気の向くままに

山、花、人生を讃える

一人芝居

2013年05月24日 | 

空から天使が舞い降りた。それが今ここにいる「わたし」だ。

 

おい、誤解するなよ。俺がそう言っているんじゃない。神様がいったことだ。どう思おうと、「思う」のは「ただ」だ。そうだろう!

 

わたしは、この世に舞い降りた天使だ!

 

いや、冗談、ほんの冗談だよ。だけど、「ウソから出たマコト」ということもあるから、試しにそう思うぐらいいじゃないか。

「わたしは空から舞い降りた天使だ!」

「わたしは空から舞い降りた天使だ!」

「わたしは空から舞い降りた天使だ!」

ははは、身体がこそばゆくなってきた。

 

なんだ、お前、自分で言ってうれしがっているのか?いくつになったんだ?そのニヤけた顔、恥ずかしくて人には見せられんぞ。

 

いやいや、この前ね、「笑の大学」という映画をテレビで見たんだ。そしたらね。その中で「おみゃあさん(名古屋弁)、お宮さんじゃないか」というセリフがあったんだ。そのシーンを思い出してね、つい笑ってしまったんだ。いやあ、あれは可笑しかった。噴き出してしまったよ。ははは。

話は変わるけど、昨日、はじめて「日本コバ」という山に登ったんだ。そしたら、今度は何があったと思う?

帰りの、もうすぐ駐車場というところで、小さな流れを渡るところがあったんだ。飛び石を三つほど踏んでわたるんだが、その石が濡れていてツルッと滑って、水の中にドボン!ははは・・・。いやぁ、われながら可笑しかったねえ。誰も見ていないと思ったが、まわりの木がみんな笑っていたさ。ははは。ひと汗かいた後だから、気持ちがよかったよ。爽快でねえ。背中と腰から下がズブ濡れになったけど、おかげで水も滴るいい男になったもんね。カメラも濡れてしまったけど、今乾かしているところさ。勿論怪我などないから大丈夫。なにしろ、空から舞い降りた天使さまだからねえ。ようこそここへ~、クッククック~、わたしの青い鳥~の気分さ。ははは。

下の写真は・・・

           題して 《桂」と「天使」》  うん、なかなか良いフィーリングだ!

      

               

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釈迦ヶ岳

2013年05月20日 | 

5月17日、釈迦ヶ岳に登りました。

釈迦ヶ岳に登るのは今回が初めてで、天気は申し分なく、すこぶる快適な登山でした(ただし、道に迷ったのは別にして)。帰りは別ルートの予定でしたが、稜線からの鈴鹿の名峰「御在所岳」「雨乞岳」方面の展望が素晴らしかったので、結局同じルートで下りました。

稜線から御在所岳方面。

 

 

雨乞岳方面。南の御在所岳から、この雨乞岳にかけての展望が実にすばらしく惚れ惚れしました。中央には歩いてきた道が続いている。

 

北東の養老山地を望む

 

 

東の四日市方面

 

左端が釈迦ヶ岳の最高点(1097m)

 

釈迦ヶ岳三角点のあるところ

 

稜線上にはブナも結構見られたが、写真のブナは樹齢100年程度か。鈴鹿山地で、これぐらいの大きさのものが見られると、なぜか嬉しい。

 

この辺り、小さいがブナが並んでいた。名付けて「ブナの小路」。

ブナを感じで書くと「橅」、まるで木ではないといわんばかりで、魚のトロ箱に使われるほど安く見られているが、ヨーロッパでは建築材料としても使われ、高い値段で取引されているとのこと。

 

イワカガミ

 

タテヤマリンドウ

 

《道に迷った話》――興味のある人はどうぞ。

帰りのルートで、稜線から林道へと下る分岐点まで来たとき、考えが変わり、そのほんの少し先にある「猫谷」といわれる谷筋の道を下ろうと思い、林道との分岐点をそのまま通り過ぎて、猫谷分岐点を目指した。ところがそこからは踏み跡がだんだん薄くなりちょっと嫌な予感がしたが、まさかこんな稜線上で迷うとも思わないから、構わず進んだ。しかし、なかなかそれらしきところへ出てくれない。「おかしいなあ、ほんの目と鼻の先のはずなのに・・・」と思いつつ、さらに先へと進んだ。そして、ついに踏み跡がなくなってしまった。これはおかしいと思い、すぐ引き返すことにした。そして引き返しはじめたら、どこにいたのか、いきなり横合いから一人の男があらわれて、目が合うとホッとした表情を浮かべて「いやあ、道に迷いました」と言う。「どちらへ行かれるんですか?」と聞けば、「朝明ですけど」というので、「それならわたしと一緒だから一緒にいけばいい」「お願いします」ということで、二人で引き返し始めた。

