気の向くままに

山、花、人生を讃える

ホタル、海牛、そして息子

2011年06月24日 | その他

ホタルの季節だが、小さい頃、「あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ」と歌いながら、爺さん、あるいはばあさんに連れられてホタルを見に外へ出たという記憶はあるが、実際にホタルを見たという記憶はない。

わたしがホタルを見たのは高校生になってからである。
私の高校は三重県鳥羽市で繁華街から2、3キロほど離れた田舎にあって、目の前は入江で、その反対側に向かって少し入ると、そこはもう山里だった。麓には水田もあり、山から流れる小川や用水路があって、今頃の季節になると水田や道端をホタルが優雅に飛び交い、海岸に沿って走る国道まで飛来してくるぐらいだった。夕方6時の点呼が終わると、数人で連れ立っては散歩に出かけるのだが、1年の内でもホタルの飛び交う今頃が一番楽しい時期だったと思う。

この頃になるともう海の季節で、岸壁に行けば、日が沈みかけた濃紺の海がいっそう気持ちがいいし、黄昏時ともなれば夜光虫がまたきれいで、濃尾平野で生まれ育った私には別天地のようだった。

この前、テレビで久し振りに海の岩場に生息する牛そっくりな形をした海牛を、高校卒業以来はじめて見たのだが、この海牛を初めて見たときのあの新鮮な驚きを懐かしく思い出した。
今頃の季節になると、伝馬船(1本の長い櫓かいを左右に揺するようにして漕ぐもの)で海上の散歩もよくしたのだが、岩場に舟を止めて水の中を覗き込んでいたら、牛そっくりな形をした10センチほどの生き物を見つけた。その時、あまりに牛そっくりなのにびっくりしてしまった。何かの間違いではないかと思ったぐらいてある。しばらくこの珍しい生き物を棒で突っつき向きを変えたりして眺めていたが、このような生き物がいることが実に不思議でならなかった。後で海牛と教えられたが、それ以来、海の中を覗くのがますます楽しみになった。

7月になって期末テストが終わると、夏休みまで毎日2時間ほどの遠泳があった。
その遠泳も楽しかったが、夏休みの帰省が間近なので、いっそう浮き浮きした楽しい気分になっていたのだろうと思う。

3年生になると自分でヨットも乗れるようになるので、午後の科目はよくサボってヨットで遊んだ。
ヨットは数隻しかなく、早い者勝ちだから授業でもサボらない限りなかなか乗れない。この点、劣等性のわたしは授業をさぼるのは朝飯前だから、この時ばかりは劣等生を喜んだ。
帆に風をいっぱいに孕んで艇を傾かせながら、狭い岩礁の間を通り抜けるのは実にスリリングで、まさに愉悦の時間だった。そして、この時ばかりは、この学校に入学したことを思う存分に喜んでいた。

先日、有料施設の『なばなの里』というところへ、ホタルを見に行った。
息子がデートで行ったのだと思うが、「なかなかよかったよ」と薦めてくれたので、それではと出かけた。広い敷地をもった公園で、流れも作ってあるのでホタルの幼虫を放して大きくなったものだと思うが、ホタルの見るのはともかく本当に久しぶりのことであり、高校時代を懐かしく思い出したのである。
しかし、ここのホタルは思ったより多くはいたが、その飛行範囲はほんの1、2メートルで、昔見たホタルのように優雅に飛び交うというほどではなかった。が、昔の楽しい思い出を思い出させてくれるには充分であった。

ところでこの息子(二男)が、最近、出社前に神棚と仏壇にお参りしていくようになった。わたしは気づかなかったが、家内が教えてくれて注意して様子をうかがっていると、なるほど本当のようである。
わたしはもちろん、家内の指図でもなく、自分から始めたことらしいのでわたしは驚いている。
驚きと書いたが、正直に言えば感動である。
信仰があるならともかく、そうでもないのに、自発的自然にこのようなことができるのは、自分にはない、何か余程いいものがあるように感じられて感動させられる。

