気の向くままに

山、花、人生を讃える

剪定班のサムライたち

2018年03月23日 | その他

わがシルバーの剪定班は8人中7人が御年70歳を超えていて、しかもそのうち6人は75歳以上だが、いずれも疲れを知らない猛者ばかりで。さすがに戦前生まれは違うと認めざるを得ない。。

75歳以上の6人のうち3人は「疲れた」と口では言いながら、実際は疲れた気配も見せず、元気いっぱいだ。「いやあ、元気がいいねぇ!」と感心すると、「いや、やっぱり疲れるよ」とは言うが、一つも疲れたようには見えない。

残りの3人は「疲れた」とも言わないから、先日、1人に「疲れることないの?」と聞くと、「うーん、ないねぇ」と答え給うた。こうなると、元気というより、神経が鈍いのか、と思わず疑いたくなるのだが、最近になってこの人は1人暮らしということを知った。75歳を超えて1人暮らし・・・それでいて、寂しそうな「たそがれ」たところがないから、ますます尊敬したくなった。この人が剪定班にきてもう5年は過ぎたと思うが、そんなことは今まで一言も言わなかった。こちらがあれこれ聞いているうちに、はじめて聞かせてくれたのだが、それだけでも感心させられたことだった。ただ、この人はここだけの話・・・総入れ歯です! 

同じく75歳を超えている別の1人だが、仮に治郎兵衛さんとします。治郎兵衛さんは班長で剪定の仕事はもちろん、見積もりのための下見もしなければならないし、個人的に受けている仕事も少なくなく、その他に畑も楽しんでやっている。新聞に時々俳句も投稿していて、日記も毎日書いているとのこと。そしていつも明るく、前向き思考で大いに見習いたいと思っている人である。

さて、この人の自宅の近くに彼より一回り若い独り身の女性がいるそうだ。そして、治郎兵衛さんの奥さんに「お宅の御主人は本当によく働かれて、いいご主人ですねえ」と、いつも褒めるとのこと。そして、ある時、この女性が、いつものように褒めるので、その治郎兵衛さんの奥さんがこう言ったそうだ。

「そんなに良かったら、うちはもういらないので、どうぞもらってってください」

すると、近所の女性はこういったそうだ。

「いえ、わたしも結構です!」

剪定作業をしながらこの話を聞いていたが、思わず吹き出してしまった。そして、何かの拍子に思い出すと、また笑ってしまうのである。

 

思い出しましたが、昼食の時、家内はいつも「徹子の部屋」を見ていて、私は関心ないのですが、ただ、この番組の途中、中井貴一が人力車夫で2人の若い女性を乗せて走って来るコマーシャルがありますね。そして、若い女性が「あれ、中井貴一に似ていない?」と言う。そして、その後の中井貴一の仕草や表情が面白くて、何回見ても笑ってしまうのですが、皆さんはどうですか?

 

話を元に戻して、もう1人、忘れてならない人がいる。この人は剪定に関しては細かい丁寧な仕事は不得手だ。そのかわり、高いところも、人が嫌がるようなやりにくいところも、決して文句を言ったりしない。それどころか、「俺の得意なところだ」と言いたげである。それだけではない。生垣を剪定する道具に電動バリカンがあるが、切れなくなれば、しかるべきところへ出して研いでもらうのが本来なのだが、事務所はいつも予算がないという。それで、この人は自分から奉仕で分解し、刃を研いでくれるのである。こんなに気前がよくて気持ちのいい人はまずいないだろうと思う。余計なことだが、この人は前歯が何本か抜けている。だから硬いせんべいは食べられない。

 

ともかく、そんなこんなで、剪定班先輩の面々には、感心することばかりである。


おう、ビューティフル

2018年03月19日 | 

ラッパスイセンが咲き出すと、庭がいっぺんに春が来たようになる。ゴッホの絵の黄色は激しく燃えるような印象を与えるが、この花の黄色はいかにも明るい。仏壇に挿してあるラッパスイセンは、お参りするたび、ニコニコと微笑みかけているようである。それで、はじめてこの花のアップを撮りたくなったが、なかなか微笑みかけているようには撮れない。