ところが簡単に引き返せると思ったのに、来た道を引き返しているつもりが、いつの間にか違う道を歩いていることに気付いた。「あれ、おかしい」というわけで、また別のそれらしき道を下る。ところがこれも違う。どうも来た道はこんな道ではなかった気がする。そしてまた二人が出会った場所へ引き返す。三度ほどそれらしき道を下ったり、また登り返したりしたが、どれも来た道ではない気がする。どうやら完全に道に迷ってしまったらしい。周囲は樹林に囲まれてほとんど見通しがきかない。まさか、こんなところで道に迷うとは! 気持ちがだんだんあせって来る。こんな時は先ず気持ちを落ち着かせることが肝心だ。道に迷ったといっても、歩いて10分程度のものだから深く迷いこんでいるわけではないし、来た道がないはずはないから、見つかるはずだ。そう思って、焦る気持ちを抑えて地面に座り込んで地図をひろげ、コンパスをとりだした。引き返す方角はすぐ見当がついたが、周囲を見渡してみても、その道があるようには見えない。第一、来た道は踏み跡も薄く、今となっては、これが正しい、いや、間違いだと正しい判断ができるかも確信が持てない。仕方がなく先程の小さな尾根筋の道をもう少し先まで行ってみることにした。すると右手側にわたしたちが目指す稜線が樹間越しに見えた。「あっ、あれがそうだ」というので、少し引き返し、今度はその稜線の延長線の方角へ向かって進むと、「あった、あった、これだ」というわけで、やっと迷子から脱出ることができ、「やれ、やれ」と安堵した次第でした。

そして、稜線と林道との分岐点まで引き返すと、先程そこを通り過ぎた時には気づかなかったが、「通行止め」の印に3本程の細い枯れ木が横倒しにされていた。成る程、「通行止めになっていたのか」と思ったが、しかし、しっかりした看板もたっているし、地元の観光案内所が発行している登山地図にも、ハッキリと登山ルートとして赤い線が引かれている。はたして通行止めが正しくて登山地図がまちがっているのか、、それともわたしたちが迷っただけで、登山地図に示されているようにちゃんと道があるのか、いつか確認したいと思っている。

道に迷った相方は60才、グループではあるが「日本100名山」中の88山を登っているとのこと。そんなベテランでも、ちょっとしたことで道に迷い、途方に暮れていた様子。わたしも今まで2度、山中で迷い、途方にくれ、帰るべき道を必死に探しまわったことがあるので、その気持ちよくわかりました。そして今回、久し振りに道に迷い、独特の「焦り」と、帰るべき道を見つけた「安堵」を味わい、以前に迷った時に味わった気持ちを懐かしく思い出しました。

それにしても偶然は一つもないというが、しからば、ここで互いに見知らぬ男が出会ったのも偶然ではないのだろうか?「神との対話」には、「どんな出会いにしろ、それぞれがそれぞれの経験をつくりだすために互いの魂が呼びあったのだ」と書かれていた。今後彼と会うこともないと思うが、過去にどんなご縁があったのか、考えてみれば不思議なことだと思う。

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山散歩「国見岳(1170m)」

2013年05月07日 | 

5日、子供の日に鈴鹿の国見岳(1170m)に登りました。

山はいつ行ってもいいですねえ。

山々の展望、歩くに従って変化する地形、鳥のさえずり、木々や草花、

これらはまさに天然自然のオーケストラです。

帰る頃ともなると、身体までがそのオーケストラに共振して静かな交響楽を奏で、その心地よさに思わず知らず顔から笑みがこぼれます。この心地よい身体が奏でるメロディー!だんだん山にもなじんできたようです。以下の写真は、山ならどこでも見かけられるようなものばかりですが、平凡な山の風景、これがまたいいのです。(と、わたしは思っている)

 

これが本当の歩行者天国。 ゆっくり歩こう山の道!

 

「石の門」。子供は水たまりがあれば水たまりにはいり、石があれば石の上に乗りたがる。誰もいなかったのを幸いに、わたしも童心になって、この石の上に登ってみた(笑)。ちなみに「狭き門より入れ」という門とはこの門のこと、冗談だが。

 

「アカヤシオ」はまだ半分蕾。

 

「国見岳山頂」。石の上にも三年、いや、石の上から何が見えますか?