その息子は、先日の「父の日」に、デジタルフォトスタンドなるものをプレゼントしてくれた。
わたしは両親に大切に育てられたが、わたしが両親にこのようなプレゼントをしたことがなかった。
反対に他界するまで、こちらがもらっていたぐらいである。

娘も親のわたしたちが感心するぐらい親孝行であるが、わたしはいつも、親孝行とはこういうものかと、眼を覚まさせられるような気がする。それと同時に、自分が両親を喜ばすことは何一つしなかったことを本当に申し訳なく思うのである。

変な話になったが、息子が買ってくれたフォトスタンドに今までの写真から傑作を選んでこのフォトスタンドに入れているのだが、こんなことをしているとあっという間に時間が過ぎていく。
しかし、息子のプレゼントだから、わが写真の傑作選のスライドショーを見て、せいぜい楽しませてもらおうと思っている。

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宇治へ

2011年06月16日 | その他
昨日は宇治別格本山へ両親の祥月命日供養に出かけた。
10年ほど前から毎年春の恒例にしているが、今年は少し時期がずれて6月になった。

供養祭は午後2時からだから、その前にいつも近くの名所を観光見学している。
今年は、西国十番札所の三室戸寺を拝観した。

この寺はアジサイ寺とも称されているようで、たくさんのアジサイが見ごろを迎えていて、平日ながら大勢の人が訪れていた。山のふもとにあり、10時頃にはまだひんやりとした冷気が漂ってきて心地よかった。

 

 

宇治へ来たら、やはり宇治川の流れを見ないわけにはいかない。
早い流れがいい気持ちにさせてくれる。穏やかなせせらぎもいいが、宇治川のあっという間に過ぎていく早い流れはそれ以上に気持ちが良い。

 

12時半に幽祭殿に着いたが、先客が聖経をあげていたので、残念ながら神想観はあきらめて礼拝だけですませた。

供養祭では父母の名前が呼びあげられ招霊されるのを聞くと安心したのか猛烈に眠くなった。が、さいわい聖経読誦になったら目が覚めて、しっかり読むことができた。

今年は時期を失したので供養祭は御無礼するつもりでいたが、義母が行きたがっているというので、それならと出かけたが、今年も姿は見えねど懐かしき父母にまみえることができて本当によかった。
次は盂蘭盆供養祭で逢いましょう、と宇治を後にした。
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「山の辺の道』を歩く

2011年06月13日 | 信仰
昨日は相愛会企画の行事で、奈良県の「山の辺の道」のウオーキングを楽しんできた。

総勢86名(奥様同伴が半数ほどか)のバス2台。
7時に教化部を出発して、9時には歩き始めただろうか。
はじめ曇り空で、1時頃から雨が降り始め、2時半に終着点で待機していたバスに乗った。

雨に降られたけれど、それがかえってよかった。
晴天で日が射していたら、それこそ蒸し暑さで大変だったと思う。

それにしても「山の辺の道」、本当にいい所だった。
知る人ぞ知る有名な人気コースらしいが、天気のせいもあってか、この日は人気も少なくコース上のどこも静かで、緑多く、見どころも多く、古の万葉の雰囲気がいたるところに残っていた。
参拝した神社も、みな昔のままのように飾り気もなくひっそりとしていた。
そんなところへ雨がしとしと降るものだから、いよいよ静寂さが増して、まさに集団タイムスリップしたようだった。

大和神社(おおやまと神社)参道と、本殿
 

コースにはこのような標識があり、わかりやすい        道端の地蔵
 

広々とした眺めの良い休憩所                  柿本人麻呂の歌碑
 

伊射奈岐神社(イザナギ神社)                  崇神天皇陵
 

景行天皇陵                           緑うるわしき山の辺の道を行く
 

途中にはこのような無人の野菜直売所も・・・     
 

大和三山の一つ三輪山を眺めながら、快適に歩く (ただいまの時間は12時08分)



この集落の地名を青垣というと誰かが教えてくれた。
ヤマトタケルノミコトが歌った
    倭は 国のまほらば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭し美し
は、この辺りだろうか。看板にはこのような環境を守るため、この辺りを国定公園にしているとのこと。
 