下の写真は「ヒメオドリコソウ」だが、こんな写真が撮れると嬉しいものだ。まさに「ワンダフル、ビューティフル」と言ったところ。

 

 

 

 ヒメオドリコソウ

 

  

○毎朝、顔を洗って「顔を洗った、ああ、ありがたい」と分かるのが悟りであります。空気を吸うた、ああ、ありがたいと感謝できるのが悟りであります。 

○われわれの心が麻痺していませんでしたら、いつも顔を洗って嬉しい、いつも空気を吸って嬉しい、いつもご飯を食べて嬉しい、というように、ありがたさは天地の間に満ちているのです。このあたりまえのことに天地の恵みを自覚してありがたいと分かるのが悟りであります。 

○物質を物質として観るかぎり本当のありがたさは湧いてこないのであります。化学方程式の世界であって、あるべきものがあるべきように動いているのですから、ありがたさは湧いてこないのです。ところが物質を見ても「物質は無い」と知り、そこに神仏の愛、兄弟の愛が現われているのであると知ると初めてありがたさが湧いてくるのであります。  『生命の実相』26巻  P5~6  


講演会、そしてセツブンソウ

2018年03月15日 | 信仰

3月10日は講演会でした。講師はまだ30代の、そして生長の家に入信して4年半という若い先生でしたが、さすが宇治に奉職されているだけに、やさしい話でありながら、体験をまじえた味わいのある話に春のような幸せな気分になりました。そして、誰でも知っているやさしい話でも、味わいのある話はできるものだということを教えられました。

生長の家に奉職する前は警察官で、その頃は、何かにつけて「バカヤロウ」が口癖だったとか。たとえば「なんだって今日は雨なんだ、ばかやろう」とか、「なんだってここで信号が赤になるんだ。バカヤロウ」とか、そんな感じだったそうです。そして、悪いところを見つけるのが癖で、生長の家に来るまでは「人の良いところを見よう」などと、そんなこと考えたこともなかったそうです。そんな日々だったから、宇治別格本山の研修員になって、「ばかやろう」が「ありがとうございます」に変わり、「悪いところを見る」が「良いところを見る」に変わり、さらに神に祈ることを知り、人生が一変したという話をされました。見かけは坊主頭のその辺のお兄ちゃんという感じですが、きっとこれから年輪を加え、ますます素晴らしい本部講師になっていくんだろうなあと頼もしく思いました。

講演会は午後2時からで、私は運営委員で早く来ていたのですが、あいにく他の大きな行事と重なってしまい、もう午前中から駐車場が満杯になり、せっかく来てくれた息子も近くにも車を駐車するところがなく、やむを得ず引き返し、話が聞けずじまいで、本当に残念なことでした。

さて、話は変わりますが、今年は例年になく寒い冬でしたが、暖房は入浴後から布団に入るまでの1時間半ほどしか使いませんでした。朝は5時半に起きていますが、どういうわけか、特に我慢をしていたというわけでもないのに、暖房の必要を感じず、自分でも不思議に思っているのですが、ともかく灯油が節約でき、二酸化炭素排出もそれだけ少なかったと喜んでいます。

そして、一気に春が来たような感じですが、講演会の翌日の11日は、春の陽気に誘われて、伊吹山の麓にセツブンソウを見に行きました。去年も出かけたのですが、今年も3月の声を聞き、「春の妖精」が見たくなって出かけた次第です。その後、これも定番の三島池から伊吹山の雄姿を拝み、そして最期は水郷アクアパークを散歩してきました。以下はその時の写真です。

 ≪セツブンソウ≫

 

 

≪伊吹山≫

 

 

≪水郷アクアパーク≫


過去のすべてのものに感謝し・・・

2018年03月09日 | 信仰

私は、はじめて『生命の実相』を読み始め、読み進んでいたころは、それはそれは感激で、今でもその頃のことを思い出すのですが、そのせいか、他の人からも教えにふれたきっかけの話を聞くのが好きです。

