ともかく爺さんに礼を言って、その先生宅の外へ出て、乗ってきた自転車にまたがりました。                                                     すると、どこからともなく、「末井さん、末井さん、良かったね、良かったね」という声が聞こえてくるそうです。

はて、誰が言っているのか、まわりを見ても人は誰もいません。おかしいなあと思ってなおも注意して辺りを見ていると、なんと、それはそばにあった電信柱がそう言っているのでした。

末井さんはビックリして自転車を降り、思わず電信柱に抱きつき、「お前までわしのことをそんなに喜んでくれるのか」と、感激し電信柱に抱きついてしばらく泣きじゃくっていたそうです。                                                    (実際に電信柱に抱きつく格好をしながら話をされて、その格好がまた本当に面白くて、みんな感動したり、笑ったりしながら、次はどうなるかと耳を傾けて聞いていました。)

 

しばらくしてわれに返って、「こんなところを人に見られたらキチガイに思われる」と電信柱を離れ、再び自転車にまたがりました。そして、前に進もうとしたら、今度は道端の石ころ一つ一つが、仏画の観世音菩薩そのままに極彩色に輝いていて、またまたびっくりしました。それを踏みつけて進むこともできず、「ああ、もったいない」と躊躇していると、今度はさらに、民家の瓦屋根の一つ一つが、すべて観世音菩薩となって輝いているのでした。

 

もったいなくて前に進めない末井さんでしたが、いつまでも、立ち往生しているわけにもいかず、「すみません、通らしてもらいます」と言いながら、帰路につきました。堤防にさしかかると、また、どころからともなく、「末井さん、末井さん、良かったね、よかったね」という声が聞こえてきます。なんと、今度は堤防の草むらが風に揺れながらそう言っているのでした。末井さんはまた、自転車を降りて草に抱きつくようにして、うれしさで嗚咽しました。

 

家に帰って、「よし、今度こそ、あの運転手に謝ろう」そう思いました。
そして、怨んでいた運転手の家を訪ねました。

 

絶対謝ろうと決心して出かけて来たのですが、その運転手の顔を見るとどうしても謝れません。
「いや、謝るんだ」「だめだ、どうしても謝れん」
どうしても謝れない自分に、う、う、うと呻きながら、末井さんは思わず合掌してくず折れました。
そして、ついに言いました。「すま~ん!赦してくれ~、わたしが悪かった~」

気がつけば、あの何年も曲がらず、あきらめていた膝が曲っていたという、そういう話でありました。

 

以上で末井先生の話はおしまいですが、                                                            末井先生は、こんな話を時折ジョークを飛ばし、またみずからも、「あ、あ、あ」という妙な笑いをしては聴取を笑わせ、そしてまた、唾を飛ばすような熱弁でお話しして下さいました。

あの当時、わたしにとっては話術の面白さと内容の不思議さで感銘しながらも、面白くきいていたのですが、いま思い出しながらこれを書いていると、めがしらが熱くなり、涙がこぼれそうになりました。末井先生、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございます。

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心配無用

2013年12月21日 | 信仰

少し長いが、谷口雅春先生著『愛と光の生活』(日本教文社)からの抜き書きです。

○考えて見ると吾々を「肉としての人間」と自覚する限り死刑の宣告を受けた死刑囚と同じであります。・・・・・生活難も何もないのに、ただ「自分は死刑囚だ」と考えるだけで苦しいのであります。釈迦もその苦痛を脱するために家出せられた。父王の嘆きも顧みる暇がなかったのであります。それは人間を肉の方から見たらまさにその通りであります。ところが人間は肉ではないのだ。その中に宿っているところの不滅の理念こそ人間である。「内に宿るキリスト」「一切衆生悉有仏性」の其の「仏性」こそ本当の自分である。その仏性が仏性たらんとして慈悲を行ずるために此の世に生まれて来たのが出生であり、また「父と子」の理念を実現するために生まれて来たのが出生であると云うことが判るならば、はじめて親孝行の心が油然(ゆうぜん)と湧き出て来るのであります。吾々の本当の親は神様でありますが、その「親と子が一体である唯一神の理念」が現実になるためには現実の親と現実の子が地上に顕れねばならない。父母ありしがために、神のいのちが地上に神性受胎を実現するところの機縁が与えられたのであります。                                                                                 例えば宇宙には空中電気が充満しているのですけれども、それが陰陽に分かれて再び結び合って呉れたので、はじめて空中電気が熱エネルギーとなり、光となり動力エネルギーとなって働きを顕して呉れるようなものであります。 P127

○われわれは宇宙に満つる「神の生命そのもの」であると云っても、「仏性即自分」であると云っても、それが実現するためには陰陽の結びを必要とするのであります。父母陰陽の結びと云うものは、吾々「仏性」なる自分が神聖受胎する神聖なる機縁を与えて下さったのであります。これが父母の愛であります。斯う観じて来ますと、父母の恩が海よりも深く山よりも高きことが判って来るのであります。吾々は親の肉体本能のために犠牲になったのではなく、親の愛が、愛の念波が、宇宙普遍の生命――仏性――を引出してここに神聖受胎せしめられたのであります。決して親の「無明」によって、十二因縁をたどって人間は受胎したのではありません。 P128

