気の向くままに

山、花、人生を讃える

御在所岳へ

2013年11月25日 | 

日曜日、数年前から登山を始めた近くに住む誌友に誘われ、4人で鈴鹿の御在所岳に登った。                             春には裏道コースで登ったが、今回は、わたしははじめての中道コースだった。                                      このルートは途中、奇岩怪石が多く、展望も良さそうなので楽しみだった。                                      行ってみると期待通りで、急な登りが続くが、それだけにアルペン的な雰囲気もあって、大いに楽しませてもらった。

 

登山口を目指して沢沿いに進む 8時04分                                                           湯の山温泉は紅葉真っ盛り (写真の写りは良くないが実にすばらしいものだった) 

                                

 

「おお、お見事!」と木に向かって声をかけたくなる。 8時06分

 

「わあ、きれい!」 8時16分

 

 

≪負れ石(おばれ石)≫ 9時30分

 

 

 9時37分

 

≪鎌ヶ岳≫  9時41分                                                                                                                                                 

 

≪地蔵岩≫ 865m付近 9時50分

 

≪六根清浄≫ 正面は目指す御在所岳 9時51分

 

≪一休み≫ いよいよ山頂も近付いてきた  9時55分

 

≪ケルン≫  10時01分

 

≪立石≫ 10時22分

 

「絶景かな~、絶景かな!」 11時01分

 

≪展望≫  「行者様、出発しますよ」 「ちょっと待て。今、霊魂が飛び出して散歩中なんだ」 11時01分

 

山頂到着。 眼下は「湯の山温泉」  11時15分

 

帰りはロープウエイで。 11時59分

 

ロープウエイの中から見た紅葉の「湯の山温泉」。 11時24分

以上が今回の山旅のハイライト。

ひとりなら山頂でもう少しゆっくりしたいところだったが、今回はおにぎりを食べてすぐ下山。                                   下りはロープウエイを使ったせいもあって、昼には駐車場に着き、いつもの近くの温泉に入り、「いい湯だな、ハハハン」と楽しんで帰路に就いた。

御在所岳、やっぱり良い山だ。

 


紅葉

2013年11月21日 | その他

昨日は車で1時間の「養老の滝」へ家内と紅葉を見に行った。

紅葉は初期の三段紅葉が一番きれいだが、もう全体が赤く色づいていた。                                       二人で写真をせっせと撮り、どことなく昭和情緒ある土産物屋をのぞき、その後は川べりで途中の弁当屋で仕入れたおにぎりを食べ、柿をつまみ、コーヒーを飲み、「ああ、良かった!満足、満足。またこうようネ」と言いながら、次の場所へ向かった。

養老山地の紅葉

 

 

 

この店は、80歳ぐらいの元気なばあさんが座って店番をしていて、わたしが山へ登った帰りにここを通ると、いつも「山へ登ってきたんですか?気をつけてお帰り」などと声をかけてくる。あんまり親しく声をかけられると恥ずかしくなるのだが、今度、声をかけられたら、寄ってみよう。ばあさんと世間話も面白いかもしれない。家内の話によると、最近テレビに出ていたそうだ。みんなに声をかけるちょっとした名物ばあさんなのかもしれない。

 

次は三重県と岐阜県をつなぐ山越えのスカイラインのような道を走る。その一番登り切ったところに、「庭田山山頂公園(標高700)」があるので、そこへ寄ってみた。何でもない公園だが、180度の展望があり、濃尾平野を一望に見渡せて、名古屋、岐阜、大垣の街並と視界が良ければその向こうには御嶽、乗鞍などアルプスの山々も見渡せる。この日はあいにくと視界が悪かったが、その一画で見事な紅葉の林が見られた。

 

 

 

帰りは「月見の里」の道の駅により、100グラム630円なりの地元産「ほのか」というお茶を5つ買った。値段は安いが味の方は1000円のお茶よりはうまい。いつもここでまとめ買いをする。

 

紅葉がなんでお茶の話になるのかって?

まあ、どちらも葉ッパには違いないし・・・。

それよりも、爺が入れた粗茶で申し訳ないが、一杯どうぞ。うまいでござるよ。                                              (カップと右上角の中間に「ほのか」に白い湯気、あったかいでござる)

オ・モ・テ・ナ・シ 


花からの暗示

2013年11月18日 | 信仰

「生長の家」では人間本来罪無しと教えられている。                                                                             そして、きっとそれは真実であるに違いないとわたしは信じている。そう信じてはいるのだが、しかし、「神の完全円満ないのちだから罪無し」と観念的には考えられても、じゃあその罪なきいのちとはどんなものかと想像を働かしてみても、具体的に想像することができず、最近までのわたしにはなんのイメージも湧いてこなかった。

今年の4月1日、足慣らしで近くの山へ登ったときに、バイカオウレンという白い小さな花が咲いているのを見つけた。珍しい花ではないが、この山で見たのはこの時がはじめてで、まだ咲いたばかりのときだったせいか、本当に花の妖精を見るような特別な感銘を受けた。