今月出講したところでは、現在72歳になる人からこんな話を聞きました。

その人の子供が脳性麻痺だったか、正確には覚えていませんがともかく脳何とかという病気になり、そのことで心を痛めていた。そんなある日、仏壇の引き出しに生長の家の「白鳩」誌が入っているのを見つけ、何となく読んでみた。そして「いいことが書いてある」と思った。それで、もっと生長の家の本を読みたくなった。すると、彼は養子ですが、そこのばあさんが(その時は既に他界していた)生長の家を信仰していたことがわかった。そして近くに地方講師がいることも分かったので、その講師の家を訪ねていった。そこで『生命の実相』を読むように勧めらて読み、感動し、そして教化部で『生命の実相』40巻すべてをいっぺんに買ったとのことでした。彼は病院のレントゲン技師をしていたが、いまは養子先の金物屋を引き継ぎ、その仕事をしているとのこと。息子は車いす生活で、毎日作業所まで送り迎えしている。そして息子は作業所の仕事を楽しみにしているとのことでした。彼は70歳を超えているのに、まったく濁りのないとても澄んだ目をしていたのが印象的で、世の中にはこういう目をしている人もいるんだと感心したことでした。そんな人だからこそ、40巻すべてを一度に買ったんだろうと思いました。

また、こんな話を聞かせてくれた人もいました。その人は九州から集団就職でこちらへ来ました。その就職先の社長夫婦が生長の家の信仰をしていて、彼は奥さんのアッシー役を頼まれたりすることがあり、そんなことから生長の家を知るようになった。あるとき、その会社の研修で生長の家の本部練成会(飛田給)に5日間の予定で参加させられた。行く前は嫌な気持ちだった。ところが、いざ受けてみると素晴らしい話ばかりで大いに感動した。そして社長にぜひとも10日間、最期まで受けさせて欲しいとお願いして、最後まで練成を受けることができ、感動し、入信したとのことでした。

その時の彼の感激はいかばかりだったかと、社長に「最後まで受けさせて欲しい」と直訴したという話を聞きながら、自分のことのように感激したことでした。彼はその頃、本がスラスラと読めなかったそうですが、『生命の実相』にはすべてフリガナがしてあるので大いに助かった。スラスラと本が読めるようになったのは『生命の実相』のお蔭です、と言っていたのが印象的でした。

 

話は変わりますが、出講の勉強でテキストの『如意自在の生活365章』読んでいたらP79にはこんなことが書いてありました。

○“過去のすべてのもの”に感謝し、“それらすべて”の今後の栄えのために祝福と感謝の愛念を送って、そこを去って行くとき、必ず、その人には、新しき一層善き人生が始まるのである。この世界は、神の造り給うた世界であり、神の支配し給う世界であるから、無限に“人のためになる仕事”また“自分が生き甲斐を感ずる仕事”がチャンと準備されているのである。それはその人の年齢の如何に関することではない。あなたが、なお地上生活の停年が来ない限り既にあなたに必要な仕事は今そこにあるのである。今そこにあるものを今ここに見出し得るか否かは、あなた自身の“心境”“心の態度”“心の傾向”如何にあるのである。「一切万事われより出でてわれに還る」である。

ここにある最初の「過去のすべてのもの”に感謝し」が私の心をとらえ、「そうだ、それはとてもよい事だ。過去のすべてのことに感謝しよう」と思ったら、それだけで嬉しくなってきました。そして、小学校からの先生一人一人を思い出し、また会社で世話になった人々を思い出しつつ「ありがとうございます」としばらく唱えるようになりました。まだ始まったばかりですが、とてもよいことに気づかせてもらったと嬉しい最近です。そんな時、4,5日前ですが、新年度シルバー人材センターの役員(2年)を頼まれました。ふつうならなんだかんだと逃げるところですが、気持ちよく受けさせてもらいました。神様、よろしくお願いします。


神秘に打たれる

2018年03月04日 | 信仰

アインシュタインが5歳の時、父親がお土産にコンパス(方位磁石)を買ってきてくれた。そして、そのコンパスの針が、手で触れもしないのに勝手に動くのを見て、この世には目に見えない不思議な力があるのを感じ、神秘な感に打たれたとのこと。そして、そのことが後年物理学を志すきっかけになったのだそうです。