 

いやあ、すばらしいなあ。(素晴らしい芸術品を見ているような思い)

ほんと、思想の芸術だなあと思います。

これを読んで、感銘と共にはじめて「なぜ親孝行しなければならないか?」その意味が分ったような気がしました。

 

わたしは今シアワセな日々を送っていて、「こんなことなら今まで何にも心配することなどなかった。心配は全部無駄だった」と、時々思ったりします。                                                                                                                                          心配したことがが無駄になったのなら、「ああ、良かった」と喜べばいいようなものですが、おかしなもので、損したようなを気分になるのです。だから、これからは心配などしないで、もっとゆったりと楽しく生きようと思います。

「退行催眠」治療の記録が書かれた本を読みますと、本に書かれている範囲でのことですが、生まれ変わりの回数が20回前後と云う人が多いようです。それで仮に20回生まれ変わっているとすると、普通の臨終は5回ぐらいで、あとの15回は、いわゆる不幸な死という、ざっくばらんに言うとそんな程度の割合になると云う記事を読んだ記憶があります。この割合はともかく、誰でも過去に何回かは飢饉による飢え死にとか、疫病などの流行り病や個人的な病死、地震や津波といういわゆる天災、あとは紛争とか戦争、個人的な争いなどで死んでいると思ってまちがいはなさそうです。

とすると、わたしも例外ではなく、何度かは世間で言ういわゆる不幸な死を経験していることになります。しかし、過去にどんな不幸な死に方をしているにしても、今、こうして幸せに生きています。それを思うとなんだか不思議な気がするのですが、それとともに、ここでもやっぱり心配するだけ損だなということを思ったりします。

それに、周囲の人は、非業の死をとげた人を見て「気の毒に」と思うかもしれませんが、本人はきれいな花園の中を気持ちよさそうに歩いているかもしれません。

それからしばらくすると、この下の写真のように生まれ変わって来るわけです。                                 そして、まわりの人たちから、                                                                      「わあ、かわいい!」「笑った、笑った」と、まるで、天使が笑ったかのようにうれしそうにはしゃがれます。

 

どうですか、この笑顔。                                                                             まさに、天使のいのちを宿した顔ではありませんか!

 

だから、肉から見れば、生まれて死ぬ、それだけのこと。                                                  そして内から見れば、                                                                            ○仏性が仏性たらんとして慈悲を行ずるために此の世に生まれて来たのが出生であり、また「父と子」の理念を実現するために生まれて来たのが出生である。

というわけで、これからも心配はやめましょうと、またまた思ったことでした。

有り難き哉、神性受胎!

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テレビ番組紹介・お見逃しなく

2013年12月02日 | その他

わたしはテレビ番組欄を結構注意深く見ています。

特にNHKやBS2はときどき絶対見逃せない番組があるからですが、今日も注意深く見ていましたら、これは見逃せないという番組がありました。

午前9時からの ≪名作選「世紀の難問に挑む~数学者の格闘≫と題する番組です。ワクワクしながらさっそくインターネットで番組内容を調べてみましたら、それにはこう紹介されていました。

○宇宙は一体どんな形なのか? 人類が長年にわたって問い続けてきた謎に迫る数学上の難問「ポアンカレ予想」が、2006年に証明された。証明したロシアの数学者グリゴリ・ペレリマン(当時41歳)は、その功績により、数学界最高の栄誉・フィールズ賞の受賞が決定。しかし受賞を拒否し、行方をくらましてしまう。数学者はなぜ難問に挑み続けるのか。ポアンカレ予想が解けるまでの100年にわたる天才たちの格闘のドラマに迫る。

そして、さっそく録画予約し、午後、録画したものを見せてもらいました。                                            今、ここにその内容を紹介している時間はありませんが、明日また、同じ時間帯に第二弾として次の番組が放送されるとのこと。                                                                                 題して≪プレミアムアーカイブス「素数の魔力に囚(とら)われた人々 リーマン予想」≫

で、その内容はというと、                                                                               ○数学界最大の難問といわれる「リーマン予想」。「素数の謎」を解き明かし、さらには宇宙法則とも関係するのではないかといわれるこの難問と人類の世紀を超えた格闘を描く。

と、紹介されていました。

私はポアンカレ―予想とはどんなものか、また、リーマン予想とはどんなものかと聞かれても、まったくわかりません。しかし、いまどきのテレビではコンピュータグラフィックを使って、ともかく、超概略ぐらいはわかるように説明してくれるので、とてもありがたいのです。そして、数学者と言われる人たちとはいったいどんな人たちなのか、ということにも興味があります。

信仰はある意味で、目に見える以上のものを観ようとする訓練、あるいは見方を変える訓練でもあると思いますが、研究者たちの世界も、その意味では同じで、ともかく人間は、なんにしても視界や奥行きを広げる訓練をしているのではないでしょうか。そんな意味でも、こう言う番組はとてもいいと思います。

興味のある方も、また、ない方も、どうぞお見逃しなくね。                                                見なきゃ、そんですよ。ははは。

ついでに、最近、わたしが楽しみにしている番組は、「YOUは何しに日本へ」です。

 

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