そして、その花に見入っている時、「混ざり気がない」「穢れがない」「汚れようがない」「真っ白」「純白!」という言葉を連想し、「本来罪なき実相のいのち」とはこんなものか、と思った。

それからは、神想観で「神の無限の生命の海なり、神の無限の生命の海なり」と念じるとき、この花を見た時の印象を思い浮かべ、罪なく、病なく、汚れようにも汚れようのない、穢れようにも穢れようのないいのちをイメージするようになった。

それは言って見れば、真っ白な花の色であり、澄んだ谷川の水であり、そこから花や谷川の形を取り払ってしまって、そのイメージだけが残ったもの、それが空気のように自分の周りに満ち満ち、また生命の河となって流れている。そして、最終的には呼吸と共にそのいのちを吸いこんで、自分のいのちも、それと同じいのちである、と、今はそんな感じで神想観をしている。

ただ、いつもこのようにはっきりイメージできるわけではないし、すでに、当初の頃の印象も薄れかけている。それでもこのように「本来罪なきいのち」をイメージできるようになったのはうれしい。それは普段自分が思っている自分とはまた別の「自分」である。

言葉にすると誇大になってしまうが、心の中に「罪なく、病なく、汚れようにも汚れようがない!」そんな看板が掲げられているような感じで、それが自分の中では合言葉のようになっている。

 

ところで、最近、谷口雅春先生の『愛と光の生活』を読み始めた。                                                    その中には、「凡てのものがあなたに話しかけている」という小見出しがあって、こんなことが書かれていた。

○同じ花でも、朝日に照り輝いている花は暖かいうれしい感じを与えます。それはその花が「暖かい、嬉しい」と私達に話しかけているのです。雨にぬれている花は悲しいしょんぼりした感じを与えます。それはその花が「雨にぬれて悲しい」と語っているのです。

○すべてのものはカーテンでも、テーブルでも、本の表紙でもみんな何かを話しかけているのです。あなたたちはそのコトバをきいているのです。そのコトバが知らず識らずあなたの心に應へて、あなたの心を動かすから、あなたは何を見ても、そのものから一々別な感じを受けるのです。此の「知らず識らずあなたの心に應へるコトバ」を暗示というのであります。

○聲を出さないものでも、吾々に常に何かを話しかけている。このことを知らない人は折角ひろい世界を狭く生きている人であります。聲あるコトバだけを聴いて、聲なきコトバを聴くことの出来ない人は、半分の聾(つんぼ)です。

 

「半分の聾(つんぼ)です。」というところには、ちょっとピックりしたが、もしかして花に見入っている時、勝手に自分が連想したのではなく、知らず識らずのうちに花と自己同一して、花と無言の会話をしていたとしたら、嬉しいことだ。
このあと、『愛と光の生活』にはこのようなことも書かれていた。

 

○もし、皆さんの部屋の飾りものがみんな明るく楽しいものばかりでありましたならば、あなたはその部屋にお入りになることによって、明るい楽しい気持ちになって、愉快な歌でも歌いたくなるでしょう。それはその部屋の飾り物が「私は明るいんです。私は楽しいのです。私はとても愉快なのです。一つ一緒に楽しくなろうではありませんか。楽しい歌を歌おうではありませんか」と聲なきコトバで話しかけるからなのです。

 

バイカオウレン(梅花黄連)  4月1日撮影 

 


神様に「ありがとう」と言える幸せ

2013年11月15日 | 信仰

昨日、自分がすごく幸せであることに気がついた。

といって別に大げさなことではないのだが、夜寝しなに簡単な神想観の後、「(神さま)ありがとうございます」を唱えていたら、要は、健康で、働く仕事もあり、住む家があり、不自由なく生活できるお金もあり、車もあり、テレビもあり、パソコンもあり、生活用品の一切がそろっていて、仕事の後には菓子をつまみながらコーヒーを飲む楽しみな時間があり、好きな本を読む時間があり、目指す夢があり、神がいて、知人がいて、似たもの夫婦の家内がいて、何の不自由不足もないことに気がついたというわけです。

まあ、ここにあげた程度のことは現代の日本人には珍しいことではないが、しかし、気がついて見れば、何の不自由も不足もなく、あることといったら、反対に楽しみなことばかりではないか。

それなのに、いままで、いったい何を不足のように感じていたのだろうか、ちょっと不思議だ。

 

ここまで書いて思いだしたのだが、昔、飛田給練成を受けた時、徳久先生がこんな話をされた。

「笑っている時、笑っているのは顔だけでなく、全身が笑っているんですよ。皆さん、針で足の裏をちょっと突っついてごらんなさい、痛っ!となるでしょ?足の裏を突いたんだから、足の裏だけが痛くてよさそんなもんなのに、全身が痛っ!となりますね。これとおんなじで笑っている時は、全身の細胞が笑っているんですよ。」