以前にもどこかで書いたと思いますが、私が生長の家の教えにふれる前、小・中学と仲のよかった同級生が、ある宗教に入っていて、その宗教の悪い噂は聞いてはいましたが、その同級生にどんな教えなのか聞きに行ったことがありました。そして、その後、別の日に幹部らしい人を交えて話を聞いたことがありました。どんな話だったかほとんど記憶はないのですが、相手の言ったことに対して「片手、片足がなくても、人間の値打ちには何の関係もない」と反論したことをよく覚えています。

たとえば、好きでたまらない恋人がいたとして、その恋人が顔にひどい火傷をし、顔が醜くなったとしても、それでもやっぱり気持ちが変わらないのが本当の恋愛だと、純情な青・少年年時代には多くがそう考えると思う。

しかし、「片手、片足がなくても人間の値打ちは変わらない」と反論した私も、「なぜ?」と聞かれたら、説明はできなかったし、「ほんとうの恋愛なら、たとえ火傷して顔が醜くなっても、好きな気持ちは一つも変わらない、それが本当の恋愛だ」と言う人も、「なぜ?」と聞かれて答えられる人はまずいないのではないかと思う。

その疑問は、生長の家の「人間は肉体ではない。ほんとうの人間は神の生命(いのち)である」という人間観になってはじめて「成るほど」と得心できるのだと思う。それは電灯が明るく輝くのは電灯自身が輝くのではなく、発電所から送られている眼に見えない電気が電灯の中を流れて輝いているのと同じで、その電気に相当するものこそが本当の人間であるというわけですね。

谷口雅春先生の『生命の実相』という本には、そのことが諄々と説かれていて、そして「神は本当にいたんだ!」という驚きとともに、神秘の感に打たれる。そして多くの人が、このような人間観、世界観があったのかと驚き、神秘の感に打たれ、もっと教えを理解したいと思って生長の家にやって来ます。

私はこのごろ、実際の自分ははなはだ不完全でありながらも、神想観で神と一体であることを念じ、また、日常生活の中でも、「完全円満な素晴らしい神と一体である、自分の内に神が生きている」と念じるとき、とてもありがたい気持ちにならせていただくことができ、「人間、神の子」の教えの有難さをしみじみ思います。

2月の練成会で、ある女性講師が講話の中でこんな体験談を聞かせてくれました。

彼女は4人兄弟で、彼女が一番上で18歳の時、1番下の子は3歳だった。そんな時、母親は子供たちを残して家出をしてしまった。彼女は「3歳の子をおいて家を出ていくなんて、どうしてそんなことができるんだ」と、母親を恨んだ。そして生長の家を知り、練成会に参加し、浄心行をするようになった。どうしても母を許せなかったが、浄心行で母に対する恨みを思いのたけ、書き連ねた。そして書き終わったとき、とてもすっきりした。そして彼女は講話の中で、こう言いました。

○母が生んでくれなかったら、私は今ここにいない。何をしてくれたからありがたい、これをしてくれたから有難いじゃないんです。産んでくれたそのことが有難いんです。

聞きながら、涙がこぼれそうになりましたよ。そして、「産んでくれたそのことが有難い」ということが、初めて私にも実感として伝わってきました。

世の中、A1か人工知能か知りませんが、そんなことに驚くより、もっと驚くべきことがたくさんあるのにと思います。もし、神がいること、そして、その神が自分の内に生きていること、しかもそれこそが本当の自分であるとしたら、人工知能どころではないだろうに、と思います。名人に勝つ人工知能などより、この彼女の話の方がよほど素敵で感動的な話ではないかと思います。

ちなみに彼女の母は今80歳を超え、○○に住み、舞妓や芸者さんたちの着物を縫う仕事をしていて、元気で、裕福に、そしてカラオケなどしながら楽しく生活しているとのこと。よかったですね。蛇足ですが、別に男ができて家を出たわけではないそうです。きっと何か事情があったのでしょうね。いずれにしても、すべては神の栄光顕われんがためですね。