檜原神社(ひばら神社)。祭神は天照大神、イザナギノ命、イザナミノ命。
本殿は設けず、三輪山を御神体としているとのこと。
 

大神神社(おおみわ神社) 祭神は大物主神。日本最古の神社の一つに数えられ、古代の自然信仰の形を残す珍しい形式の神社だとのこと。ここも本殿は無く、御神体は三輪山とのことである。重要文化財。
 


久し振りに長距離を歩いて疲れたが、時空を超えて旅したような楽しい1日だった。
また、是非行きたいと思う。
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「へっぴり腰」よ、さようなら

2011年06月08日 | その他
先程、庭に落ちていたゴミを拾おうとしてしゃがんだら、造作もなく腰が曲がって、以前と変わりなくしゃがんでゴミを拾えたので、「腰が曲がる!」と驚いた。まるで奇跡でも起きたようだ。
思わず、花に水やりをしていた家内に向かって「おい、腰が曲がったぞ!」と喜びの声。

突然にこのように曲がるのだから嬉しい驚きも無理はない。昨日まで靴を履くのに不自由を感じていたのだから。
顔を洗うのにも、腰のかわりに膝を曲げたへっぴり腰スタイルで顔を洗っていたぐらいである。
それに、今朝は仕事に向かう剪定班の人達に「まだ腰が思うように曲がらない」という話をしてきたばかりだった。

このところ、KEK(高エネルギー物理学研究所)のホームページの記事を読んでいるが、2時間もパソコンに向かっていると、腰に痛みを感じだす。腰をまっすぐにしているつもりでも少しは曲がるからだろうが、たいした痛みではなくとも現実に痛みを感じると、「これで本当に元通りになってくれるだろうか」と不安を覚えたりする。
昨日などは、家内に「腰が痛い」と言うと、家内はいつものように「大丈夫、大丈夫、きっと良くなる」言う。それでわたしは「たまには『大変ねえ』と言ってくれると嬉しいんだけどなあ」などと、そんなことを言っていた。

今思えば、パソコンに向かうのも、一つのリハビリになっていたのかもしれない。
なんにしても、とうとう腰がすんなりと曲がるようになってうれしい。
なんと言っても4ヶ月ぶりのことだから、「ああ、神様、仏様、有難うございます」の心境です。

そう言えば、『甘露の法雨講義』だったか、生まれつきメクラだった人が、20歳すぎて突然に目が見えるようになった時、いろいろな形や色がいっぱい眼の前に現われたので、ビックリして腰を抜かしそうになったという話しがあったっけ。

そうだよねえ。毎日当たり前のように見ている風景も、今まで音や声の中だけの世界で生きてきた人が、突然にこの風景を見たらビックリするだろうねえ。想像してみると面白い。

素粒子の世界を研究している人たちは、分かればわかるほど謎が深まって、その探求に夢中になっている。
たかが物質、されど物質だな。
ここまで来ると、物質と言うより、「霊妙不可思議ななにものか」といったほうがいいかもしれない。
きっと研究者たちはそんな気持ちだろう。

おかげで、わたしも「へっぴり腰」から解放された。

さあ、肉体よ、いざ踊らん

     骨々ロック、骨々ロック


追加
昼食後、家内の前であらためて、ほら、こんなに曲がるようになったと、おどけてゴミ拾い踊りのようなしぐさをしてみせると、家内が笑いながらホントに不思議だねえと言いつつ、一つ種を明かしてくれた。

家内は5月下旬に皇居清掃奉仕に行ったのたが、その時の宿泊場所が飛田給の練成道場で、そこでわたしのための聖経法供養を申し込んで来てくれていたとのこと。「聖経法供養」とは、申し込んだ人のために、1ヶ月間、毎日10巻、聖経を読誦してくれるとのこと。
たった今初めて話してくれたのだが、なるほどと思ったので追加で書かせてもらった。

コメント (1)
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