と、まあこんな話だったのだが、これとは少し違うが似たようなものだろう。
他のすべてが満たされているのに、ときたま現われるちょっとした小さなこと、思いどおりにならなかったことに気をとられ、不平を起こし、そのことに、また、自分のいたらなさを思って、自分への不満を感じたりする。

だが、本当はこんなにも幸せであったのだ。                                                                        恵まれた環境、そして、あるのは日々の楽しみだけ。                                                         時折の不満に思うような事柄も、実は生活の味付けである塩、胡椒のようなものだったのだ。

 

だが、ちょっと待てよ。ここまで書いたことだけでは、なにかまだ足らない気がする。
そうだ、こんなに恵まれた生活も、やっぱり神がいなかったら味気ない。神様に「ありがとうございます」と言える、幸せ。                                                          神がいて、神様に「ありがとう」と言える幸せだ。

 

         ≪窓からの朝焼け≫

      

     寒くなるにつれ、朝の光は一段とうれしいものだ。思わず顔もほころぶ。

 

       ≪幸せを運ぶ道具たち≫

     

剪定の仕事をするようになるとは思いもしなかったが、道具を見ていると、いかにも剪定職人になった実感がわいてくる。それとともに、幸せ気分になってひとりでに顔がニンマリになる。自分が剪定を仕事にしていることが不思議だ。


未来の自分を救う

2013年11月07日 | 信仰

最近、2005年ごろに放送されたというNHKの「気候変動」と題した番組を見た。
これは1回1時間30分、3回シリーズの特集番組で、今年の春に「プレミアムアーカイブス」と題して再放送されたときに録画し、今回見たのは二度目である。

 

ここにその内容を書くことはできないが、いま、すでに温暖化がもたらす気候変動、環境変化が確実に忍び寄ってきているのを実感させられて、恐ろしさを感じた。跳ね上がった一分の環境論者の話ではなく、地道な研究を続ける世界の科学者たちの観察や研究結果からの報告であり、予測であり、警告であり、気象予報官、世界各地の住民たちの、今までこんなことは一度もなかったという驚きの声である。

 

世界一水量が豊富と言われるアマゾン流域の一分だが過去に例のない干上がり、欧州を襲った熱波、乾燥による森林火災、砂漠化により家が砂に埋もれ、廃墟となりつつある村、氾濫する洪水、大型化する台風やハリケーンなどの熱帯低気圧、さらにはいいまでなかった、熱帯低気圧のような温帯低気圧。日本が誇るスーパーコンピュータの50年後、100年後を予測するシミュレーションによれば、この程度のことはまだ予兆程度のものだろう。

 

日中がどうの、日韓がどうのと、そんなことを言っている場合じゃないと、ほんと、そう思った。コピーできるものならコピーして多くの人に見てもらいたいと思ったが、NHKの多くの番組は残念なことにDVDに移動はできてもコピーができない。人々を眠りから目覚めさせる番組なんだから著作権などとケチなことを言うな、といいたいところだが、そうもいかないらしい。

 

『神との対話』には「あなたがたは、自分に危険が迫るまで、見て見ぬふりをする。どうして見て見ぬふりをするかと言えば、見れば何とかしなければと思う。だが、あなたがたはそれをしたくないのだ。」

 

というようなことが書かれていたが、こう言う番組を見ると、見て見ぬふりもできなくなってしまう。わたしも今まで「見て見ぬふりをする」一人だった。環境問題が大切だと思ってはいても、自分になにができるかといえば、できることはごくごく限られている。すなわち、できるだけ二酸化炭素を出さないよう、エネルギー消費の節約を心掛けることだけだ。しかし、これからは、自分にはそれしかできなくても、環境意識をもった人の輪を少しでも広げてゆくよう努力していこうと思った。

 

今までは、息子や娘、孫たちのことは、あの世から守ってやろうとなどと薄ぼんやり思ったりしていたが、よく考えてみれば、自分が20年後に死んでこの世からいなくなったとしても、またその20年、30年後にはここに生まれ代わっているかもしれないのである。となれば、環境問題に取り組むことは、事ではではなく、未来の自分自身を救うことだったのである。

 

生長の家では、総裁先生のリードで環境問題に熱心に取り組んでいるが、それは自分以外の未来の地球や、人類、多種多様な生物のためとばかり思っていた。その一方で本来の宗教的教えがその分希薄になりつつあるようで多少の不満も覚えていた。しかし、総裁先生が環境問題に力を注がれるのは、実はほかならぬ未来のこのわたしを救うためでもあった。そう気がついて、有難くなって、心から感謝せずにいられない気持ちになった。

 

来年3月16日、愛知県体育館で講習会が開かれる。一人でも多くの人をお誘いし、環境意識を持った人の輪を広げよう、そう思ったことだった。