○この何事にも絶対に必要な直覚力を養成するにはいかにすべきか。幼時より子供の「神秘がる心」を押し消さないようにすることだ。神秘なることを神秘として教えよ。深く考えれば実に神秘であるところの現象を、当たり前の茶飯事だとして、見逃してしまうような習慣をつけてはならぬ。人間を心臓というモーターで動く機械だと教えてはならぬ。草木をただの毛細管現象で生長する機械だと教えてはならぬ。神仏を偶像であると教えてはならぬ。あらゆる物にやどる生命の神秘を教えよ。神秘に驚異し、生命を崇敬し、その生命の神秘に一歩でも近づくことを名誉と思い、生命を合掌礼拝するように子供に教えよ。 (『生命の実相』第14巻 P161)

 


 『不殺傷菜食者 3』

2018年03月01日 | 信仰

mikoさんの「不殺傷菜食者」をここに載せるのは第2弾までにするつもりでしたが、第3弾を読んでいましたらこれまた素晴らしく、男女の違いはあれども、自分もこのように愛深く、やさしき人間になりたいと感動せずにはいられませんでした。それで、またアップさせてもらうことにしました。

以下は『不殺傷菜食者 3』です。(当時プリントアウトしていたものを、写経するような気持でワードに入力し、それをアップさせてもらっています。)。

 

「不殺傷菜食者 3」

私のささやかな願いの投稿に、様々な反応を下さり、大変嬉しく感謝しております。『不殺生』について少しでも、多くの方が思いを巡らすご縁になれば、この上ない私の喜びであります。ありがとうございます。今回、食に関する以外の『不殺生』について投稿させていただきます。

『不殺生』を決意したときから、肉食をしないということもさることながら、私は虫を殺さないということも心掛けています。『不殺生』を決意する以前の私は、アリや蚊などが自分の目に映ればすぐに、何も考えることなく反射的にぶちっと潰したり、パチンとやっつけたりしていました。それまでの私にとって、それらの生命は明らかに自分を害する殺すべき『敵』だったのです。生まれたときからそういったことを疑いもせず、それが当たり前で過ごしてきたのですから無理もありません。

それに振り返ってみると、自分自身が実際『不殺生』を実践するまで、ベジタリアンや人間にとって害虫であるはずの虫の命を守る行動などに対し、心の中で距離を置き、どこか冷めた目で見ていた私がいたように思います。正直、不殺生採食も害虫たちを殺さないことも、実際に始めるまでは「栄養面では大丈夫だろうか?」「蚊や蜂の攻撃やアリやクモの侵入を、ただ受け止めることなんて本当にできるだろうか?」こういった思いを含め、「億劫だな、面倒だな、不安だな」などと私は思っていました。

しかし。すべては繋がっているいのち・・・生命礼拝・生命尊重・・・その思いは強く、谷口雅春先生の『心と食物と人相と』の御本にも巡り会い、私は決意を後押しされ、『すべての命あるものとの調和』を心に描き、『生命礼拝・生命尊重』を実践しはじめました。

例えば、洗面台にいた蚊に向かっては「ここでの体験を堪能したら出ていってくださいね」と声をかけ、「私はあなたを殺しません。ですから、どうぞ私たちの血を吸う代わりに、この水を存分にお使いください」と心の中で伝えてみたり、台所のちょっと困った場所におられるアリなどの場合は、「すみませんね」と言いながら、ティッシュなどでやさしく包んで外に移動させたりしています。我が家は昔ながらの古家で、ありとあらゆる害虫の出る今まさにその季節なのです。

しかし、『生命の実相』(第2巻だったと思います)に載っていた「すべての生物その所を得て相侵さざるは神の道なり」という祈りの言葉を支えに、ひたすら実践に勤しんでいます。すると実践するたび、不思議とあれほど憎っくき『敵』だった虫たちのことを「一個の生命が今を一生懸命生きているんだなあ」と愛おしく思えている自分がいることに気づきました。それは、私にとって衝撃でした。そう思える自分の心が「いかに平和で穏やかな気持ちに満たされていることか!!」私にとって何とも言えない嬉しい嬉しい驚きでした。「やってみないとわからない」、それが私の学んだことの一つです。