 

いやあ、みなさん石の上でくつろいてますねえ。いいですねえ~、絵になってますよ。

 

いた、いた、山姉さん。ちょいと失礼、パシャッ! 

わあ、きれい、きれい!といいながら、アカヤシオに向かってしきりにシャッターを押していました。

 草花は、ショウジョウバカマ、バイカオウレンが終わりかけながらまだ多く咲いていたし、タテヤマリンドウはさかりだった。

連休中とあって、登山口ちかくにある大きな駐車場はほぼ満杯だったが、それぞれの山に向かい、それぞれのルートがあるので、山頂付近以外ではほとんど人にも出会わず、さすがに山の広さを感じさせられことでした。

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薫風

2013年05月04日 | 人生

風薫る五月!気持ちがいいですねえ。薫風だ。

我が家の生垣のツツジが満開寸前。近所の皆さんがいつも「きれいですねえ」と讃嘆してくれます。だから今年も花をいっぱいつけて、カラフルに咲き誇る。それを見ながらわたしはいつも「五月だなあ」と思うのです。

五月は鯉も空に泳ぎ、人の心も躍る季節。

そういえば、自分がまだ若葉だったころ、「コイの季節」とかいう歌があったっけ。

あ、これは関係ないか。 

いや、そうでもない。

五月は、人が万物に恋をする季節なんだ。

いや、それとも万物が人に恋をする季節なのかもしれない。だから万物が輝くのかも・・・。

 

知ってますか?

すべては物質に見えていても、本当の姿は霊的波動なんですよ!

量子論でも言ってますよ。「波であるものが、観察したときには粒になる」と。

すべてがお互いに波動で、そのお互いの波が混じり合い、影響し合っている。

だからお互いに意思の疎通もできるんですね。

 

むかし、「霧笛が俺を読んでいる」という映画がありましたが、僕はそんな気障なことは言いませんが、しかし、やっぱり「山が俺を読んでいる」なんて真面目な顔して思っている・・・。ハハハ、しかし、自分が山に行きたいと思うより、山に呼ばれていると思う方が、幸せな感じがしますが、なんででしょうね。(笑)

ところで、昨日『生命の実相』の第7巻にある「艱難を光明化せよ」という章があり、あまり素晴らしかったので、「朗らかに笑って生きよ」という章も合わせて、まるごと抜き書きして小冊子にしたのですが、その中に、こんな一節がありました。

○そうだ、神は生命の源であってわれらは皆、生命なのだ、生命の本来の面目は自由自在なところにある。しかし、自由が自由とわかるのは、自由がただ障害を破ったときにおいてのみである。剣の名手は、敵者(あいて)があらわれてはじめて自分の自由を現実にすることができるのだ。水は平地にたたえられている時は、まだその自由は潜んでいるにすぎないのである。それが逆境の上に置かれるとき何物をも押し流す自由を得るのだ。

○おお、逆境こそはわれらの生命にいっそうの自由を与えるものではないか。空気の抵抗があるので飛行機は空を飛ぶことができるのではないか。タイヤに摩擦があるので自動車は地を走ることができるのではないか。どこにも障害のない世界、抵抗のない世界、摩擦のない世界は、本当は自由のようでも、その自由は永遠に発揮されないで「可能」の形の世界ではないか。

思い出しましたが、「ヒッグス粒子」という「神の粒子」とも形容される粒子が、昨年か一昨年だったかに発見(まだ確実ではないが)されたと話題を呼びましたが、これは宇宙誕生の初期(まだ星々が誕生する前)に、それまで質量もなく自由に飛び回っていた素粒子たちが、宇宙の中に突然にあらわれたヒッグス場、ヒッグス粒子によって抵抗を受け、それによって質量をもつようになったとされています(仮説)。質量とは「動きにくさ」でもあるわけですが、その「動きにくさ」によって、逆に自由になったようなものです。人間も質量があるから、ちゃんと安定して大地の上に立っていられるようなものだ。つまり、かつては素粒子たちも宇宙に突然現れたヒッグス機構という逆境にさらされた時代があったわけですね。そして、それが、今わたし達の身体にもなっているわけだ。だから、人は歩くのに抵抗のある山に登りたくなるのかもしれないね。

それはともかく話がとんでもない方向へそれたので、どう締めくくってよいか分らなくなってしまいました。まあ、皆さん、善い休日を。

お詫びに出血大サービス、今思いついた恥ずかしい句を。

      薫風や空から天使の投げキッス

おのおのがた、「朗らかに笑って生きよ」でござりまするぞ。ワッハッハ

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