中学生で15歳になる少女がいた。彼女の父親は血のつながっている本当の父親ではないが、彼女はまだそのことを知らない。
ある時、彼女の母親に友人から1通の手紙が来た。その手紙は、フランスに住んでいた母親が若かりし頃の恋人だった彼―—娘の父親――が他界したことを知らせるものだった。
それで母親は、娘に本当のことを知らせる時がきたと判断し、娘に「あなたの本当の父親は・・・」と本当のことを話した。
事実を知らされた娘は、なぜもっとそれを早く教えてくれなかったのか、今までほんとうの父だと思っていたのは「ニセモノの父だった」と騙され続けてきたような不信感に襲われた。
娘は思う。
「もっと早く知らせてくれてたら、その本当の父に逢うこともできたのに。いくら逢いたくても、もうその父の顔を見ることもできない。それを不可能にしたのは、ニセモノの父ではないか」
「私を妊娠していながら今の父と結婚するなんて何という不潔な母だ。それに父も父だ。他の男の”子”を妊娠している女と結婚するなんて、なんという不潔さだ」と。
そして、15歳の少女はすぐにでも不潔な父母のもとから飛び出したい衝動に駆られて悩むのだった。
「なぜもっと早く真実を教えてくれなかったのか」と迫る娘に対して、母親は言う。
「あまり幼いときに知らせても、“本当の父親のない子”という劣等感を持つようになってもいけないので、時期を考えていた」と説明する。
しかし娘は、
「私の父親の子を孕みながら、他の男の妻になるなんて不潔だ。その不潔な母から生まれた自分も不潔だ」と、どうしてもその思いを拭い去ることができず、悩むのだった。
そして、少女は他に相談相手もいないので、中学の担任の女の先生にその悩みを打ち明けた。
するとその先生は、
「私はあなたのお母さんを尊敬します。そういう恋人から棄てられたような悲しい状態にありながら、あなたをおろそうともせずに悲しい環境に打ち克って、あなたをここまで育てて来たお母さんを私は尊敬します。そのお母さんの過去を見ないで、お母さんと一緒に、あなたを自分の真実の子として育てて来たお父さんを尊敬します。一度直接お父さんの考えを聴いて御覧なさい」というのであった。
それで、少女は父親に尋ねた。
「なぜ他の男の子を孕んでいるお母さんを妻などにしたのですか?」
父「私は彼女を好きだった。愛していたからだ。それだけだ。他の理由はない。愛する者を愛したとて、どうしてお前はそれを汚れたというのだ。過去は過ぎ去ったことで、もう過去はないのだ。私はお母さんの過去に引っかかろうとは思わなかった」
娘「なぜもっと早く、本当のお父さんが別にあるということをわたしに知らせてくれなかったのですか?」
父「もし、お前にそれを知らせて、お前がそのお父さんを慕って行くというようなことになれば、そこに悲劇が起こるかもしれない。私はお前を愛しているから、お前を私から奪っていこうとするかもしれないその男を殺す気になったかもしれない。私はお母さんの過去を自分の家庭に持ち込まれ、お前の心の中に持ち込まれるのを好まなかったからだ。」
娘「だってお父さん、あなたはわたしの血のつづいているお父さんではない。本当のお父さんではない。本当のお父さんでもないのに、本当の父のような顔して私をだましつづけて来た」(娘泣く)
父「15年間、自分の本当の娘と思って愛してきたのに、ただ、血がつながっていないというだけで、お前はわたしを“本当の父”ではないというのか。“本当の父”というのは、ただ血がつながっているだけで、お腹の中にいるお前を棄てたその男の方が“本当の父”だというのか。“本当の父”というのはそんな浅墓なことなのか。15年間も“本当の娘”として“父”としてお前を愛し育ててきた愛はそのままで何の価値も認められずに、空しくなって行くものか」
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以上は古い『生長の家』誌の中に紹介されていたテレビドラマ(「中学生の群像」という番組)のあらすじですが、考えさせられるところがあったので、少し編集してここに紹介させていただいたものです。
そして、このドラマの最後は、
「過去はないのだ。今ここに、本当の父と娘とがあるではないか」という意味の言葉で、娘の心は落ち着き、the endとなったようです。
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しかし、それにしても「本当の父親」ってなんですかねえ。
もし、自分がこの娘だったら・・・やっぱり、この娘のように悩むだろうし、
この父親だったら・・・やっぱりこの父親のように、娘に向かって同じことを言うだろうと思う。
しかし、娘だったら・・・はたしてこの父親の言葉に納得しただろうか?
多分、20代が終わるころまでは自分の運命をアレコレと考えざるをえなかったに違いないと思う。
そして、そのことがきっかけとなって、人間について、人生について、本を読み考えたりし、そうしているうちにも人生は先へと進んで行き、そのうちに結婚し、子供ができ親となり、さらに孫ができるころになると、きっとそれで良かったと思えるようになるのではないか。
そんなふうに考えられるようになるのは、自分も人生を生き、人生が必ずしも自分の思うようにはならないことを学び、父や、母の苦しみや、それに負けず頑張って自分を愛し、育ててくれたことを、自分の人生と重ね合わせて理解できるようになるからだろう。そうなったとき、父よありがとう、母よありがとうと、心から感謝できるようになっているのではないか。
そして、そんなことをぼんやり考えていると、自分の父、母が恋しく懐かしくなってきたことでした。
そういえば、もうすぐ8月、盆ですね。
父母のしきりに恋し雉の声 (芭蕉)
闇の夜に鳴かぬ鴉の声聞けば 生まれぬ先の父母ぞ恋しき (道元禅師)