『虫たちを殺さない』それを実践する私に、友人がこんな話をしてくれました。

知り合いのおじさんの家に行ったら、軒先に大きな蜂の巣があった。でも、その蜂の巣、足れ下がっている部分がなんだか変な具合。よく見ると、ボンドで止めてある。おばさんに聞くと、「そうなの~、あの人モノ好きで、蜂がかわいそうだって言って、わざわざ落っこちた蜂の巣を拾ってボンドで治してあげたのよ。まったく変わり者なんだから~」とのこと。しかも、蜂の巣を修繕したおじさんは、蜂たちにまったく刺されなかったそうだ。ちなみに、「なんであんなことをするのかね~」と蜂に敵意を持つおばさんは、特に何の刺激もしないのになぜだかよく蜂に刺されるらしい。

この話を聞いて、なんだかちょっと嬉しい気持ちになりました。変わり者と変人扱いされるほど、生命の大切さを愛深く実践されているのかもしれないなあ、と。それならいっそ、おバカになるべきかもしれませんね。

我が家には小さい庭があり、少しばかりの畑を作っていいます。見よう見まねで作り始めたばかりですが、葉ものは虫たちの食べ放だいとなっていて、ほどんど芯しか残っておらず、全滅状態です。その状態を見かねた父母たちは、良かれと思い虫たちを捕殺してくれていますが、今までさんざん殺されるものとして扱われてきた彼らに対し、せめてもの償いと思い、「好きなだけ召し上がって下さい」と、私自身は全く何もしません。残念ながら、これらの野菜が、今旬の食卓に上がることはないでしょうが、それはそれでいいと私は思っています。私もちょっとおバカと映るでしょうね。水撒きなどでブンブン近寄ってくる蜂や蚊たちには「私はあなたたちを害する気は全くありません」と心の中で伝え、先ほどの祈りの言葉を唱えながらやり過ごしています。

調和しようとする心は伝わるのか、以前のようにむやみやたらに刺されることが減りました。刺されたとしてもかゆみが後を引くことがほとんどありません。またどうしても殺してしまった場合には、その虫の魂に向かって「このようなことになるので、もうこの場所には来ないように(人間に近づかないように)と仲間たちに伝えてください」そう言って葬っています。

大好きな生長の家の皆さんにお願いです!どうぞ、一匹の虫から始めてみて下さい。虫たちに愛を現わすことを実践してみて下さい。おバカになって「すべての生物その所を得て相侵さざるは神の道なり」という祈りの言葉を唱え、憎っくき『敵』だった]虫たちを愛おしいと感じてみて下さい。そこにいるのは虫ではなく、『一個の生命』だったと気づくことでしょう。そこには、目に見える現象の垣根を越え、『一個の生命』をいとおしい、そう感じられる自分の心が必ずあるはずですから・・・。そして、そう思える自分の心が、【いかに平和で穏やかな気持ちに満たされることか!!】平和な調和した世界は、その心を持ってしか表せないことを、お一人でも多くの方が実感して下さることを願っています。

拙い自分の体験から、実感したことを思わず綴らせていただき大変恐縮です。読んでくださりありがとうございました。

 

以上で、mikoさんの『不殺生菜食者』は終わりです。

プリントアウトしていたものを、ワードで入力していると、ひしひしとその心持が伝わってきて、特に最後の「平和な調和した世界は、その心を持ってしか表せないことを、お一人でも多くの方が実感して下さることを願っています」には、感動せずにはいられませんでした。どこの誰かは知りませんが、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

ちなみに文中の「すべての生物その所を得て相侵さざるは神の道なり」は『生命の実相』第12巻、129ページにも出ていて、この祈りの言葉を書いて立札をしたところ、ネズミが来て食物をかじられる被害が、それ以来なくなったという話が出ています。(2巻は確認していません)